【男の娘モルジアナ】(2)

前頁次頁目次

1  2  3 
 
さて、カシムは一体どうしたのでしょう。
 
彼はたくさん金銀宝石を持ち帰ろうと、たくさんのラバを連れてアリから教えられた岩山まで行きました。そして
 
「ゴマよ、お前を開け」
と唱えて岩戸を開け、中に入るとランプに点灯し、金銀宝石を夢中で袋に詰めました。
 
ところがその袋を持っていったんラバに乗せ、また別の袋を持ってこようとしたのですが、岩戸が閉まっていることに気付きます。
 
「あ、えーっと呪文を唱えればいいんだよな」
と思ったものの、金銀財宝に見とれてしまったおかげで、呪文をド忘れしてしまいました。
 
「あれ、何だっけ?」
と考えますが、何か農作物の名前だった気がしました。
 
「大麦よ、お前を開け (Orge, ouvre-toi / Open Barley)」(*19)
 
岩戸は開きません。
 
「違ったか?えっと・・・」
 
「小麦よ、お前を開け (Blé, ouvre-toi / Open Wheat)」
「ぶどうよ、お前を開け (Raisin, ouvre-toi / Open Grape)」
「りんごよ、お前を開け (Pomme, ouvre-toi / Open Apple)」
「パセリよ、お前を開け (Persil, ouvre-toi / Open Parsley)」
「豌豆豆よ、お前を開け (Vinaigrette, ouvre-toi / Open Vinegrette)」
 
その後、色々な農作物の名前を片っ端から唱えるのですが、こういう時に限って正しい“胡麻 Sesami”だけが出て来ません。
 
(*19)カシムが呪文を忘れて片っ端から色々な作物の名前を唱えるのは、特に舞台や映画では、この物語の見せ場のひとつである。私が高校時代に英語部でアリババの英語劇を上演した時、カシム役の男子部員は、台本から外れて「開けドラえもん」、「開けウルトラマン」「開けポンキッキ」!など色々なものを唱えて会場の笑いを取っていた。
 

どうしても岩戸を開けられないので、カシムは次第に焦りの色が濃くなってきます。やがて外に多数の馬の蹄の音がしました。
 
盗賊が帰ってきたのです。
 
カシムはとっさに一計を案じました。扉のすぐそばに身を寄せたのです。
 
どうも岩戸の外では多数のラバを見て、誰かがここに来ているのではと騒ぎになっています。やがて頭(かしら)が
 
「ゴマよ、お前を開け」
 
と唱えました。
 
ゴマだったのか!とカシムは思いましたが、もう遅い。
 
カシムは岩戸のそばでじっとしていました。やがて、盗賊のひとりが“剣を抜いたまま”岩戸の中に入ってきます。彼はランプに点灯し、洞窟の中を見回しますが、
 
「誰も見当たらないぞ」
と言っています。そのランプのそばで息を潜めているカシムは生きた心地がしません(まさに燈台元暗し)。
 
「どこかに隠れているのかも知れん」
と言って、続いて入ってきた盗賊と一緒に探します。
 
更に続々と盗賊たちが入ってきます。
 

やがて盗賊の列が途絶えます。
 
全員入ったかな?とカシムは思いました。今こそ逃げるチャンス!と思った彼は、そっと岩戸の陰から離れ、洞窟の外に出ました。
 
ところが目の前に別の盗賊が居たのです!
 
まだ居たのか!!!!!
 
カシムは逃げようとしましたが、その盗賊に斬られて倒れます。
 
「どうした?サミー」
「こいつが飛び出してきたから斬った」
「どこに隠れてやがったんだ?」
と言って、多数の盗賊たちが出て来ました。
 
そしてカシムを八つ裂きにして、その各々の“身体のパーツ”を岩戸のそばに吊るしたのでした。
 

 

アリとモルジアナはカシム家のラバを3頭出し、その内2頭に乗り、1頭は、モルジアナの進言で大きな革袋を2つ下げ、一緒に連れて出掛けます。町から2時間も離れて山岳地帯に到達。そこを1時間ほど掛けて登って行きました。
 
物凄い山の中です。冬なので山の上の方は積雪しています。正直これはラバに乗ってないと辛かったとモルジアナは思いました。
 
「凄い山の中ですね。アリ様の山ですか」
「いや。誰の山かは知らないけど、木を切って文句を言われたことは無いし」
 
いいのかなぁ〜?とモルジアナは思いましたが、取り敢えず岩の所まで行きます。
 
「ゴマよ、お前を開け」
とアリが言いますと、岩戸が開きました。
 
「血の臭いが」
とモルジアナが言います。
 
「お前はここで待て」
と言って、アリは洞窟の中に入りましたが、クラクラとしてしゃがみ込んでしまいました。顔色が真っ青です。
 

モルジアナはそのアリの様子を見て、“カシムを殺したのはアリではない”と確信しました。
 
モルジアナはアリの話を聞いた時点で、口には出しませんでしたが、カシムが殺されたのは確実だと思いました。ただその時点ではカシムか盗賊に捕まって殺された可能性と、そのような作り話をして実は分け前を巡って争いになり、アリが兄を殺したのではという2つの可能性を考えていました。しかし(おそらく洞窟内にあったのであろうカシムの死体を見て)アリが真っ青になった様子から、アリはこの殺害に関わっていないと判断したのです。
 

「アリ様、大丈夫ですか」
「モルジアナ、君はこちらに来るな」
「いえ大丈夫です」
 
と言ってモルジアナは洞窟内に入りアリが見た方向を見ました。
 
さすがにクラッと来ましたが、何とか持ちこたえました。
 
カシムが首、両手・両足を切断されて、岩戸の入口そばに掲げられていました。
 
「モルジアナ、大丈夫か?」
とアリが心配そうに言います。
 
「血を見るのは平気です。女は毎月血を見ていますから」
「なるほどー!しかしどうしようか」
 
「このまま帰りましょう。そして2度とここには来ないようにしましょう」
とモルジアナは言いました。
 
「兄貴の遺体を放置して帰る訳にはいかない!連れて帰ろう」
 
「遺体を持って帰れば、盗賊たちに仲間が居ることを知らせてしまいます。そうすれば、きっとアリ様も危険にさらされます」
 
「たとえそうだとしても、兄弟の遺体を放置して帰るのは神が許さない。すまないが遺体を運ぶのを手伝ってくれ」
 
「分かりました」
 
モルジアナはあくまで反対したかったのですが、奴隷の身分ではそうすることもできないので、アリの命令に従い、カシムの頭を壁からはずし、ラバの所に運びました。自分を9年間可愛がってくれた主人の死にモルジアナは涙を流し、アリに見られないように密かにその額に接吻しました。
 
