【娘たちのフィータス】(1)

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卵子(ovum)と精子(sperm)が受精してから赤ちゃんとして生まれるまでは下記のように呼び名が変わる。
 
受精卵 zygote ザイゴート (受精〜着床)
胎芽 embryo エンブリオ (着床〜11週くらい)
胎児 fetus フィータス (12週くらい〜出産)
 
週の数え方は伝統に従って最後の月経を0週で数えるので受精が2週目である。胎芽の状態は単に細胞が分裂を続けているだけだが、胎児の段階では生命としての活動が開始される。昔からこの時期を「魂が入る時期」と言ってきた。
 
阿倍子の胎内で育っている“京平の身体”は、2014年10月5日に人工授精しているので、2014年12月14日に12週目(4ヶ月目)に突入。胎芽から胎児の段階に進んだ。
 
貴司は妊娠維持能力が極めて貧弱な阿倍子に絶対安静を言い渡しており、家政婦を雇って家事・買物などを全て代行してもらっている。一応1月いっぱいは毎日、2月以降は安定してくると思われたので週2回お願いすることにしていた。
 

アクアは2014年12月12日、ローズ+リリーの那覇公演で“鈴割り役”をしてお披露目され、12月29日放送のテレビ番組『性転の伝説Special』でその名を全国に知られることとなる。翌12月30日のローズ+リリー東京公演にはアクアの姿を1目見ようとするファンが会場周辺に押し掛け凄い騒ぎになる。係員が「帰って下さい」と呼びかけても収まらないので、ケイがマイクを取って
 
「近日中にアクアのファンクラブも発足するし、3月にはCDも発売してライブも行う予定なので、そういったものを通して彼を応援して欲しい」
 
と呼びかけ、何とか群衆を解散させることができたが、万一の場合はライブ中止もありえる事態だった。
 
アクアはローズ+リリー公演のその後の9公演でも“鈴割り役”をしたが、これ以降の公演では、事前通知も行き届いていたこと、警備員も増やしたこともあり、東京公演のような騒ぎにはならずに済んだ。
 
しかし“少女と見紛う美少年”アクアはCD発売前、連続ドラマ登場前から、様々なテレビ局や、イベント主催者などからの引き合いが凄まじかった。スケジュール調整役をすることになった田所は、事務所全体の管理を取り敢えず沢村にやってもらい、この作業に専念する羽目になった。ドラマの仕事や遠隔地のイベント、平日の仕事は全て断り、バラエティやクイズ関係、近隣の土日のイベントに限って受けることにしたが、アクアのスケジュール表はあっという間に埋まってしまった。
 
この時点で、高崎ひろかは月原、品川ありさは沢村が担当していたのだが、沢村が全体のコントロールをすることになったので、ありさのマネージングは春風アルトに泣きついて臨時にマネージャーをしてもらうことにした(後に河合友里がありさ・葉月のサブ担当として雇われることになる)。他のタレントのお世話については、小野だけでは手が回らないので、秋風コスモスの姉・秋風メロディー(上野美由貴)を担ぎ出して、彼女にも面倒を見てもらうことにした。その他、日野ソナタ(霧島鮎子)も主としてタレントの営業に担ぎ出され、更に1年ほど前に引退して高認を取るためにフリースクールに通いながら日野ソナタの弟子にしてもらって作詞の勉強をしていた八重夏津美(海浜ひまわり)まで「あんたバイクの免許持ってたよね?」と言われて、雑用に徴用されていた。
 

この時期はとにかくアクアの処理で事務量がいきなりこれまでの100倍!くらいになり、スタッフはもとより、研修生もデータ入力、お使い、打合せの代理出席などに徴用されていた。
 
紅川社長は短期的な資金がショートする恐れを感じ、東郷誠一さんの口利きで都内の銀行から50億円の融資を受けたが(東郷さんが個人的に保証人の判子まで押してくれた:東郷先生の資産は1000億円を越える)、これは秋までにきれいに完済することができた。紅川は御礼に§§ホールディングの株を少しあげたいと言ったが、東郷先生は「僕はアクアのCDの作曲マージンで儲けさせてもらえそうだから要らない」と言って辞退した。実際この後、東郷先生はアクアの“プロデュース料”名目で、毎年2〜3億円の利益を得ることになる。
 
2015.01 アクアデビュー
2015.04 コスモスが社長に就任
2016.01 §§プロと§§ミュージックに会社分割
2018.09 冬子が§§ホールディングの株式を継承
2018.12 桜野みちる引退。§§プロ閉鎖。
 

龍虎(アクア)は1月1日はローズ+リリー札幌公演に出演し、寝台特急で東京に戻った後、2日午前中は、品川ありさ・高崎ひろか・松梨詩恩、それにコスモス・ゆりこと一緒に初詣に行った。この時、ありさ・ひろか・詩恩が小振袖を着ているのを見て、つい「振袖いいなあ」と思った。龍虎はボーイズスーツである。
 
そのあと2日深夜はワンティスのメンバーと一緒に龍虎の両親の慰霊の旅をしてきて、その後東京に戻って3日の日中はドラマの撮影、夕方から名古屋に移動してローズ+リリー名古屋公演に出演。4日は大阪、5日は福岡と移動する。これにはコスモスが付き添ってくれた。ローズ+リリーの公演は後9-12日の連続4日間というのが残っているが、コスモスは自身のライブ(ほぼトークショー)やバラエティ番組の撮影が入っており付き添えないので、たぶん田所さんが付き添うことになるだろうと言われた。
 
龍虎は6日に東京に戻ってきたが、この日の夜は彩佳の所に夜遅くまで居て、彩佳のおかげで“行方不明になっていた”ちんちんが見つかり、龍虎は約1ヶ月ぶりに男の子の身体に戻った。
 
●龍虎の男性器の行方(?)
 
