【娘たちのムスビ】(2)

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2月24日(金)朝、ベッドの中で一緒に目覚めて
「おはよう」
と言ってキスをする。
 
「あ、しまった!」
と貴司が言う。
 
「どうしたの?」
「トレーニングウェアが全部汗だらけだ。千里にもらった予備まで」
「全部夜中にコインランドリーで洗濯・乾燥しといたよ」
「ほんと!? いつの間に」
 
それで貴司は服を確認して
「ありがとう!助かる」
と言う。
 
千里は《いんちゃん》に『ありがとね』と心の声で言った。
 

朝食を一緒に取ってチェックアウトしてから千里はインプレッサで貴司を味の素ナショナル・トレーニング・センターのゲートの所まで送って行った。
 
「じゃ頑張ってね」
「ありがとう。頑張ってくる」
 
それで貴司はIDカードを見せて中に入れてもらう。アスリート・ヴィレッジ(宿泊施設)の受付でまたIDカードを見せて部屋の鍵をもらった。
 
「へー。きれいな部屋だなあ」
と貴司は思った。まだ出来てから4年くらいである。貴司はコンドミニアム型の海外のホテルみたいだと思った。
 
9時に体育館に集合する。今回の合宿ではまだ監督が来日していないので、代わってK大学男子バスケット部コーチの稲崎さんが指導をした。
 

ウォーミングアップの後、親睦を兼ねて紅白戦をする。むろん貴司はBチームである。当然ベンチスタートである。
 
稲崎さんは取り敢えず全員のプレイを見たいようで、貴司は第2ピリオドに出してもらった。最初のプレイ機会は守備であった。相手の大学生選手が攻めてきたので、その前に立ってディフェンスする。複雑なフェイントを入れて突っ込んでくるが鮮やかにスティールして、そのまま速攻する。
 
相手チームの足の速い選手が戻って前に回り込む。貴司は1つフェイントを入れて反対側を抜く・・・かに見せて後ろから走ってきていた味方に、そちらを全く見ずにパスした。
 
結果的に貴司自身がスクリーンになり、その選手がきれいに貴司の後ろを回りこんでシュートに行く。
 
きれいに決まる。貴司はシュートを決めた選手と握手した。
 

このピリオドでは5分間の出番だったのだが、第4ピリオドでは10分間出してもらい、貴司はその間に多彩なパスを繰り出したり、そうかと思えば自ら中に進入してゴールを奪うなど、4アシスト・2ゴールの大活躍であった。
 
貴司は昨日丸一日千里たちと練習したのが、良かったなと思っていた。あれで刺激されたのもあったし、基本的なことを思い出せたのもあった。
 
「君やるね!すごいじゃん」
 
とキャプテンの須川さんが笑顔で声を掛けてくれたのに対して、背後からかなり敵対的な視線も感じた。こいつは自分とロースター争いすることになると思われたんだろうなと貴司は思った。
 
練習は昼食を挟んで夕方まで続けられた。夕食の後は自主練習になったが、貴司は当然出て行って、出てきている選手と一緒に汗を流した。最終的に練習が終わったのは21時すぎである。
 
しかし昨日は0時まで練習したよな、と貴司は思った。
 

部屋に戻る。
 
部屋のシャワーを使っても良かったのだが、この時間はまだ大浴場が使えるようだったので行くとゆったりとした開放感がある。身体を洗ってから浴槽に入ると、レギュラー確定と思われる195cmの龍良さん、貴司同様今回が初参加の184cm前山さんが入っていた。
 
「細川君だったね」
「はい、よろしくお願いします、龍良さん、前山さん」
と貴司が言うと、龍良がいきなり貴司のあそこを握った。
 
「わっ」
「付いてるな」
「付いてなかったら男子代表候補になれないですよ〜」
と貴司が言うと
「僕も握られた」
と前山が言っている。
 
「いや、チンコ握ってみないと安心できない」
などと龍良は言っている。
 
「もし付いてなかったらどうするんですか?」
「口説き落として愛人にする」
「でも女の子が男湯には入ってこないでしょ?」
「残念ながら今までに付いてない奴はいなかった」
 
そういえば千里は高校時代にお父さんと一緒にスーパー銭湯に入ったことがあるなんて言ってたけど、どうやって誤魔化して入ったんだろうと貴司は思った。少なくとも高校時代の千里は女の子の身体だったはずである。ちんちんを何とか誤魔化したにしても、おっぱいなんて隠しようが無かったはずだ。
 
最初から女の子だったのか、あるいは手術して女の子になったのかは分からないが。
 

早紀はその夜、金曜なので泊まりがけで博多に出てきていた。
 
実はこの日博多で好きなフォークデュオ《海岸通り》のライブがあり、学校が終わった後、高速バスで博多に出てきてライブに参戦。さっき宿に戻ってきたところであった。
 
早紀の財力があればヒルトンとかニューオータニとかに普通に泊まれるのだが、基本的に倹約家なので、そういうホテルに泊まるのがあまり好きではない。
 
この日泊まっているのは昔の平和台球場に近い所にある1泊5000円の安ホテルである。
 
部屋にお風呂が付いてないので大浴場に来ている。来た時は誰もいなかったので浴槽に浸かってぼーっとしていた。
 
「光太郎がボクのものになったら、ふたりで一緒に羽衣をやっつけちゃおうかなぁ。50年前に勝負した時はあいつに勝てなかったけど、かなり力が落ちているみたいだし。そしたらボクが日本のトップになれる」
 
などとよからぬことを考えている。長谷川光太郎(瞬嶽)の魂をコピーした赤ちゃんは4月に生まれるはずである。
 
「でも千里ちゃんが保護している伏見の子はボクより強いかも知れない。早い時期に千里ちゃんも、てなづけておかないと、やばいかなあ」
 
とどうも、別の心配もあるようである。
 
「あの子は生まれたら光太郎とは多分兄弟になるんだから仲良くしてくれるといいけど。でもふたりの関係は同母兄弟でも同父兄弟でもないし何になるんだろ?」
 
と早紀は悩んでいる。
 
光太郎は千里を遺伝子上の父、桃香を遺伝子上の母とする子供であり、京平は、千里を遺伝子上の母、貴司を遺伝子上の父とする子供である。
 
ふたりの父は違うし、ふたりの母も違う。でもふたりとも千里の子供である。(早月と光太郎は同母同父の兄妹である)
 