アリがカシムの胴体を運びます。モルジアナはカシムの両手を運びます。アリがカシムの両足を運びました。
 
「これで全部でしょうか?」
「いや、兄貴の柱宝(ちゅうぼう)が無い」
「どこかに落ちているとか」
 
それで結局洞窟内のランプに点灯してみたら、下に落ちているのが見つかり、アリは玉が2個揃っているのを確認して手に持って出ました。モルジアナはランプを消して外に出ました。
 

目立たないようにするため、アリはその付近の木を切って薪を作り、カシムの身体を入れた袋の上に乗せました。そんなことをしている内に、岩戸は自然に閉まっていました。雪の上に残る足跡は、モルジアナが何となく必要になる気がして持って来ていたホウキで掃いて目立たなくします。こうすればまだ雪が降っているので朝までには分からなくなるでしょう。
 
ふたりは山を降りますが、人に見られないよう、暗くなるのを待ってから町に入りました。
 
モルジアナはここまで戻ってくる最中、この後のことをずっと考えていました。
 
アリはどう考えても思慮が足りない。ダニヤには人に色々指図する能力が欠如している。カシムを継ぐべきムハマドはまだ12歳で、補助者が必要だ。ということは、自分が全てを取り仕切るしかない!
 
盗賊の襲撃も不可避だろう。それも自分が防がなければならない。
 
たとえ、この手が血で染まろうとも・・・。
 

ふたりは、やがてカシムの家に戻りました。かなり遅い時間だったのですが、ダニヤが不安そうな顔で起きていました。
 
アリはダニヤに
「カシムは死んでいた」
と告げます。
 
ダニヤが泣きます。遺体を見ようとしますが
 
「見てはいけない」
 
とアリが強く言いました。それでダニヤはカシムの遺体が酷い状態なのだろうということだけは想像が付き、彼女は更に泣き崩れました。
 

モルジアナは言いました。
 
「奥様、私は明日薬種商に行って参ります」
「カシムは死んでるのに!?」
「どうか私にお任せ下さい」
「うん」
 
それでモルジアナはダニヤから銀貨を1枚もらうと、翌日の日中、近くの薬種商の所に行って言いました。
 
「恐れ入ります。薬剤師様(*20)、氷精丹を頂けませんでしょうか?」
「氷精丹!?そなたの家で誰か、ご病気か?」
と薬剤師は言いました。
 
「我が主人カシムにございます。主人は数日前から体調を崩し、寝込んでいたのですが、どうにも調子が悪いようなので、少し強い薬を飲ませた方がいいかもということになりまして」
 
「そうか、そうか。早く良くなるといいね。神の恩みがあるように」
と言って薬剤師は氷精丹を売ってくれました。
 
モルジアナはアリに、家の奥でカシムのふりをして寝ていてくれるよう頼みました。食事は「移してはいけないから」と言って、モルジアナかダニヤが運ぶようにし、他の奴隷たちを近づけないようにしました・
 
(*20) 東洋文庫版では“薬師”と書かれているが、薬師(くすし)という言葉は、薬剤師の意味と医師の意味の2つがあり紛らわしいので、ここでは現代的な言葉ではあるが、敢えて薬剤師と訳出した。
 
(“薬師”を薬剤師の意味で使う時“くすりし”と読む人もある:“ばけがく”“わたくしりつ”などと同類の読みかた)
 

そしてまた翌日、モルジアナはダニヤから今度は銀貨を10枚もらうと、再び薬種商の所に行って言いました。
 
「薬剤師様、銀精丹を頂けませんでしょうか?」
「銀精丹!?昨日の氷精丹では効かなかったか?」
と薬剤師は驚いて言いました。
 
「はい。飲ませた直後は少しよくなるかのように見えたのですが、また寝込んでしまいまして、もう今にも死にそうなのでございます」
 
「それは大変だ。神の恩みがあるように」
と言って薬剤師は重病人にしか処方しない、銀精丹を売ってくれました。モルシアナは念のため2個と言って2個売ってもらいました。
 

そして更に翌日。モルジアナはダニヤから今度は金貨をもらおうとしたのですが、ダニヤは言いました。
 
「私は元々商売のことは分からないし、息子もまだ幼い。悪いけど、家と店の金庫の管理は取り敢えず息子が17-18歳くらいになるまで、あんたがしてくれない?」
 
「分かりました。毎月きちんと報告書を作りますので」
「ああ。いいよ、いいよ。あんたが不正とかする子でないことは分かっているから」
と言って、モルジアナに家の蔵・小口現金庫、店の蔵・小口現金庫の鍵を渡しました。
 
まあ実際、ダニヤ様は帳簿とか見ても分からないだろうなとモルジアナも思いました。
 
それで、モルジアナは家の小口現金庫から金貨を4枚取り出し、出納簿に記入しました。
 
そして三度(みたび)薬種商の所に行って言いました。
 
「薬剤師様、金精丹を頂けませんでしょうか?」
「金精丹!?昨日の銀精丹でも効かなかったか?」
と薬剤師は驚いて言いました。
 
「はい。銀精丹を差し上げたのですが、一向に病状は改善せず、かなり苦しんでおられます。せめて苦しみだけでも取り除いてあげられないかと、親族一同で話し合いまして」
 
金精丹はもはや治療薬ではありません。症状を緩和するのではなく、苦しみを無くし、安らかに神の元へ行けるようにする薬であり、基本的に死に行く人にしか使わない薬です。むろんこんな薬は充分信用できる人にしか売りません。
 
「分かった。その状態では仕方あるまい。神の恩みがあるように」
と言って薬剤師はもはや死から逃れられない人にしか処方しない、金精丹を売ってくれました。
 
この時、モルジアナは「主人はかなり苦しんでいるので念のため4個」と言ったので、薬剤師は4個売ってくれ、モルジアナは金貨を4枚払いました。この時、モルジアナはなぜ自分が4個も買い求めたのか、自分でも分かりませんでした。
 

その日の夜、モルジアナは密かに男装しました。眉毛も眉墨(*21)を使って太く見せ、付けヒゲをつけ、男の服を着て、男物の帽子をかぶります。底の厚い靴まで履いて、日暮れ後、出掛けました。そして町の中でも、カシムの家からはかなり離れた場所にある、ハージ・ムスタファーという年老いた靴屋の所まで行きました(*22).
 
