【私の二重生活】(中)

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その年の秋、私の「女の子生活」を知る人が出た。
 
この時期、私は女装外出にかなり味をしめており、バイト先から帰る時も、いったんスカートを穿いた上にズボンを穿いて隠すということをした上で、お店を出た後、公衆電話ボックスとかスピード写真コーナーとか、どうかした時はビル陰などで、ズボンを脱ぎスカート姿になってから電車で帰宅するなどというのをやるようになっていた。
 
その日も勤め先のファミレスを22時に上がり、着替えてスカート姿で八王子の駅に向かった。東京学芸大は小金井市にあり、最寄り駅は国分寺である。バイトを探すにも、国分寺・立川界隈で探す人が多い中、私が八王子でバイトしていたのは、この帰宅時のスカート姿をあまり知り合いに見られたくなかったからであった。
 
駅のトイレで急いでメイクをする。実をいうとバイトから帰宅する頃にはヒゲがうっすらと生えていて、ノーメイクで女装するのは困難があるのである。お店から駅までの暗い道では目立たないのだが、電車の中は明るいのでヒゲが生えていたら目立つ。そのため、ここでメイクをしてファンデーションでヒゲを隠す必要があった。幸いにも女子トイレの中では、お化粧直しをしている人たちが結構いるので私がそんなことをしていても目立たない。
 

八王子から国分寺に移動するのはこの時間帯には「逆方向」(都心に向かう方向)になるのであまり混んでいない。その日の電車でも余裕で座ることができた。
 
バッグからCanCamを取り出して読んでいた時、豊田で同じ車両に乗ってきた女性を見てギョッとする。それは同じクラスの伊代だった。
 
私は見付かりませんようにと思ってドキドキしながら雑誌で自分の顔を隠すようにした。彼女は車両内を軽く見回して空いている席があまり無かったのか、入口近くで手摺りにつかまったまま立っていた。私は雑誌を読みながらも注意の一部を彼女の方にやっていた。
 
そして次の日野に停まった後のことだった。その駅で乗り込んできた40歳前後の男が伊代の隣に立った。そして何気なくそちらに注意をやっていた時、その男が伊代のお尻に手をやるのを見た。え!?
 
伊代もギョッとした様子である。しかし伊代は声を出せないようだ。男は伊代が黙っているので、にやにやしながらお尻を撫でている。更に身体を密着させようとした。
 

私は雑誌をバッグに戻すと立ち上がって、すばやく伊代のそばに近より、男の手を握った。その男をにらみつける。
 
「何するんだよ?」
と男は言う。
 
「それはこっちのセリフだよ。痴漢のおじさん」
と私は厳しい顔で言った。
 
伊代はホッとしたような顔をしている。
 
「何だと?俺は何もしてないぞ」
と男は言ったが、向い側の座席に座っていた高校生の男の子が
 
「僕も見ました。その人、その女の人のお尻を触ってました」
と言った。
 
周囲の視線が冷たく男に突き刺さる。
 
「離せ。俺、次の駅で降りるから」
と男は言うが、私はその手を離さない。
 
それで揉めている内に次の立川に着く。何人か降りる人がいる。その男も私をふりほどいて降りようとしたが、私はしっかりその男の手をつかんでいた。
 
駅では降りる人が終わるのを待って乗ろうとしている人たちがいる。しかし乗降口で揉めているので、その人たちが顔を見合わせている。
 
騒ぎに気付いた駅員さんが
「どうしました?」
と訊いた。
 
「痴漢です」
と私は言った。
 
すると駅員さんが男のもう一方の手をつかみ
「あんた、ちょっと来て」
と言った。
 

結局、私と伊代がその男と一緒に降り、証言してくれた男子高校生も付き合ってくれた。被害者本人と証人2人から痴漢だと言われては男も分が悪い。駆けつけて来た警察官に身柄を拘束されたが、結局私たち3人も警察署まで行って調書の作成に協力した。私は女の格好をしているのに男名前を名乗るのは物凄く恥ずかしかったのだが、その問題について調書の作成をしてくれた女性警察官は何も言わなかった。それで何だか余計に度胸が付いてしまった。
 
