【男の娘モルジアナ】(1)

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モルシードはホラーサーン(*1)地方の女奴隷の子供に生まれたので生まれた時から奴隷でした。主人はお金持ちでしたが、モルシードが4歳の時に亡くなり、その弟が資産の整理をしました。弟はミスル(エジプト)に住んでおり、金銀・宝石の類いは持って行くものの“かさばる”物は処分することにしました。
 
ロバの全て、ラバの内ミスルまで荷物を運ぶのに必要な分を除いては市場で売り飛ばしました。家具や調度は古物商に買ってもらいました。土地家屋も買い手が見つかりましたが、彼は30人ほどもいる奴隷の扱いに苦慮しました。取り敢えず年寄りの奴隷は全員解放しました。彼らは新しい主人に感謝して、わずかにもらったお金を持ちどこかに行きました。
 
ミスルに連れて行けそうな、成人の男たちは連れて行くことにしました。荷物を運ぶラバの世話係にもなります。成人の女奴隷は奴隷市場で売り飛ばしました。それでモルシードは母と生き別れになってしまいました。
 

(*1)ホラーサーン(Kholasan). khorは太陽、asanは上昇を意味し“日出処国”。中東世界でも東方の地域を指す。基本的にはアムダリヤ川とヒンドゥークシュ山脈に挟まれた地域を表す。現在のトルクメニスタン(トルクメン)の付近(*2)
 
「アリババと40人の盗賊」の一部のテキストには物語の舞台をペルシャと書くものもあるが、この言葉は誤解を招く。確かに昔はペルシャの一部だったこともあるが、現在のイランの領域からは外れる地域であるし、文化も異なる。
 
“イスラム帝国”の別称でも知られるアッバース朝はこの地域から興り、一時期は東はアフガニスタンから、西はリビア付近に至る広大な領土を持った(スペインやモロッコにまで一時進出したがすぐに失った。但し南スペインのイスラム文化はその後も長く続き、13世紀にはアルハンブラ宮殿なども建設された)。
 
イスラム帝国では文学が隆興し、化学が発達して、後にヨーロッパにルネッサンスを引き起こす原動力ともなった。
 
比較的古い本の挿絵に見られるモルジアナの衣裳は、最近のトルクメン(*2)の伝統的な女性衣裳と似ている。ズボンを穿いた上にワンピースを重ね着する。顔は特に隠さないが、帽子から長いお下げのような紐を垂らす。トルクメンのズボンはバラクと呼ばれ、女性の場合、いわゆるハーレムパンツのように、裙を細くしぼる。これは蛇や蠍がズボンの中に侵入しないようにするためである(男性用は裾は搾らない)。
 

(*2)トルクメン人のルーツは不明だが、もともと“トルクメン”という言葉が“トルコ”から来ているともいわれ、両者には関係があるのではとも言われる。トルコ語とトルクメン語も比較的近い関係にある。
 
なおこの地域はトルクメンと古くから呼ばれているが、ソ連支配下にあった時代は、トルクメン・ソビエト社会主義共和国となり、ソ連崩壊後はトルクメニスタンと称する。
 

「お前たちをどうすっかなあ」
と、残った4人の子供奴隷を前に新しい主人は悩みました。4人の内の1人は女の子だったので、ハーレム(後宮)の雑用係を扱っている商人に売りました。そして残る3人の男の子たちに主人は言いました。
 
「すまんが、お前たちは去勢して売る」
「え〜〜〜〜!?」
 
奴隷の値段は、女より男が高く、男より中性がずっと高いのです。但し・・・昔の去勢手術は結構死亡率のあるものでした。主人の目論見としては、3人去勢手術を受けされば、1人くらいは死ぬかも知れないが、確率的に2人は生き延びるだろうから、それを売れば充分手術代の元は取れるというところでした。
 

そういう訳で、モルシードは4歳にして去勢されることになりました。一緒に去勢される2人は11歳と12歳なので、去勢なんて嫌だぁ、ちんちん切られたくないよぉ、と泣いていましたが、モルシードは「去勢する」と言われてもよく分からず、何をするんだろうと思いました。
 
それでモルシードは最初に手術を受けさせられました(実は死んでも一番惜しくないから)。
 
服を脱がされ、裸になって、金属製のベッドに寝るように言われます。そして目隠しをされ!口の中に何か布を詰め込まれました。
 
息苦しい!
 
お股のあたりに何か液体が掛けられました。お酒のような臭いがします。
 
医師がちんちんを触っているので、モルシードは、あ、ちんちんの皮を切られるのかな?と思いました。
 
イスラム圏では概ね6-10歳頃に割礼をおこなう習慣があります。
 
先輩たちも“ちんちん切られたくない”と言ってたし。やはり痛いんだろうなと覚悟します。
 
ちんちんに金属製のものが当てられる感触があるので、いよいよちんちんの皮を切られるのだろうと思い、少し覚悟をします。
 

次の瞬間、ちんちんに激痛が走りました!
 
そしてモルシードは気を失いました。
 

どうもモルシードは1時間近く気を失っていたようです。
 
顔に水を掛けられ、モルシードは意識を回復しました。
 
もう目隠しは外され、口の中の詰め物もありません。
 
でも、お股が激しく痛い!
 
「手術は終わったよ」
と言われて、モルシードは自分のお股を見ました。
 
「ちんちんがない!」
「ちんちんと玉袋を取る手術だからね」
「そうだったんですか!」
 

え〜!?でもちんちん無くなったら、ぼくどうしたらいいの??
 