(*21) 眉墨は当時は煤(すす)を使ったと思われる。先日八犬伝で書いた烟炱である。付けヒゲはかなり古い時代から存在したようである。
 
イスラム社会では、男性は、あごひげは自然に伸ばし、口ひげは剃らずに刈ることが定められているが、体質によってはヒゲの生えない人・薄い人もあり、その人たちのために(異教徒と間違えられないように)付けヒゲは市販もされていたと思われる。もっともモルジアナは証拠を残さないように自作したかも。
 
(*22)「アラディン」でも書いたが、中世の感覚で“老人”とか“老いた”というのは、たぶん40代くらい。昔は衛生状態・栄養状態・医療環境が現代に比べて悪いから、平均寿命も短く、40代は風貌もおそらく現在の60代くらいだったと思われる。日本でも昭和40年代くらいの50代の人の写真は今なら60代の人に見える。サザエさんの波平は54歳である。
 

モルジアナが思った通り、靴屋は遅くまで靴の仕立てをしていました。
 
「ムスタファー親方、夜分大変恐れ入ります」
とモルジアナは男を装った低い声で言いました。
 
「何だね?」
と年老いた靴屋は言いました。
 
モルジアナは靴屋に金貨を1枚握らせました。
 
「親方様にしかできないことでございます。秘密の仕事をして頂けませんでしょうか?」
 
「一体何事だね。金貨までくれるというのは」
「もう1枚差し上げます」
と言って、モルジアナは彼にもう1枚金貨を握らせます。
 
「これから私と一緒に秘密の場所に行き、秘密の物を縫って欲しいのです」
「秘密のものとは?」
「革製品でございます」
「ふーん・・・・しかし秘密の場所と言われても、そこに行けば分かるぞ」
「恐れ入りますが、目隠しをして頂けますか?私が手を握ってご案内します」
 
「分かった。取り敢えず行ってみようか」
と靴屋のムスタファーは同意しました。
 

それでモルジアナはムスタファーに鉢巻きのような布で目隠しをし、彼の手を握って、案内しました。
 
ただし、モルジアナは手袋をしています。素手で彼の手に触ると、女とバレてしまうからです(本当は女ではないのだが)。底の厚い靴を履いたのも、身長を誤魔化すためです。
 
モルジアナはムスタファーの手を握り、彼を案内しますが、わざとあちこちに大きく寄り道をして、場所が分かりにくいようにしました。
 
そして彼をカシムの家の中まで案内し、部屋の中まで連れてきてから、靴屋の目隠しを外しました。
 
「これは・・・」
と言って、靴屋は死体を見て驚きます。
 
「金貨をもう1枚差し上げます」
とモルジアナは言って、彼の手に、やや無理矢理金貨を握らせました。
 

「確かに革製品だな」
 
「この両手・両足と首を胴体に縫い付けて欲しいのです」
 
靴屋は遺体を見ます。胸も膨らんでないし毛深いので男のようですが、顔は布で巻いて人相が分からないようにしてあります。
 
「恐ろしい盗賊共にこのようにされてしまったのです。このままでは葬式も出せないので、慈悲深い親方様のお力に頼りたいのです」
 
「盗賊か。酷ぇことするもんだ。分かった。どこまでうまくできるかは分からないが縫い合わせてみよう」
 
それで靴屋の親方は、まずは左手を身体に縫い付け、続いて右手を縫い付けます。左足を身体に縫い付け、続けて右足を身体に縫いつけます。そして頭を縫い付けますがこれがなかなか大変でした。モルジアナに頭を支えていてもらい、何とか縫い付けました。
 
「ありがとうございます」
「この者は男のように見えるが、柱宝は無いのか?」
「あっ」
 
モルジアナは探し回りましたが、部屋の隅の袋の中に入っているのを発見しました。
 
「すみません。これもお願いします」
「これが付いてないと、間違って、女用の天国に送られてしまうかもしれんな」
と靴屋も冗談が出るようになっていました。
 
「きれいに着飾ることができていいかも知れませんよ」
とモルジアナもジョークで返しました。
 
男の印を縫い付けて、やっと完全体になりました。
 
「親方様。本当にありがとうございます。何といって御礼したらいいか分かりませんが、どうかこのことは内密に」
 
と言って、モルジアナは彼に金貨を更に10枚渡しました。
 
そして、再び目隠しをし、彼を自分の家まで送り届けました。この時もわざとあちこち寄り道をして、道筋が分かりにくいようにしました。
 

バラバラになった身体を縫い合わせてひとつにするというのは、実は幼い頃にモルジアナが男性器を切られて、その後傷口を縫ってもらった記憶から思い付きました。お医者さんに頼んで縫い合わせてもらう手はありますが、ほぼ確実に役人に通報されると考えました。
 
それで靴屋を思いついたのです。靴屋は革製品を縫い合わせるのに慣れていますし、その道具を持っています。そしてお金を積めば秘密にしてくれる可能性があると思いました(これは完璧に裏切られる)。
 
変装したのは、むろん身元を知られないためです。
 
もうひとつ、仕立屋というのも考えたのですが、皮の縫合は布を縫う針では無理なのと、衣服を扱っている仕事の関係で、仕立屋には知り合いが多すぎます。それで、カシム家の仕事とあまり接点が無い、靴屋を選んだというのもありました。
 
カシムがラバを連れて岩山に行ったのは7月11日で恐らくその日の内に殺されたものと思われます。今夜は7月18日で既に一週間経っています。しかし冬なので遺体が傷みにくかったのが幸いだなとモルジアナは思いました。(ヒジュラ暦240年7月11日=グレゴリウス暦854年12月10日 (*23)トルクメンは夏は40度以上、冬は0度以下と、寒暖の差が激しい気候です。
 
7.11 カシム岩山に行き殺される
7.14夕方 カシムが3日経っても戻らない→アリに相談
7.15 アリとモルジアナが遺体回収。深夜戻る
7.16 氷精丹を求める
7.17 銀精丹を求める
7.18 金精丹を求める。身体を繋ぎ合わせる。
7.19 お葬式
 
(本当は当時は日没から1日が始まるが、↑は現代の非イスラム圏の方式で記述している)
 
(*23)ヒジュラ暦は各月を“新月”から始めるが、“新月”とは当地の暦決定者が日没時に実際に細い月を観測した日を1日と定めるので、地形や天候により1-2日ずれる場合がある。つまりヒジュラ暦は地域によって日付が異なる場合がある。
 

翌朝、モルジアナは実弟のアリに頼み故人のお清めをしてもらいました。お清めはアリに続いて、息子であるムハマドにもさせます。
 
死化粧をして、血が全部抜けてしまっているのが目立たないようにしました。
 
ここでカシムの死の実情を知っているのはアリとモルジアナのみです。ダニヤには“切断された遺体”は見せていません。ムハマドには(つぎはぎされた身体を見せたので)さすがにお父さんは盗賊に殺されたということを教えましたが、奴隷たちは、カシムは仕入れ先で病気に倒れ、自宅まで運んだものの、看病の甲斐無く、亡くなったと思っています
 