警察署を出たのはもう23時半である。
 
「君、家はどっち?」
と私は高校生に声を掛けた。
 
「矢川駅の近くなんです。どっちみち立川で乗換だったんですが」
「電車ある?」
「まだあったとは思うんですけど」
 
「タクシー代出してあげるから、タクシーで帰りなよ」
 
そう言って私は駅前でタクシーに彼を乗せると、運転手さんに料金を尋ねる。運転手さんがそこなら1000円でいいよと言ってくれたので千円札を渡して送り出した。
 

「ノリちゃん、ありがとう」
と伊代は言った。
 
「ばれてた?」
と私は苦笑しながら答える。
 
「最初は気付かなかった。どこかで見たことのある人だなあと思ってたけど」
「知ってる人に見られちゃったの初めて」
「でもやっぱり女装するんだね。以前訊いた時は否定してたけど」
「恥ずかしいから」
 
「恥ずかしがることないと思うよ。とっても女らしいよ」
「そうかな?」
「まあ少し改良したほうがいいかも知れないポイントはあるけど」
「やっぱり?」
 

私たちは電車で国分寺まで移動すると、コンビニでおやつと飲み物を買って、私のアパートに一緒に入った。洗濯物が室内に干してあったのを慌てて取り入れてタンスにしまった。
 
「干してあったの、女の子の服ばかり」
「実は最近ずっと女の子の下着しか着てない」
「夏頃、ブラジャーの肩紐が見えてたことがあったから、ふーん。女装はしなくても下着は女物なのか、と思ったことあったよ」
「実は見えているのをわざと放置してた。最初の頃は見えないように、上に濃い色のシャツを着たりしてたんだけど」
 
私たちは夜通し、おしゃべりをしていた。
 
「伊代、最近ちょっと落ち込んでいるような気がしてた」
「それ指摘されたの、尚美に続いてノリで2人目」
「何かあったの」
「うん。ちょっと失恋しただけ」
「そう」
と言ってから私は言葉を選ぶように言った。
 
「今は悲しいかも知れないけど、きっとその内、ひとつの想い出になる日も来るよ」
「そうかもね」
「元気出しなよとは言わないけど、伊代のこと大事に思っている友だちもいるから、それを忘れないで」
「うん。ありがとう」
「きっと伊代の近くにいる子たちは、具体的に指摘しなくても、伊代が落ち込んでいることに気付いてはいるよ」
「かも知れないね」
 

「ああ!男の人はこんな時、お酒飲むのかなあ」
「ごめーん。私、お酒飲まないからストック無い」
「ちょっと買いに行ってこない?」
「いいよ」
 
それでふたりで深夜のコンビニに行って、日本酒のワンカップを買ってきて、ミルクパンで暖めてふたりで飲んだ。
 
「けっこうこれ美味しい気がする」
「月桂冠、うちのお父ちゃんがいつも飲んでた」
 
伊代は私の女装の問題点をいくつか指摘してくれた。
 
「ポロシャツをスカートの中に入れているけど、それは外に出した方がいいよ」
「あ、そういうもん?」
「原則としてトップをボトムの上に重ねる形にする」
「なるほど」
 
「それからノリ、眉が太いんだよね。女の子はもっと眉は細くするよ」
「あ、そのあたりがよく分からなかった」
「削っちゃってもいい?」
「いいよ」
 
それで伊代は私の化粧用品を入れているポーチから化粧用のハサミと顔剃り用のカミソリを出して眉毛を整えてくれた。
 
「化粧品、わりと持ってるね」
「お金がないから100円ショップで買ったのばかり。ファンデーション、アイシャドウ、アイライナー、アイブロー、チーク、マスカラ。口紅」
 
「確かに化粧品って高いよね。100円ショップもいいんだけど、アイカラーとか口紅みたいな色物はせめてドラッグストアかコンビニで買った方がいいよ」
「へー」
 

私と伊代はこの後、急速に仲良くなっていった。またしばしば私は彼女と一緒に古本屋さんめぐりをしたりして、私はますます女装外出に自信を持てるようになっていくし、また私の女装スキルも鍛えられていくのである。また彼女は私に女の子らしい声の出し方を練習させた。
 
「まずはね、女の子歌手の歌が歌えるようになったら、それから女の子の声で話せるようになるよ」
と言って彼女は、安室奈美恵とか宇多田ヒカルなどの歌をカラオケ屋さんでたくさん私に歌わせた。
 
私は歌唱力、発声法など自体を鍛えた方がいいなと思い、大学で任意で受講できる声楽の講義を取るようになった。声楽の教官は私がソプラノボイスを出せることに驚き、カウンターテナー歌手として名高い人を紹介してくれてその人の指導を《安価に》月に1回受けさせてもらえることになった。安価といっても1回3万円払うのだが!
 