同様のことは将来、自分にも起きるかも知れないなと早紀は思った。
 
「赤ちゃん産む間は無防備になっちゃうけど、光太郎がいてくれたら、その間、ボクを守ってくれるだろうしなあ」
などと先のことも考える。
 
「しかし勾美の奴、千里ちゃんに関する情報は出せないって言うから、どうも千里ちゃんの実情は見えない。契約者に忠実なのはいいことだけどさ」
 
と《こうちゃん》にまで文句を言っている。
 
《こうちゃん》は早紀が生まれ変わる前の眷属だったので、今は契約関係に無いのだが、千里の眷属としての活動に支障が無い範囲で早紀に協力している。逆に《こうちゃん》が自分に手に負えないことを早紀にお願いして処理してもらうこともある。
 

40代くらいの客が入ってくる。身体を洗ってから浴槽に入ってきて、初めて早紀に気付いたようである。早紀はふだんは存在を透明にしている。オーラを最小にしているので、他の人は視覚的に見ない限りは彼女がそこに居ることに気付かないことが多い。
 
早紀が軽く会釈すると
 
「あんた、どこから来たの?」
と訊かれる。
 
「長崎です。高速バスで出てきて、海岸通りのライブを見たんですよ」
「おお!海岸通りのシンは、うちの近所に住んでた人の大学時代の同級生の甥っ子なんだよ」
「へー。それは奇遇ですね」
と言いながら、あまり関係無い人のような気がする。
 
「でも長崎からはやはり高速バスが便利だよね。うちの妹が佐世保に住んでいるけど、JRにはもう長いこと乗ってないと言ってるよ」
 
「ええ。佐世保もそうですけど、長崎からはJRなら4000円の所をバスなら2500円。回数券使えば2000円ですから。時間的にも大差無いし。うちの母とかも昔はJR使ってたけど、長崎自動車道が出来てからは、車で行くかバスに乗るかになったと言ってました」
 
「政府とか長崎の知事さんとかは新幹線作ろうとしているけど、どうなのかね」
「誰も乗らないというのに1票。あれは地元でも賛成している人少ないですよ。むしろ不便になる所の方が多いし」
 
その人とは、長崎新幹線の話、野球のホークスやサッカーのVファーレン長崎やアビスパなどの話をした。ライブについても最近はあまり参戦していないものの、昔はおニャン子クラブとか、小泉今日子、森高千里などのライブによく行っていたなどと言っていた。
 

20分ほど話をしていた時、新たな客が入ってくる。
 
その客が浴室に入ってきて、いきなり早紀と目が合った。
 
「早紀ちゃん!?」
「あ・・・清孝くん」
 
従兄の原田清孝である。
 
「早紀ちゃん、なんで男湯に入っている訳〜〜!?」
 
「えへへ。見逃して」
と早紀は言うと
 
「ごめーん。先に上がりますね。お話楽しかったです。また」
と今までおしゃべりしていた男性に告げると、タオルで胸からお股の付近までを覆った状態で、急いで脱衣場の方に逃亡した。
 
「彼どうかしたの?」
と男性が戸惑ったような顔で訊いている。
 
「だってあいつ女の子なのに。ってか俺、見られちゃった」
「うっそー!?」
 

貴司はお風呂からあがった後、千里に電話してみた。
 
「さっき練習が終わってお風呂に入ってきた。でもここって部屋がきれいだね」
「うん。どうかしたホテルよりは良いよね。交通の便がよくないのが難点だけどね」
「それは遊び場が無いということでいいんじゃない?」
「うん。そんな気もするよ。遊びもセックスも封印して練習に集中しようということだね」
「こんな所でセックスなんかしてたら、永久追放されちゃうよ!」
 
「まあ早く寝た方がいいよね」
「うん。そうする。明日も頑張るよ」
 
それで貴司はベッドに入って下半身の服を脱ぐと、昨日ちょろまかしておいた千里のパンティを握ったまま眠った。
 
(貴司は性的な機能が封印されているので、千里のそばにいない限り立つこともないし射精もできない。でも触れば気持ちいいことは気持ちいいので、実は最近女性型のオナニーにハマっている。千里に知られると面白がられて「じゃ性転換して女の子になっちゃおう」と言われそうなので内緒である)
 
夢の中では千里が男の子になっていて女の子になった貴司と無理矢理セックスしていた。
 

同じ2月24日(金).
 
彪志は朝青葉から「試験頑張ってきてね」という電話を受けてから、午前中も要点の復習をする。お昼を食べた後、一ノ関駅から新幹線に乗る。
 
一ノ関14:48(やまびこ60)17:24東京[20番線]
 
この列車に乗ったという情報は文月から座席番号付きで青葉に連絡されている。その青葉は彪志に渡すパンを高岡駅のリトルマーメイドで買ってから↓の連絡で東京に出た。
 
高岡12:31(はくたか13)14:51越後湯沢14:59(とき328)16:20東京[23番線]
 
理論上はひとつ後の便に乗っても17:20に[21番線]に到着し、20番線と21番線は同じホームなので、彪志の乗っている新幹線をキャッチできる。しかし4分差というのは、万一青葉の乗る側の列車が遅れたらアウトだ。それで安全を見て1時間前に到着する便を使ったのである。
 
青葉には東京に戻る和実も一緒に付いてきた。
 

23番線からはいったんエスカレーターで下に降りてから20番線へまた昇る。おしゃべりしながら待つ。彪志の座っている車両と座席が分かるのでその車両が停まる位置で待機している。
 
やがて彪志の乗る《やまびこ》が入ってくる。
 
「どちら側から降りると思う?」
と青葉。
「左でしょ」
と和実。
「うん、私も左と思った」
 
彪志の座席位置からなら本当は右からの方が降りやすい。しかしこの時ふたりとも左だと思ったのである。和実はまだこの時期異様に霊感が発達した状態なので、こういうのが分かってしまう。
 
