【私の二重生活】(下)

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翌朝、特にすることが無いので洗濯をしたりお部屋の掃除などをしていたら、9時半頃、携帯に電話が掛かってきた。
 
「はい」
「おはようございます。こちら**クリニックと申しますが、やだのぶあきさんいらっしゃいますか?」
 
それは来週、去勢手術を申し込んでいる病院だ。でも私「やくものりあき」なのにと思う。どう名前を読み間違うとそうなるのだ?と思いながらも
 
「はい、本人ですが」
と答える。
 
「実は今日手術を受ける予定だった人がキャンセルして枠が空いてしまったのですが、もしご都合がつくようでしたら、前倒しで手術を受けられませんか、ということでお誘いなのですが」
 
私はそれは好都合だと思った。睾丸とはできるだけ早くサヨナラしたい。
 
「ちょうど3日間有休を取ったところだったんですよ。特に何も予定が無かったから、ぜひ受けさせてください」
 
「了解しました。そちらは御飯は最後は何時に食べられましたか?」
「えっと今朝はまだ食べてませんでした。昨夜22時頃に食べたのが最後です」
「飲み物は?」
「今朝コーヒーを2杯飲みました」
「何時頃ですか?」
「8時少し前だったと思います」
「でしたら問題ありませんね。では飲み物も食べ物も取らないようにしてご来院いただけますか?」
「分かりました。では参ります」
 

ちょっと急なことで驚いたものの、私はすぐに身支度を調えると、電車で新宿に出かけた。受付で名乗ると病室に通される。血圧・脈拍などを測られた。
 
手術は15時からということであった。病室であの付近の毛を看護婦さんが剃毛してくれた。つい立ってしまうので「すみません」と言ったが「慣れてますから大丈夫ですよ」と若い看護婦さんは言った。
 
14時半頃、裸にされ手術着に着替えさせられる。そしてストレッチャーに乗せられて手術室に行った。
 
「手術は全身麻酔で行いますが、麻酔が覚めたあと結構痛いと思いますので」
と医師が言う。
 
「ええ。それは構いません」
と答えたが、あれ〜?全身麻酔にするんだっけ? こないだは部分麻酔でいいようなこと言っていたのになあなどと思う。
 
「では始めますが、本当に手術していいですね?もう元には戻せませんよ」
「ええ。早く男を卒業したいです。手術お願いします」
 
それで私は点滴の管をつけられ、血圧計・脈拍計なども身体に取り付けられる。背中に注射(これが痛かった)を打たれたあと酸素マスクを取り付けられる。次第に眠くなっていき、記憶が途切れている。
 

目が覚めた時、医師や看護婦さんたちの顔があった。
 
「手術は成功しました。もうあなたは立派な女性ですよ」
と医師は言った。
 
「ありがとうございます」
と答えながらも、たかが睾丸を取っただけで、立派な女性になるのかなあ、などといぶかった。まあもう男ではなくなったけどね。
 
「経過が順調でしたら日曜の午前中に退院できますから」
「はい。日曜の夕方には仕事があるので、それでお願いします」
と答えつつ、せいぜい1泊でいいと聞いていたのにと思う。
 
「では病室に移って頂きますが、麻酔が完全に切れたらかなり痛いので、その時はナースコールして下さい。鎮痛剤を処方しますので」
「分かりました。お願いします」
 

麻酔が切れると本当に痛かった。去勢手術ってこんなに痛いのか。性転換手術なんてしたら、痛みはこんなものでは済まないんだろうな、などと思いながらも、鎮痛剤を処方してもらったにも関わらず襲ってくる激しい痛みに私は耐えていた。
 
ふと時計を見たら20時だった。あれ〜?私の手術ってどのくらいの時間が掛かったんだろう。去勢手術って30分もあれば終わるものじゃなかったの?
 
やがて医師が様子を見に来てくれた。
 
「痛みはどうですか?」
「痛いです」
「最初はどうしても痛みが大きいですからね。みなさん翌日にはかなり痛みが引くようですよ」
「そうですか」
 
ということは今夜はずっとこの痛みに耐えないといけないのか。本当に大変な手術なんだなあ。そういえば昔のカストラートの手術とか宦官の手術って随分死亡率があったというし、などと私は考えていた。
 
「あ、それから手術前に確認し忘れていたのですが、矢田さんの女性名は何でしたっけ? カルテおよび、ベッドの所の名前を男名前から女名前に書き換えたいので」
と医師が言う。
 
へ?と思って私は振り返ってみると、枕元にヤダ・ノブアキと書かれている。
 
「すみません。名前が全然違うんですけど。私はヤクモ・ノリアキですが」
「え?」
 
医師と看護婦が顔を見合わせている。
 
「ちょっと待って下さい。あなた矢田さんじゃないの?」
「私は八雲です」
 
「ねえ君、矢田さんはどこ?」
と医師が看護婦に訊く。
 
「私はこの方が矢田さんだと・・・」
と言って看護婦は青ざめている。
 
それからしばらく事務の子が呼ばれたり、婦長さんが出てきたりなど、私のベッドの前で大騒動が繰り広げられた。私はいったい何が起きているのやらよく分からないままそれを見ていた。
 
そして医師が言った。
「八雲さん。私はあなたに謝罪しなければならないことがあります。ショックかも知れませんが、しっかり聞いてください」
「はい。何でしょうか?」
 
と私は目をぱちくりさせながら医師に答えた。
 

 

あれから6年。話は2014年に戻る。
 
携帯の着メロが鳴る。私は目を覚ましてそれを取った。北川係長からだ。
 
「おはよう。ノリちゃん」
「おはようございます。奏絵さん」
 
私は制作部の女子社員たちと名前で呼び合っている。本当は係長と呼ぶべきなのだが、女子社員同士では肩書きをつけずに呼び合う習慣になっている。むろん彼女は私以外の男性社員からは「北川係長」と呼ばれる。
 
「今度のサマー・ロック・フェスティバルだけどノリちゃんが担当している子は誰か出てたっけ?」
「いえ。出てないです」
「当日何か仕事入ってる?」
「運悪く何も入ってません」
「それは運が良かった。ちょっと手伝ってよ。担当が重なっている子とか面倒みる人が足りなくてさぁ。ノリちゃん若い女の子の扱いがうまいから居てくれると助かるのよ」
 