ヒゲの問題について彼女はレーザー脱毛してしまうことを勧めた。幸いにもバイト代の貯金が少しできていたので、私は伊代が個人的な情報網で教えてくれた、とても安価にしてくれる、某大学病院でのレーザー脱毛の施術を受けた。ヒゲの処理は毎日ほんとに大変だったので、これはとても助かった。お金をためて、足の毛も処理したいなと思った。
 

私と伊代は学校の教室でもよく話していたし(私は学校では男装なのだが)、よくメール交換もしていた。それを見た男子のクラスメイトがある日言った。
 
「お前ら付き合ってんの?」
 
それに対して私も伊代もほぼ同時に
「え?ただの友だちだけど」
と言った。
 
それで返事が重なったのでつい見つめ合って微笑んでしまった。でも私と彼女の関係は純粋に友情で結ばれていたのである。
 

そんな伊代が大学3年生の時、フランスに留学すると言った。
 
「英語教師を目指しているのにフランスなんだ?」
「うん。フランス行って英語勉強してくる」
「よく分からないんですけど!?」
 
実際には彼女はヴァイオリンが得意で、この大学に入る時も音楽教師のコースか英語教師のコースか、かなり悩んだらしい。実際ヴァイオリンもずっとレッスンを受けていて、大学でも音楽コースの授業に参加していたようであるが、ちょうど誘ってくれた人があったので、向こうで数年間ヴァイオリンの指導を受けてくるのだということだった。
 
しかし彼女は大学で親しくなった友人の中でいちばんの親友だったので彼女との別れは寂しかった。
 

大学4年生になると進路を明確にする必要がある。うちの大学の場合、元々が学校の先生を養成する大学なので、多くが教師を目指す。しかし一般企業への就職を選択する人たちもある。
 
私は自分のセクシャリティを考えた場合、教師は無理だと思っていた。
 
学校の先生はわりと服装が自由である。カジュアルを着て勤務できる可能性が高い。背広着てネクタイなんて嫌だと思ってたから、その点はいい。私は人に教えるのも好きだ。しかし、中学の教師などをしていて、自分の女装癖がバレたような場合、親たちから解任運動などをされたりする可能性がある。そういう面倒は嫌だ。かと言って一般の企業に勤めた場合、背広を着て勤務し、また髪も短く切らなければならないと思うと辛かった。
 
いっそ大学院に進学して2年後にまた進路を考えようかとも思ったものの、東京に出てきた時、父との約束で4年間大学に行ったら就職することにしている。その約束は守る必要があると思っていた。
 
ある日、任意で受講していた声楽の教官が
「君は教員採用試験を受けるんだっけ?」
と私に訊いた。
 
「いえ。教師の免許は欲しいですけど、コネとかも無いし、とりあえず一般企業に就職しようかと思っています」
と答える。
 
「だったら、もし気が向いたら、この企業の面接に行ってくれないかな。実は推薦してくれと言われて面接に行かせることにしていた音楽教師コースの生徒が、体調が悪くて面接に行けないみたいなんだ。欠席してしまうと、向こうの機嫌をそこねて、来年から推薦の話をもらえないかも知れないから。君結構音楽関係の講義取っているしね。落ちたら落ちたでも構わないし、面接だけでも受けてもらえないかな」
 

そんなことを言われて私が面接に出かけたのが、★★レコードであった。音楽的な素養のあるスタッフを求めていたようである。当時は私も知らなかったのだが、A&Rと言って、歌手やバンドなどを発掘したり、CD制作の企画を出したりする仕事のようである。
 