彪志が降りてくる。エスカレーターの方に行きかける。青葉はそちらに歩みよりながら声を掛けた。
 
「彪志」
 
彪志がこちらを見る。彪志は驚くというより当惑している感じ。
 
目をこすっている。何かの見間違いではと思っているようだ。
 
青葉は彪志のそばに寄ると抱きついた。
 
「青葉・・・・本物?」
「本物って、私の偽物があるの?」
「ほんとうの青葉?」
「ほんとの私だよ」
 
彪志は場所も忘れて、青葉にキスした。
 
「どうしてここに?」
「彪志を激励に来た」
「それだけ?」
「そうだよ。じゃ、頑張ってね。私このまま帰るから」
 
と言って青葉は彪志から離れて和実の方に振り向く。
 
「あ、待って。千葉まで一緒に行かない?」
 
と彪志は青葉を呼び止めた。
 
青葉はそんなことを言われて迷った。和実が笑顔で頷いている。
 
「じゃ千葉駅までは行こうかな」
 
「総武線に行こう。今から千葉まで往復してきても、帰りの最終新幹線に間に合うよ」
と和実が言った。
 

和実は自分の荷物はコインロッカーに預けていたので身軽である。彪志の持っている荷物のひとつをさりげなく持ってあげるとさっさと歩き出す。その後ろを青葉と彪志が並んで歩く。
 
「あ、そうか。工藤さんでしたね。お葬式の時に会ってた」
と彪志が和実のことを思い出して言った。
 
「はい。お葬式の時は立て込んでいたから名刺渡してなかったですね」
と言って和実は彪志に名刺を渡した。
 
「へー。喫茶店にお勤めですか。チーフって凄いですね」
「まあメイド喫茶なんですけどね」
「え!?」
 
「でもいかがわしいことは一切無い健全なお店だよ」
と青葉がコメントする。
 
「飲食店営業だから、接待行為にならないよう、お客さんと3分以上話してはいけないことになっています」
「それチェックするのにカラータイマーを付けているんだよね」
「いやカラータイマー付ける案はあったけどお店の趣旨が変わりそうだからボツになった」
 
それで結局青葉と彪志の2人は和実に見送られて17:55発の総武線快速に乗った。
 
「そうだ。これ渡し損ねるとこだった。お夜食に食べて」
と言って、青葉はパン屋さんの袋を渡す。
「ありがとう」
と言って彪志は受け取った。
 
このパンの袋には実は仕掛けがある。袋のいちばん底に
《頑張ってね。あなたの青葉より》
と書いたメッセージカードが入っているのである。夜食を食べていてパンを全部食べ終わった頃、それが出てくることになる。
 
もっとも前夜の勉強を頑張りすぎて、明日の試験に差し支えたらいけないけどね、などと青葉は少し心配した。
 

その日千里は貴司をナショナル・トレーニング・センターまで送って行った後、江戸川区のマンションに行き、溜まっている作曲の作業をしていた。
 
お昼頃桃香から電話がある。
 
「へー。青葉がこちらに出てくるの?」
「うん。日帰りでね」
「高岡から東京日帰り〜〜?」
「あの子も無茶やるよな。彪志君が明日C大学の二次試験を受けるんで、その激励に来るんだよ」
 
「彪志君と一緒に泊まらなくていいの?」
「合格まではセックス禁止」
「なるほど〜」
 
「だから東京駅で激励して帰ると言っているんだけど、青葉が彪志君を東京駅でキャッチするだろう時刻を確認したら、その後千葉駅まで往復しても青葉は高岡に帰れるんだよ」
「へー」
 
「それでそのことを一緒に来る和実にメールしておいた」
「ああ、和実と一緒に来るんだ?」
「和実も青葉と同じ射水市の病院で性転換手術を受けることにしたらしい。その診察を受けに行っていた。それで和実が青葉を煽って、激励にピンポイント往復することになったみたい」
 
「和実が性転換手術を受けるの?」
「うん。この夏に受けるって」
「あの子、既に性転換手術は終わっているよね?」
「え?そうだっけ?今から受けるようなこと言ってたけど」
 
「だってあの子、完全な女体を持っているじゃん」
「おっぱいは大きいけど、ちんちん付いてるんじゃないの?」
「付いてないと思うけど」
「うーん。付いてないように見えるくらい完璧なんだよ」
 
千里は疑問を感じたが、まあいいことにした。
 
「じゃ、青葉は結局千葉駅まで来るのね?」
「そうなると思う。だからさ、千葉まで来た青葉を私たちでキャッチしないか?」
「彪志君も?」
 
「彪志君はそのままホテルに入って頑張って勉強してもらう。その彪志君と別れた後の青葉をキャッチして、少し煽っておこうという趣旨なんだよ」
 
「ああ」
 
「だって見ていてハラハラするよ。あんな青葉の態度じゃ、いづれ彪志君は青葉を見放す。青葉はあまりにも恋愛に消極的すぎるんだよ」
 
それは青葉が事実上中性だからだろうなと千里は思った。
 
「それは私も同意する」
「だから焚き付けようよ」
「OK。じゃどこで待ち合わせる?」
 
「青葉と彪志君は東京駅17:55の快速に乗って、千葉駅には18:39に到着すると思うんだけど、彪志君の新幹線の到着は17:24で早く着く場合もあるから、その場合、17:35に乗った場合は千葉に18:16に到着する」
 
「だったらそれまでに千葉駅に行けばいいね」
「うん。来れる?」
「行くよ」
 
「じゃ千葉駅で18時くらいに会う線で」
「OKOK」
 

車を使うと渋滞に引っかかった時まずいなと千里は思った。それで17時前に葛西のマンションを出てZZR-1400に乗り千葉駅まで行く。近くの時間貸駐輪場に駐めて駅に行く。入口の所で少し待つと17:40桃香がやってきたので、東京駅までの切符を買って中に入る。
 
桃香は「東京駅では外に出ずに戻ってくるんだから西千葉駅までの切符買って帰りは西千葉駅で降りたらいいよ」などと言うが「それってキセル」と言ってちゃんと買う。
 
(この界隈は「東京近郊区間」内で「大回り」ができるので、千葉駅から東京駅に行った後、たとえば東京→我孫子→成田→東千葉と回って東千葉駅で降りると、千葉→東千葉の140円で良い。但し日付が変わる前に戻ってこなければならないのでこの時刻からは不可能。「大回り」は同じ駅を通ってはいけないので往復乗車は違反になる。経過時間が長すぎて自動改札機で引っかかるので駅員にどういう経路で乗ったか説明できなければならない)
 