2014.10.18 《こうちゃん》が龍虎の男性器を治療すると言って取り外し仮の男性器をセット。
2014.11.30 唐突に仮の男性器が消失し、性器の無い状態に。
2014.12.05 性別検査を受けてと言われて病院に行ったら女の子に改造されてしまう。
2015.01.06 彩佳の“おまじない”で(仮の)男性器が復活。
 

1月7日は午前中は雑誌の取材を受け、午後はテレビ局に入って、クイズ番組にゲスト出演した。その後、FM東京に行き、同局をキー局とする全国の民放FMをネットして放送している深夜番組"Times of JK"の1コーナーで、中学生のタレントが担当する"Times of JC"の金曜日枠をやってくれないかと言われた。金曜日を担当していた丸口美紅が高校に進学して Times of JK 本体の方に昇格するので、中学生の金曜日枠が空くのだということだった。
 
(この話は実は丸口美紅が所属するζζプロに今、トークが上手い女子中生のタレントがおらず、ケイが観世社長から訊かれてアクアを推薦したという経緯があったのだが、そのことはアクアもゆりこも知らない−紅川さんとコスモスには話が通してあり、アクアが中学卒業後はその時点でζζプロの中学生タレント優先で次の人選がされるはず)
 
この日はずっと川崎ゆりこが付き添ってくれていたのだが、ゆりこは
 
「それってネタ探し・脚本も含めてこちらで作るんですか?」
と尋ねた。
「そこまでお願いしたいです。こちらはリサーチャーとか構成作家とか付ける予算が無いので」
 
「できるかな?」
とゆりこがアクアの顔を見て訊くとアクアは笑顔で言った。
 
「ラジオ番組のナビゲーターって一度やってみたかったんです。**さんとか**さんとか大好きです。ぜひやらせてください」
 
それでアクアの4月からの Times of JC 出演が決まった。
 
ちなみにアクアは Times of JC の"JC"が“女子中学生”の略だとは夢にも思わなかった!
 

この日、アクアが熊谷市の自宅に戻ったのは19時頃である。
 
遅くなったなあ・・・とアクアは思ったのだが、数ヶ月後には19時で帰れる日があったら「今日は早く帰れたなあ」と思うようになる!
 
「龍、お帰り」
「あ、川南さん!」
 
両親はまだ帰ってなかったのだが、佐々木川南が来ていた。
 
「お母さんたち居ないみたいだったから、適当にカレー作っておいたよ」
「ありがとう!お腹空いた」
 
それで川南と一緒にカレーを食べた。
 
「龍、体重制限とかは契約書に無いよね?」
「最初はあったけど、上島のおじさんが削除させたから制限無し」
「おお、さすがさすが」
「もっとも書かれていた制限はBMIが30を越えないようにすること、という条項だったんだけどね」
「それは龍の場合、全くあり得ない。今16くらい?」
「14.5くらい。アルトお姉さんからデビュー前に最低16に乗せなさいと言われた」
「16だとどのくらい体重増やさないといけない?」
「3-4kg増やさないといけない」
 
「よしカレーお代わりしなさい」
「今お腹いっぱい!後でまた食べるよ」
 

「そうだ。今日はこれを持って来たんだよ」
と言って川南はバッグを開けて中から和服を取りだした。龍虎は一瞬凄く嬉しい顔をしてしまった。
 
「可愛い!もしかして振袖?」
「小振袖だけどね。着てみたいだろ?」
 
「えっと・・・・」
と龍虎は躊躇する。
 
「ほら、素直に『着たい』と言え」
と川南が煽る。
 
「1月2日に事務所の同期の子たちと一緒に明治神宮に初詣に行ったんだけどさ、みんな小振袖だったんだよね〜。ボクだけボーイズスーツで」
 
「それで、龍も振袖着たいと思ったんだ?」
「そういう訳じゃないけど」
 
「じゃちょっと着てみるか?」
「そうだなあ、せっかく持って来てもらったし、着てみるくらいはいいかな」
 
「全く素直じゃないんだから。よし、振袖を着て、今からもう一度明治神宮まで初詣に行こう」
「初詣って最初に行ったのが初詣じゃないの?」
「気持ちが新鮮なら何度でも初詣さ」
「そんなものかなあ」
「気持ちが新鮮なら何度セックスしても初体験だ」
「それ絶対違うと思う」
 
そんな話をしてから、龍虎は言った。
 
「でもこれから明治神宮往復はきつくない?」
「そっか。じゃ近くの白髪神社に」
「それどこ?」
「知らんのか?芸能の神様・天宇受売(あめのうずめ)神を祭る神社だぞ」
「へー!」
 
それでともかくも龍虎はまず小振袖を着付けしてもらった。
 
龍虎が凄く嬉しそうな顔をしているので、川南も楽しくなってくる。着付けは20分くらい掛かり
「この服大変なんだね!」
と龍虎は言った。
「おしっこの近い子には辛い服だ」
「ほんとに!」
 
まだ両親が帰宅しないので、龍虎は「川南さんといっしょに神社にお参りに行って来ます」と母の携帯にショートメールを送り、川南の車に乗って熊谷市妻沼字女体にある白髪神社に向かった。
 
「あれ?車変えたの?」
「そそ。まあ6年乗ったらいいかなと思って。ちょうど車検だったし、少し広いのに乗り換えた」
 
ということで川南の新しい車はウィングロードである。
 
「荷室の広いのが欲しかったのよね〜」
と川南は言っていた。
 

「この神社の住所凄いね」
と龍虎が言う。
 
「“熊谷市妻沼字女体”というのは凄いよね。元々利根川を挟んで男沼・女沼というのがあったらしい。その女沼のあった付近にこの神社は立っている」
 
「ああ、それで妻沼で女体なのね」
「龍も女体になりたい?」
「それは嫌」
 
「うん。龍は女の子の服を着るのも、女の子みたいと言われるのも好きだけど、女の子になりたい訳ではない」
 
「そのあたり理解してくれるのって、川南さんとか、千里さんとか、夏恋さんとかなんだよね〜」
「まあ長い付き合いだしね」
 
まあ、一時的に女体になったりするのは、悪くないけどね、などと龍虎は思っていた。おしっこが身体からまっすぐ落下していく感覚って気持ちいいし。
 
「だいたい龍はスカート穿いてても、こうやって振袖とか着てても女装している訳ではないんだな。こういう服着て興奮したりしないだろ?」
「興奮って?」
「うーん。。。まあ普通の服の一部だよな?」
「うん。ボクはスカート穿くのに何も抵抗ないよ」
「実際ズボン穿いている時間よりスカート穿いている時間のほうが長いのでは?」
「家の中にいる時はそうかも」
 
「だから女の子が女装できないのと同じ意味で、龍には女装ができない」
「あ、それは彩佳からも言われた」
 
「まあ私がたくさん女物の服を着せて教育してきたおかげかも知れんが」
「それは川南さんが主犯だという気がするよ」
 

神社は田んぼの中にポツンと小さな森があり、そこにあった。小さな神社である。御祭神は天鈿女命(あめのうずめのみこと)・猿田彦命(さるたひこのみこと)・倉稻魂命(うかのみたまのみこと:お稲荷様)・須佐男之命(すさのおのみこと)である。鳥居の左右に「高岡稲荷神社」・「式内白髪神社」と書かれている。両者が合祀されたものなのか、あるいは稲荷神社の場所に式内社の白髪神社(現・大我井神社?)の分霊?が勧請されたものなのだろう。大日本史には、白髪神社は、大我井森から妻沼村に遷ってきたと書かれている。
 