私が音楽教師コースではなく英語教師コースに在籍しているというのを聞いて面接の担当者は少しがっかりした様子ではあったが、声楽やピアノなどの講義を取っていると言うと好感してくれた雰囲気だ。
 
「君、歌はうまい?」
と訊かれたので
「じゃ歌ってみます」
 
と言って、私がアカペラで、さんざん在学中に鍛えたソプラノボイスを使い瀧廉太郎の「花」を歌ってみせたら、
 
「君、面白い芸を持っているね」
と言って気に入ってくれた感じであった。
 
それで好きなアーティストは誰かとか、どういうジャンルの音楽を聴いているかなど訊かれ、また今後の日本のポピュラー音楽はどうなっていくべきかなどと尋ねられるので、私はどうせ顔を出すためだけに来たんだからと思い、開き直って自分の持論を述べた。すると向こうはしばしば頷いたり、時には悩んだりしながら私の話を聞いてくれた。
 

「ところであなた、髪が長いですね」
「すみません。学生の気安さで伸ばしています」
「別にはげを隠すために伸ばしているとかじゃないのね?」
「長い髪が好きなので。本当は長い髪のまま仕事できるような職場があればいいんですけど」
 
「教師になる気はないの?」
「実はそれもあって教師の道は断念したんです。でも一般企業でも難しいでしょうね」
「いっそ歌手になる?」
 
「さすがにそこまでの実力はないことは自覚しています」
「そう?君より下手なプロ歌手はたくさん居るけどね。男であんなきれいなソプラノ出せるのはむしろかなりレアだと思うよ」
 
この時代は女声発声法の普及時期で「両声類」さんも今ほど多くは知られていなかったと思う。
 
「楽器は何かするの?」
 
「いちばん自信があるのはギターで、中学時代にヤマハのFGを買ってもらってずっと弾いています。ピアノは一応大学で講義を受けていますしポップスとかならまあ弾けるかなというレベルです。自宅ではピアノが買えないのでポータブルキーボードを弾いていますが。ヴァイオリンも持っているので、時々弾いていますが、そちらは下手です」
 
「へー。結構色々できるじゃん。ヴァイオリンも弾くんだ?」
 
それは伊代が留学する時に置いて行った初心者用のヴァイオリンである。
 
「子供の頃、友だちが習っているのを見て自分も習いたかったんですが、ヴァイオリンなんて金持ちの娘がやる道楽だとか親に言われて、習わせてもらえなかったんです。それで大学生になってから練習しはじめたんです」
 
「それは君って努力の人だね」
「努力が実ればいいんですけどね」
 

面接の人とは結局1時間くらい話していたろうか。最後は面接というよりただの雑談になってしまった感もあった。
 
そして一週間後、大学宛てに内定通知が来た。
 
「マジですか?」
と私は半信半疑で訊いた。
 
「気が進まないなら断ってもいいよ」
「いえ。そこに行かせてください」
「それから特にコメントが付いててね。君の髪だけど、さすがに今の長さは困るけど、肩につかない程度の長さまでで、きちんとまとめておくのなら、長めの髪でもいいよということらしい」
「わあ、それは嬉しいです」
 
「ああ、やはり何かの理由があって伸ばしていたのね?」
と教官は言う。
「ええ。ちょっと個人的な理由なのですが」
 
さすがにこの教官の前で女の子の格好をするからとは言う勇気が無かった。
 

それで私は大学を卒業すると★★レコードの制作部門で仕事を始めた。最初の内は先輩に付いて雑用やお使いなどの仕事をたくさんこなした。その中で音楽業界の特殊な習慣や勢力関係なども把握していった。最初の内はちゃんと背広を着てネクタイをして仕事をしていたのだが、仕事で出て行く先の音楽事務所やスタジオなどで
 
「背広見ると暑苦しいよ」
「普段着でいいよ」
 
などと言われるので、次第に私はワイシャツの上にセーターを着ただけの格好、そしてネクタイも締めずに仕事をするようになった。その格好で会社に出て行っても先輩や上司は何も言わなかった。実際、同僚でもジーパンにポロシャツで仕事をしている人は多かったし、女子社員でもジーパン派、またノーメイク派がけっこう居た。正直、勤務時間が無茶苦茶な仕事なので、ていねいに化粧なんかしてられないというのが、本音のようである。
 