そういう訳で私は休みの予定だったのを横須賀まで出て行くことになった。当日は線光花火という女の子3人のユニットや、杉田純子ちゃんなどのお世話をした。遠上笑美子ちゃんの案内も頼まれてので行ってみる。
 
「やっほー。ノリちゃんが来てくれたんだ?」
と明るい声で宣代さんが言う。
 
「おはようございます。この子が売出中の笑美子ちゃんですか」
と私は彼女に挨拶して言う。
 
「おはようございます。遠上笑美子です。よろしくお願いします」
と本人もきちんと挨拶する。
 
「よろしくー」
 
それでしばらく控え室で3人で話していたのだが、やがて笑美子ちゃんが悩むような顔で言う。
 
「なんか八雲さんとお話ししていると、私凄くリラックスできる感じです」
 
「そうなのよ。ノリちゃんは女の子をリラックスさせる話し方をするんだよね。あ、八雲さんなんて言わなくていいよ。ノリちゃんでいいから」
と宣代。
 
「《ちゃん》ってこの世界では敬称ですよね?」
と笑美子ちゃん。
 
「そう。ごく一般的な敬称。ふつうの会社とかで《さん》をつけるところをこの世界では《ちゃん》で呼ぶ」
と宣代。
 
「じゃ、ノリちゃん、よろしくお願いします」
と笑美子ちゃん。
 
「うんうん。僕もそう呼ばれる方が肩が凝らなくていいよ」
と私も笑って応じた。
 

笑美子ちゃんがトイレに立った時に、宣代から言われた。
 
「ノリちゃん、あんたさあ。いいかげんカムアウトしたら?」
「それやると会社クビになるから」
「いや、あんたなら『やはりそうだったか』と言われて、翌日からみんな普通に女子社員として接してくれるよ」
「そうなったらいいですけどねー」
 
「結局二重生活を続けているんだ?」
「ええ。仕事場では男で、プライベートでは女です」
「下着はいつも女の子でしょ?」
「私、男物の下着は持ってないですよ」
 
「それで困ったことない?」
「ツアーで回ってて、お風呂入りましょうと言われて、イベンターの人にお風呂に誘われたことあります」
 
「どうしたの?」
「風邪気味なのでといって遠慮させてもらいました」
「そうだよね。ブラジャーにショーツつけているの見たら仰天するだろうし」
「全くですね」
 
「だけどあんたとあそこで遭遇した時はびっくりしたなあ」
「チェリーツインも人気安定してますね」
 

あれは例の手術を受けた翌週だった。体調はきついし傷も痛いのを頑張って福岡まで往復して精神力だけで平静を装ってサイドライトのイベントを成功させた。そのあと月曜・火曜もひたすら寝て体調を回復させて、何とかなるかなという感じでチェリーツインとの初会合に臨んだ。
 
加藤課長と2人でζζプロを訪れ、応接室に通される。それでその部屋にチェリーツインの7人が入ってくる。そして彼女たちに続いて入って来た人物を見て、私は仰天した。
 
「宣代さん?」
「ノリちゃん?」
 
「何だ、君たち知り合い?」
と加藤課長から訊かれる。
 
「中学の時の後輩なんです」
と宣代が言った。
 
「だったら好都合だね。うまく青嶋課長さんと連絡を取り合って運用していってあげて欲しい」
と加藤課長は言った。
 
「だけど、てっきり女性の担当者かと思ったのに」
などと宣代は少し悪戯っぽい表情で言う。全く!!
 
「済みません。女性のアーティストにはできるだけ女性の担当者をつけるようにはしているのですが。八雲君はこれまでも女性アーティストとうまく付き合ってきているので、行けるかなと思いまして」
と加藤課長。
 
「もしかして女性の心を持っているのかしら?」
 
ちょっとー!
 
「本人に訊くと、中学時代に他の男子が女装させられたりした時、彼はなぜかセーラー服着てみない?と声が掛からなかったと言ってましたから」
 
「ああ、そんなことあった気もするね」
と宣代は楽しそうに私を見ながら言った。こちらはもう内心冷や汗であった。
 

「チェリーツインがインディーズにしては大きなセールスをあげて社内的にもメジャーデビューさせては?という話が出てきた時に、やめた方がいいって言ってくれたのも、ノリちゃんだったね」
 
と宣代はあの2008年の時のことを思い返すように言った。
 
「チェリーツインの場合、メジャーの宣伝手法になじまないんだよ。テレビやラジオに出そうにも、気良姉妹はしゃべれない、バックで歌っている桜姉妹は絶対に顔出しNG。だけど紅姉妹はあまり面白いことが話せない。桃川ちゃんは天然で楽しいんだけど、逆に言ってはいけないことまで言いそうで怖い」
 
「なんかあのふたり紅姉妹って言われちゃうね」
「あっと。男だったか。面倒だから性転換しちゃえばいいのに」
「よく言われているみたい」
 
「それにチェリーツインのセールスって微妙だからさ」
「そうそう。メジャーだと逆に利益が減る。インディーズの方が儲かるという微妙な売上なんだよね」
「それで安定しているから、あのユニットはそれでいいんだよ」
 

笑美子ちゃんのステージを見届けた後は、細かい雑用をあれこれこなした。そしてイベントも終わった後、だいたい片付いたかなと思っていた時、そのチェリーツインの桃川さんとばったり会った。それで「お久ー」とか「最近どう?」などと当たり障りのないことを話していたら、XANFUSの音羽ちゃんが通りかかった。
 
「春美さん、おひさー」
などと言って、桃川さんとハグしている。
 
「これから打ち上げやるからさ、ちょっと来ない?」
と音羽が言う。
 
「あ、そちらはどなたでしたっけ?」
「★★レコードの八雲さん」
「★★レコードの人なら、いっしょに来ません?」
「いや、僕は遠慮しておきますよ」
 
とは言ったのだが、音羽はわりと強引である。結局、そこら辺に居たチェリーツインの紅ゆたか・紅さやかまで一緒に連れられて打ち上げの会場に向かうことになった。行ってみると、XANFUSとローズ+リリーとKARIONの合同打ち上げだったようである。XANFUS担当の福本深春さん、ローズ+リリー担当の氷川真友子主任、KARION担当の土居有華さんもいるが、関係無いはずの八重垣君と一畑君までいる。
 
「おお、八雲、お前も連れてこられたか?」
などと八重垣君から言われた。
 
彼は男性社員の中では私が比較的話しやすく感じる貴重な人物である。普通の男性の前では私はつい身構えてしまう。しかし彼とはなぜかそういう壁のようなものを感じずに話すことができて少し不思議な気がしていた。
 