「ちんちんなくなったら、おしっこはどうすればいいの?」
「ここに棒が1本挿してあるでしょ?」
「はい、なんだろうとおもいました」
「ここはおしっこが出てくる穴。君はもうちんちんが無くなったから、これからは女と同じように、穴からおしっこすることになるから」
 
「あなからおしっこするの?でもどうして、ぼうがささってるの?」
「手術の傷が治る時に、この穴がふさがってしまわないようにだよ」
「ふさがったら、どうなるの?」
「おしっこを出す所が無くなるから、死んでしまう。そうなるともう助けようが無い」
「え〜!?ぼく、しんじゃったらどうしよう?」
「大丈夫だよ。2人に1人はちゃんと穴は開くから」
「それって、ふたりにひとりはあながさがって、しんじゃうんですか」
「君は4歳にしては、なかなか頭がいい」
 
「このぬいめは?」
 
ちんちんや玉袋があった場所に、縦に2筋の縫い目があります。
 
「それは傷が早く治るように、ちんちんや玉袋を取った後の皮膚を糸と針で縫い合わせた跡だよ。何ヶ月か経てば目立たなくなるから」
 
「へー、ぬったんですか?」
「そうそう。布を縫い合わせて服を作るように、皮膚を縫い合わせて傷を塞ぐ」
「なんか、おもしろいかも」
「これで1ヶ月も経てば、痛みは取れるから」
「いっかげつも、いたみが、つづくんですか?」
「君は本当に頭がいいいね」
と医者は、マジでモルシードに感心しているようでした。
 

「さ、立って」
と言われて、モルシードはベッドから起き上がりそのそばに立ちました。
 
「これから丸1日は寝てはいけない」
「ひゃー」
 
そしてモルシードはお股に棒がささったまま、部屋の中をひたすら歩き回るように言われたのです。
 
動いていた方が、穴が塞がりにくいのだそうです。それで穴が塞がって死んではなるものかと、モルシードは頑張って歩き続けました。その内眠くなってきますが、死にたくないという思いで頑張って歩き続けます。
 
この部屋には医師の代わりに助手の人が来て、モルシードが歩くのを見ていました、助手は何人か交替しましたが、モルシードはひとり歩いていました。
 
我慢できなくなって、ふらっとして座り込んでしまうと、少しだけ座ったまま眠らせてくれました。でもすぐに顔に水を掛けられて起こされます。そしてまた歩き続けます。
 
ついに丸一日歩き続けた所で桶に座るように言われました。医師がお股に挿した棒を抜きます。すると抜いた所から勢いよくおしっこが飛び出しました。
 
でもモルシードは凄く変な感じでした。今まではちんちんからおしっこが出ていたのに、ちんちんが無くなってしまい、身体から直接おしっこが出る感じです。おしっこも「飛ぶ」のではなく真下に「落ちていく」感じでした。
 

「おしっこが出たね」
「はい。でもすごくくへんなかんじ。おんなのひとはこんなかんじでおしっこするの?」
「うん。女の人とほとんど同じだよ。でも慣れるしかないね。もうちんちんは無いんだから」
 
「はい」
 
「とにかくお前は助かった」
「よかったぁ」
「ただし、ちんちんが無くなったから、これから君は男ではなく中性だから」
「わかりました」
と答えましたが、実はモルシードは“男”とか“女”ということ自体まだよく分かっていませんでした。
 
「ところで、すごくねむいんだけど」
「ああ。もう寝ていいよ」
と医師は言い、モルシードを別棟に連れて行きました。
 
そして医師はお股の所に再度棒を挿してから、眠るように言いました。モルシードは丸一日歩いていて疲れたので、ぐっすり眠りました。この棒は一週間くらい、おしっこをする時以外は挿したままにされました。また、その一週間は、おしっこをする度にお酒を掛けられました。こうすると傷の治りが速いのだそうです。
 

モルシードはその後、傷が完全に治るまで1ヶ月、医師の所で過ごしました。その1ヶ月の間に痛みもずいぶん取れました。
 
皮を縫い合わせた所は、縦に2本あった縫い目の間が凹んでしまい、2つの縫い目は隣接するようになり、結果的にその間が谷間のようになっていました。縫い目はその谷になる折れ目の所に来て、結果的に目立たなくなりました。
 
「お医者さんは目立たなくなると言ってたもんなあ」
とモルシードは思いました。
 
この形は、ちょっと見にはまるで女の子のお股の割れ目のようだったのですが、幼いモルシードはそれが女の人のお股に似ていることには気付きませんでした。
 
「ここ谷間みたいになってるんですけど、いいのでしょうか?」
とモルシードは医者に尋ねました。医者は
「うーん」
と少し悩んだものの
 
「君の場合は多分問題無い」
と言いました。
 
モルシードはどういう意味だろうと思いましたが、深く考えないことにしました。
 

モルシードは退院すると、口入れ屋に引き渡されました。ここでハーレムに入るための教育を受けることになります。なおモルシードに続いて去勢手術を受けた男の子2人ですが、2人とも手術は成功して、無事男性を卒業して立派な中性になりました(2人とも、ちんちんが無くなったのが悲しくてずっと泣いていた)。そして傷が治った所ですぐハーレムの雑用係として売られました。2人はまだヒゲも生えていないし、声変わりもまだだったので、ハーレムの女性たちにたくさん“可愛がられる”こととなります。
 
医者はモルシードには「2人に1人は死ぬ」みたいなことを言っていましたが、実はこの医者は名医で、この医者の去勢手術で死ぬのは年に1人か2人程度にすぎませんでした(但し手術代も高い!)。
 
他の2人はすぐ売られたのですが、モルシードは幼くまだあまり教育を受けてないので教育を施してから売られることになりました。
 
モルシードが受けた教育は、ペルシャ語とアラビア語の読み書き、計算、地理・歴史などの学問、古典文学や音楽・舞踊などの教養、更には剣技や弓矢も教えられました。
 
これはハーレムは女だけの世界なので、警備は主として中性の奴隷が担当していたためです。また中性の奴隷はしばしばスパイとして諜報活動に従事しましたが、そのためにも剣技、特に短剣術は必須でした。
 
中性奴隷が諜報活動に従事したのは、ひょっとすると女装が可能だったこともあるかも知れません。普通の男が女装してもヒゲや声でバレますが、思春期前に去勢した場合、ヒゲはまだ生えていませんし、声はむしろ女の声に聞こえます。
 
モルシードは音楽でも舞踊でも剣技でも優秀で、
 
「君ほどの子なら、皇帝の妻のガードに採用されるかも知れないね」
と口入れ屋さんから期待されました。
 
なおハーレムという場所の性格上、男性(とは限らない)の貴人の夜伽をする場合もあるので、モルシードは男性および女性!を気持ちよくさせるワザまで教えられました。
 

ところがモルシードの行き先はハーレムではなくなるのです。
 
モルシードが7歳になった時、裕福そうな商人が奴隷を買い求めにやってきました。そしてモルシードに目を付けたのです。
 
「大旦那様。申し訳ありません。この子は皇帝の奥方の近習にしようと5年掛けて育ててきたもので」
 
(本当は口入れ屋に居たのは3年間)
 