カシムの遺体を棺架に乗せ、顔と手以外は全て布で覆います(都合よく縫い合わせたところは隠れる)。モルジアナが後輩の女奴隷ラーニヤに言って、たくさん薔薇の花を買ってこさせましたので、それで遺体を飾ります。お香も焚きます。(花とお香は死臭をごまかすのもある)
 
それからメジディ(*24)にカシムの死を届けました。するとメジディを通して、ウンマ(近隣の全てのムスリム(*26)の共同体)に彼の死が知らされました。イスラムではお葬式は共同体の、みんなで執り行うことになっています。
 
近所の人たちは一週間ほど前からカシムがお店に出ていなかったこと、家の者が高価な薬を買い求めていたことが既に噂になっていたので、カシムの家を訪問すると
 
「とうとう亡くなられましたか」
「力を落とさないでくださいね」
 
とお悔やみを言いました。
 
(*24) イスラム教の礼拝堂。日本語ではモスクと呼ばれている。アラビア語ではマスジッド、ペルシャ語ではマスジェッド、トルクメン語ではメジディという。イスラム帝国がスペインにまで進出していた頃、現地の人はこれを訛ってメスキータ (mezquita) と呼んだ。これがフランス語ではモスケ (Mosquée), 英語になるとモスク (mosque) となって、日本では英語にならってモスクと呼ばれる。
 
イスラム教のシーア(*25)ではモスクには牧師に似た地位にあるイマームという指導者がいるが、スンニー(*25)ではそのような聖職者的なものは置かず、共同体の中で比較的教理に詳しい年長者が儀式の進行を務める。これは固定されておらず、集会の度にその場で選ばれたりする。
 
なおイスラムでは偶像崇拝が厳密に禁止なので、メジディ(モスク)内に礼拝の対象となるようなものは一切存在しない。純粋に祈りをささげるための施設である。
 
(*25) “シーア派”“スンニー派”のように“派”を付けるのは“シティバンク銀行”的な重語であるが、日本語ではわりと使われている。
 
ペルシャ(イラン)やイラクはシーアが優勢な地域だが、トルクメンは少なくとも現代ではスンニーが多数派である。そこで今回の翻案では概ねスンニーの習慣に沿って記述している)
 
(*26)今更だが「ムスリム」とはイスラム教徒のこと。カトリックの信徒をクリスチャンと呼ぶのと同様の用語である。なお、イスラム関係では近年“音写”が改訂されているものが結構ある。
 
(旧音写)アラー(新音写)アッラー
(旧音写)コーラン(新音写)クルアーン
(旧音写)マホメット(新音写)ムハンマド
 

イスラム教では、基本的に遺体は亡くなった日の内に土葬することになっています。カシムは今朝亡くなったことになっているので今日埋葬します。
 
カシムの遺体を載せた棺架は、アリ、ムハマド、カシムの友人ワシム(バーナの夫!)、そして近所の男性アムルの4人で持ち、まずはメジディに運ばれます。
 
ここで祈りを捧げた後は、墓地に運ばれ、顔をメッカに向けて埋葬されます。そして地域の長老がイスラム教の聖典・クルアーンの冒頭・アル=ファーティハを唱え、葬儀は終了します。
 
棺架が家を出た後は、女性は参加できないことになっているので、その後はアリが葬式を取り仕切りました。女たちは家に残っていたのですが、ダニヤが激しく憔悴しているのを、かつてここの使用人であったバーナがハグして慰めていました。
 

葬儀の後は、3日間、追悼の儀式が行われます。地域のムスリムの年長者にお願いして、クルアーンを通読してもらったりもします。この3日間は、故人の家の者は弔問客への食事などの提供ができないので、ワシムの一家が対応してくれました。バーナが向こうの家の女奴隷たちを指揮して食事を用意し、男奴隷たちに運ばせてこちらに持って来ました。
 
この3日間で基本的には服喪期間は終わるのですが、夫を亡くした妻は4ヶ月と10日(約128日)間、喪に服すことになります(むろんその間は再婚などもできない)。7/19の4ヶ月10日後は11月29日になります。
 
ダニヤはこの後のことについて、息子、アリ、そしてモルジアナと話し合いました。
 
「息子はまだ独り立ちはできない。アリさん、ムハマドがもう少し大きくなるまででもいいから、あんたが店の主人になってくれない?」
 
「でも俺は商売は分からないから。親父が死んだ時、いくらかの財産をもらって商売したけど、すぐ店を潰してしまったし」
 
ムハマドが言いました。
 
「だったら、こうしない?僕もだいぶ商売の勉強してるけど、まだひとりでやっていく自信はない。だから、アリ叔父さん、名前の上での店主になってよ。そしてお店のお金の管理や仕入れする商品の見極めとかはモルジアナ、君がやってくれない?親父も君にかなり頼っている部分があった。君がいてくれたら僕も安心だ」
 
するとダニヤは、それはいい考えだと言いました。
 
アリもモルジアナも悩んだものの、それしかないという結論に達します。それでお店は、アリ・ムハマド・モルジアナの3人の共同で動かしていくことになったのです。
 

アリは奥さんのザハルを連れて、カシムの家に引っ越してきました。形式的にはアリがここの主人ということになります。話を簡単にするため、また成人の男が主(あるじ)でないと、色々面倒なこともあるため、ダニヤの喪が開けたら、ダニヤはアリと再婚することにしました。アリはザハル、ダニヤという2人の妻を持つことになりますが、イスラムでは妻は4人まで持てるので特に問題はありません。
 
ただアリはダニヤに
「君とは名前だけの妻だから、床を共にすることはないから」
と言い、ダニヤもそれでいいと言いました。
 
アリとしては正直、ザハルの嫉妬も恐い!!のです。
 
またアリは、カシムの息子・ムハマドを自分の養子にしました。
 

そのムハマドはモルジアナに言いました。
 
「僕が15歳になったら、君を奴隷の身分から解放するから、僕の妻になってよ」
 
(昔は男子は15-16歳で成人とすることが多い。女子は初潮がくれば大人である。モルジアナは10歳の頃から、28日おきに“女の小屋”に入っているので、既に大人の女ということになっている)
 
モルジアナは、私、妻になる機能が無いんだけど、どうしよう?とは思います。
 
「私よりもっといい女はいるのに」
とは言いつつ
 
「ムハマド様が15歳になった時に、再度お話しください」
と笑顔で言っておきました。
 
モルジアナは、それまでの間に彼にたくさん女の子を接触させて、気が変わるように仕向けよう、などと考えていました。いい子が居たら夜這いかけさせてもいいよね?本当は婚前交渉は戒律違反だけど“成ったら”翌日結婚させちゃえばいいし!?
 