「ノリちゃ〜ん」
などと福本さんが手を振るので
「ミハルちゃ〜ん」
と私も手を振っておいた。
 

打ち上げはかなり盛り上がった。しかしここにはうちの会社の売上の恐らく5割か6割に貢献しているアーティストが集まっているなと思った。ローズ+リリーの2人は歌手としてもソングライターとしても、今いちばん旬のアーティストだ。彼女たちだけでおそらくうちの売上の3割くらいを占めている。KARION, XANFUS も各々大きなファン層を持っている。しかしローズ+リリーのケイとKARIONの作曲者・水沢歌月が同一人物だったというのは度肝を抜かされた。あれ知っていたのは社内でも町添制作部長など、ごくわずかだったらしい。よく掛け持ちできていたものだ。
 
しかしこの子たちは素直な子たちだなと、私は彼女たちと話ながら思った。これだけ売れていたら、天狗になるアーティストが多いし、売れてるのをいいことにワガママし放題になるアーティストも多い。
 
しかし見ていると、ケイちゃんって気配りが凄いし、凄く謙虚だ。恐らく自分が今ポピュラーミュージックの世界の頂点に立ちつつあることを全く意識せず、むしろまだ「若い挑戦者」であるかのように、更なる高みを目指しているように見える。マリちゃんとの関係は恋人だとも噂されているが実際はどうなのだろうか? この手の話には多分の演出が入っているから実態は分からないよなと私は思っていた。
 
確かこの子たち最初の頃「和製 t.A.T.u.」などと言われていたけど、その当のt.A.T.u.がレスビアンというのは実は嘘だったことを後に明らかにしている。
 
そういえばXANFUSの2人もレスビアンという話だけど、そちらはローズ+リリーの真似をしてやはり演出で言っているのでは?などとも思ってみるものの、こういうのは本当に分からない。
 

会場を見回していて、ひじょうに強いオーラを出している女性がいるのに気付く。近くに居た、スタッフっぽい女性に「あの人誰ですかね?」と訊くと
 
「作曲家・醍醐春海の一部で、水野麻里愛さんです。芸大の修士2年生ですが、秋からしばらくフランスに留学してくるんですよ」
 
と言う。
 
「いや、なんか凄そうな人だなあと思って」
「彼女、ピアノ・ヴァイオリンどちらも物凄く上手いです」
「あれ? 親しいんですか?」
「ええ。同じ高校だったんです」
 
私は一瞬考えた。
 
「すみません。あなたは・・・・」
「あ、申し遅れました。私もその醍醐春海の一部で村山千里と申します」
と言って彼女は名刺をくれる。
 
《作曲家・醍醐春海》
と書かれている。
 
「わっ、作曲家さんでしたか。すみません!」
と言って私も慌てて名刺を出して交換した。
 
嘘だろ?この子、とても音楽やるって雰囲気じゃないのに?どちらかというとそこら辺のマクドナルドかロッテリアでバイトしている、どこにでもいそうな女の子なのに。およそ、音楽家のオーラを持っていない。よくこれで曲とか書けるなあと思いつつ、醍醐春海って何だっけと必死に思い出す。
 
「あ、えっとKARIONの作曲家さんでしたっけ?」
「はい。KARIONに楽曲を提供しているソングライターは多いので、私はその4番手か5番手くらいですけどね」
 
良かった!半分当てずっぽだったけど当たった!!でも4番手か5番手くらいか。そうだろうなあ。何か大した作曲家には思えないもん。
 
しかしこの醍醐さんという作曲家は何だか話が聞き上手で、私はあまりしゃべるつもりのないことまで結構しゃべってしまう。ふと気がつくとアーティストの育て方に関する持論まで話してしまい、それを近くにいた氷川主任が頷きながら聞いていた。
 
けっこう醍醐さんと話していた時に、彼女が唐突に言った。
 
「八雲さん、ホルモンバランスが凄く崩れている。疲れやすいでしょう?」
「ええ。ここ数ヶ月けっこうきついんですよ」
「イーク*ンはサボらずに毎日ちゃんと飲んだ方がいいですよ」
 
へ?
 
私は一瞬何を言われたのか分からなかったのだが、何か聞き返そうとした時、彼女はKARIONのいづみに呼ばれて「済みません。失礼します」と言って向こうに行ってしまった。
 
はっ。
 
と思って私はあたりを見回す。幸いにも近くには他に人が居ない。今醍醐さんが言ったことばは誰にも聞かれていないと思った。
 
しかし・・・・確かに私はイーク*ンを飲んでいる。でもでも・・・私、そのことを言ったっけ?? いや言っていないはずだ。よしんば私が女性ホルモンを飲んでいることに何らかの形で気付いたとしても。。。ふつう最初に出てくる名前はプレマ*ンだ。そのジェネリックを飲んでいるとしても、有名なのはエ*トロモンとかプ*モンとかである。私はエ*トロモンの味が嫌いなので少し高いものの飲みやすいイーク*ンを使っているが、イーク*ンはプレマ*ンのジェネリックの中では割とマイナーな方である。なぜ彼女はイーク*ンという名前を出したのだろう?
 
待て待て。
 
もしかして、私が隠れオカマだって、あの人、気付いたの〜〜〜!?
 

8月のお盆すぎはステラジオもこの夏のイベントを全国各地でこなすので、それについてあちこちを飛び回っていた。彼女たちは確実に人気が上昇してきた。特にホシが高校時代に書いていた『私はピエロ』という曲を、私が「これ絶対いいよ」と言って、事務所側の「こんなの売れませんよ」という反対意見を押し切って楽曲制作させ、とりあえずgSongsで公開させたのが、ライブで演奏したのを機にダウンロードされるようになり、そのダウンロードが増えるにつれライブ会場に来てくれる客が増え、ライブに来る客が増えるとダウンロードがまた伸びるという、きれいな相乗効果を示していた。
 
8月初めに公開してから既に7万ダウンロードもされており、ひょっとしたら10万行ってしまうかもという状況になってきた。
 

「八雲君、今抱えているのは誰と誰だったっけ?」
と9月頭に加藤課長から尋ねられた。
 
「いちばん大きいのは丸口美紅ちゃんです。それからステラジオ、にゃんじーら、タイトソックス、カンツォン、魔羅Ich(まらいひ)くらいかな。まともに稼働しているアーティストでは」
 