「それなりの代金を払えばいいのだろう?」
「確かにそうですが・・・」
 
ということで、その商人は大枚をはたき、やや強引にモルシードを買っていったのです。
 

カシムはモルシードに言いました。
 
「お前は中性の召使いとして仕えるのはもったいない」
「はい?」
「お前は物凄く可愛い。お前は女でも通る」
「えっと・・・女のかっこうでもしましょうか?」
「うん。女の服を着てくれ」
「え〜〜!?」
 
それでモルシードは可愛い女の子の服を着せられました(*4)。こんな服着ることになるなんてと、最初モルシードは恥ずかしくて真っ赤になりました。
 
「ごしゅじんさま、このふく、はずかしいですぅ」
「これからはいつもこういう服だから、慣れなさい」
「わかりました、ごしゅじんさま」
 
とは答えたものの、恥ずかしくて、最初はその服で外を歩いていても、人が変に思わないだろうかとドキドキしていました。
 
「お前はこれからはモルジアナ(*3)と名乗りなさい」
「モルジアナですか。まるで女みたいな、なまえ」
「そりゃお前はこれからは女の子だから」
「きゃー。ぼく、女の子としてやっていけるかなぁ」
「大丈夫だよ。お前を見て、誰も女としか思わないから」
 
それでモルシード改めモルジアナはカシムの家では、女奴隷として仕えることになったのです。
 

(*3) モルジアナというのは“真珠”という意味の女性名。ヨーロッパであれば、マルガリータ、マルガレッタ、マーガレットなどに相当する名前である。
 
(*4) 再出だが、トルクメンでは、男女ともに下半身にはバラク(ズボン)を着用するが、女性の場合はその上に更にワンピースを重ね着する。中世の中性奴隷の衣裳は資料不足でよく分からないが、恐らくは男性と似たものを着ていたと思われる。しかし女ということになれば女用の裙を搾ったズボンに、ワンピースを重ね着することになったであろう。
 
しかし、そもそもペニスの無いモルジアナは、女の服を着た方がトイレは気楽かも!?
 

カシムは婦人服を扱う商人でした。
 
彼はメルヴ(*5)の町でバザール(商店街)にお店(ドッカーン *5)を出しているのですが、衣服を作る工房(カールガーフ)は所有しておらず、いくつかの工房から仕入れて売っていました。
 
お店で働く奴隷を女5〜6人(売り子)と男3〜4人(運搬係兼警備員)、家の方で働く奴隷を女3〜4人と男2〜3人雇っていました。実は家の女奴隷は4人居たのが、結婚したいというので解放してあげた女が2人続けて出たので(各々の夫になる人からいくばくかのお金はもらった)、若い女奴隷を買いに行きました。本当に女奴隷を買うつもりだったのですが、何か光るものを感じて、予算オーバーではあったものの、モルジアナを買ったのでした。
 

(*5)メルヴ(Merv)はトルクメンの古い都市である。トルクメンの現在の首都アシガバート (Ashgabat) から300kmほど東方にある。
 
BC20世紀頃、この付近には高度の文明が発達しており、バクトリア・マルギアナ複合(BMAC)と呼ばれている。インダス・黄河・エジプト・メソポタミアと並ぶ第5の古代文明と考える人もある。バクトリア(Bactria) はアフガニスタン北部、マルギアナ (Margiana) はトルクメン東部を指す古語である。
 
しかしマルギアナ Margiana はモルジアナ Morgiana に似てる?
 
BC4世紀にアレクサンドロス大王が征服した領域に含まれ、当時はアレクサンドリアとも呼ばれた。またアンティオキア・イン・マルギアナ (Antiochia in Margiana)という別名もあった。またアリババの時代より300-400年後の12世紀にはセルジュークトルコの首都になった時期もある。
 
メルヴはシルクロードの交易拠点のひとつであり、中世には人口が100万人に到達した時期もある。現在のトルクメニスタンのマリ(Mary)市の一部である。この町ではイスラム化される以前は実は仏教文化が栄えていた。現在でも仏教寺院の遺跡が遺されている。
 

(*6)バザール用語
バザール:商店街、ドッカーン:常設店舗、カールガーフ:店舗から独立した工房、カールハーネ:大きな工場、ダーラーン:商店街と商店街を結ぶ通廊、カイサリーヤ:大規模な通廊、サライ:交易商人のための宿泊施設、ハンマーム:公衆浴場
 

モルジアナはこれまで“中性の召使い”になるべく教育を受けていたので、女としての教養は全くありませんでした。しかしカシムは先輩の女奴隷たちに言いました。
 
「この子はアクスム(現在のエチオピア)の田舎から出て来たばかりで、礼儀作法とかも料理・裁縫とかも知らないから色々教えてやってくれ」
 
モルジアナは母が黒人奴隷で、父はトルクメン人でしたので、中間の肌の色をしています。それでアクスム出身というのを信じてもらえました(*7)
 
先輩の女奴隷(20歳のカーナと16歳のバーナ)は、人手不足のおりに料理や裁縫の素養も無い小娘を・・・と思ったものの、モルジアナが結構物覚えがよく、すぐに簡単な料理は作れるようになったので、彼女(以降、女扱いになるので“彼女”と書く)を主として厨房で使うことにしました。彼女は人なつっこく、明るい性格なので、先輩たちも可愛がってくれました。
 

モルジアナは奥様のダニヤにも可愛がられ、奥様の近くで色々お世話をしたり、お使いなどに行くこともありました。
 
また、モルジアナがカシムの家に来た時3歳(つまりモルジアナより4つ下)だったカシムとダニヤの息子・ムハマドも、年の近いモルジアナになつき、モルジアナはよくムハマドの遊び相手になっていました。
 