17:56頃、和実から2人が17:55の総武線快速に乗ったというメールが入った。すると電車は18:39に着き、青葉は帰り19:13発の快速に乗るものと思われる。
 
「青葉の乗る東京方面行きは何番線から出ると思う?」
と桃香が訊く。千葉駅の発車番線はランダムであり全く予想がつかない。
 
「うーん。たぶん3番線」
と千里。
 
「マジ?じゃそちらに行くか」
 
ということで移動する。
「あの付近で待ってよう」
 

やがて18:39ジャストに当駅止まりの電車が到着する。
 
「青葉、そのまま彪志君と一緒に御飯食べに行ったり、ホテルまで付いていくってことはないかな?」
と千里が訊く。
 
「それは彪志君のお母さんとの約束違反になるからしないと思う。それに青葉は新幹線+はくたかで帰るつもりでいる。はくたかで帰るには東京20:12発の新幹線に乗らなければいけないから、そのためには、千葉19:24-20:04東京、が間に合うギリギリ。コーヒーくらい飲む可能性はあるが、ホテルまで行く時間は無いよ」
と桃香。
 
電光掲示板に19:13久里浜行きは3番線からという表示が出る。ここで間違い無いようだ。ただ青葉はこれの次の今桃香が言った19:24に乗る可能性もある。そちらは9番線から出るようなので、青葉がこちらに来なかったらそちらに移動する必要がある。いったん上にあがって結構な距離を歩くことになる。
 
19:05、青葉が階段を降りてきた。こちらには気付かないようだ。千里が声を掛けようとしたが、桃香はそれを停める。そして青葉の後ろの方から回り込むようにしてそっと近づく。
 
桃香はいきなり青葉の背後から手を回して目隠しし
「だ〜れだ?」
と訊いた。
 
「桃姉!」
と青葉が振り返って声をあげる。いつもの無表情な顔が一瞬だけほころんだ。
 

「ごめーん。桃姉の所に寄ろうかと思ったんだけど、私が千葉市内に居たら彪志の気持ちが乱れるかもというので、必ず今日帰るという約束だったんだよ」
 
「うん。だから、一緒に東京駅まで行こう」
「わっ」
 
「それに青葉は20:12の《とき347号》に乗るつもりだったろ?」
「うん。それが《はくたか》に乗り継げる最終なんだよ」
「21:40の《とき353号》に変更しよう」
「え?」
「長岡に23:35に着いて、23:56《きたぐに》に乗り継げるんだよ。高岡に2:35着。その時刻に母ちゃんが迎えに来てくれる」
 
「あ、その連絡も使ったことあった!」
 

それで一緒に19:13の久里浜行き快速に乗った。通勤時間のピークを過ぎたので客はあまり多くない。3人は桃香と千里で青葉を挟むように座ったが、この電車の中で桃香は熱弁を振るった。それは青葉に対するメッセージでもあり、また千里へのメッセージでもあった。
 
「恋をする時って、相手を愛すること以上に、自分が相手の愛を受け止めることが難しい」
と桃香は言う。そして更に
 
「千里も青葉も、相手から来る愛を瞬間的に拒否する傾向がある。拒否されると相手は戸惑う」
と指摘する。
 
「それ以前にも言われたね」
と千里。
 
「彪志君は優しい。だから多少青葉が自分の愛を拒否しても、優しく包み込んでくれる。でもそれがいつまでも続くと思ってはいけない。いつもいつも愛を拒否されていたら、やがて彼は疲れてしまい、青葉との愛を諦めてしまうよ」
 
千里はそれも自分に言われている気がした。自分は貴司の愛を拒否してないだろうか。
 
「青葉にしても、千里にしても、やはり自分が生まれた時は女でなかったということを負い目に感じている。だから1歩引こうとする所がある。それがよくない。ふたりとも今年の夏には手術して本当の女の子になるんだろう?今のような気持ちでいたら、せっかく手術を受けてもずっと《元男だった》という気持ちを引きずる。それじゃわざわざ痛い手術を受ける意味が無いじゃん。もうそういう気持ちからは卒業すべきだ。ちゃんと《自分は女だ》という自覚を持とう。自信を持とう。そしてちゃんと相手の愛に応えて、幸せになりなよ」
 
この日の桃香の言葉は本当に熱かった。千里も貴司とのことで背中を押されている思いだった。そうだよ。私もうすぐ婚約指輪も受け取るんだもん。もっと貴司に優しくしてあげなくちゃ。千里はそう思った。
 
でも桃香も季里子ちゃんとの仲が進展してるのかな?わりとお似合いだと思うし、桃香もあの子と結婚してもいいかもね。そんなことも千里は考えていた。
 

東京駅に着いた3人はまだ開いていた食堂でカレーを一緒に食べた。
 
「千里が作るカレーも美味しいが、青葉の作るカレーも美味しい」
などと桃香は言う。
「私、この1年で随分料理を覚えた」
と青葉は言っている。
 
「もういつでもお嫁さんに行けるくらい鍛えられたんじゃない?」
「うん。結構自信が出てきた。お嫁さん、やりたい」
「彪志君がC大に合格して千葉に出てきたら、青葉、千葉の中学に転校して、彪志君のお嫁さんになったら?」
 
「中学生じゃ結婚できないよ!」
「だったら1年後に千葉の高校に進学すればいい」
 
「それも高校生で結婚したら退学になりそうな気がする」
と青葉は言うが
 
「私の高校の同級生で在学中に結婚して子供産んだ子いたよ」
と千里が言うと
 
「凄い!」
と青葉も桃香も言う。
 
「だって結婚している女性が社会人入学で高校に入ることもあるじゃん。それがよくて16歳以上の高校生が結婚してはいけないというのはおかしい」
 
「確かにそうかも知れん」
 
「それでその子が教頭先生と大激論やって、教頭・校長・理事長を言い負かして、認めさせたんだよ」
「頑張ったな!」
 
「最初はうっかり妊娠してしまったんで、中絶するつもりだったんだよ。だから女子みんなでカンパして中絶の手術代を作った。それで友だちに付き添ってもらって産婦人科に行って、手術の説明とか受けている内に、唐突に私この子を殺したくない。産むと言い出して」
 