なお、アメノウズメ・サルタヒコは夫婦神で、しばしば“塞の神”として祭られる。
 
アメノウズメは天岩戸(あまのいわと)の前で踊って、天照大神(あまてらすおおみかみ)を岩戸の中から呼び戻した神なので、神楽の元祖、踊りの元祖とみなされ、それで芸能関係者・民謡関係者などの崇敬が篤い。
 
川南はお賽銭箱に1万円札を入れた。
 
「そんなに入れるの!?」
「龍が俳優・歌手として売れますようにとお願い」
 
「じゃボクも1万円入れる」
と言って、龍虎も同額を入れた。
 
「明日神職さんびっくりするかも」
「ふふふ」
 
それで2人で2拝2拍1拝でお参りして、龍虎の芸能人としての成功を祈った。
 
帰りの車の中で川南は言った。
 
「龍虎、小振袖好きなら、自分で着れるようになりたいだろ?」
「うん。着られたらいいなと思う」
 
「だったら、しばらくできるだけ毎週熊谷か、あるいは仕事の都合次第では東京近辺で着方を教えてあげるよ」
 
「わあ、それお願い」
「よしよし」
 
「ところで龍、アクアのファンクラブ会員番号の1番を私にもらえないよね?」
「それ希望者がたくさんいるんだよ!一応社長に言っておくけど」
 

翌日、1月8日(木).
 
熊谷市内の中学では3学期の始業式が行われた。龍虎は“ごく普通に”学生服を着て学校に出かけて行った。それで教室に入って行くと、クラスメイトたちが龍虎の傍に寄ってくる。
 
「テレビ見たよ」
「すっごい可愛くなってた」
 
「あれ恥ずかしい」
と龍虎はマジで答える。
 
「でもどうして今日は学生服着てるの?」
「どうしてって、いつもボク学生服着てるじゃん」
 
「だって、古屋さんが、龍ちゃんの自宅から男物の服は全部撤去するから、3学期からはセーラー服を着て学校に通うって言ってたじゃん」
 
「嘘!?あれ放送されたの?」
「本番では放送されなかったけど、後から舞台裏とか映した増補版で放送されたよ」
「撮影されてたなんて知らなかった!」
 
「だからてっきり今日から龍ちゃんは、セーラー服で出てくるものと思ってたのに」
 
「そもそもボク、セーラー服なんて持ってないし」
「ああ、セーラー服ができるまでは学生服着るの?」
 
などと言われて龍虎が困っていたら、近くには寄らずに自分の席に座ったままで居た彩佳がひとこと言った。
 
「男物の服を撤去するも何も、そもそも龍は男物の服なんて持ってないじゃん」
 
「ああ、そんな気がする!」
 

1月9日(金).
 
短大卒業を目前にした鱒渕水帆は年内に§§プロの内定をもらっていたのだが、この日は保証書に親と伯母の印鑑をもらって、信濃町の事務所に出てきた。
 
「おはようございます」
と言って、事務所の中に入ると、何だか騒然としているので、今日は誰かのライブとかあるのかな?と思った。
 
「いらっしゃいませ、アポイントは頂いていましたでしょうか?」
と“沢村”という名前が入った社員証を首から提げた23-24歳くらいかな?という感じの女性が寄ってくる。何だか疲れたような顔をしている。ひょっとして徹夜作業していたのかな?と思った。
 
「済みません。私、先月内定を頂いた鱒渕と申しますが、保証書に署名捺印をもらってきたので提出に来ました」
 
「ああ!あなた、うちに入るの?」
「はい」
 
「助かった!田所さんがダウンして今日の広島、誰に行ってもらおうと言っていた所なのよ。あなた、アクアちゃんに付き添いして広島まで行って来てくれない?」
 
「はい!」
「運転免許は持ってる?」
「ええ、一応」
「よかった、今回の出張では運転する場面は無いとは思うけど、免許持ってれば何かの時に安心」
と沢村は言っている。鱒渕は一応免許は取っているものの、あまり運転に自信が無いので焦った。レンタカーとか借りて少し練習しなきゃ!
 
「今仮払い渡すね」
と言って、沢村は金庫からお金の封筒を出して来た。札束が分厚いのでびっくりする。
 
「念のため100万入れておいたけど、さすがにこんなには使わないと思う。でも今日広島で、明日は仙台、次の日が千葉、12日が横浜と4日連続だから念のため。ホテルはローズ+リリー側で取ってくれているはず。タクシー代とか食事代とかも全部領収書もらってね」
 
「分かりました!」
 
私着換えどうしよう?
 
「すぐ東京駅に移動して。アクアちゃんを熊谷駅13:01発の東京行きに乗せて、13:50の広島行き《のぞみ》に乗せないといけないから東京駅11:52のガーラ湯沢行き《たにがわ》に乗る必要があるのよ」
 
それあまり時間無いのでは!?
 
誰とかさんがダウンしてと言っていたから、本来行くはずだった人が行けない状況で時間もやばくなってきているのだろう。
 
「すぐ行きます!」
と言って、鱒渕は関係者の電話番号リストと仮払いに新幹線や航空券のセット、それにJCBのタクシーチケットを1冊受け取ると、事務所を飛び出して信濃町駅まで走った。今日はパンプスじゃなくてローファーにしといて良かったぁ!と思った。
 
信濃町11:15-11:17四ツ谷11:20-11:29東京11:52-12:31熊谷
 
それで鱒渕は4月からこの事務所に勤めるはずだったのが、この日からアクア担当として超多忙な仕事に投入されることになってしまったのである。
 
「ところでアクアとか言ったっけ?どんな子だろう?」
と思い、鱒渕は東京駅から上越新幹線で熊谷に向かう途中、自分のスマホで検索してみた。
 
「可愛い!」
と思わず声をあげる。
 
「可愛い女の子だなあ。こんな子の付き添いを4日間やるのは楽しそう」
と鱒渕は自分に与えられた仕事にワクワクしていた。
 

龍虎は1月8日は始業式だったので午前中だけで下校し、午後からは東京に出てバラエティ番組の撮影に臨んだ。台本とか無く、適当に答えてと言われたのだが、振られると、絶妙の答えをするので、この番組のMCであるベテランのお笑い芸人さんから、かなり気に入られたようであった。
 