「ステラジオはブレイクしそうだね」
 
「彼女たち行くと思います。できたら年末に全国ツアーさせたいんです。予算もらえませんか?」
「検討しよう。丸口美紅ちゃんは安定してるよね?」
「ええ。もうこのまま行くと思います」
「じゃ、美紅ちゃんは今里君に引き継いでくれない? 彼女にも言っておく」
「分かりました。誰か新人ですか?」
 
「うん。ちょっと面白い素材がいてね。この春に高校を卒業してもうすぐ18歳なんで、アイドルとして売るには微妙なんだけどね。丸山アイちゃんって言うんだよ」
 
「シンガーソングライターですか?」
「結構いい曲は書くけど、楽典とかの知識が乏しいみたい。スコアとかを作る技術は無いんで、多少の補作を含めたスコア整理係は必要。でも年齢が年齢だから、シンガーソングライターの線で売ろうと思っている」
 
「なるほど」
「あ。ちょっと会議室に行こう」
 
と言うので一緒に空いている部屋に入る。入社1年目の照枝ちゃんと目が合ったので合図をする。コーヒーを持って来てくれるはずだ。
 

「これが彼女の資料」
と行って大きな封筒を渡される。中の資料を取り出すが私は戸惑った。
 
「男女のデュオですか?」
「違う。それどちらもアイちゃん」
「どういうことです?」
 
「このことは他言無用にしてもらいたいのだけど、彼女は戸籍上は男性なんだけど、実際には男性と女性の二重生活を送っている」
 
ドキッとした。それって私みたいじゃん。
 
「中学時代に去勢して高校3年の夏休みに性転換手術してしまったらしい。法的な名前は久保佐季(くぼ・さき)と言って、元々男女どちらでも通用する名前なんだけど、法的な性別も20歳になったらすぐ女性に直すらしい」
 
「最近は時々そういう子がいますね。ローズ+リリーのケイちゃんとか」
 
「うんうん。あの子は公称では19歳で性転換手術したということになっているけど、町添さんとかの話聞いてると、どうも彼女も実は高校時代に性転換しているような気がするね。不確かだけど」
と課長は言う。
 
「ケイちゃんは不自然さがないから、かなり若くして去勢とかもしたんだと思いますよ。私はあの子が高校3年の時休養していたのは性転換手術を受けたからでは想像していたんですけどね。ローズ+リリーの印税が入ったんで手術を受けたんでしょ?」
 
「うん。そういう説もあるよね。まあそれで丸山アイちゃんもMTFなんだなと思ったんだけど、本人は自分はMTXだと言うんだよ」
「なるほど」
 
「僕もMTXって言葉を知らなくてね。氷川君に聞いたら教えてくれたけど、実はいまいちよく分からない」
「私の知り合いにMTXの人が居ますから、だいたい分かります」
 
「ほんと?それは助かる。でも要するにこの子、男の子という状態に違和感を持っていたので男性器を除去したけど、本当に女の子になりたいというのとはまた違うらしいんだよね。だからおっぱいは大きくしていないらしいし、男の格好で出歩くこともあるらしい。そのあたりが僕はよく分からないんだけどね。男としても生きるのなら男性器は持っておけばよかったのにと言ったら氷川君から理解が無さすぎると叱られてしまった」
 
「自分の曖昧な性別をそのまま受け入れているんだと思います。男性器を除去したのは、つけたままにしていると否応無しに身体が男になってしまって、女の自分を生きるのに辛かったからだと思います。じゃ、この子、男の格好をさせたり、女の格好させたりするんですか?」
 
と言いながら、そんなタレントを売り出すのはかなり難しいぞと私は思った。どうしても世間的には「色物」と見られてしまう。例えばIVANみたいな位置付けは、このタイプはおそらく好まないだろう。
 
「その問題についてね。僕も悩んだんで、ある人物に相談したら、男と女の両方で売ればいいというんだよ」
 
「えっと・・・」
 
「丸山アイという名前は女性シンガーソングライターとして売る。一方で高倉竜という名前を作って、こちらは男性演歌歌手として売る。両者は一切関わりを持たせないようにする。高倉竜はメディアには顔を一切露出させない」
 
「それは面白い」
 
「彼女としては女性でいる時間と男性でいる時間の両方を持っておきたいというんだよね」
「そのあたりはなんとなく理解できます」
「そう? そのあたりから僕の理解の範疇を超えているんだけどね。いや、八雲君に担当してもらおうかなと思ったのは、君、以前チェリーツインを担当してたよね」
 
「もう随分前ですけどね」
「あれの実質ボーカルの少女Yこと桜木八雲ちゃんがFTXだと言っていたなと思ってさ」
「ええ。彼女はそうです。彼女は純粋女性寄りのFTXなんですよ。女性として暮らしている部分の方が大きいけど、男として生活する自分も持っている」
 
「彼女の名前が八雲と君の苗字が八雲で、実はそこからふと君のことを思いついたんだけど、確か実際に担当していたこともあったよなと思ってね。FTXの子を担当した経験があるなら、この子も何とかならないかと思ったのが実際のところなんだよ」
 
私は苦笑した。当時「八雲さん」と呼ばれると、桜木八雲と私が同時に返事したりしていたものだ。
 
「分かりました。ぜひやらせてください」
 
と私は言った。正直、こういう微妙な性別の子を、この方面に理解の無い人には担当して欲しくないと思って引き受けた部分が大きかった。
 

それで顔合わせすることにして、私は彼女の事務所、∞∞プロに向かった。大手の事務所で、芹菜リセ、ハイライトセブンスターズ、などを抱えている。かつてマリンシスタ、Lucky Blossom、大西典香なども売っていた。しかし私はこの事務所のタレントさんは担当したことが無かった。
 
私はふだんは会社でけっこうジーンズにポロシャツやセーターなどの格好で勤務しているし、スタジオでの音源製作やライブに同行する時もそういう格好が多いのだが、さすがに初めて訪問する先なので、渋々背広を着た。こういう服を着ると、女の自分を無理矢理男の服の中に閉じ込めてしまっているみたいで凄く不愉快だ。
 
水道橋駅近くにある∞∞プロの事務所を訪問する。名刺を出して訪問の趣旨を告げられると応接室に通される。
 
やがて20歳くらいのコムデギャルソンっぽい服を着た女性と16-17歳くらいに見えるブランド名は分からないもののひじょうにセンスのいい服を着た少女が入ってくる。
 
「おはようございます。私、∞∞プロの五田と申します。こちらが丸山アイです」
と20歳くらいの女性が言う。
 
「おはようございます。丸山アイです」
と少女も言う。すごくきれいな声だ! 本当にこの子、男の子だったの?
 