「あぁ・・・」
 
「それで本人も産むためには高校辞めるのは仕方ないかなと最初は思ったみたいなんだけど、友だちとかに励まされて頑張って先生たちを論破した」
 
「やるぅ!」
と言って桃香は感動しているようである。
 
「だから青葉も高校在学中に彪志君と結婚して赤ちゃん産んじゃってもいいと思うよ」
「えっと・・・赤ちゃんはできたら高校卒業してからの方がいいかな」
「まあその方がいいかもね」
 
「でもどっちみち、高校卒業したら、東京界隈の大学に入って、一緒に暮らせばいいと思うよ」
と桃香は言う。
 
「うん、賛成、賛成」
と千里も言いながら、自分もやはり高校卒業した後、大阪付近の大学に進学すべきだったかなあ、などと考えていた。
 
青葉は「どうしよう?」という感じで悩んでいるようであった。
 

「でも桃姉たちも結婚してもいいんじゃない?」
と青葉は言った。
 
ここで青葉は桃香と千里が恋人同士と思っているので、ふたりで結婚してもいいんじゃないかという意味で言った。しかし桃香も千里もそう取らなかった。
 
「結婚するには性別を変えないといけない」
と桃香は言っている。それを聞いて千里はやはり桃香は季里子との結婚を考えているんだなと思った。
 
「入籍しなくて事実婚でもいいんじゃない?」
と青葉。
「それは既にしている」
と桃香は真顔で答える。桃香は実は今日は結婚指輪をつけてこようかと思っていたのだが、恥ずかしくなって千里と落ち合う前に外したのである。
 
一方千里は、確かに桃香、季里子ちゃんちに入り浸りになっているもんなあと思った。
 
「そうだったんだ?」
と千里も笑顔で言いながら桃香の恋路を応援するつもりになる。
 
「ちー姉はどう思っているの?」
と青葉は訊いた。青葉は千里の桃香への気持ちを訊いたつもりである。しかし千里は自分と貴司のことを考えていた。
 
「うん。結婚しちゃうつもり」
と千里は答える。
 
「いいと思うよー」
と青葉。
「まあ、いいんじゃない?」
と桃香も言った。
 

青葉が上越新幹線の改札口をくぐっていくのを見送り、桃香と千里は千葉方面に帰ることにする。
 
東京21:53-22:26千葉
 
「桃香は彼女んちに帰るんでしょ?」
「もちろん。千里も最近アパートにいないみたいだけど、彼氏んちに居るんだっけ?」
「ううん。私は最近仕事場で夜を明かすことが多い」
「大変そうだな!」
「デートは木曜日の夜にしたから大丈夫」
「結婚するの?」
「桃香もするんでしょ?」
 
「実は本当に結婚したんだよ」
「そうだったんだ!おめでとう!」
 
「それで籍を入れるのに、私、手術して男になったりしなくてもいいよね?」
「その問題はこないだも話したけど、桃香は女の子だと思うよ。だから堂々と女同士で結婚してていいと思う」
「私たち2人の間では夫婦のつもりでいるけど、正直、彼女の親を説得できる自信が無い」
 
「だから事実婚のままでいいんじゃない?何ならふたりだけで結婚式を挙げればいいよ。私は桃香たちの結婚式に出席してあげるよ」
 
「そうか?」
「美緒とか朱音も出席してくれると思う」
「その線でいくかなあ・・・」
 

やがて千葉駅に到着する。
 
「今夜はどうするの?」
と桃香が訊く。
「今から仕事場に行くよ」
「ごめん!」
「平気平気。桃香、季里子ちゃんちに送って行こうか?」
「あ、だったらコンビニで買い物してから」
 
と言って、コンビニで食料品やお酒などを買っている。それで駐輪場に連れていくとびっくりしている。
 
「バイクなのか!」
「これも借り物〜」
「ほんっとに千里は借り物が多い」
「ヘルメットかぶってね」
 
と言って千里は収納から2つヘルメットを出すとひとつを桃香に渡す。桃香の荷物は収納に入れる。
 
「しかし凄いバイクだ!」
「パワーも凄いよ」
「だろうな!」
「じゃ行くよ」
 
それで千里は桃香を後ろに乗せて季里子のアパート近くまで行った(*1)。収納から桃香の荷物を出して渡す。
 
「ありがとう。じゃお仕事頑張ってね」
「桃香も頑張ってね」
 
と言って別れた。
 
(*1)千里は二輪免許を取ってまだ1年経ってないので二人乗りは違反である。千里は12月にも麻依子を乗せて二人乗りしていた。
 

そのままZZR-1400を運転して葛西のマンションに戻り、千里は作曲作業を続けた。
 
翌2月25日(土).
 
昼過ぎにティファニーの野沢さんから千里に電話が入る。
 
「婚約指輪ができましたのでご連絡致しました。ご来店頂ければ、いつでもお受け取りになれますので」
「もうできたんですか!ありがとうございます。今ちょうど彼が仕事で東京に出てきていて、今日の夕方には片付くと思うんですが、今日は何時まで営業ですかね?」
「一応20時まででございますが、多少でしたら遅くなっても対応できますが」
「分かりました。20時までに行くようにします」
「お待ちしております。もし20時すぎてお店が閉まっていた場合はこちらにお電話下さい」
と言って、野沢さんは携帯の番号を伝えてくれた。
 

千里は少し考えてから母に電話した。
 
「あのね、お母ちゃん、私貴司と結婚するから」
「ああ、いいんじゃない?」
「婚約指輪ももらったんだよ」
「おお、それは凄い」
「それでその婚約指輪見せにそちらに行こうかなあと思っているんだけど、明日お母ちゃん、家に居る?」
「いるよ」
と母が答えるので千里はおそるおそる訊いた。
「お父ちゃんは?」
「今週末はスクーリングで札幌まで泊まりがけで行っているんだけど」
「わぁ・・・」
 
「でもあんたが“お嫁さんになる”という話したら、あの人激怒してきっとまともに話ができないよ」
「うーん。。。そんな気はした。でも結婚までに一度話さないといけないし」
 
「その件はまた今度にしたら?」
「そうだなあ」
「今回は指輪を見せにだけおいでよ」
「そうしようかな」
「貴司さんも来るの?」
「行けると思う」
 

千里は貴司の携帯にメールして、婚約指輪ができたこと。できたら今日そちらの合宿が終わってから一緒に取りにいきたいこと、そして明日留萌に行って、双方の親に指輪を見せに行こうよと書いた。
 