モルジアナは最初は苦手だった裁縫も次第に覚え、3年後くらいにはかなり上達しました。
 
モルジアナに裁縫を指導したバーナが
「この子、私よりうまくなっちゃった」
と褒めていました。
 
モルジアナの縫う服がひじょうに出来がいいので、カシムは
「お前が縫った服を店に出してもいいな」
と言い、モルジアナが11歳になった頃からは、週に1〜2点、カシムの指示に従って服を縫うようになってきました。モルジアナの縫った服はとても高く売れました。
 

(*7) 元々アクスム(エチオピア)はアフリカ系の住民(黒人)とイエメン系住人(アラブ人)が住んでいて、両者の混血も多かった。また、アクスムはイスラム教の始祖ムハンマドに協力したことから、軍事的に侵略したりしないという協定を結んでおり、イスラム帝国に地理的に近くても、ずっと非イスラム圏であった。しかし結果的に奴隷の供給元にもなり得た。
 
アッバース朝が成立する前のウマイヤ朝では、アラブ人(*8)とその他の民族は差別されていたが、アッバース朝はその体制に不満を持っていたペルシャ人(*8)勢力を背景に立てられたこともあり、ムスリム(イスラム教徒)であれば人種によらず皆平等という思想が普遍化した。
 
それで、イスラム社会では基本的に奴隷は非イスラム圏!出身の者が多かった。これはアフリカ、スラブ、ヨーロッパ(この当時は後進国)などから供給されていた。
 
イスラム帝国での奴隷は、古代ギリシャの奴隷制度の伝統を継承しており、近代アメリカの黒人奴隷とは違って、大切に扱われていた。
 
ギリシャやイスラムの奴隷は制限はあるものの人権が認められており、主人が奴隷を殺せば(バレたら)、普通に殺人罪となる。また奴隷はやがては解放されるものであり、奴隷を解放することは善行とみなされた。但し奴隷が足りなくなると労働力不足になり困るので、解放できる人数には制限があった。奴隷はちゃんと給料ももらえるので、お金を貯めて自分で自由の身になる者もいた。
 
(むしろ昔は、給料をもらう≒奴隷!昔は給料をもらうというのは卑しいことであるという思想があった。だからこの物語でいう“奴隷”は“使用人”という言葉に置き換えても大きく外れない)
 
ただし多くの“解放奴隷”はそのまま主人の家に勤め続けた。待遇がよくなり作業の無い時などは行動の自由があるのが主たる違い。
 

近代アメリカでは One drop rule と言い、奴隷の血が一滴でも混じっている者は奴隷とされたが、ギリシャやイスラムでは基本的に奴隷と平民の間に生まれた子供は3代目には平民となった。イスラムにおける奴隷というのは、現代でいえば、不足する労働力を補うための外国人労働者というのに近い存在だった。
 
モルジアナは女奴隷と平民の間の子供なので、モルジアナが平民の子供を産めば、本人が奴隷の身分のままでも、生まれた子供は自動的に平民になる。
 
女奴隷の中には事実上主人の妾のような存在になる者もいたが、イスラムでは妻は4人まで持てるので、多くの場合は特に問題は無い!
 
カシムも(当初は)いづれモルジアナを自分の第2か第3の妻にするつもりだった。“美人で賢い妻”を自慢できればいいので、子供を産めなくても大きな問題は無いと思っていた!
 

(*8) アラブとはアラビア語を話す人たちである! 元々はアラビア半島に住む人たちのことであったが、イスラム教勢力の拡大により、エジプト人、イラク人、シリア人、マグレブ人などが言語的にアラブと一体化した。
 
但しアラビア語の話者であっても、宗教・宗派などによっては、本来の各地域の民族意識をキープしている人たちもある。
 
ペルシャ人は、アラビア文字(正確にはそれに少し文字を加えたペルシャ文字)は使用するが、アラビア語とは(系統的にも)全く異なるペルシャ語を話す民族である。この物語の舞台となるトルクメンに住むトルクメン人もトルクメン語を話す民族である。
 
アラビア語(セム語族)アラビア文字
ペルシャ語(インド・ヨーロッパ語族)ペルシャ文字(アラビア文字の拡張)
トルクメン語(アルタイ語族)現代ではラテン文字を使うがこの時代はひょっとしたらアラビア系文字だったかも?
 
ただし中世のメルヴでは交易都市ということもあり、トルクメン語・ペルシャ語は普通に話され、アラビア語やパシュトー語を話す人もかなり居たものと思われるし、商人たちはペルシャ語とアラビア語程度は普通に使えたであろう。
 

さて、モルジアナは元々口入れ屋で基本的な教養は身につけていたのですが、カシムは彼女に更に様々な教養を身につけさせました。料理や裁縫は先輩の女奴隷に教わっていましたが、カシムは歌、舞、剣技も鍛えておくように言い、実際、各々の先生につけて練習させていました。
 
また、言葉についても、モルジアナはペルシャ語とアラビア語の文章は読み書きできましたが、同系統の文字を使うトルコ語・パシュトー語・シンド語なども勉強させました。カシムはしばしばそれらの言葉で書かれた文書をモルジアナに解読!させました。それ以外に、ギリシャ語・ロシア語やサンスクリットも学ばせていました。
 
当時のイスラム世界では、奴隷が良い教養を身につけることは、主人にとって名誉となることでした。
 
(近代アメリカの黒人奴隷が“知恵を付けないように”教育から遮断されていたのとは大違いである)
 
またカシムはモルジアナは、たぶん将来自分の商売上の重要なパートナーになると考え、そのためには外国語の文献が読めることも重要であると考えていたのです。
 

カシムはモルジアナが10歳になった頃から「これを飲むように」と言って、薬を与えていました。するとモルジアナは少しずつ胸が膨らんできたので、まるで本当の女の子みたいと思いました。体臭も女の体臭がするようになりました。
 
「これは・・・女の素(もと)のようなものですか?」
とモルジアナはカシムに尋ねました。
 
「まあそのようなものだ。妊娠中の牝馬(めすうま)のおしっこから採った薬で牝精という」
 
「きゃー」
 
おしっこが材料と聞いてモルジアナは驚きます。でも8歳の時以来女として暮らしているのに、自分の身体が女らしくないことに劣等感を持っていたので、自分の身体をより女らしく変えてくれる薬はモルジアナとしてもありがたい思いでした。それで彼女はちゃんとこの薬を飲むことにしました。
 
この頃は先輩女奴隷の内、年上のカーナは、解放されて別の商人の妻となっていましたが、若いバーナからは
「あんた女性的な発達が遅いと心配してたけど、ちゃんとおっぱい膨らんできたね」
などと言われました。
 
モルジアナには本当は月の者は無いのですが、カシムに言われて、毎月1度自分で月の者の日を決めて3〜4日は“女の小屋”で過ごすようにしていました。モルジアナにとっては休暇のようなものでした。
 

モルジアナが11歳の時、ムハマドは7歳でしたが、割礼を受けさせられることになります。彼は、かなり怖がっていました。
 
「痛いのかなあ」
「私は受けたことないので分かりません」
「女はいいなあ。割礼とかしなくてよくて」
 
私はちんちんの皮どころか、ちんちん丸ごと切られちゃったけどね!
 