「コンピュータのソフトハウスなんかと雰囲気似てるかもね」
などといろいろアドバイスしてくれた北川奏絵さんなどは言っていた。
 
「SEさんたちも勤務がしんどそうですね」
「会社にもよるけど、若い会社では女性SEはスカートなんか穿かずにジーンズで仕事しているところも多いみたい。でもそういう会社でも事務の女の子はスカート穿いてこないと叱られるらしい」
 
と北川さんは言う。私は彼女がスカートを穿いている所を実は1度も見ていない。
 
「うちの会社も総務部とか営業部は服装規定厳しいみたいですね」
と私。
 
「うんうん。でも制作部は仕事さえできていれば服装はどうでもいいというスタンス。さすがに男子社員がスカート穿いて出てきたら叱られるかも知れないけど」
 
「ああ、男子のスカートはダメですか?」
「男女差別かもしれないけどね。八雲君、スカート穿きたい?」
「えー?どうしよう?」
 

アーティストのライブというのは金曜から日曜に掛けておこなわれるものが多い。それで自然と土日も勤務することになる。そこでその代休として月曜・火曜を休みにしてもらえるパターンが次第に定着していった。
 
私は、仕事に慣れてきた2年目の春頃から、この月火の休日をフルタイム女装して過ごすことを始めた。
 
だいたい日曜の夜にライブが終わって、帰宅するのはもう12時前後である。帰宅した所で足や脇のむだ毛などを処理して、女の子の服を着て寝る。月曜日の朝、目が覚めたら化粧水パックをして肌を起こした上で、しっかりメイクしてマニキュアをし、お出かけなどもして女の子ライフを満喫する。
 
町を歩いていると、たまにナンパされることもあったが、この時期はもうかなり女声で話すのもうまくなっていたので「待ち合わせ時間までの限定」などと言って30分程度割り勘でお茶を飲んで男の子との束の間のデートを楽しんだりすることもあった。
 
そして火曜日の夕方まで2日間そういう生活を楽しんだ上で、夜、爪に塗っているエナメルをリムーバーで落とす。この儀式をしていて、しばしば私はため息を付いていた。
 
マニキュアしたまま会社に出て行ったらダメかなあ。
 
それとなく北川さんに訊いてみたことはあるのだが、
「個人的に休みの日にマニキュア・ペディキュアするのは構わないけど、会社では男性社員は遠慮して」
と言われた。
 
そんなことを言われると、自分は女性社員でありたかったな、などと思ったりもする。しかし会社にそんなことを主張する勇気は無いので、仕方なく火曜日の夜はエナメルは落とす。もちろんエナメルは落としても、やはり女の子のパジャマやネグリジェを着て寝るのだが。
 
そして水曜日の朝にはワイシャツを着て、髪もきちんとまとめて会社に出ていくのである。出勤する時に紳士靴を履きながら、そばに置いているパンプスを恨めしく見るのが私のいつものパターンになっていた。
 

その2年目の6月頃、上級主任の南さんから呼ばれた。
 
「君、今何かメインで担当しているアーティスト居たっけ?」
「いえ。だいたい秋月さん、北川さん、山村さんなどのお仕事の補助をしています」
「そうか。君って女性の担当者の補助が多いんだね」
「たまたまだと思いますが」
 
「いや、だったら女性アーティストにも随分関わっているでしょ?」
「ええ。富士宮ノエルちゃんとか、篠田その歌ちゃんとか、秋風コスモスちゃんとかのライブに同行させて頂いたり、企画会議や音源製作に立ち会わせて頂きました」
 
「もしかして男性アーティストの経験が無かったりして」
「えーっと、昨年春に大槻三郎さんのライブに3回ほど同行しました」
「誰だっけ?」
「えっと、○○プロさんの歌手なんですけど。あまり売れてないかも知れませんが」
「ごめん。記憶が無いや。でも女性アーティストの経験が多いんだったら好都合だよ。この子たちをしばらく担当してくれない?」
と言って南さんは封筒を渡す。
 