それで千里は少し考えてから、《こうちゃん》に西千葉の駐車場からインプを持って来てくれるよう頼んだ。
 
車を回送してもらっている間に、サンローランのドレスを着て、お化粧もする。1年前に貴司からもらった18金のイヤリングを付ける。やがて車が到着するので、フェラガモのパンプスを履いて《こうちゃん》の運転で銀座に出た。
 
三越の近くで下ろしてもらう。紳士服売場に行って、ラルフローレンの紳士用スーツを買う。更にそう高くない範囲で、ネクタイ・ワイシャツ・紳士靴と買う。タグは切ってもらい、靴も箱は不要と伝えて袋に入れてもらった。
 
《こうちゃん》に迎えに来てもらい、板橋区内のガストに行き、そこでお茶を飲みながら待機する。時間を見計らって自分でインプを運転して、ナショナル・トレーニング・センターのゲート付近に行く。ちょうど貴司が出てくる。手を振る。貴司がびっくりしたような顔でこちらを見て、助手席に乗り込んでくる。千里が車を出す。
 

「凄い。この付近で待機してたの?」
「ううん。今着たよ。ちょうどピッタリになったのは愛の力かな」
「すごい」
 
「で、一緒に指輪取りに行くよね?」
「待って。この格好」
 
貴司はジャージ姿である。貴司はそもそも大阪からジャージで出てきていた。
 
「適当な服を用意しておいたから、よかったら後部座席で着換えて」
「そうする!」
 
千里がいったん車を脇に停め、貴司は後部座席に行く。
 
「適当な服というかこれ凄く良い服のような気がする」
「まあ宝石店に行くのに適当な服かな」
「確かに」
「指輪作りに行った時はけっこう適当な服で行っちゃったもんね」
「後でやばかったかなと思った!でも日本語って難しいね!」
 

貴司は銀座に向かう車の中で母・保志絵に電話し、千里に婚約指輪を贈ったので明日見せに行くと言った。向こうは慌てているようだったが、まだ結納とかいうことではないというので、ホッとしていた。
 
「お互い挨拶に行くとかするんだっけ?」
「そんな大げさなことはしなくていいと思う」
 
その件に付いては、保志絵と津気子で少し話し合いたいと言っていたので、それは任せることにした。
 

「合宿はどうだった?」
「みんな強い強い。物凄く刺激になった」
 
「ロースターに残れそう?」
「無理〜! どの段階で落とされるか分からないけど、落とされるまで頑張って練習するよ」
 
「やはり貴司は毎日の練習時間が短すぎるね」
「それは痛感した」
 
「やはりbjでもいいから、どこかバスケだけをやれる所に移籍しなよ。生活費はもっと安いアパートとかに引っ越せば何とかなると思うよ」
 
「それ本気で考えるかも。取り敢えず今年度はもう押し迫っているから、今回の日本代表候補の活動が終わってから考えるよ」
 
「うん。一緒にオールジャパンに行こうよ」
「オールジャパンかぁ・・・。千里凄いよな。2度も行ったし」
「今回は4年ぶりだったけどね。次はまた4年後だったりして」
「来年は?」
「結婚式とか卒業準備とかで、とてもバスケやってられない気がする」
「あぁ!」
 

「そうだ。指輪代の今月分受け取ったよ。ありがとう」
と千里は言った。
「ごめんね〜。時間掛けてしまって面目ない。残りは来月ちゃんと返すから。そちらこそ大丈夫?」
「うん。全然問題無いよ。貴司が250万くらいまでと言ってたのに、私のわがままでオーバーさせちゃったし」
 
1月6日に千里のカードで払った指輪代257万については、一緒に大阪に戻った1月9日(月)にいったん80万(預金から)、1月12日に150万(株式を売却して)もらい「残りは月末まで待って」と言われた。
 
1月26日に「給料出たから残額払う」と電話があったのだが、千里は「230万ももらった直後に本当に大丈夫?」と訊いた。すると「実は少し心許ない」と言うので「今月末はパスして2月末と3月末に半分ずつもらえばいいよ」と提案した。それで貴司も「じゃ悪いけどそうさせてもらおうかな」と言った。
 
貴司の給料は税込みで月75万あるらしいが、その内の25万は家賃補助なので実質50万である。そこから税金や社会保険に社員会費などが引かれて手取りは32万ほどになる。更にここから生命保険(1.5万)と自動車保険(2.5万)を払い、光熱費と携帯代を払うと残るのは25万である。つまり本当は物理的に27万千里に払う余力が無い。
 
(実際には残業手当・海外出張手当のおかげで、何とか27万払えるのだが、それでも2月の生活費がほぼ無くなる所であった。取り敢えず1月は外食もせずお昼は毎日スーパーのパンで頑張っていた)
 
それで1月末はパスして今月まず半額をもらうことになっていた。
 
貴司の給料日は26日なのだが、今月は26日が日曜なので、その前の昨日24日(金)に給与は振り込まれた。それで貴司は合宿所から昼休みに携帯を操作して、千里の口座に14万振り込んでくれたのである。残り13万は3月末もらうことになる。
 
ちなみに千里のカード代金引き落としの方は1月6日のショッピングなので1月10日で締められ2月6日に引き落とされていたが、千里の方は資金が潤沢なので全く問題無い。
 

やがて銀座に到着。ティファニーに比較的近い、タイムズの駐車場に駐める。歩いてお店まで行く。着いたのが19時半頃である。
 
入って行くと、いらっしゃいませと声を掛けられる。
 
「指輪ができたと連絡があったので受け取りに来たのですが」
と言って、控えを見せる。
 
「はい、こちらでお待ち下さい」
と言って商談ルームに案内される。紅茶と豪華そうなお菓子が出てくる。
 
「マジで待遇がいいね〜」
と言い合う。
 
ほどなく、野沢さんと店長さんが来て、ティファニーの水色のジュエリーケースを持って来てくれる。
 
「こちらでございます」
 
「じゃつけてみてよ」
と貴司。
「貴司が私につけてよ」
と千里。
 
それで貴司が指輪を取って千里の左手薬指につけてくれた。
 
「記念写真でもお撮りしましょうか?」
「あ、お願いします」
 
と言って、貴司のGalaxyと千里のT008で、ふたりが並び、千里が指輪を見せているところを写真に撮ってもらった。
 

あらためて結婚指輪もぜひ当店でと言われたので、結婚指輪はお互いに贈りあいたいから、各々別にこのお店で頼もうかという話になる。すると2人に1冊ずつカタログを渡されたので、千里は銀座店で貴司に贈る指輪を作り、貴司は梅田店で千里に贈る指輪を作ろうということにした。梅田店への紹介状も書いてもらった!
 