「あんた雑学いっぱいあるね」
「おっぱいは小さいですけど」
「あんた、おっぱい大きくしたいの?」
「ギャラは大きくしたいです」
「それは事務所の社長と相談しぃ」
 

1月9日(金)、ローズ+リリーやKARION, XANFUSなどで構成している“08年組”の主催による、東日本大震災復興イベントの詳細が発表されたが、その前座として、ゴールデンシックス・フィーチャリング・アクアが入っているのを見て、アクアのファン(になってしまった人たち)が翌日1月10日の発売開始と同時に電話・ネットに殺到。僅か1時間半で4万枚のチケットが売り切れてしまった。
 
買うのにプレイガイドに行列していた人たちの中には「売り切れました」という案内に「朝6時から並んでいたのに」などと騒ぎ出す人もあり、店舗側が客を落ち着かせるのに苦労するケースもあったらしい。
 
主催者では当初は売る予定の無かった追加席3万枚を来週17日に発売することにしたことを発表した。なお今回プレイガイドで騒動が起きたことから、17日の追加販売は、電話・ネットのみでの販売とした。
 
元々は、早朝から会場に入る人が出ることが予想されたので、その人たちのために、メインスピーカーは停めたまま客席に分散している小型スピーカーからBGM的に、聞いても聞かなくてもいいような音楽を流しましょうとゴールデンシックスが申し出て演奏してくれることになっていた。そのついでにアクアを“営業”でゲスト出演させましょうか、という趣旨だったのだが、結果的に今年の震災復興支援イベントでは、アクア以外の出演アーティストのファンたちは、各々のファンクラブで発売した枠で確保した人以外はほとんどチケットが買えなかったのである。
 
それで翌2016年からはアクアのイベントは“分離”されることになる。
 

龍虎は、1月9日(金)は午後から広島に移動してローズ+リリー公演の“鈴割り”をすることになっていたので、午前中の授業だけで早退させてもらうことにしていた。ちなみにこの日の4時間目は体育だった。
 
準備運動をしてから柔軟体操をするのだが、触った感触が女の子の龍虎とは小学5年生頃以降、男子は誰も組みたがらなくなっていた。それでいつも先生と組むか、あるいは女子の誰かと組んでいる。この日は彩佳と組んだので、龍虎も気兼ねなかった。
 
サッカーをしたのだが、男子対女子になり、龍虎は「人数が男子が多いから女子の方に入って」と言われる。これもいつものことなので気にしない。
 
それで授業が終わって、3組の教室に戻って(この中学では体育の時、男子は奇数組、女子は偶数組の教室で着換える)制服に着替えようと思ったら、自分の男子制服が見当たらない。
 
「あれ〜。ここに置いたと思ってたのに」
 
「田代さん、どうしたの?」
と藤島君が訊く。
 
実は他の男子が“龍虎の着換えを見ないように”龍虎は、教室の後ろにあるサブ黒板のかげでいつも着換えることになっている。それがそちらに行かず、何か探しているようなので、藤島君が声を掛けたのである。
 
「制服が見当たらなくて」
「え?どうしたんだろう?」
 
その時、西山君が言った。
 
「さっきから気になっていたんだけど、そこの椅子に掛けてあるセーラー服って、田代さんのじゃないよね?」
 
「え!?」
 
西山君がセーラー服の内側のネームを確認している。
 
「あ、これ鉄田さんのセーラー服だ」
「鉄田さんのセーラー服は確か南川(彩佳)さんがもらってたよね」
「それで、田代さんが時々それを着ていた」
 
あれは着てたというか着せられていたというか・・・。ちなみに鉄田さんは、小学6年生の12月に転校してしまったので、ここの中学のセーラー服を作っていたのが使えなくなり、それを彩佳が譲ってもらったのである。そしてこれまで何度もその彼女のセーラー服を、龍虎は着せられている。
 
「要するに、田代さん、そのセーラー服を着ればいいのでは?」
 
結局彩佳のしわざか!
 
「田代さんがセーラー服を着ていても、誰も変には思わないよ」
と伊東君。
 
それが困るんだけどなあ、と思う。でも龍虎はこのあとすぐに熊谷駅に移動しなければならなかった。彩佳を追及している時間が無い。彩佳は女子の着換え部屋に行っているから、そちらに入って行く訳にもいかないし(実際は龍虎が女子の着換え部屋に来ても誰も何とも思わない)、捕捉するのに時間が掛かる。いや、きっとすぐには捉まらないようにする気がする。
 
そう考えた龍虎は言った。
 
「時間無いし、取り敢えずこれ着ようかな」
 
「いいと思うよ」
と多数の男子から声がある。
 
それでそのセーラー服と下着の替えを持っていつものサブ黒板のかげに行き、汗を掻いた下着を交換、セーラー服の上下を身に付けた。リボンが上手く結べなかったのだが、黒板のかげから出て行くと、西山君が
 
「田代さん、そのリボン変」
と言って、直してくれた。
 
西山君はなんで女子制服のリボンが結べるんだ!?
 
「ありがとう。じゃ、ボクもう行くね」
「お仕事頑張ってね」
 
それで龍虎は学生鞄は教室に放置(彩佳が持ち帰ってくれるはず)し、旅の用意をしていたバッグを持って生徒玄関まで行くと、靴を履き替えて職員玄関の所まで走り寄った。予め手配してもらっていたタクシーがいるので飛び乗り、熊谷駅に向かってもらった。
 

鱒渕は“アクアは水色のタクシーに乗って駅に向かっている”という連絡を受け、熊谷駅前のロータリーで待っていると、やがて水色のタクシーが停まり、セーラー服の少女が降りてくるので駆け寄る。
 
「アクアさん?私§§ミュージックに今度入社した鱒渕と申します」
「アクアです。マスブチさん?よろしくお願いします」
 
それで2人は階段を登って駅構内に入ると、改札を通って新幹線ホームに行く。それで無事13:01の東京行きに乗ることができた。
 
座席に座るとアクアは言った。
「すみません。疲れているので、寝てていいですか?」
「うん、寝てて、寝てて」
 
それでアクアは東京駅に着く直前まで寝ていた。でも東京駅に着く3分くらい前に、鱒渕が起こさなくてもひとりで起きたので凄いと思う。東京駅には小野さんが来ていて、鱒渕に写真入り社員証と、さっき渡し忘れたと言ってローズ+リリーのバックステージ・パスを渡してくれた。それでアクアと2人で東海道新幹線に乗り込む。この新幹線の中でもアクアは広島に着く直前までひたすら寝ていた。
 
鱒渕はアクアのプロフィールとかも全然知らないので、長時間何の会話をしていこうと?と悩んでいたので、アクアが寝ていてくれて正直助かった。しかしその寝顔を見ていて、こんな可愛い美少女アイドルなら、きっとお仕事も忙しいんだろうなぁと同情した。
 