「おはようございます。★★レコード制作部の八雲と申します」
 
とこちらも挨拶する。とりあえず名刺交換してから座る。
 
「この子、他の者が担当する予定なのですが、今ちょっと別のアーティストのトラブルで出ておりまして、戻りましたら参ると思いますので」
と五田さんが言う。
 
「いえいえ大丈夫ですよ」
 
少し話している内に、私はこのアイちゃんをどこかで見たことがあるような気がした。どこで見たんだっけとかなり考えていた時に、唐突に思い出した。そうだ!8月にステラジオのツアーが終わった後、都内のホテルに後泊した時、朝食の時に同席した少女だ。
 
しかしそれを思い出すと同時に私は冷や汗を掻いた。あの時、私を女装していた。それにこの子が気付いたら、やばいじゃん。
 

取り敢えず彼女のデモ音源を聴いてみる。
 
自作曲で『隅田川のほとりにて』というフォーク調の曲である。ギターの伴奏1本で歌っているが、突き抜けたように澄んだハイソプラノがとても美しい。私はその歌を聴いた瞬間、この子は10年に1度の逸材だと確信した。
 
聴き終わってから拍手すると彼女はお辞儀をするが、私は言った。
 
「君のプロフィール、見たら長崎県の出身ということだけど、この歌、本当に『隅田川のほとりにて』という名前だったの?」
 
「あ、いえ済みません。実は長崎市の中島川を歌ったものだったんですが」
「やはりねー。歌われている風景が隅田川じゃないもん」
「すみませーん」
「じゃ元のタイトルは?」
「『中島川舟歌』です」
「でもそのタイトルだと演歌だよ」
「言われました! ついでに中島川なんて誰も知らないから隅田川にしろと言われて」
 
「まあよくありがちだよね。『霧の摩周湖』なんかも危うく『霧の霞ヶ浦』にされるところだったというから」
 
「五田さん、これ『中島川のほとりにて』というのではどうでしょ?」
「担当のものが帰ってこないと私では判断できないですが、レコード会社の方がおっしゃることであれば、通ると思います」
「ではその方向で」
 

そんな話をしていた時、五田さんに電話が入り離席する。それで私はアイちゃんと直接、いろいろ話をした。
 
「この音源のギターは君が弾いたの?」
「はい。中学の時に、私が友だちのを借りたり、学校の備品を借りたりして練習していたら姉がお金半分出してあげるから買っちゃおうよと言って、ヤマハの安いのなんですけど。それで一所懸命練習しました」
 
「あ、僕もヤマハのFGを中学以来弾いてるんだよ」
「私もFGですぅ!」
 
「うまいと思うよ」
「ありがとうございます」
 
「だけどアイちゃんって、ほんとに自然に女の子に見えるね。去勢とか性転換とかするってので、親に反対されなかった?」
 
「去勢はこっそりやったので、後で知られた時、母が気絶しました」
「ああ、可哀想に」
「親不孝者だとは思うんですけど、自分が抑えられなかったんです」
「僕も知り合いにMTFの子がいるから、なんとなく分かるよ」
「ほんとですか。性転換手術は親にお金出してもらったんですよ」
「理解してもらえてよかったね」
 
「でもそこまでしておいて、男の生活と女の生活と両方やってるので、親からあんた、せっかく男になったのに何で女の格好とかしてるのよって言われたりするんですけどね。今回も一応女性歌手としてデビューすることになっちゃったし」
 
彼女のことばに私は混乱した。
 
「ちょっと待って。アイちゃんって男から女に変わったんじゃなかったんだっけ?」
 
「え?逆ですよ。女に生まれたけど男になったんです」
 
「そうだったんだ! ごめーん。上司から逆に聞いていたよ」
と言って私は謝る。
 
ああ、加藤さんって時々大きな誤解していたりするからなあ、と私は思った。
 
「でも女から男への性転換手術って大変だったでしょ?」
 
「中学の時にこっそり卵巣除去の手術を受けちゃったんですよね」
「それは娘がそんな手術受けたと知ったら、親はショックだろうね」
「だったと思います。でも自分に生理があるの、もう我慢できなかったら」
 
「うん。そのあたりの気持ちは結構分かる気がする」
「それで高校3年の夏休みに、おちんちん作る手術をしたんです。でも実はまだ子宮は取ってないし、実はヴァギナもふさいでないんですよね」
 
「じゃ、ふたなりボディだ?」
 
と訊きながらも、私はこんな美少女におちんちんがあるなんて、もったいないと思った。
 
「ええ。実は男とも女ともセックス可能な状態なんですよ。まあどちらも経験は無いですけどね」
「なるほど」
「あとおっぱいはほとんど無いです。だから男湯パスするんですよ」
「へー」
「一応女装する時はシリコンパッドをブラに入れてますけどね」
「あれはニューハーフのタレントさんに触らせてもらったことあるけど、凄くリアルな感触だよね」
 
「そうなんです。友だちも本物みたーい、と言ってたくさん触ってました」
「アイちゃん、友だちは男の子が多いの?女の子が多いの?」
「半々ですよー。女の子とガールズトークするのも楽しいし、男の子と猥談するのも楽しいし」
「それ記者さんとかの前では言わないように」
 
「はーい! でも何か八雲さんって、凄く私、話しやすいし、こういうの理解してくださっているみたい」
 
「そうだね。そういう友人を見ていたから」
 
そんなことを言った時、ふとアイが考えるようにして言った。
 
「八雲さん、私最初お会いした時から、何だかどこかで見たような気がしていたのですが、8月に**ホテルのロビーで相席しませんでした?」
 
ぎゃっ。バレた?
 