この日は元々一緒にホテルに泊まることにしていたので、車でそちらに向かい、ゆっくりと愛の一夜を過ごした。
 
翌2月26日(日).
 
貴司と千里は早朝ホテルをチェックアウトし、羽田から朝一番の便で旭川に飛んだ。
 
羽田6:50(ADO 55)8:30旭川
 
空港に降りる前の大雪山が物凄く美しかった。
 
空港のトヨレンで予約していたアクアを借りてまずは市内の美輪子の家に行く。
 
「ここ初めて来た」
と貴司。
 
「去年の夏に引っ越したんだよ」
「へー。でもこれけっこう年数が経ってる?」
 
「築40年。それで土地込みで800万円」
と千里が言うと
「安い!?」
と貴司は驚く。
 
「まあ実質土地代だけだよね」
「だよね!」
「叔父さんがけっこう自主的に修理したりしてるみたい」
「ああ、それはいいかもね」
 

それでピンポンを慣らすと美輪子が出てくるが、
「ちょうどよかった。今メールした所だった」
と言う。ClariS "nexus"の着メロが鳴る。開いてみると
 
《うちに桜木さんって人が来てるよ》
 
というメールが届いた所である。
 
「桜木・・・八雲さん?」
「あ、そんな感じの名前」
「男の子でしょ?」
と千里が謎めいた微笑みで訊くと
「うん」
と美輪子は答える。
 
「誰?バスケ関係者?」
などと貴司が嫉妬するような目で訊く。
 
「会ってみれば分かるよ」
と千里は微笑んで言った。
 

果たして居間にいたのはチェリーツインの桜木八雲(少女Y)であった。
 
(少女XとYの覚え方:男の子(XY)的要素のあるのが少女Yで、純粋な女の子(XX)なのが少女X.Yはひっくり返すと木の一部だから桜木、X(エックス)はΧ(カイ)に似ているからカイ→カワで桜川。八雲は須佐之男命で男神、陽は天照大神で女神)
 
「久しぶり〜」
と言ってハグすると、貴司がギョッとしているのが感じられる。
 
嫉妬しろ、嫉妬しろ。
 
「そういう訳で、チェリーツインの桜木八雲ちゃん、美幌町のマウンテンフット牧場で働きながら、音楽ユニットの活動をしているんだよ」
と千里は紹介した。
 
「どうもお世話になります。桜木です」
 
「まあ見ての通り、桜木さんは一見男の子に見えるけど、生物学的には女性だから」
と千里が言うと、美輪子・賢二も貴司も
 
「嘘!?」
と言った。
 
「FTMさん?」
「ただのファッションだよね?せいぜい男装趣味」
 
「まあそのあたりかな?こういう服を着るのが好きなだけで、別に男の子になりたい訳ではないし、恋愛対象も男性だし(ちょっと怪しい気はするけど)。でも結構男と思われるから、女子トイレや女湯脱衣場に入って悲鳴をあげられることはよくありますよ」
 
「ああ」
 
八雲は歌を歌う時はソプラノ(陽子がアルト)なのだが、普通にしゃべる時は喉の力を抜いて故意にオクターブ下の声を出しているし、話し方が男性的な話し方なので、聞いている側はふつうに男性が話しているように聞いてしまう。
 
(人が声の性別を判断する場合、ピッチより話し方で判断している。ピッチは実はあまり気にする必要が無い。男はしゃべるように話す。女は歌うように話す)
 

千里が婚約指輪をもらったというと桜木八雲は「おめでとうございます!」と言い、指輪を見て「いいなあ。でもこれ凄い豪華!」と言っていた。
 
「実はこないだ、テレビを見たんですよ」
と八雲は言った。
 
「ハート・ライダーってドラマなんですけど」
「あぁ・・・」
 
「その中で冬の北海道をバイクで走破する話が出てきて、無茶だろと思ったら実際に走破するのに使用したバイクって写真が出てきて」
 
「なるほど」
「それでコネのある放送局の人に問い合わせたら、実際に走破したのは醍醐春海先生だと聞いて、それで醍醐先生に電話してみたんですが、つながらなかったんで、新島さんに電話したら、そのバイクも醍醐先生の私物で旭川の親戚の家に置いてあるという話だったんで、それってここだろうと思って押し掛けてきたんですよ」
 
「見ました?」
「今見せてもらおうと思っていた所です」
 

それで美輪子宅の庭に置かれているバイクをみんなで見に行く。
 
「スパイクタイヤか!」
と貴司が驚いている。
 
「これを使わないと、雪道の走行は不可能」
「だろうね!でもスパイクタイヤって使っていいんだっけ?」
「125cc以下のバイクのみ許されるんだよ」
「そうだったのか!」
 
「だからこのバイクは110cc。でもターボ付いてるから実質倍の220ccくらいのパワーがある。それでないと日勝峠は辛かった」
 
「まさかこれで日勝峠を走ったの!?」
「走ったよ。楽しかったよ(結構恐かったけどね)」
「ひぇー!?よくやるなあ」
 
「これ少し触らせてもらえません?」
「乗ってみていいよ」
「わぁい!貸してください」
 
と言って桜木八雲はバイクを表に出すとエンジンを掛けて少し走らせてみる。家の前の道路を数回往復していた。
 

「これ凄い頼もしいです!」
「まあこのくらいの雪道は楽勝だよね」
 
「ね、ね、先生。このバイク使われます?」
「いや、今回は雨宮先生に言われて冬の北海道を走破したけど、あまりそういうことはやりたくない」
 
「だったら、このバイク、譲ってもらったりできませんよね? これなら冬の牧場の見回りとか細い道の先にある集落への配達に使える〜と思ったんですよ。そこに到達するルートが全て雪道ならスノーモービルで行けるんですけど、へたに除雪された道があると使えなくて最後は歩かないといけなくて」
 