「はい!やらせてください」
と私はその中も見ずに言った。
 
「インディーズのアーティストなんだけど、CDの流通をうちが取り扱うんで、その義理で、細々としたことのお手伝いも発生すると思うんだよ」
「分かりました」
 
と言いながら私は封筒から書類を出した。チェリー・ツインという名前が書かれており、可愛い女の子2人の写真が出ている。20歳くらいだろうか。
 
「この子たち双子ですか?」
「そうそう。よく似てるよね。僕は2−3回会っただけだけど、全く区別がつかない」
「声質も似てるんですか?」
「あ、この2人、声が出せないんだよ」
「え?」
「言語障碍らしくてね。何もしゃべることができないし、もちろん歌も歌えない」
 
私は困惑した。
 
「この子たち歌手じゃないんですか?」
「そうだよ」
「無言歌ですか?」
「この子たちの代わりに別の女の子ふたりが陰で歌う。それがこちらの2人。事情があってこの2人は絶対に顔出しNGなのでこの子たちの写真が決してどこにも流出しないよう注意して欲しい。この写真の撮影やコピーも不可」
「分かりました!でも面白いですね」
「うん。ちょっと面白いよ、このユニットは」
 

後から考えると、南さんは私を独り立ちさせるためにその準備運動として作業量も少なく、あまりわがままも言わなそうな委託扱いの新人ユニットを担当させてくれたのではないかと思う。
 
彼女たちは普段は北海道に住んでいるということで、来週新たなCDを制作するために東京に出てくるということであった。それでその週は秋月さんに付いて、サイドライトという女子大生5人組のユニットのライブの仕事をした。水木は東京のスタジオで音源製作をして、金土日は東京・金沢・福岡でライブをした。
 
「集客力のありそうな東京を土曜日にはしないんですか?」
と私は秋月さんに訊いた。
 
金曜日は勤めが終わってから行く必要があり、日曜は翌日が仕事であまり遅くはなりたくない人が多い。夕方からライブをするなら、土曜がいちばん人を集めやすい。
 
「売れているアーティストならそうなんだけど、結果的に土日は箱の競合がきつくなる。会場代も高い。だから売れてないアーティストは土日を地方都市にした方が採算が取りやすいんだよ」
と秋月さんは説明した。
 

確かに金曜の東京でのライブハウスの公演では観客がまばらだったし、反応もにぶかった。たまたま通りかかったので入ってみた客かなという人が半数程度をしめている感じだ。みんな飲食やおしゃべりに夢中で、ライブは全然聴いてない雰囲気であった。サイドライトの5人もこういう反応に慣れているのか、MCも適当で、淡々と歌っていく。
 
「ヤコさんって、もしかしてトークが下手ですか?」
と私は秋月さんに尋ねた。
 
「そんな気はするね」
「あれ、その場の思いつきでしゃべろうとしてるでしょ。台本を書いてあげたほうが良くないですか?」
「ふーん。じゃ、八雲君、書いてみる?」
「僕がですか?」
「いいのができたら、明日の金沢はそれを渡してみよう。あの子、実際毎回ネタ考えるのに悩んでいるみたいだし、書いてあげるのはひとつの手だと思う」
「やってみます! 曲順は明日も同じですか?」
「うん」
 
それで私はその晩ひとばん掛かりでMCの台本を書いてみた。朝東京駅で秋月さんと会った時に渡してみてもらう。
 
「八雲君、前に一緒に仕事した時も思ったけど、けっこう性格が女性的だよね」
「え?そうですか」
「これ褒め言葉」
 
私はほんとに内心嬉しかったのだが、あまりそういう感情を出してはいけないかなあと思い、できるだけ平静を装っていた。
 
「女言葉がちゃんと使えているよね。それにヤコちゃんの口癖みたいなのまでうまく取り込んでいる。あの子たち気に入ると思うよ」
 
秋月さんは幾つか避けた方がいい言葉を修正してくれたり、「これはむしろこの曲のあとがいいかも」と場所を移動したりもしたが、だいたい私が書いた台本を9割方そのまま使ってくれた。
 
金沢でサイドライトの5人と合流して、MC台本を見せると
「わ、こういうのあると助かります」
とヤコが嬉しがっていた。それで読んでいたが
「きゃー、これ私がいつも言ってることだ!」
などと言って喜んでいる!?
 