熊谷13:01-13:40東京13:50-17:56広島
 

広島駅で降りて指示に従い広島レッドアリーナまでタクシーで行く。楽屋口から入り、中の人たちに挨拶するが、みんな優しくしてくれて鱒渕はホッとした。
 
「あなたが、アクアちゃんの担当になったの?」
と凄く頭が良さそうな感じの女性から訊かれる(あとで★★レコードの氷川さんという人だと判明)。
 
「まだよく分からないのですが、12日までお供させて頂きます」
「鱒渕さん、今日うちに入社したらしいです」
とアクアが補足する。
 
「それでいきなり初仕事初出張なんだ!」
「頑張ってね」
「はい、ありがとうございます」
 

アクアの出番は『雪を割る鈴』という曲の途中で、剣を振って、鈴を割る役ということだった。出番はその1つだけ、ほんの数分というのに東京からわざわざ行くなんて大変だなと思ったのだが、アクアがステージに出て行くと観客の歓声が凄まじいので「この子、こんなに人気なのか!」と驚いた。
 
こんなに人気のある女の子なら、わざわざこのたったひとつの出番のために、ローズ+リリーに付いてまわる価値もあるのかも知れないなあと鱒渕は思った。
 

その日は広島市内のホテルに泊まったが、一流のホテルなので、すごーいと思った。アクア本人はプレミアツインのシングルユース、鱒渕は同じ階のプレミアシングルを取ってもらっていた。ホテル代はローズ+リリー側が払ってくれるようである。しかし鱒渕は
 
「このシングル、普通のビジネスホテルのツインの、倍の広さがある気がする」
 
と思った。
 
ローズ+リリーは今人気絶頂だから、予算が潤沢なんだろうなぁ。
 
各部屋に入ってから、東京の沢村と電話で話して今日の報告をした上で、アクアの携帯にメッセージを送ってみるが反応が無い。念のため預かっている合い鍵で彼女の部屋に入ってみたが、アクアはすやすやと眠っていた。
 
ほんとによく寝る子だ!
 
でもこの子、寝顔まで可愛い!
 
でもハードスケジュールで動いているんだろうな。寝てる時は寝かせてあげようと思って、そのまま部屋を出る。一度ホテルを出て近くのコンビニで着替えの下着を確保してきてから、鱒渕もシャワーを浴びてベッドでぐっすり寝た。
 
翌朝、アクアは《不思議の国アリス》のトレーナーとウールのロングスカートを穿いていた(男物の服を持って来ていたはずなのに消失していた)。一緒に朝御飯を食べていて、初めてアクアがまだデビュー前であることを知った。
 
「デビュー前から凄い人気だね」
「そうなんですよね。ボクも戸惑ってます」
などと言っている。
 
“ボク”なんて自称を使うんだ? でも元気な子みたいだから、それも似合うかもね、と鱒渕は思った。
 
なお、鱒渕が急に出張を言われて着換えを持っていないので、もし出発まで時間があったら買いに行って来たいと言ったら、ローズ+リリーの付き人?の甲斐さんという人が、ホテルのフロントに衣料品店の場所を訊いてくれて、それで鱒渕はしまむらまで行って、無事着換えを確保することができた。この時、鱒渕はアクアから、1万円札を2枚渡され、彼女のサイズのズボンを3〜4本買ってきてと頼まれた。
 
「ああ、ホテルで休む時はズボンもいいよね」
「Wは26インチあるいは56センチでいいですから」
「了解」
 
それで鱒渕は、女子中学生らしい、可愛いパンツを4本買って帰った。
 

2015年1月15日(木)。
 
日本バスケット協会は昨年10月末と指定された期限までに、改革の案さえも提出できず、FIBA(国際バスケット連盟)から11月26日付けで資格停止処分をくらったのだが、その改革のためFIBAは12月16日、事務総長のパトリック・バウマンを直々に日本に派遣。バウマンはバスケット協会の幹部や文部科学省の幹部など多数の関係者と対談、再建のための作業部会(タスクフォース)を作る方針を固める。
 
そのトップとなるべき、バスケット界とのしがらみは無く、かつプロスポーツに深い理解があり、そしてカリスマ性のある人物として、この時期までに既にある人物が推されていたのだが、その手足となり、実務的な作業を進めるNo.2として、文部科学省は弁護士の境田正樹(51)を推薦。この1月15日、彼の就任が決まった。彼は2011年のスポーツ基本法の制定作業にも関わっていた。
 
日本バスケット界がこのあと土壇場で再生するのは彼のバイタリティあふれる交渉能力のお陰である。
 
現時点では、日本は資格停止になっているため、国際大会に出場することができず、また海外遠征・海外合宿や外国のチームを迎えての友好試合などもすることができない。
 
しかし来年のリオデジャネイロ五輪に出場するための女子アジア選手権は8月29日に迫っていた。それまでに日本の資格停止が解除されない場合、自動的に日本はリオデジャネイロ五輪に出場できないことになる。
 
また7月4日にはユニバーシアード、7月18日にはU19女子世界選手権(ロシア)も行われ、日本はどちらの大会にも出場権を持っていたが、資格停止が解除されないと、これらの大会にも出ることができない。
 
FIBAから求められていることはこれらのことである。
 
(1)分裂状態にある男子トップリーグの再統合。
(2)日本バスケット協会あるいはそれに代わる組織のガバナンスの確立。
(3)先進国とは思えないほど弱すぎる日本男子代表の強化。
(4)インターハイとユースの国際大会の日程がぶつかり有力選手が国際大会に出場しない問題の解決。
 
特に(1),(2)は4月末までに解決できないと(オリンピック予選となる)アジア選手権への出場は認められない情勢であった。
 
タイムリミットは極めて短かった。
 

千里は就職のための保証書に署名捺印をもらうためお正月に北海道まで往復した後、1月6日に新幹線+はくたかの乗り継ぎで高岡まで行き、夕方、桃香の実家に入った。実はこの日はアクアの制作会議が入っていたのだが、疲れていたので、そちらは《きーちゃん》に代わってもらい、新幹線とはくたかの中でぐっすり眠っていた。
 
千里は18日まで高岡に滞在したのだが、10-11日(土日)には青葉・桃香と一緒に“ドッペルゲンガー少女”左倉ハルと“飼い猫?”のアキを連れて秋田まで、ボールペンの修理に往復して来ている。ハルとアキは青葉のクライアントで、一家に掛かっていた呪いを青葉が解いたのだが、一方でハルはここ数ヶ月、千里がしばしばバスケットの指導をしていたので、お互い思わぬ関わりがあったことに驚いた。
 