「頑張って我慢したら、手にキスしてあげますよ」
「手じゃなくて額にしてよ」
「分かりました。額にキスします」
「じゃ僕頑張る。ちんちん全部切られる訳じゃないし」
「外国では、ちんちんをかなり切るので割礼されると、立っておしっこができなくなり、女のようにしゃがんでおしっこしなければならなくなる国(*9)もあるらしいですよ」
 
「え〜!?僕、そこまで切られないよね?」
「メルヴでは普通そこまでは切らないみたいですね」
「よかったぁ」
 

割礼は男の試練なので、むろんその現場をモルジアナは見ませんでしたが、ムハマドは痛みを我慢し、泣き叫んだりもしませんでした。
 
モルジアナは、ご褒美に約束通り、彼が自分の部屋に戻ってから、額にキスをしてあげました。
 
「まだ痛いよぉ」
「その内、痛みも取れますよ、多分。ムハマド様は男の子なんだから頑張りましょう」
「うん。頑張る」
 
とムハマドはモルジアナの前では涙を浮かべて痛みに耐えていました。
 
(*9) オーストラリアのアボリジニの一部の部族の割礼は、陰茎の尿道を全切開してしまう(尿道割礼)ので、割礼された後は、陰茎の先端から排尿することができなくなり、女と同じように、しゃがんで排尿することになっていた。同様の形式の割礼は、アマゾン盆地やケニヤの一部でも見られた。現在はどの地域でもこのような割礼は行われていない。
 
(陰茎の根元から尿は出る:性交しても精液は根元から出るので全て膣外射精になる!)
 
中東地域で割礼という習慣が普及したのは、水が得にくいためであるとも言われる。水が無いと、包茎の陰茎はその内部を洗浄できないため不潔になりやすい。そのため亀頭が露出するようにして、水が無くても清潔を保てるようにしていたのである。
 
日本のような水の豊かな地域では理解されにくい話である。
 
なお現代では、性転換手術を受ける場合、割礼している人は陰茎皮膚の長さが足りなくて充分な長さのヴァギナを作ることができない場合がある。
 

西アジア地域には、水がかなり貴重品とされる地域も多いのですが、メルヴはムルガブ(Murghab)川のほとりにあり、水の豊かな町でした。それでこの町には公衆浴場もありましたし、豊かな家では沐浴設備を持つものもありました。
 
その日、モルジアナ(12)はお許しをもらって沐浴をしていたのですが、その時、唐突にムハマド(8)の声がして
「お母ちゃん、こないだの件だけどさ」
と言いながら、沐浴室のドアを開けてしまいました。
 
「あっ」
「あっ」
 
ムハマドはモルジアナの裸をまともに見てしまいました。一瞬驚いたように目を見張り、それから真っ赤になり、それから
「ごめん」
と言って、後ろを向き、浴室の外に出てドアを閉めました。
 
「僕、何も見てないから」
 
いや、しっかり私の裸を見てたじゃん、とモルジアナは思いましたが
 
「何も起きませんでしたよ。ムハマド様はそのドアを開けませんでした」
「そうだよね、僕は開けなかった」
「お母様はお店の方に呼ばれてバーニャさんと一緒に行かれましたよ」
「ありがとう!」
 
と言って、ムハマドは浴室を離れましたが、彼の目には、モルジアナのまだ小さな乳房、そしてお股の所に何もぶら下がるものは無く、ただ1つ縦の筋がある様子が焼き付き、それからしばらく彼の心をドキドキさせました。
 
それは彼がモルジアナを初めて“女”として意識するようになった日でした。
 

モルジアナは元々はカシムの家に仕える奴隷だったのですが、計算が得意だし、教養も高いことから、カシムはしばしば商売上のことをモルジアナに相談するようになっていました。
 
カシムは商売上の問題を以前は妻のダニヤに相談することもあったのですが、ダニヤは商人の娘(材木屋の娘)ではあっても、商売のことはさっぱり分からないようでしたし、ファッションも適当だったので、あまり相談相手になっていませんでした。しかしモルジアナは頭が良いし、良い服を見分けるセンスもあったので、カシムも充分参考になる意見を聞くことができました。
 
それでモルジアナが12歳になった頃から、カシムは彼女をお店にも連れて行き、モルジアナはお店の女奴隷たちから、お店の仕事も習うようになりました。若い彼女はすぐにお店の看板娘になり、お客さんたちに愛されますが、お店の女奴隷は、わりと入れ替わりが早い(実は仕立屋からの無償!派遣もいる)ので、やがてモルジアナ自身が新人の教育係になってしまいました。
 
この当時のお店の女奴隷頭はアビダといいましたが、彼女は虚弱体質で、特に朝に弱い性格というのもあり、いつしか午前中はモルジアナがお店の会計係を務めるようになっていました。
 

カシムの所にはしばしば弟のアリ(*10)がやってきて、お金を貸してほしいというので、カシムは毎回用立ててあげていました。
 
ある時、モルジアナはカシムに尋ねました。
 
「アリ様は暮らしに困っておられるのでしょうか?」
 
カシムは弟のことをモルジアナに教えました。
 
「俺とアリは織物商人をしていた父親から、半分ずつの遺産を受け継いだ。俺はその資産とコネを使って衣服を売る商売を始め、弟は絨毯を売る商売をした。しかし弟は俺のようには商才が無かったようで、数年の内に店はたたんでしまった(*11)。わずかに残ったお金でロバを3頭買って、山に入り木を切って薪を売る生活をしている。まあそれで何とかなっているみたいだが、どうしても足りない時もあるみたいだから、その時は用立ててやってる。『貸してくれ』と言ってくるけど、返してくれることはあてにしてないし、あげるつもりで金は渡してるよ」
 