彼女は私の反応を見て確信したようだ。
 
「あ、やはりそうですよね。あの時も最初は気付かなかったんですよ。でも御飯食べている内に『あれ〜、この人、女装者みたい』と思って」
 
「参った、参った。あれ、私の趣味なんですよ」
「MTF?FTM?」
「MTFです」
「じゃ、さっき言っていたお友だちって」
「実は私のこと」
「すごーい。会社には言ってあるんですか?」
「内緒」
「だったら私も内緒にしておきますね」
 
という彼女はキラキラした目をしている。まあでもこの子との付き合いではこちらがMTFというのは、バラしておいた方がスムーズかも知れないな、と私は開き直った。
 

それで向こうがこちらの女装のことなど訊いて少し話していた時、応接室のドアが開いた。
 
そして入って来た人物を見て、私は呆気にとられた。
 
彼女は言った。
 
「すみませーん。遅くなってしまいまして。私、丸山アイを担当しております菱沼と申します」
そして、私を認識した上で更に続けた。
 
「あら?ノリじゃないの。あんた、なんでそんな男みたいな格好してるのよ?」
 
私は何かが音を立てて崩れるような感覚を覚えた。
 

彼女とは9年ぶりの再会だった。
 
「伊代、いつ帰国したの?」
と私は訊いた。
 
「もう4年くらいになるかなあ。連絡しようとしたけど、番号が変わってたみたいだったし」
「ごめーん。仕事柄大量に名刺配ってるから変な電話も多くて、時々電話番号変えてるんだよ」
「会社から携帯支給されてないの?」
「それもあるけど、個人の携帯に掛けてくる人も多いんだよ」
「ああ、分かる分かる」
 
アイは成り行きが最初理解できなかったようだが、私と伊代が大学時代の友人だと言ったら驚いていた。
 
「ついでにどういう意図でこんな格好してるのか知らないけど、この子実は女の子だから」
と伊代は言う。
 
「実はその話をしていたところです」
とアイ。
 
「ああ、アイちゃんにはバラしたの?」
 
「いえ、私が八雲さんの女装外出している所に遭遇したことがあったので。私もその時は女装だったんですけどねー」
とアイが言う。
 
「やはり縁があったんだ!」
 

「でも公私で性別交代するって、私みたーい。私も女性歌手として契約しちゃったから、仕事では女だけど、プライベートは男で」
とアイは言うが
 
「アイちゃん、プライベートでも男の格好での外出はしないことと契約書に書いたはずだけど」
と伊代が釘を刺す。
 
「すみませーん」
 
しかし私の性向を知り、それを事務所の担当者も承知であったことが分かったことで、ますますアイは私に親しみを持つことができたようであった。アイは私のことを「ノリちゃん」と呼ぶようになった。
 
「でもノリ、カムアウトして女性社員として勤務すればいいのに」
と伊代は言う。
「それやったら首にされるよ」
と私。
 
「大丈夫だと思うけどなあ。驚かれるかも知れないけどさ」
「数年前、九州のほうでスカート穿いて勤務しようとした人が首にされてるから」
「ひどーい。★★レコードってそのあたりの理解のある会社だと思ってたのに」
「理解のある人もいるけど、まだまだ理解しようとしない人の方がずっと多いよ」
「だいたい、あんたもう玉は無いんでしょ?」
「うーん。そのあたりは個人情報保護法で」
「みずくさい。おっぱいは?」
「少しだけある」
「女性ホルモンは?」
「それは飲んでる」
 
と言いながらも、それを結構サボっていたのをこないだ醍醐さんとかいう作曲家に指摘されたなあと私は思い出していた。いつも3ヶ月分くらいの女性ホルモンを購入して、それが無くなるのに1年くらい掛かっている。
 
「じゃ玉があったとしても機能停止してるよね?」
「まあ男性機能や生殖能力は無いよ」
と私が言うと
 
「私も生殖能力無いでーす」
とアイが言っている。
 
「じゃ私、音源製作とかの時にノリちゃんが女の人の格好してても黙ってますから、代わりに私が男の格好で歩いてるの見ても咎めないということで」
 
などとアイは言うが
 
「男の格好はあくまで高倉竜の制作をするスタジオ内およびカーテンを閉めた自宅内で人に見られないように」
 
などと伊代は言う。
 
しかしわざわざ性転換手術までして男の身体になったのに、女性歌手としての体裁を保つため男装禁止ってのは、ちょっと可哀想だなと私は思った。
 
「だけど二兎を追う者は一兎をも得ずってことわざあるけど、私たちのことみたいなんて思いません?」
とアイは言う。
 
「どういうこと?」
「私にしてもノリちゃんにしても、男の生活と女の生活を持っているんでしょ?つまり男と女の両方生きているんだけど、その代わり男としても女としても生殖できないんです」
 
「まあそれは去勢手術受ける時に覚悟を決めたよ」
 
と私が言ったら
 
「なーんだ。やはり去勢してるのか」
と伊代。
 
しまった!! 隠しておくつもりだったのに!
 
アイが「へー」という顔をして頷くようにしていた。
 

私はそれからしばらくの間、丸山アイに自作曲を6曲提出させ、その中から私の感覚でデビューに使用する2曲を選択した。伊代にも改題の承諾をもらった『中島川のほとりにて』と『オーバーパス』という曲である。後者は長崎駅前の歩道橋のところで愛しい人を待ち伏せている少女の思いを歌ったものである。
 
その音源製作の伴奏をどうしようかと思っていた時、スケジュールの空いてしまったバンドがいるのだけど、誰か用事はないかという話が回ってきた。それで演奏を聴いて見てそれ次第ではと返事をしたら、やってきたのはPurple Catsというバンドである。
 
「8月のサマフェスの打ち上げでも会いましたね」
と私は言う。
「あ、どもー。奇遇です」
 
「どうしたんですか?しばらくXANFUSの音源製作とかライブとかが無いんですか?」
「いや、私たちクビになっちゃったんです」
「えー!?」
 
なんでも会社の社長が替わって新社長がXANFUSの音源は打ち込みで作ると言い出し、それでバックバンドの彼女たちが首になったのだそうである。
 
それで私は∞∞プロの伊代と話し合い、取り敢えず音源製作に付き合ってもらい、その後もしかしたらライブツアーの伴奏も頼むかも、という線を提示した。実際アイの音楽には、男性バンドより女性バンドの方が合う気はしていたのでPurple Catsの参加は好都合であった。
 
「ね、ね、ノリちゃん」
とPurple Catsのyukiが制作中私に話しかけてきた。
 
「何ですか?」
「ノリちゃん、女装の才能があると見た。一度スカート穿いてみない?買ってあげるよ」
「勘弁してよ。由妃ちゃんは男装してみない?背広買ってあげるよ」
「私、男嫌いだからいい」
「へー」
 