なお千里はスペイン時間で10日夕方(18:00-20:00頃)試合が入っていた。これは日本時間では1/11 2:00-4:00に相当し、この時間帯は秋田市から富山に戻る途中で、青葉も寝ていたので、代理で《わっちゃん》が運転していることには気付かれずに済んだ。
 
試合は17日の夕方にもあったが、これも日本時間では深夜なので問題無かった。
 

千里は18日に桃香と一緒にミラを運転して東京に戻った。到着したのは19日の朝だが、実際には夜間運転していたのは《こうちゃん》で、千里本人は車内でぐっすり眠っていった。
 
千葉市内のアパートまで戻ると、桃香は寝たりないようで、まだ寝ている様子なので、千里は桃香を放置してインプレッサで出かける。土浦市(東京と水戸の中点付近にある)まで行き、ユニバーシアード代表の件で篠原監督と会って、別途呼んでいたらしい前田彰恵と少し手合わせした。(彰恵が通っているTS大は土浦市のすぐ近くのつくば市にある)
 
「千里、強すぎる。全くかなわない!」
と彰恵は音を上げた。
 
「ね、ね、引退していたって嘘でしょ?」
 
「じゃ彰恵には見せてあげるよ。これ玲央美くらいしか知らないんだけどね」
と言って、スペインのレオパルダの選手証を見せる。
 
「うっそー!?いつの間に?」
 
「私、日本バスケ協会から強化選手として派遣されて、ここに来たんだけど、バスケ協会がドタバタしていて、スタッフもすっかり入れ替わって、私をスペインに派遣したことを忘れてしまったみたいで」
 
「それ滞在費とか困るでしょ?」
「チームからのお給料で充分暮らせているから全く問題無い」
「すごーい」
 

篠原監督たちと別れてから、土浦市内のファミレスでお昼を食べていたら、向こうからある人物が近づいてくる。
 
千里は伝票を取って、さっと席を立った。しかし会計に行くまでに捕まる。
 
「こら逃げるな」
「雨宮先生、麗しゅうございます」
 
「白々しい。あんた、ちょっと男の娘妊娠計画について聞きなさい」
「先生、以前にも男の娘を妊娠させて子供を作ったのでは?」
「今幼稚園だよ(*1)。でも今度は別の男の娘を妊娠させたいのよ」
「たいへんですね〜」
 
結局、千里は自分の車は土浦市内の、雨宮先生の知り合いがやっている音楽教室の駐車場に駐めさせてもらったまま、雨宮先生の612スカリエッティを運転して東京に戻ることになる。実は先生はうっかり(?)お酒を飲んでしまったので、誰か運転できる人を探していたらしい。
 
そして結局銀座の高そうなスナックで雨宮先生の“男の娘妊娠計画第2段”について話を聞くはめになった。17時頃、雨宮先生が眠ってしまったので、先生のカードを勝手に使って代金(6万円も使っていた)を払った上で、先生本人は《くうちゃん》に頼んで、三宅先生(雨宮先生の夫)の自宅玄関に転送した。
 

(*1)この子は後の俳優・桜幸司(2009年8月生 **)で、母は桜クララである。桜クララは本名桜田安芸那。この2015年の時点ではまだ新田安芸那の芸名を名乗っていた。2009年に桜幸司を“出産”した直後、★★レコードから『男と女のあいだには』をリリースしたが、ほとんど売れなかった。昨年(2014年)ローズクォーツの『Rose Quarts Plays Sex Change』の企画に参加。でもお仕事は増えなかった。
 
2016年の“悪魔の歌”事件の後、旧知の玉梨乙子(たまなし・おとこ。本名=月見里折江:やまなし・おりえ)に呼ばれて金沢に移動し、サクラ・アキナと改名して、スートラのチーママ兼スートラバンドのボーカルに就任する。それで桜幸司は東京の小学校に入学したものの、すぐに金沢の小学校に転校した。結果的に雨宮が金沢を訪れる頻度が増えることになる。
 
(**)本当に生まれたのは6月だが“従兄”の藤島行将と誕生日をずらすため、わざと2ヶ月遅れで出生届けを出した。
 

さて、雨宮先生を“送り届けた”後、千里が帰ろうかと思ったら★★レコードの加藤課長からメールが入っていることに気付く。それで銀座線で表参道まで移動し、★★レコードに寄る。するとアクアの件で話したいと言われ、会議室でコーヒーとケーキを頂きながら1時間ほど話した。その後、「ついでの時でいいので、この書類をケイさんに」と頼まれる。まだ完全に酔いが覚めていなかったので、酔い覚ましを兼ねて、恵比寿の冬子のマンションまで歩いて行く。
 
ところがエントランスまで来て冬子に電話して入れてもらおうとした時、青葉から電話が掛かってきた。
 
「ちー姉、今どこ?」
「プカプカ島だけど」
「それどこ〜?」
 
「まあ実際は恵比寿の冬子のマンション前に居る」
 
「できすぎだよ!実は冬子さんに誰かが呪いを掛けたんだよ。冬子さん、今夜夜通し車を運転して神戸まで行く予定だったんだけど、それだと冬子さんは車の事故で死ぬようになっているんだ」
 
「ああ、それはいけないね」
と千里は他人事のように言った。
 
「だけど神戸にはどうしても朝までに行かないといけないらしくて。だから、ちー姉、代わりに運転してくれない?」
と青葉。
 
「それなら、呪いを掛けた人物は相当のプロだね。私は5時頃まで雨宮先生と飲んでて、まだ酔いが覚めてない」
 
「うっそー!?」
 
「取り敢えず冬子の部屋に移動する」
 
それで冬子に電話して中に入れてもらった。
 

それで電話の向こうの青葉も含めて、千里・冬子と3人で話し合っていたのだが、政子が
 
「だったら私が運転するよ」
と言い出した。
 
それで不安はあったのだが、最初は政子が運転して出発し、千里の酔いが覚めた時点で千里に運転交替することにした。
 
この付近の詳細↓
http://femine.net/j.pl/memories9/37/_hr009
 
ところが政子は免許をとってまだ1ヶ月なので首都高で思う方向に分岐できず、東京ICではなく練馬ICに辿り着いてしまう。それで圏央道経由で東名に行こうと言っていたのだが、今度は海老名JCTまで行く前に八王子JCTで分岐してしまい、車は中央道を行くことになってしまった。
 
雪が降り出し、積雪する。速度は落とさせたのだが、車が何度か横滑りし、その度に政子は悲鳴をあげている。千里は運転交替したほうがいいなと判断。次のPAに入ってと言ったのだが、政子は進入しそこねる。
 
「じゃ次のSAで運転交替」
「うん」
 
2015/1/20 23:13.
 