(現代のムスリムは婚前交渉に対して厳しく、国によっては双方鞭打ち刑という国もあるし、比較的緩い国でも周囲から白い目で見られたりする。しかし中世はもっと緩くて“すぐ結婚すればいい”みたいな考えもかなりあった模様である。アラビアンナイトはわりとそういう話であふれている!)
 

モルジアナはお店の女奴隷頭を務めていたので、これまで同様、朝出勤して午後には家に戻る生活をします。モルジアナが帰宅した後の会計については、今まで通りマルヤムに頼むことにしました。
 
アリは最初の数日はモルジアナ・ムハマドと一緒に出勤していましたが
「やはり僕は商売のことはさっぱりだ。モルジアナに任せた」
と言って、店には出てこなくなってしまいました。
 
そして日々、男奴隷のアンタルとシャトランジ(チェスや将棋のルーツとなったボードゲーム)に興じたり、川に釣りに行ったりしていました。
 
それでお店は事実上、ムハマドとモルジアナの2人で切り盛りすることになりました。ムハマドが明らかに自分に気のある視線を送ってくるのは、どうしたものかとモルジアナは悩みました。
 
(押し倒されたら逝かせればいいし、などとは考えている。女でないことがバレないようにする自信はある。何といってもムハマドは女性経験が無い!)
 

世間ではこんな噂をしていました。
 
「ダニヤさんとモルジアナがカシムの妻だったから、弟のアリと息子のムハマドで1人ずつ相続したのでは?」
 
ということで、この時点で既にモルジアナはもうムハマドの妻になったのだろうと世間の人たちは思っていました。
 

なお、10歳の時から、モルジアナがカシムにもらって飲んでいた“女の素”の薬(牝精)ですが、毎月カシムの所にその薬を扱っている行商人が売りに来ていました。それで彼がカシムの死を知らずに売りに来たのをモルジアナが(自分のお金で)買って、今後も頼むと言っておきました。
 

さて、盗賊たちの方ですが、アジトに来た時、カシムの遺体が無くなっているのに当然すぐ気付きます。そしてモルジアナが案じた通り、彼らは侵入者に仲間がいることを知りました。
 
「草の根を分けても探し出して、ぶっ殺してやる」
とお頭(かしら)は怒りました。
 
一味の中で体格の大きなサミーという男が立ち上がって言いました。
 
(実はカシムに最初に一太刀浴びせた男:やや動きが鈍いので、あの時は岩戸に入るのが遅れ、それで結果的には全員入ったと勘違いしたカシムが飛び出してきた)
 
「大勢で探索すると目立ちます。俺に任せて下さい」
「分かった。お前に任せよう」
 

サミーは町を歩き回り、近頃、バラバラになった男の葬儀が無かったか、また最近急に金回りが良くなった奴がいないかを聞いて回りました。しかしそのような葬式は無かったとみんな言いますし、急に金持ちになったような者も知らないと言います。
 
『わざわざ遺体を取り返した仲間は、おおっぴらには葬式はしなかったのだろうか。それに奪った財宝を使わずに、ほとぼりが冷めるまで待っているのだろうか』
とサミーは訝りました。
 
半月くらい、ひたすら情報集めをしてもなかなか成果が得られず、疲れて、日が落ちた町を歩き、今晩はどこで寝ようかと思っていた時、サミーは小さなお店にまだ灯りが灯っているのに気付きました。昔は普通のお店はたいてい日没か日暮れで店を閉めるものです。
 
そこに寄ってみるとそれは靴屋で、老年の職人が靴を仕立てています、
 
「おじさん、せいが出るね」
「あんた、旅人かい?」
と老人は言います。明らかにこちらを警戒しています。サミーはそれを逆用することにしました。
 
「大きな声では言えないけど、ある事件を追っている」
「あんた。まさかお役人?」
「おっとおっと、そのあたりは内密に頼むよ」
「分かった」
 
サミーは自分は役人だとか一言(ひとこと)も言っていません。つまり官名詐称を避けています!
 

「このあたりで、バラバラになった奴の葬式、あるいは急に羽振りがよくなった奴とかを知らないかい?」
 
老人は考え込みました。
 
老人が考え込んだということ自体、この老人が何か知っているということです。サミーは老人に金貨を渡します。
 
「なぁ、おじさん、ちょっと協力してくんない?」
 
「お役人様なら・・・言うべきなのかなあ」
 
「頼むよ。おじさんのことは決して誰にも口外しないから」
と言って、サミーは2枚目の金貨を積みます。
 
やがて老人は言いました。
 
「実はバラバラになった男の遺体を繋ぎ合わせた」
 
「おぉ!」
 
そうか。そういうことだったのか。だから誰もバラバラ死体での葬式なんて、知らなかったんだ!とサミーは納得しました。
 

「その遺体を繋ぎ合わせた所に案内してくれ」
 
「それが・・・」
と老人が渋るので、サミーは3枚目の金貨を積み上げました。老人はまだ金貨を取りません。
 
「実は目隠しをされた上で、手を引かれてそこまで行った。だから私もその場所を知らないのでございますよ」
 
うーん。。。。敵もなかなか巧妙だなと思います。しかしサミーは思いつきました。
 
「だったらさ、同じように目隠ししたら、そこへ辿り着けないか?」
「自信は無いけど、ひょっとしたらできるかも知れない」
「ぜひやってくれ」
と言って、サミーは金貨を10枚も積み上げました。
 
ここに至って、老人は目隠ししての道案内に同意したのです。それでサミーは老人に目隠しをし、老人の手を取って店を出ました。
 

サミーがすることは老人の手を取り、転ばないようにするだけです。そして曲がり角に来たら、どちらかと尋ねます。
 
2人の奇妙な行程は1時間ほど掛かりましたが、やがて一軒の家の前まで到達しました。
 
「この場所のような気がする」
「おじさん、でかしたぞ」
 
サミーは自分が見失わないように、その家の扉に鉛白(*27)で白いX印を付けてから、老人の手を引いて靴屋まで戻りました。
 
(*27)鉛白(えんぱく white lead ホワイトレッド / ceruse セルーズ)とは鉛の化合物(塩基性炭酸鉛 PbCO3.Pb(OH)2)で、白色顔料として古くから使用されてきた。美しい白色なので、上質の白粉(おしろい)の材料とされたが、鉛化合物なので有毒である。そのため常用すると回復不能な肌のくすみや内臓疾患を生じた。日本では1934年に化粧品への使用が禁止された。
 
なお、“白いチョーク”と書く本もあるが、チョークは19世紀に発明されたものであり、アリババの時代には存在しない。
 

翌朝、モルジアナが掃除をしようと家の玄関に出ますと、扉に白い絵の具のようものでX印が入っているのに気付きます。
 
「なによこれ?誰の悪戯?」
と文句を言って消そうとしますが、うまく消えてくれません。どうも顔料で書かれているようです。これは蜜蝋でも持って来なければだめか?と思った時、モルジアナはハッと気がつきました。
 