(*10)一般に「アリ・ババ」と訳出されているが、“ババ”は“父さん”という意味の敬称なので、ここでは単に「アリ」とする。
 
(*11) カシムの商売の成功には、実は妻のダニヤ(材木商の娘)が高額の持参金を持って来てくれたことから、その資金力によるものもあったが、そのことは言わない。アリの妻・ザハラは貧乏人の娘で持参金は無かった。ただやはりアリはあまり頭が切れないので、本当に商才が無かったかも。
 

「お優しいんですね」
 
「俺は誰にでも優しいつもりだが。もっともアリも無闇に金を無心する奴ではないし。今回は女房が身体を壊して薬を買うのにお金を貸してくれと言うから渡したけどな」
 
「奥様、お身体が悪いのでしょうか」
 
「あれの女房・ザハラは、病気というわけではないけど、元々虚弱体質みたいだな。子供も産んでないし」
とカシムは言いました。
 
「私も子供は産めない気がしますが」
 
とモルジアナが言いますと、カシムは笑って言いました。
「元は男でも、子供が産めるようになる秘薬も存在するらしいけどな」
 
「そんなものがあるんですか!」
 

「それは“キャファブ(cafab)”という薬だ。遙か東方、地の果てにタン(Tang:唐)という国があるが、その更に東方の海上に、わが国ホラーサーンと同様に“陽が昇る国”とも呼ばれているパンライ(Penglai:蓬莱:日本語読みすると“ほうらい”)という国がある。その国にのみあると言われている」
 
「地の果てまで行って、その更に先があるのですか?」
「地の果ての先はひたすら海が続く。その海の中にある島国だよ」
「なんか凄い場所ですね。でも海の先には何があるのでしょう?」
「ひょっとしたら西方の海につながってたりしてな」
「まさか!」
 
「しかしパンライには、不老長寿の薬もあるらしいから」
「そんなものが本当にあるんですか?」
 
「300年生きた漁師とか、800年生きた尼さんもいたらしいぞ。まあ、俺もタン(唐)との交易商人から聞いただけだからなあ」
 
「へー」
 
「パンライ国近くの海には“海の馬”と呼ばれる生き物が住んでいる」
「海に馬が居るんですか!?」
「なんか不思議な国らしいよ。黄金で作られた神殿があるというし」
「まるで魔法の国ですね」
「そうかもね。ドラゴンとルフ鳥とザラタン(大亀)と白い虎が国を守っているらしいし」
「わぁ」
 
「で、その“海の馬”は、オスが子供を産む」
「え〜〜〜!?」
 
「その海の馬のオスの子袋から作られた薬らしい。これを飲むと、男でも子供を産めるようになり、実際に子供を孕むと、完全な女の形に変わってしまうらしい。しかしパンライ国でも貴重なものらしいから、この付近ではまず手に入らないだろうな」
 
「すごーい」
 

やがてモルジアナは16歳になりました。カシムの所に来てから9年の月日が経っています。先輩でモルジアナをよく指導してくれたバーナも解放されて他の商人と結婚し、お店の女奴隷頭だったアビダは病気で亡くなっており、この時点でモルジアナはカシムの家の女奴隷頭とお店の女奴隷頭を兼任していました。朝御飯の支度をしてから、カシムが出勤する時はそれに同伴し、お店で若い売り子たちを指揮します。そして午後にはカシムより先に帰宅して、夕飯の支度に従事するという生活をしていました。なおモルジアナが帰宅した後の会計は、しっかりした性格のマルヤムが担当していました。カシムとしては元々会計係は(相互牽制のため)複数制にしておきたかったようです。
 
女奴隷頭として、他の女奴隷をお店の方で4人、家の方で3人指導していました。お店にも家にも自分より年上の女奴隷もいましたが、みんなモルジアナに従っていましたし、また頭がよく実行力もあるモルジアナを頼りにしていました。
 
もっとも、みんなモルジアナのことをカシムの事実上の第2妻なのだろうと思っている雰囲気もありましたが、気にしない!ことにしていました。
 
モルジアナは家と店の女奴隷頭を兼任していることから特別待遇として個室を頂いていましたが、みんなは、その部屋というのはモルジアナとカシムが夜を過ごすための部屋なのだろうと思っているようでした!!
 

実際には、モルジアナはカシムから性的な奉仕を求められたことはありません。カシムのことを尊敬しているので、求められたら応じてもいいと思っていましたし、口入れ屋時代に基本的なことは習っているので、寝たらちゃんとカシムを気持ち良くさせる自信はありました。でも「私の性別を知っているから」お誘いは無いのだろう、とモルジアナは思っていました。
 
モルジアナとカシムの間に“何もない”ことを知っているのは、たぶんダニヤとムハマドくらいだったかも知れません。
 
実はカシムはモルジアナを息子ムハマドの第2妻にと考え始めていたので、敢えて手を付けていなかったのです。モルジアナは自分の妻にするには年齢が離れすぎていました。
 
カシムはお客様を自宅に招いたりすると、よくモルジアナに舞を舞わせ、またウードやケマンチェ、カーヌーン、ナーイなど(*12)を演奏させたり、歌を歌わせたりしました。なお、モルジアナが歌う時は、後輩の女奴隷で2つ年下のラーニヤがウードやカーヌーンを演奏していました。
 
「美人ですねぇ。歌も楽器も舞も上手いし」
と招かれた仲間の商人たちや貴人たちも言います。
 
「うちの息子の妻にもらえないだろうか?」
と打診する人もありましたが、
 
「この子はまだ幼いので」
と言って断っていました。
 
(*12) ウードは琵琶に似ており、琵琶やギターの源流となった撥弦(はつげん)楽器。ケマンチェは、ヴァイオリンや胡弓の源流となった擦弦(さつげん)楽器。カーヌーンは日本の和琴(わごん)や箏(そう)などと同様の琴の一種(むしろ和琴に似ている)で台形の箱の中に張った数十本の弦を持ち、ピアノ並みに広い音域を持っていた。
 