『来るぞ。気をつけろ』
と《こうちゃん》が警告した。千里も強烈な呪いがこちらに飛んでくるのを感じた。あと30秒くらいで到達する。車の周囲に超強烈な結界を張る。これで(たぶん)この程度の呪いは跳ね返せるだろう。象みたいなのが2〜3頭飛んできたら分からないけど。強すぎたかも知れないけど大は小を兼ねるよね?
 
ところが千里たちが呪いを感知した数秒後、車が大きく“左”に横滑りした。政子は「きゃーっ」と悲鳴をあげてハンドルを思いっきり“右”に切った。
 
当然車はスピンする。
 
『くうちゃん!』
『任せろ』
 

《くうちゃん》が千里・政子・冬子の3人を車外の空中に連れ出してくれた。冬子は確か元体操選手だったよなと思い、そちらは多分自分で何とかするだろうと思って千里は政子の身体に手を伸ばすと引き寄せて抱くようにして着地した。
 
車は激しくスピンしてデリネーターを倒して道路外に飛び出したが、そこでなぜか2つに分身した!? 車が裁断されたのではなく、どちらも完全な形のカローラ・フィールダーである。
 
『何あれ?』
と訊くと、《くうちゃん》も
『分からん』
と言った。
 
片方のフィールダーはデリネーターを倒した時に横転し、そのまま天井を下にしてひっくり返り炎上してしまう。しかしもう一方のフィールダーは転倒せず回転しながら、地面にめりこむようにして停止した。
 
『どうも運動エネルギーの水平成分と垂直成分に別れたようだ』
と《くうちゃん》
『等しく分身したの?』
と千里は訊いた。
 
『中の荷物は全て水平成分の方に行った。分かった。炎上しているのはこの車の1週間後の姿だよ。あと5分で元の時間に戻る。時間が折りたたまれている』
 
『それって1週間後に走行中に炎上したりするわけ?』
『仕方ない。その時はまた中に乗っている人物を脱出させてやるよ』
『よろしく。冬子にはしばらく車に大事なもの載せないように言っておかなくちゃ』
 
《くうちゃん》は、その無事停止した方の車を、掛かったままの千里の結界をうまく利用して“光学迷彩”のように隠してしまった。結果的にひっくり返って炎上している車のほうだけ見えている。
 
《くうちゃん》が車を隠した次の瞬間、誰かが掛けた“呪い”が車に到達する。嘘だろ?何あれ?と千里は思う。ヒグマの倍くらいありそうな、巨大な黒い猛獣のようなものであった。さっきは結界強すぎたかな?と思ったけど、あの強さで良かったみたいだ。もっと弱かったら危なかった。
 
しかし、目標となる車が既に転倒して炎上しているので、“呪い”は目標を見失い、ロケット並みの凄いスピードで北東の方向に戻って行った。
 
『凄いスピードだ。第1宇宙速度並み。こうちゃんより速くない?』
などと千里が思ったら、《こうちゃん》がムッとしたように言う。
 
『俺は第3宇宙速度くらい出るぞ。あんな奴、結界なんか作らなくても俺が倒してやったのに』
 
それはそうだろうけど(いざという時は頼ろうと思ったけど)、その場合、さすがに《こうちゃん》自身も怪我無しという訳にはいかないだろうと思った。
 
飛んで行った方角的には、術者はどうも栃木か福島付近に居たようだなと思った。まあ、無事では済むまいが・・・と思っていたら、30秒ほどの後、彼らの末路が一瞬見えて、千里は厳しい顔をした。《こうちゃん》も感じ取ったようで、一瞬表情が変わった。
 

その時、着地後しゃがんでいた冬子が立ち上がり、こちらを見た。それで千里も表情を緩めて冬子に
「怪我してない?」
と尋ねた。
 
「うん。大丈夫そう」
と冬子は自分の身体を触りながら言った。
 
「無事着地できたみたいね。冬、たしか元体操選手だったよね?」
「体操は習ったけど、選手ではないよ」
「男の子を装ってたけど、レオタードになったらちんちん無いことがバレて、あんた女の子じゃんと言われて出場できなかったんだっけ?」
 
「何それ〜?」
 
「政子がそんなこと言ってた気がする」
「政子の妄想だと思う」
「そうなの?」
 
政子も冬子がキスをしたら意識回復した。
 
しかし2人とも炎上するフィールダーを呆然として見ている。
 
「車に何か大事なもの載ってなかった?」
と千里が訊くと譜面やパソコンがあったけど、パソコンのディスクの中身は毎日バックアップ取っているから1日分だけ頑張ればいいと思うと冬子は言った。
 
「あっ」
と冬子が声をあげる。
 
「何か?」
「Angelaが・・・」
「それって6000万円のヴァイオリン?」
「うん。でも私たちが助かっただけで運がいいとしなきゃ」
「それは被害の出すぎだなあ」
 

と言うと千里は青葉に電話した。
 
「青葉、事故っちゃったんだけど、呪いを掛けた相手分かる?」
「怪我は?」
「全員無傷」
「よく無事だったね!ちょっと待って」
 
と言ってから青葉は“千里の目”を通してこちらを見た。千里には光学迷彩が無効なので、青葉にも、同じ車が2台あって、片方は炎上しているが片方は無事なのが見える。
 
青葉は呆れたように言った。
 
「何これ?」
 
「私も想定外の事態でさ」
「ホントに!?相手は分かったけど、それより呪いはターゲットを見失って、術者の所に戻って行ったと思う」
と青葉は言っている。
 
まあ向こうは死んだみたいだけどね。
 
「呪いは既(すんで)でかわしてるよね?」
「かわしてる。呪いは解けた」
「良かった」
 
青葉はともかくも明日朝一番のサンダーバードで神戸に向かうと言っていた。それで千里は電話を切った。
 

「呪いは青葉がうまく処理してくれたみたいだし、私たちは神戸に向かおうか」
と千里は言った。
 
「どうやって?」
と冬子が尋ねる。
 
「誰かが運転席に座って、あとふたりで車を押せばいいと思うんだ」
 
と千里は答えた。ちょうどその時“5分”経ったようである。
 
冬子も政子も目を丸くしている。
 
「この車今燃えてなかった?」
「気のせいでは。誰が押す?」
 
「それ腕力を考えたら、政子が運転席に座って私と千里で押すしかない」
 
「私が運転していいの?」
と政子が不安そうに訊く。
 
「ローに入れて。せーのでアクセル踏んで。道路に戻ったらすぐ停めて。それでふたりが乗り込んで後は私が運転する」
 
「分かった!」
 
数回試みるがスタックから脱出できないので、車内に積んでいた仮眠用の毛布を下に敷いたら何とか脱出できた。それで車は路側帯まで戻り、そのあと千里が運転席に座り、後部座席に冬子と政子が乗って車は出発した。
 