これは・・・もしかしたら盗賊どもが襲撃の目印に付けたのかも知れない。あの靴屋の親父、しゃべったな?と。
 
数秒考えた末にモルジアナは家の中から鉛白(化粧用に持っている)を持ってくると、消しかけた扉のX印を補い、元通りの感じに復元してしまいました。そして、近所の家を回って、近くの家全部の扉に、似た感じのX印を、扉の同じ場所に付けてしまったのです。
 

一方、サミーはアジトに帰ると、親分に事の次第を告げました。
 
「でかした。そうか。靴屋に遺体をつなぎ合わさせたのか。向こうはかなり頭(あたま)がいいぞ」
 
目的の家に印を付けたというので、今夜襲撃することにします。それで目立たないように、みんなばらばらになつて、町に侵入しました。そして目的地近くの林に全員いったん待機させ、取り敢えず親分とサミーのふたりだけで、現地を確認しに行きます。
 
「この付近、似たような家が何軒も並んでいるんですよ。でも私が目的の家の扉に×印を付けましたから大丈夫ですよ」
とサミーは言いました。
 
ところが・・・・
 
「どの家だ?」
と親分は言いました。
 
「あれ〜〜〜!?」
 
その付近の家、全ての扉に全部白い顔料でX印が入っているのです。
 
親分は冷たく言いました。
「帰るぞ」
「はい」
 
サミーは顔色が真っ青になって返事をしました。
 

林で待機していた子分たちに
「帰るぞ」
と告げますので、子分達はまた目立たないようにバラバラになって町を出ました。そしてアジトに戻りました。
 
サミーは一部始終をみんなの前で再度語りました。
 
「それでどう責任を取るのだ?」
と頭(かしら)はサミーに冷たく言います。
 
「こんな無能な奴は死ぬしかないです」
とサミーは言いました。
 
「よく分かった。では望み通り、あの世に送ってやる」
と言って、頭(かしら)はサミーの首を刎(は)ねました。
 
「サミーは失敗し、制裁を受けた。誰か、自分なら成功させると言う者はいないか?」
と頭(かしら)が言うと、アフマド・アル・ガドバーン(怒りのアフマド)という男が立ち上がり
「俺にやらせてくれ」
と言いました。
 
「分かった。サミーと同じ失敗はするなよ」
と頭(かしら)は言いました。
 

アフマドは、サミーが言っていた靴屋に行きますと、金貨を5枚積みます。そして
 
「実は俺の仲間が、おっさんからバラバラ死体を繋ぎ合わせた家を教えてもらったのに、その場所が自分で分からなくなってしまったんだ。申し訳ないけど、もう一度教えてくれないか」
と頼みます。
 
「まあ、お役人さんならいいよ」
とムスタファーは言い、目隠しをして、アフマドに手を引かれ、再度夜の町を歩いて行きました。
 
そしてカシムの家に到達します。
 
「ここだと思う」
「ありがとう」
 
アフマドは、この付近は似たような感じの家ばかりで分かりにくいなと思いました。しかしサミーの奴、扉に印付けるとか目立つことするから、相手に対抗されてしまうんだと思います。それで、家の入口の目立たない場所に赤い鉛丹(*28)で小さなO印を付けました。
 
(*28) 鉛丹(えんたん red lead レッドレッド)は鉛化合物(四酸化三鉛 Pb3O4)で古くから知られる赤色顔料。同じく赤色顔料で同じ重さの金(きん)と等価交換されたという辰砂(しんしゃ:硫化水銀 HgS )ほど高価では無い。鉛白同様、有毒なので取り扱いには注意を要する。今日でも船の底には貝の付着防止のため鉛丹を塗装している。
 
"Red lead, Red lead, Red lead"(レッドレッド・レッドレッド・レッドレッド)は早口言葉!?
 

さて、アフマドは目立たない所に印を付けたつもりでしたが、先日の扉のX印のこともあり警戒していたモルジアナにはすぐ見つかってしまいます。それでモルジアナはすぐ家の中から鉛丹(口紅用に持っている)を持って来て、近所の家の入口の同じ場所に同じようなO印を付けて回りました。
 
そしてその夜、盗賊たちは前回と同様に目立たないようバラバラに町に侵入します。近くの林に集まり、取り敢えず親分とアフマドの2人で目的の家を確認に行きました。
 
「サミーの奴は目立つような場所に印を付けたりするから、向こうにバレるんですよ。俺は目立たない場所にこっそり印を付けたから大丈夫です」
 
などとアフマドは言っていたのですが・・・・。
 
「どの家だ?」
と親分は言いました。
 
「あれ〜〜〜!?」
 
その付近の家、全ての入口の同じ場所に、全部赤い顔料でO印が入っているのです。
 
親分は冷たく言いました。
「帰るぞ」
「はい」
 
アフマドは顔色が真っ青になって返事をしました。
 

林で待機していた子分たちに
「帰るぞ」
と告げますので、子分達はまた目立たないようにバラバラになって町を出ました。そしてアジトに戻りました。
 
アフマドは一部始終をみんなの前で再度語りました。
 
「それでどう責任を取るのだ?」
と頭(かしら)はアフマドに冷たく言います。
 
「こんな馬鹿な男は死ぬしかないです」
とアフマドは言いました。
 
「よく分かった。では望み通り、あの世に送ってやる」
と言って、頭(かしら)はアフマドの首を刎(は)ねました。
 

頭(かしら)は言いました。
 
「どいつもこいつも全く頼りにならない。今度は俺が敵の家を確認してくる」
 
それで頭(かしら)は、サミーたちが言っていた靴屋に行きました。礼儀正しくムスタファーに言いました。
 
「親方様、大変申し訳ありません。私の部下が2人、バラバラ死体のあった家に案内して頂いたのに、2人ともその場所を見失ってしまいました。本当にお手数なのですが、もう一度教えて頂けませんか?」
 
「いいよ」
 
それでムスタファーは三度(みたび)目隠しをして、頭(かしら)に手を持ってもらい、夜の町を歩いて行きました。
 
「ここだと思う」
「親方様、ありがとうございます」
 

頭(かしら)は家に印を付けるなどということはしませんでした。その代わり、その家を詳細に観察します。家の形、煙突の感じ、樹木などをよくよく見て記憶に叩き込みます。また頭(かしら)はこの家が曲がり角から何番目の家かというのも数えて確認しました。
 