ナーイは主として葦で作られたエアリードの縦笛である。構造・演奏法は尺八やケーナに似ている。つまり音が出るようになるまでにかなりの練習が必要である。同じ名前でもルーマニアのナイ(パンフルート)とは別の楽器。
 

この年秋の、ある日、カシムは「ちょっと出掛けてくる」とダニヤと息子のムハマド、それにモルジアナに言い、ムハマドとモルジアナに「店番を頼む」と言って出て行きましたが、翌日になっても戻りませんでした。
 
(この時、モルジアナは16歳・ムハマドは12歳)
 
モルジアナは胸騒ぎがしました。涙がたくさん出てくるのはなぜだろうと思いました。
 
モルジアナは自分の手が血だらけになっている夢を見て、何度も夜中に目がさめました。
 

カシムが3日も戻らないので、ダニヤが狼狽します。
 
「どうしよう?何かあったのかしら?」
とモルジアナに相談します。
 
「御主人様は何の用事で出掛けられたのですか?」
とモルジアナが訊きますと、ダニヤはこのような話をしました。
 
一週間ほど前、アリの妻・ザハラがダニヤの所に枡(ます)を借りに来ました。貧乏なアリ家でいったい何を枡で計るのだろうと訝ったダニヤは枡の底に蜜蝋(*13)を塗っておきました。やがて帰って来た枡を見ると、底に貼り付いていたのは、麦でも豆でもなく、金貨でした。
 
(*13) 蜜蝋(みつろう bees-wax)とは、ミツバチ(honey bee)の巣を精製して得られるワックスの一種である。化粧品のクリームの主成分。また古くより、接着剤・手紙の封蝋、またろうけつ染めなどに使われてきた。また料理ではバターと同様の調味料として使用された。古くは蝋燭(ろうそく)の原料にも使われた(物凄く高価な蝋燭になる)。
 
ダニヤは接着剤として使用したのである。
 

ダニヤは仰天してこのことをカシムに言いました。するとカシムはアリの所に出掛けていき、やがて物凄い笑顔で戻って来ると
「とんでもない宝の山を見つけた」
と言いました。
 
「あんた悪いことはしないでよ」
と心配して言ったのですが
「悪いことではないから心配するな」
とダニヤに言いました。
 
そして丈夫なラバ(*14)を10頭も買い求めると、それを連れてどこかに出掛けたのだと言います。
 
(*14)オスのロバ(donkey)と、メスの馬(horse)の一代雑種をラバ(mule)と言う。ロバより身体が大きく、粗食に耐え、足腰が強い上に育てやすいので、中東世界では荷運びに重用された。基本的に繁殖力は無い(ごく希に子をなすこともある)。逆にオスの馬とメスのロバの子供はケッテイ(hinny)というが、ラバほど育てやすくもなく、体格的にも劣る(恐らく母親の子宮サイズの問題)こともあり、あまり育てられない。
 

「やはり御主人様は、何か危ない橋を渡られたのでは」
とモルジアナは言います。
 
「そんな気がする。ああ、どうしよう?あの人の身に何かあったら」
とダニヤ。
 
「アリ様に訊けば、御主人様の行った先が分からないでしょうか」
「そうだね!」
 
それでモルジアナは男奴隷のアブドゥラーをアリの所に使いに出しました。アリが青くなって飛んできました。
 
「兄貴には分け前はいくらでもやるから、俺が行くと言ったんだけど、兄貴は自分自身で行くと言って聞かなくて」
と言っています。
 
「アリ様、いったい何があったのか、お教え頂けませんか?」
とモルジアナは言いました。
 

アリの話は驚くべきものでした。
 
一週間ほど前、いつものように山で木を切り、薪を採っていたら、砂煙をあげて、馬に乗った一団がやってきました。それでロバを森の中に隠し、自身は木の上に登って様子を見ます。彼らは、隊商を襲ってまんまと積み荷をぶんどってきたことを興奮気味に話しており、盗賊の一味かと理解しました。盗賊達は、俺は何人殺した。俺は何人殺した、とどうも殺した人数を自慢し合っている様子で、アリはこんな奴らに見つかったら大変だと震え上がりました。
 
その内、盗賊どもの頭(かしら)と思われる男が岩山の前に立ち叫びます。
 
「ゴマよ、お前を開(ひら)け」(*15)
 
すると、岩山の一部がまるで戸のように開き、盗賊は盗品を手に中に入っていきました。そしてやがてまた全員出て来ます。アリは入っていくのを見ながら人数を数え、また出てくる時も数えてみましたが、頭(かしら)のほかに盗賊は40人も居ました(*17).
 
(*15)この呪文は、アントワーヌ・ガラン(Antoine Galland)の『千一夜』 (Les Mille et une nuits) に収録された"Ali Baba et les Quarante Voleurs"の中で"Sesame, ouvre-toi"(胡麻よ、汝を開け:ごまよ、なんじをひらけ)という形で出たのが初出である。
 
「アラディンと魔法のランプ」でも述べたが、アラディンの物語とアリババの物語は、対応するような“アラビア語の原典が見当たらず”、おそらくはガランに親しい人物が(フランス語で)、アラビアン・ナイト風に創作した作品であろうと考えられている。
 
シンドバッドも元々は千一夜物語には無かった作品だが、これは中東起源である。ただ、ガランは最初シンドバッドをフランス語に翻訳していて、中東の知人から「それはもっと大きな物語の一部にすぎない」と言われ、千一夜物語を知ることになった。
 
この呪文 "Sesame, ouvre-toi" は英語に直訳すると Sesame, Open thee(*16) となるが、一般には Open, sesame という形で記載されることが多い。日本でも「開け胡麻(ひらけ・ごま)」と記載されることが多い。
 
(*16)「ロミオとジュリエット」でも述べたが、thou は英語の二人称単数代名詞。主格は thou 所有格は thy (母音の前ではthine) 目的格は thee .だいたい17世紀頃以降は日常会話では使われなくなり、youに置き換えられた。基本的には古い言葉であり、日本語訳ではしばしば「汝(なんじ)」とか「そなた」と訳される。
 