「今のは呪いにやられたの?」
 
「違うよ。今のは単なる事故。車が左に流されたらハンドルは左に切らなきゃ。それを右に切ったからスピンしたんだよ」
と千里が言う。
 
「え?左に切ったら、ますます左に行かない?」
などと政子は言っている。
 
その問題は冬子が紙に絵を描いて説明したら、政子もやっと理解したようだ。
 
「私のせいだったのか。ごめんなさい!」
「いや。政子のナイスプレイかも。その事故のおかげで、呪いは目標を見失って術者の所に帰っていった。政子のおかげで、冬子も政子も死を免れたんだよ」
 
「やはり死ぬはずだったの?」
「政子の事故のおかげで助かったんだな」
「うむむ」
 
多分千里の結界で呪いが跳ね返されたり、あるいは《こうちゃん》に反撃されて式神が逃げて行った場合より、死者の数は少なくて済んだだろうなと千里は思った。跳ね返されていたらたぶん倍返しになっていた。
 
「それ術者はどうなるわけ?」
と冬子が訊いたが千里は答えた。
 
「それは考えなくてもいいと思う」
「分かった」
 
それで冬子はだいたいのことは分かったようである(政子は分かっていない)。
 

神戸のイベントが行われている間に青葉も到着した。冬子たちを見て、完全に呪いはクリアされていることを確認してくれる。
 
その冬子たちに★★レコードから緊急に話がしたいという連絡が入った。それで冬子と政子は新幹線で東京に向かうことにし、千里は青葉を乗せて冬子のフィールダーで東京に戻ることにした。その帰路で青葉はスマホで情報を収集していた。
 
「東北道で不酸卑惨のメンバー5人が乗っていたワゴン車が横転して2名死亡だって」
と青葉が言う。
 
「青葉も最初から犯人は分かってたでしょ?」
「そんな気はしていた。ローズ+リリーを目の敵にしていたし。でもあの事故現場を、ちー姉の目を通して見た瞬間確信した」
 
千里と青葉は東京に戻ると(冬子から預かった鍵で)恵比寿のマンションに入り、“怪しげなもの”を全部見つけ出した。そこにケイたちが帰宅した。
 
「これ処分しておきますね」
と青葉。
「よろしく」
 
「でもこれ誰か霊能者に定期的にこのマンションのチェックさせたほうがいいかも」
と千里は提案した。
 
「それかなり上級の人でないとまずいよね。今日見つけた中にはかなり巧妙なのがあった。でも私は遠いし。誰か適当な人居ないかなあ」
と青葉は悩んでいた。
 
「★★レコードの話は何だったの?」
「それがね」
 

冬子は政子にもう寝るように言い、そのあと千里たちに説明した。
 
冬子たちは、★★レコードの会議室で、不酸卑惨のメンバーが自分のブログに昨夜23:13付けで「ローズ+リリーに今鉄槌を降ろした」という書き込みをしていたののスクリーンショットを見せられた。その書き込み自体は事務所の人が気付いて即消したので、拡散したりはしていないということだった。
 
その書き込みでは、彼らが先日急死した作曲家の本坂伸輔にも同様に呪いを掛けていたことが示唆されていた。
 
大胆な犯行声明だが、これが公になっていたとしても、現代の日本を含む多くの国では呪詛で人を殺すことは不可能であるとされているため、これは法的には「不能犯」と呼ばれ、たとえそのターゲットになった人が死亡したとしても“呪詛とは無関係の偶然”とされ、犯罪に問うことはできない。
 
(だからデスノートで人を殺しても無罪であり、月も海砂も犯罪者ではない)
 

冬子も実は昨夜大宮万葉から緊急の連絡が入り、誰かが冬子たちに強烈な呪いを掛けたので、今夜は絶対運転しないで下さいと言われたこと、偶然醍醐春海が来たので、彼女に運転してもらって神戸まで行ったことを語った。
 
但し事故の事は話していない。そんなことを話したら、政子から運転免許を取り上げろと言われるのは目に見えている。
 
「結局、大宮万葉が私たちの車に結界を掛けて呪いから見えないようにしてくれたようなんです。それで掛けた呪いは術者の所に戻って行ったのだと思います」
と冬子は説明した。
 
「それで術を掛けた本人がやられてしまったのか」
「呪い返しという奴だね」
 

★★レコードはケイたちに、専任のドライバーをつけるというのを提案してきた。
 
「ケイちゃん・マリちゃん、上島雷太さん、後藤正俊さん、田中晶星さん、醍醐春海・葵照子さん、スイート・ヴァニラズのElise,Londaさん。この6組でうちの売上げの9割を占めている」
と松前社長は言った。
 
それでその6組に無償でドライバーを付けて、仕事だけでなく個人的な用事ででも使ってもらえるようにしたいということだったのである。
 
「もちろん君たちに車の運転を禁止するわけではない。ケイちゃんにしろ醍醐君にしろ、運転しながら曲を思いつくんだとよく言ってるよね。だから自分で運転してもいいけど、ちょっとでもきついと思ったらその専任ドライバーを24時間いつでも遠慮無く呼び出して欲しい」
 
「その運転手さんの体力が心配です」
 
「10人くらいでチームを組むので、その時対応できる人が対応する。彼らには充分な給与を払って他の仕事をしなくても大丈夫なようにするから」
 
「だったら安心ですね!」
 

それで10人ほどからなるドライバーチームが発足し、ケイとマリの第1優先ドライバーとして佐良しのぶ、醍醐春海・葵照子の第1優先ドライバーとして矢鳴美里が就任することになる。これはドライバーチームの中心となることになった、鶴見と染宮の2人の個人的なコネで採用したものであった。なお上島は自分で独自にドライバーを雇うといって、ドライバー提供の話は辞退した。
 
なお、21日の夜は千里がインプで青葉を高岡まで送っていった。インプは実は土浦市にあったのだが《わっちゃん》に東京まで回送してもらっていた。青葉は
 
「さすがに、ちー姉ひとりでは無茶だよ。神戸までひとりで往復したばかりなのに」
 
と言って、深夜なのをいいことに半分くらいの行程を運転してくれた。。
 
千里は1月22日(木)朝、高岡で青葉を降ろすと、そのまま(兵庫県)市川まで行き、軽く市川ラボの掃除をしてから、スペインでの練習開始時刻(日本時間21時)まで、ぐっすり眠った。
 
 
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【娘たちのフィータス】(1)