頭(かしら)は考えました。この敵は相当できる奴だ。まともに襲撃するのではなく、騙し討ちにした方がいい。
 
そこで頭(かしら)は目立たないように2日がかりで手下たちを町のあちこちにやってラバを20頭用意させました。その各々に左右2つずつの大きな革袋をつけさせます。そしてその内1頭のラバに負わせる革袋には油を満たしましたが、残り19頭のラバが負う革袋に子分たちを隠れさせました。そして革袋の上を結ぶと、偽装のため、革袋を油で汚しました。
 
子分は40人いたのですが、2人制裁されて38人残っています。それを19頭のラバが負う38の革袋に隠れさせたのです。
 

そして頭(かしら)は貿易商のような服装をして、8月6日の日暮れすぎ(当時の時間制度では日暮れから既に8月7日に入っている)、カシムの家を訪れました。
 
「大旦那様、私は遠い所から来た旅の商人でございます。大量の油を仕入れて旅をして参りましたが、ここまで来た所で日が暮れてしまいました。大変申し訳ないのですが、庭でよいので、一晩泊めて頂けませんでしょうか」
 
アリは笑顔で
 
「おお、それはお疲れ様です。粗末な家ですが、良かったらお泊まり下さい」
 
と言って、彼を招き入れました。しかし頭(かしら)は人の良さそうなアリを見て、こいつが俺たちを出し抜こうとしたのか?人は見かけによらないなと思いました。
 
アリの家の庭は広いので、20頭ものラバを入れることができました(*29). 頭(かしら)は自分もラバと一緒に庭で休むと言ったのですが、アリは
 
「そんな失礼なことはできません。どうぞ母屋でお休み下さい」
と言って、家の中に招き入れました。
 
頭(かしら)は、自分たちの上前をはねようとするような奴なら、きっと私兵などもたくさんいるだろうと思ったのに、そのような者も見ないので、拍子抜けする思いでしたが、油断したらやられるぞと気を引き締めました。
 
(*29) ラバの体長は2m程度である。身体の幅を仮に70cmとし、革袋のサイズを60cmでその半分がラバの横幅からはみ出していたとし、荷物同士がぶつからないように間隔を50cm空けたとして、1頭ごとに180cm=1.8mが必要ということになる。すると20頭のラバを入れるには36m(20間)必要ということになる。かなり広い庭である。ただし2列に並べるのなら 6m×18m 程度でよい(約30坪)。
 

客人の招き入れに慌てたのはモルジアナをはじめとする女奴隷たちでした。
 
唐突にお客様がいらしたので、客人のための料理を用意し、寝床も整えなければなりません。
 
「ワルダさん、お客様のお部屋を掃除して、寝具を整えて」
「ラーニヤ、お客様にお酒を出して」
と指示を出します。
 
(本来イスラム教ではお酒は禁止であるが、豚肉の禁忌などとは違い、お酒に関しては、わりと“緩い”地域が多い。お店などでも建前上酒は出さないことになっていても、実は知り合い限定の“裏部屋”に行くと飲めたりする。中世でも、異教徒の多いメルヴで、しかも金持ちの私邸は、なおさらである)
 
女奴隷だけでは手が回らないので、男奴隷たちにも手伝わせて、急いでお料理の準備をしました。
 
「アンタル、お魚屋さんまで行って鯛を3-4匹買ってきて」
「アブドゥラー、お客様にダンスでもお目に掛けて」
「俺、タゾンタくらいしか踊れないけどいいの?」
「女の服着てフラメス踊ってもいいけど」
「そんなことしたら客人が逃げ出す」
 
そして1時間ほど奮闘して、羊の肉を焼いたものとスープを作りあげます。アンタルが買ってきてくれた鯛も塩焼きにします。またストックしている材料で小鉢の料理なども揃えました。何とかお客様に出せる料理を作り上げたなと思ったところで、お客様の接待をしていたラーニヤが来て言います。
 
「モルジアナさん、お客様は持病で、塩の入った料理がダメなんですって。塩抜きの料理を出してもらえないかと」
 
「何ですって!?」
とモルジアナは思わずラーニヤをどなりつけてしまいました。
 
「・・・ということなんですが」
とラーニヤは小さな声で続けます。
 
(頭(かしら)が塩抜き料理を求めたのは実は戒律により、人を殺す前には塩を摂ってはならないというルールを守っているため。この物語ではアリも盗賊も敬虔なムスリムである)
 

急なお客様で急いで料理の準備をしたのに、今更、塩抜き!?そんなの最初から言ってよ!とモルジアナは思いましたが、ラーニヤをどなりつけても仕方ないことです。
 
「分かった。何とかする。ラーニヤ、お客様に果物でもお出しして」
「はい」
 
それで、モルジアナは再度、塩抜きの料理を作り始めたのです。お肉は全て塩漬けなので、塩抜きするには時間的余裕がなく使用を諦めます(昔は冷蔵庫が無い)。アンタラを再度魚屋さんに走らせて、何でもいいいからお魚を買ってきてと言いました。彼は鯉を買ってきました。鯉は臭いを抜く処理が難しいし塩が使えないと味付けも難しいのですが、香草を使って何とかします。
 
ところが、料理を作っていたら、火が消えてしまいます。
 
嘘!?
 
「ユムナー、ストーブに油を入れて」
「はい」
と返事をしたものの、ユムナーが首を傾げています。
 
「モルジアナさん、油のストックがありません」
「え〜〜〜!?誰?最後に補給した人は?最後の一壺を使ったら言ってよ」
とモルジアナは文句を言いますが、無いものはどうにもなりません。
 
(みんな今日のモルジアナは機嫌が悪いと思っている)
 
その時、宴席から下がって食器を洗っていた男奴隷アブドゥラーが言いました。
 
「モルジアナちゃん、今夜のお客様は油商人なんだろ?お客様の荷物の油から少しお借りして、明日の朝にでもその分の代金をお支払いすればいいよ」
 
モルジアナは腕を組みました。借りるとしても、本来はお客様に先に一言言うべきです。しかしお客様はアリ様と楽しく歓談しているようです。それを詰まらない用事で中断させるのも興醒めだと判断しました。
 

それで勝手なことをしてと叱られたら自分が責を負おうと思い、モルジアナは油の壺と柄杓(ひしゃく)を持つと、庭に出ました。
 
沈み掛けた月の微かな灯りで、ラバが20頭並んでいるのが見えます。その各々に左右2個ずつの革袋が下げてありました。凄い量の油だなあと思います。
 
(人間の入るサイズの革袋の容量を仮に100Lとして 40袋で4000L (4t). 昔は油はとても高価なので 1L=5000円として2000万円)
 