一方で男性名義の高倉竜の制作も進めて行った。
 
「こちらは顔とかも出さないんですよね?」
「そうそう。そういう歌手は結構いるから。低予算の歌手の場合」
「確かに」
 
「あと自作曲だと曲でバレるから、他の作曲者さんに提供してもらう」
「ああ、そんな話でしたね」
 
実際にアイの男声での歌唱も聴いたが、ほんとに魅力的である。確かにこれは使わないのはもったいないと私は思った。
 
「だけどアイちゃん、男声の声域は狭いね」
「そうなんです。2オクターブ無いんですよ」
「女声のほうは3オクターブ超えているのに」
 
そちらの伴奏については、Purple Catsのキーボーディストnoir(ノワール)が「自分に打ち込みで作らせてもらえないか」というので、とりあえず試作させてみると、かなり良いものを作って来た。演歌らしく、生ギターの音をメインにストリングや管楽器もフィーチャーした、大がかりなものになっている。
 
「これ誰の作詞作曲だっけ?」
と言いながら私はクレジットを見てギクッとした。でも気にしないことにした。
 
「結構作り慣れている感じだね」
と私は彼女に言う。
 
「こういうの好きなんですよ」
「XANFUSでは打ち込みやったことないの?」
「最初期の頃は試作してみたんですけどね。すぐに楽器演奏者が4人そろっちゃったから、こういうのはやらなくなりましたね」
 
「noirはXANFUSの最古参メンバーだもんね」
とmikeが言う。
 
「え?そうなの?」
 
noirが説明する。
「正確には私と光帆とあと2人で4人でXANFASっての作って、そのあと2人辞めちゃって、それからyukiと音羽が参加して、最後にmikeとkijiが参加して6人であらためてXANFUSとして再スタートを切ったんですよね」
 
「へー。あれ?じゃPurple CatsってXANFUSと一緒にできたんだ?」
「経緯としては複雑なんですけど、まあそんな感じです」
 

9月下旬。★★レコードの一部の社員が性別の取り扱いに関する要望書を提出。会社側では当事者や法務関係の人を集めた検討会を開き、その問題に対応した新しいルールが10月末に発効した。それに沿って全国で40名ほどの社員が「性別変更届」を提出し、ある人はそれまで男性社員として勤務していたのを女性社員に変更し、ある人はそれまで女性社員として勤務していたのを男性社員として勤務し始めた。多くの現場で、上司や周囲は彼ら・彼女らを(少なくとも表面的には)暖かく受け入れてあげた。
 
「しかし三田原さんが男から女に変わったのはびっくりしました」
と私は少し落ち着いた所で、同僚の八重垣君と話した。
 
「あの子、全然そんな気配も見せてなかったからね。個人的にはかなり悩んでもう辞表提出して、フリーになってどこか女として雇ってくれる所を探そうかと思っていたらしいよ」
と八重垣君は言う。
 
「いや、彼じゃなかった彼女の才能は惜しいよ。これまでも***とか***とか成功させてるもん」
「うん。今回の会社の指針発表で、そういう才能を失わずに済むことになったと思うね。僕の個人的な感想なんだけど、音楽業界には性別が曖昧な人は多いと思う」
「それは一般の企業や役所ではそういう生き方が許してもらえないからだよ」
「そうそう、それもあると思う。他にね、そもそも性別の曖昧な人には実は芸術的な才能の高い人が多いんだよ」
 
「あ、それもありそう。だけど今回のって、当事者グループが社長に直訴したって話だけど、勇気あるよね。下手したらクビじゃん?」
 
「うんうん。ほんと勇気あるよね」
と八重垣君は語っていた。
 
「ところで、八雲君は女に変わる予定は?」
「ちょっと興味あるけど、ちんちん無くなると困るかも。八重垣君は?」
「そうだなあ。何かの間違いでちんちん無くしたら女になってもいいかなあ」
「八重垣君、女装の経験あるの?」
「一度やったら男にしか見えんと言われた。八雲君は中学の時にセーラー服を着せられたって言ってたね」
「二度と声がかからなかったからね」
 
でもまあ確かに八重垣君、男らしいもん。私が女の子になりたいことカムアウトしちゃったら、恋人にしてもらいたいくらいだよなあ、と私は思っていた。
 

本社制作部では3人の社員が性別の変更を申請した。私たちは彼ら・彼女らの担当アーティストに接触して、担当者の性別変更を受け入れてくれるかどうか打診してまわるのに追われた。多くのアーティストは驚いたものの、別に本人であるのなら性別は些細な事と言ってくれたり、その人が気に入っているので性別が変わっても仲良くさせてもらいたいと言ってくれたが、一部アイドルで「女性の担当者でないと困るので」とか男性アーティストのマネージャーから
「女になったと聞いたらレイプされかねないから、男性の担当者に変えて下さい」などという要望が出たりして、その変更の割当てにも追われた。結果的に私も森風夕子ちゃんという女子高生アイドルの担当をすることになった。
 
「大飯さんが男の人になっちゃったと聞いて私びっくりして。私は大飯さんが男であっても別に構わないと思ったんですけど、事務所から男性の担当者なら楽屋で着替えるのにも困るじゃないかと言われて」
 
などと本人は言っていた。
 
「だけど私も男ですけど」
と私は言う。
 
「あれ〜、そうですよね〜、なんでこういうことになったんだろう?」
 
と本人は不思議がっていたが、私も不思議だ!
 
「でもノリちゃん、男の歌手とかあまり担当してないでしょ?」
と彼女のマネージャーの秋田有花さんが言う。彼女ともこれまで何度か一緒に仕事をしたことがあるが、私と仕事をしたことのある女性マネージャーはみんな私を苗字ではなく名前で呼ぶ。
 
「うん。実は僕は男性アーティストの担当が苦手」
 
「それにノリちゃんって、女の子が目の前で着替えていても平気だよね」
「僕、アセクシュアルだから」
 
「アセ?」
と夕子ちゃんがその言葉を知らないようなので簡単に説明する。
 
「つまり僕は恋愛する意志も性欲も無いんだよ」
「へー。だったら、安心ですね」
 
そういう訳で、私はなぜそういうことになったか経緯がよく分からないまま、女性から男性に性別変更した大飯さんが担当していた森風夕子ちゃんも担当することになってしまったのであった。
 
そして実際彼女のライブに付き添っている時、夕子は全く私の存在は気にせずふつうに楽屋で裸になって着替えたりしていた。
 

私は加藤課長が忙しそうにしてたので、氷川主任にちょっとこの件を話したら、氷川主任も不思議がっていた。
 
「ノリちゃん、実は女子社員として管理されていたりして」
「うーん。。。そのうちお嫁さんに行けと言われたらどうしよう」
「ノリちゃん、なんなら私のお嫁さんにならない?」
 