「なるほどね〜。そのバイク、多少怪しい改造もしてあるけど、詮索しないのならいいよ」
「詮索しません!」
「それと旭川では登録が通ったけど、美幌で通るかどうかは分からないよ」
「うちの牧場の名前で通ると思います」
 
「なるほど〜。だったら実費でならいいよ」
「おいくらくらいですか?」
「改造費は60万円くらいかかっているんだけどね」
「だったら80万円でどうですか?」
「40万円でいいよ」
「ほんとですか?じゃそれで」
 
そういう訳でこのバイクは桜木八雲が牧場で活用することになったのである。
 
「でも向こうに持って行く時は軽トラかワゴン車に積んで運んだ方がいいよ。走って行くのは辛いよ」
「そうかも!」
 

美輪子の家に2時間ほど滞在してからレンタカーのアクアで留萌に向かう。ふたりの車は留萌市郊外のレジャー施設に到着する。ここのレストランで一緒に食事しましょうということになっていたのである。
 
「おお、新郎新婦の来場だ」
と言って玲羅が拍手する。理歌と美姫も拍手する。
 
「あんたたちいい服着てるね!私これイオンで8000円で買った服なのに」
などと千里の母が言っている。
 
「適当な服でいいと思うよぉ」
と千里は言った。
 

まずは指輪をみんなに見せる。
 
「ダイヤが大きい!」
「給料の3ヶ月分ということで」
「すごーい!」
 
「刻印が読めない」
 
「a takashi ad chisato, semper amemus. 日本語で言うと貴司から千里へ、一緒に愛し合って行こう、ということ」
と千里が解説する。
 
「何語?」
「ラテン語」
 
「へー。貴司さんラテン語得意なんですか?」
「いや全然分からないけど、何か格好良さそうだったから」
と貴司が言うと千里は苦笑している。
 
「貴司は仕事柄、韓国語や中国語は得意」
「へー!」
「まあ出来ないと仕事にならないから頑張って覚えた」
 

あらためて貴司が千里の左手薬指にエンゲージリングを填めてあげると、また拍手が起きていた。
 
ワインで乾杯してから食事を始める。この日、貴司の家族も千里の家族もこの施設の送迎バスで来ている。千里は運転するのでお酒はパスして貴司に飲んでもらって、自分は烏龍茶を飲んでいた。
 

ワイングラス1杯のアルコールは14gである(125ml×度数14%×比重0.8 = 14).
 
日本の法令で酒気帯び運転とされるのは呼気中0.15mg/Lのアルコールがあった場合である。血液中のアルコール濃度は呼気中アルコールの2000倍とされるので、これは血中濃度0.3mg/mlに相当し、体重50kgで含水率0.55の女性なら体内の水分が27.5kgあるので体内に存在するアルコールの量は 0.3 * 27.5 = 8.25gということになる。14gから8.25gに到達するには普通の女性のアルコールの分解速度は6.5g/hなので(14-8.25)/6.5=0.88h=53m ということで1時間経てば酒気帯び運転にならないアルコール濃度になることになる。
 
含水率というのは体重のどのくらいが水分かということで、日本人の場合、赤ちゃんで80%、青年で60%、老人で50%と言われる。欧米人は日本人より高い。また、筋肉は水を多く含み、脂肪は水をあまり含まないので、どうしても男性の方が含水率は高い。しかし、千里の場合はバスケットで筋肉を無茶苦茶鍛えているので並みの男性よりずっと高い含水率がある。千里の体重を64kg、含水率を0.66とすると千里の体内水分は42.24kgとなる。酒気帯び運転のボーダーラインは0.3mg/ml * 42.24kg = 12.622 g なので分解すべきアルコールは 1.378g に過ぎずお酒に強く筋肉も多い千里は11g/hくらいの分解速度を持ち 1.378/11 = 0.125h = 7.5m ということで7分半あれば分解できる。
 
そもそもワイン1杯飲むのにそのくらいの時間が掛かる。
 
つまり千里はワインを1杯飲んだとしても、飲み終えた瞬間、もう運転可能である!
 
但し千里は自主規制として、飲んだ場合は、どんなにシラフだと思っても1時間以内は運転しないことにしている。この日は食事と会話で2時間掛かっているのでどっちみち安全圏である。しかしそれでも運転することが分かっているのに飲むのはいけないと考えて飲まなかった。
 

「すみません。これの父親が今日は札幌に行っていて来れなくて」
と津気子が言っているが
 
「お父ちゃんに私の性別問題を話す方が大変だろうと思っている」
と千里は困ったような顔で言う。
 
「今回タイミングが合わなかったから、またあらためて3月か4月に来て、何とか話をするよ」
と千里は言った。
 
その問題以外は和気藹々としたムードで会話は進む。
 
「そもそも千里ちゃん、貴司のお嫁さんとしてうちの親戚の集まりに何度も出ているしね」
などと保志絵は言う。
 
「けっこう出てますね〜」
 

この日は日程的な話も出た。千里と貴司の代表活動の日程なども考えた所、大会が終わるのを待つと、千里は7.28-8.11のロンドン五輪、貴司は9.14-22のアジアカップということになり、その後で結納ということになると、12月くらいの結婚式を考えると押し迫りすぎるということになる。
 
それで6月くらいにやっちゃおうということになった。
 
千里は6月3日までトルコ遠征をしていて10日からは国内合宿に入る。その後、再度トルコに行き、7月1日まで大会は続く。貴司は6月3日まで国内で合宿をしていて、6月7日からまた次の合宿がある。なお、女子の篠原チームではないので、7日からの合宿という時は7日朝に集合すれば良い。
 
それで6月4-6日の間に吉日が無いか見てみると6月6日が友引であることが分かる。
 
「合宿の前日だけど」
「結納の勢いに乗ってロースターを獲得しよう」
 
ということで6月6日に結納をすることにした。結納は午前中に行い、その後、食事をして、午後から東京に移動して貴司は合宿所に入ることになる。
 
「結婚式も決めちゃいましょう」
「場所はどこでしますかね?」
「結納は双方の家のある留萌でいいと思うけど、結婚式は貴司さんの職場のある大阪がいいのでは?」
 
「じゃ12月の吉日で会場の取れる所という線で」
「だったら、その線で僕がホテルを探すよ」
「ではそういうことで」
 
 
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【娘たちのムスビ】(2)