「すみません、ちょっとお借りします」
と声を掛けてから、モルジアナは先頭のラバの積荷の革袋を開けようとしました。
 
すると
「親分、いよいよ襲撃ですかい?」
という声が聞こえます。
 
モルジアナはハッとしました。とっさに男のように低い声でこう答えます。
 
「まだだ。月が沈む夜中まで待ってろ」
「へい。でも喉が渇いたんですが、水とかもらえませんかね」
「分かった。それは少し待て」
 
モルジアナはそのラバの反対側の積荷のほうにも寄ります。やはり中から
 
「親分、いよいよ襲撃ですかい?」
という声が聞こえます。
「まだだ。月が沈む夜中まで待ってろ」
 
その男も水を所望したので、少し待つように言いました。
 

モルジアナはラバが積んだ荷物のひとつひとつを回ったのですが、どれからも男の声がし、モルジアナは全員に「月が沈む夜中まで待て」と言って回りました。また全員水を所望したので、それは少し待つように言いました。
 
モルジアナはラバの積荷を回っている内に考えました。
 
これはアリ様が言っていた“40人の盗賊”の一味に違い無い。先日から扉や入口に印を付けていたのも、こいつらだろう。とうとうここを嗅ぎつけて、アリ様を殺しに来たのだろう。わざわざこの人数を連れてきたということは、家族や使用人たちも皆殺しにして、この家にある財産も全部奪って行くつもりだ。
 
何とかしなければ。
 
ラバの積荷は全部盗賊かと思ったら、20頭目、最後のラバが積んでいたのは本物の油でした。
 
「2人はお留守番して襲撃には不参加なのかな?」
とモルジアナは思いました。蔵品が取られる事件があったのなら、留守番を置くようにした可能性は充分あります。
 
それでモルジアナはその最後の積荷から今晩の調理に必要な程度の油を借り、それを厨房に持ち帰り、ストーブに補給。調理を続けました。他の者には知られないよう、モルジアナはあくまで平静を装います。
 
そして何とか塩抜きの料理を作り上げました。
 

ユムナー・ワルダと3人で料理を運びます。
 
「大変お待たせしました」
と言って笑顔で料理をお出しし、給仕もしました。
 
「モルジアナ、君は歌や楽器が得意だったね。何かお聞かせして」
「はい、分かりました」
と言ってモルジアナはウード(琵琶)を取ってきますと、それを爪弾きながらトルコ地方の民謡を歌いました。
 
アリも客人もそれに聴き惚れているようでした。
 

モルジアナは3曲歌うと
「済みません。疲れたので少し休ませて下さい」
と言い、後はユムナーたちに任せて下がりました。
 
そして自室(モルジアナは特別待遇で個室をもらっている)に行くと、カシムの重病を装うのに買い求めた金精丹を取り出しました。
 
「あの人数に効くかなあ・・・」
と疑問は感じましたが、モルジアナはあの時買い求めた4個の金精丹を擦り潰して粉末状にします。それをたっぷりの水で溶きます。そして小さな器を38個用意し、それに均等に注ぎ分けました。それをお盆に持つと庭に出ました。
 

最初のラバの積荷の上を綴じている紐を緩めます。親分の声を装って言います。
「おい、水だ」
と言って容器を渡します。
「ありがとうございます」
 
次の袋の上を緩めます。
「おい、水だ」
と言って容器を渡します。
「ありがとうございます」
 
こうしてモルジアナは38人の盗賊全員に水の入った容器を渡しました。
 
少し待ちます。
 
「うっ」
という、うめき声があちこちから聞こえます。
 
「苦しい」
と声を出している者もあります。モルジアナはさすがに聞くに堪えなかったので、用心のために目は開けたまま、しばらく耳を塞いでいました(*30).
 
(*30) 原作では油を煮立てて、それを革袋の入口から注いでいき、殺害したということになっている。この方法だと高温の油を注いでも、ペルシャの男性は頭(あたま)に帽子をかぶっているので、致命傷を与えるのは難しい。そして最大の問題点は最初の1〜2人を殺した所で他の者は異変に気付いて飛び出してくることが予想されることである。そもそも油1袋は先程の考察では90kg、半分程度しか入れてなくても40-50kgあるはずなのでモルジアナにはとても持てない。
 
そこで、今回の翻案では、この人数を殺すのに“遅効性”の毒を用いる方法を採ることにし、カシムの病気を装った時にもらっていた、苦しみを和らげてあの世に送り出す薬を使用することにした。
 

やがて静かになったようです。
 
モルジアナはふっと溜息をつくと、神への祈りを捧げてから、容器を運んだ木のお盆や、薬を砕いたすりこぎなどは暖房用の釜の口を開き、その中に放り込んでしまいました。そして何食わぬ顔で厨房に戻りました。
 
「モルジアナ、まだ顔色が悪いよ。もう少し休むといいよ」
とワルダが言います。
「そうかな」
「お片付けは私たちがしますから」
とラーニヤも言います。
 
「じゃ、お願い」
 
とラーニヤたちに言って、モルジアナは自室に戻り、ベッドに潜り込んで寝ました。
 
さすがに人を殺した後は、顔色が悪くなるよな、とモルジアナは思いました。
 
それに少し仮眠しておかないと、おそらく盗賊の頭領は、夜中に起き出してアリ様を殺しに行くだろうから、それに備える必要もあると思ったのです。
 

その盗賊の頭(かしら)ですが、料理もお酒も美味しかったことから、すっかり寝過ごしました。目を覚ましたのはもう深夜2時頃です。既に上弦の月は沈んで真っ暗闇になっています。襲撃には好都合です。
 
(Hijri 240.8.7 = Greg 855.1.4(Mon) の月入はStargazerで見ると1:45)
 
「手下どもが待ちくたびれてるだろうな」
と独り言を言い、庭に出ます。
 
「野郎共、襲撃するぞ」
と声を掛けました。
 
ところが反応がありません。
 
「何だ?みんな眠っちまったか?」
と言って、最初の革袋を蹴って「起きろ」と言いました。
 
ところがそれでも部下は起きません。
 
「起きろと言ってるのに」
と言って中を覗き込むと、頭(かしら)は部下が死んでいるのに気付きました。
 

頭(かしら)は反対側の積荷の革袋も蹴ってみますが、反応がありません。中を覗き込んで、部下が死んでいるのを認識します。
 
頭(かしら)はその後、全てのラバの積荷を確認したのですが、部下は全員死亡していました。
 
頭(かしら)はさすがに肝を潰しました。
 
「こいつは・・・とんでもない敵だ。兵士などいないように見せかけて本当はどこか、その辺に何十人も隠れているに違い無い。手下ども、みんな強いのにやられてしまうなんて。俺もすぐ殺される」
 
頭(かしら)はそう言うと、塀を乗り越えて逃げて行ってしまいました。
 
モルジアナはその姿を見送りながらも、これだけでは終わらないだろうなと腕を組んで悩みました。
 
 
前頁次頁目次

1  2  3 
【男の娘モルジアナ】(2)