私はちょっとドキッとした。
 
お嫁さん・・・・そういうものになりたいと思っていた時期もあった。でも無理だよなあと思って諦めてしまっている。
 
すると私が悩んでいるようだったので氷川さんは言った。
 
「もしかしてお嫁さんになりたいんだったりして?」
「今、一瞬悩んじゃった」
と私は彼女に言った。
 

丸山アイの音源製作は途中で企画がミニアルバムに変更になり、11月中旬まで掛かった。そして12月初旬にCD発売が決まり、キャンペーンを行うことになる。キャンペーンは事前にFMで流した音源が好評であったため、全国14箇所を回ることになった。その感触がよければ春には本格的なホールツアーもしようかという話になってきつつあった。
 
私はアイ・伊代とともに、全国を駆け巡ったが、アイの性別に配慮して部屋はアイが個室で私と伊代が相部屋である!?
 
「なんで私、伊代と相部屋なのさ?」
「いいじゃん、女同士なんだから」
「これ何か言われなかった?」
「私、八雲さんと元々大学の同級生で当時お互いの部屋をよく訪問してたし、仲が良いから同じ部屋で良いですと言ったよ」
「それ、物凄く別の意味に誤解されてる!」
 

「まあ枕営業かな」
「私は男性能力無いよ」
「レスビアンという手もあるよ」
「ちょっと待って」
 
キャンペーンは札幌・旭川から始めて、仙台・新潟・金沢・大阪・広島・福岡・高松・神戸・名古屋・横浜・千葉、そして東京である。これを休憩日無しで14日間で回るというハードスケジュール。アイちゃんは若いからいいのだが、私や伊代は体力的にけっこうきつかった。なお2日目の旭川にはちょうど別件で北海道に来ていた事務所の鈴木社長も顔を出してくれた。
 
疲れもピークになってきた8日目。福岡でのキャンペーンをした後、郊外の二日市温泉に泊まった。福岡市内で大きなイベントがあっていて市内の宿が取れなかったのもあったし、このあたりで一度温泉にでも浸かって疲れを癒やすとよいという配慮もあったようである。
 
「アイちゃん、お風呂行った?」
と私は伊代に訊いた。
 
「行ったみたい」
と伊代は答える。
 
「あの子、男湯に入るんだよね?」
「どっちに入るんだろ。私も知らないんだよ。さて私は女湯に入ってこよう」
 
「わざわざ女湯と言わなくてもいいじゃん」
「ノリちゃんはどちらに入るのよ?」
「秘密」
「今行かないの?」
「夜中に行ってくる」
「ふーん」
 
と言ってから
 
「まあどちらに入るかは個人の判断だけど、警察に捕まらないようにね」
と付け加えた。
 

そんなことを言って伊代はお風呂に入ってきた。アイも行ってきたようで、濡れた髪をまとめていて可愛かった。伊代が戻ってきてから3人で食事に行った。
 
「今の所CDは概算で1万8千枚くらい売れてるよ」
と私は今日本社からもらった報告書を見ながら言う。
 
「すごーい」
とアイは言っているが
 
「その10倍行くといいんだけどね」
と伊代は言う。
 
アイは明日また歌わなければいけないしということで22時には寝せて、私と伊代は部屋で地酒を飲みながら今後の営業のことや、次のCDの方向性などについて話し合ったりした。
 
「さて寝ようか。今夜こそはセックスしない?」
と伊代が言うが
「パス」
と私は言う。
 
「私そろそろバージン卒業したいんだけどなあ」
「ごめん。私には伊代のバージンをもらう能力がないから」
「やはり、もうおちんちん取っちゃったの?」
「まだ取ってないけど、立たないから」
「バイアグラ持ってるよ」
「なんでそんなの持ってるのさ?」
 

伊代も無理はしない感じだったので、握手だけして並べた布団で寝た。伊代が寝息を立て始めたところで私は布団から抜け出し、タオルと着替えを持って、大浴場に行った。
 
昼間は男装でキャンペーンの仕事をしていたのだが、旅館では浴衣になっているから性別はけっこう曖昧である。私は大浴場の入口まで行くと男と染め抜かれた青い暖簾と、女と染め抜かれた赤い暖簾を見て、ちょっと息をついてから覚悟を決めて、赤い暖簾の方に入った。
 
ちょっとドキドキ。
 
女湯に入ったことがないわけではないけど、仕事で各地を回っている時に入るのは結構久しぶりだ。大浴場に入らなくてもいいようにたいてい個室に風呂が付いている所を使うのだが。とにかくも汗をかいたまま明日の仕事には出られない。
 
服を脱いで裸になり、タオルで前を隠して浴室に入った。中には先客が3−4人いる感じだ。私は洗い場のところに座り、身体を洗い、髪を洗ってから軽く身体全体についた泡を流し、浴槽に入った。少しくたびれかけた木の浴槽がいい風情を醸し出している。私は手足を伸ばし、それから足の筋肉を少しもみほぐした。
 
その時、浴槽に新たに入ってくる客が居た。私は何気なくそちらに視線をやってから「え!?」と思った。向こうはこちらに前を向けた状態で湯船に身体を沈め、その直後私に気付いた。
 
「あ」
「アイちゃん!?」
 
「あははははは」
と向こうは笑って誤魔化そうとしている。
 
「アイちゃん、おっぱい無いって言ってなかった?」
「そうですね。たまにある時もあるかも」
 
と言う彼女の顔はかなり焦っている。
 
「それにおちんちん無いじゃん」
「部屋に忘れてきたかも」
「忘れてこれるって、手術して付けたんじゃなかったの?」
「他のお客さんもいるから小さな声で」
とアイは言ってから
 
「ノリちゃんも、それ完全に女の人の身体じゃないですか!」
と言う。
 
「ちんちん付いてないですよね。それとも、それタック?」
「無いことは認めるよ」
「おっぱいも普通にあるし」
「アイちゃんよりずっと小さいよ」
 
彼女は言った。
「私たち、深夜の女湯で出会ったってことは、秘密にしません?」
 
「まあいいけどね」
と私は言ってから、じゃ結局この子の性別って実は何なの?と疑問を持ったのであった。
 
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【私の二重生活】(下)