(*17) 盗賊の数が頭(かしら)を入れて40人なのか、頭以外に40人なのかは文献によってまちまちだが、ここでは比較的信頼度の高い東洋文庫版に従い、頭以外に40人、つまり頭まで入れると41人という解釈にした。
 
舞台では40人も登場させるのが大変なので、しばしば forty thieves が forteen thieves, あるいは極端な場合 four thieves になっていたりする。
 
盗賊はフランス語の原典では voleurs だが、英語版では thieves あるいは robbersとなっている。
 
私が高校時代に英語劇でアリババを演じた時は Ali Baba and fourteen robbers.にしていた。英語部員が8人くらいしか居なかったので、友人を掻き集めて14人揃えた。モルジアナに殺されるシーンでは台本は無視して1人1人個性的な死に方をしてくれて会場は爆笑の渦となった。なお、私はカシムの妻の役を演じた。
 

アリは盗賊たちが去った後、おそるおそる岩の前まで行きました。そして自分でも唱えてみたのです。
 
「ゴマよ、お前を開け」
 
するとどうでしょう!
 
目の前の岩がまるで扉を開けるかのように開いたのです。
 
アリは盗賊の誰かが留守番などしてないかと思いながらも、おそるおそる中に入って見ました。上質の油が燃えた臭いがします。入口から射し込む光で、ランプがあるのが分かりましたので、アリは火打石で点火しました。
 
洞窟の中が明るくなります。
 
そこにあったものを見て、アリは驚きのあまり、しばらく動けませんでした。
 
岩戸が勝手に閉まりますが(*18)、それにも気付かず、アリはそこにあったものに見とれていました。
 
大量の金・銀・宝石の入った壺、絹織物や陶磁器・漆器などが所狭しと置かれています。布でふたがされ、紐できつく縛った壺や、小箱なども多数置かれていて、各々に何やら字が書いてありますが、あまりまじめに勉強していなかったアリにはその文字が読めませんでした。そもそもアラビア文字ではないものもあります。
 
(*18)アリババの物語の中には「開け胡麻」で岩戸を開け、「閉じよ胡麻」で閉じるという本と、「開け胡麻」で開けるが、しばらくすると岩戸は勝手に閉まるという本とがある。
 
東洋文庫版では岩戸は勝手に閉まることになっているので、今回の翻案でもその方式に従った。
 
それに「閉じよ胡麻」で閉じるのであれば、カシムがわざわざ岩戸を閉じた理由がよく分からない。
 
(高校時代にやった英語劇では、その場に出てない部員が岩戸の陰で手動!で開け閉めした)
 

アリは考えました。
 
これは盗賊たちが他人から奪ったものだ。それを取っても罪にはならないだろう。それにこんなに大量にあるのだから、少しくらい取っても盗賊たちはきっと気付かない。それでアリはできるだけ奥の方にある壺から、ひとつの壺からは2〜3枚ずつ金貨を取り、自分の持っている小物入れの中に詰めます。
 
これだけ詰めたらもう充分だろうと思ったところで洞窟を出ようとしますが、この時アリは岩戸が閉まっていることに気付きました。一瞬どうしよう?と思いましたが、たぶん内側からも同じ呪文で開くのではないかと思い
 
「ゴマよ、お前を開け」
と唱えました。
 
すると岩戸が開いたので、アリはランプを消して外に出ました。
 

そして金貨の入った小物入れはロバに積み、帰って来たのです。
 
アリが持ち帰った金貨を見て、妻のザハラは青ざめました。そして言いました。
 
「あんた、どこから盗んできたの?私が付いてってあげるから自首しよう。自首すれば、死罪だけは免れるかも知れないよ」
 
しかしアリが事情を話すと
 
「盗賊の物ならいいか」
と彼女もアリの行為を容認しました。盗賊が被害届を出すはずもありません!
 
容認するとザハラは急に余裕が出てきて
「金貨がどのくらいあるか計ってみようよ」
と言い出します。
 
そんなことしなくていいと言ったのですが、ザハラはダニヤの所に行って、枡を借りて来ました。それで金貨の量を量ってから、金貨は壺に移して地面の下に埋めました。
 

「私はアリの家で枡で計るようなものがあるって何だろう。大麦か小麦か豆、あるいは何かの種かと思ってさ。枡の底に蜜蝋を塗っておいたんだよ。それで枡が帰って来てからも見たら金貨がくっついているから私も仰天してさ」
とダニヤは言います。
 
「それで兄貴は金貨のことを知ったのか」
「それでアリの所に話を聞きに行ってくると言って出かけて行った。カシムはアリが盗みでもしたのではないかと思って、場合によっては自首を勧めると言っていた」
 

カシムに問い糾されたアリはこの金貨は盗賊たちの宝の隠し場所から取ってきたものだということを話しました。
 
アリは兄さんも必要なら自分がまた行って取ってくると言ったのですが、カシムは自分で取ってくるからその場所を教えろと言ってききません。
 
それでアリは仕方なく場所と岩戸を開く呪文を教えたのですが、彼に注意しました。
 
・取るのは少しに留めること。
 
・取ってくる時は盗賊たちに気付かれないように、あちこちから少しずつ取ること。
 
・できるだけ短時間で出ること。
 
・絶対に岩戸を開く呪文を忘れないこと。
 

「あの人はラバ10頭連れて行ったよ」
とダニヤが言うと
「最悪だ」
と言ってアリは頭を抱えました。
 
「ひょっとして御主人様は盗賊たちに見つかったのでは」
とモルジアーナは言いました。
 
「その可能性はある」
 
「アリ様。そこに私を案内して下さい」
とモルジアナは言いました。
 
「女は危険だ。誰か男の奴隷を」
とアリは言いました。さすがにダニヤの前では口に出来ませんが、女にはとても見せられないものを見ることになるかも知れないとアリは思ったのもあります。
 
しかし、ダニヤは言いました。
 
「モルジアナは剣技も得意ですし、多少の荷物なら持てます。いつも落ち着いていて物事に動じませんし、何よりも口が硬いです。他の奴隷を使ってこの話が漏れてはいけまん」
 
「分かった。だったらモルジアナ、一緒に来てくれ」
「はい」
 
 
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【男の娘モルジアナ】(1)