それでその日の金沢ライブでは、この台本でうまく客を乗せることができて、随分盛り上がったのである。東京のライブではアンコールも無かったのに、この日はアンコールの拍手があって、本人たちが「何も考えてなかった?何を演奏する?」などと言って慌てていた。
 

翌日は福岡に移動する。金沢から福岡への移動は、予算のあるアーティストなら小松空港から福岡空港への飛行機に乗るところだが、予算が無いので、サンダーバードと山陽新幹線の乗り継ぎである。
 
「昔は高速バスを使っていたらしいんだけどね」
と秋月さんは言う。
 
「金沢から福岡までの高速バスがあったんですか?」
「そうそう。1999年に廃止されたんだよ」
「かなり時間がかかるでしょう?」
「だいたい12時間。夜8時に出て朝8時に着く」
「いや、それ結構便利な気がします」
「壇ノ浦PAで明け方休憩するんだけど、関門橋が凄く美しかったよ」
「乗ったことあるんですか?」
 
「うん。大学生の時ゴールデンウィークに友人と4人で。東京から高速バスで仙台に行って青葉城とか松島とか見て、仙台→金沢の高速バスで金沢に来て兼六園とか友禅の工房とか見て、金沢→福岡の高速バスで福岡に行って櫛田神社とか大濠公園とか見て、最後は福岡→東京の高速バスで帰ってきた」
 
「もしかしてそれってホテル泊がゼロですか?」
「うん。さすがに今はそんな旅をする自信ない」
「若くないとできない旅ですね」
 
そういう訳で、その日は朝9時のサンダーバードに乗って新大阪で乗り換え、博多に着いたのは14時すぎであった。会場に行くと、現地のイベンターの執行(しぎょう)さんという30歳くらいの男性が来ている。東京・金沢ではライブハウスだったのだが、この日はオールスタンディングではあるが小型の音楽用ホールである。何だか変わった形のビルの9階にあった。
 

軽く打ち合わせをしてリハーサルを見学し、12階のレストラン街に行って軽食を取り、会場に戻ると、もうお客さんを入れ始めていた。客は100人くらいだろうか。東京が30-40人、金沢が70-80人だったので今日がいちばんの入りである。
 
私はその入場者を見ていて、ふとひとりの女性に目を留めた。
 
「どうしました?」
私の様子に気付いた執行さんが訊く。
 
「いえ、あそこの黒いワンピースを着たお客様、女装者だなと思って」
「へ? あの人ですか? 普通の女性のように見えるけど」
「いえ、勘違いだったらごめんなさい」
 
会場はどこに立つのも自由なので、だいたいみんな前の方に集まる。客を入れ終わってから15分ほどでライブが始まった。
 
私はステージそばの、フロアの端で様子を見ていたのだが、さっき私が目を留めた黒いワンピースの女装者(?)は最前列に立って最初からかなり熱狂的な歓声を上げていた。それにつられて他の客からもたくさん歓声が掛かるのでこの日のライブはヤコが調子良くMCをしたこともあり、物凄く盛り上がった。この子たち、このままブレイクするかもと私は思っていた。
 
前半のラストの曲を歌い、ヤコが「少し休憩を頂きます」と言う。
 
その時、その最前列の黒いワンピースの人物が突然ステージに向かって突進した。近くに居た警備のバイト学生が制止しようとしたが、殴り倒される!私も、反対側の隅に居た秋月さんも駆け寄る。がそれより早くその人物はステージによじ登ってしまった。
 
驚いたように見つめていたヤコが、ようやく逃げなきゃというのに思い至ったようで、あとずさりする。黒いワンピースの人物がそちらに向かっていく。そして彼女はどこに隠していたのか、刃渡り20cmくらいの包丁を取り出した。
 
「キャー!」
とヤコが悲鳴をあげる。他の子たちもステージの脇の方に逃げる。
 
その時だった。ステージ袖に居たはずの執行さんがその人物に飛びかかり、タックルするようにして引き倒した。もみ合いになる。が勝負はすぐについた。
 
執行さんが彼女の手首を押さえて包丁が落ちたのを私が急いで掛けよって取り上げた。
 
「警察を呼んで!」
という執行さんの声で、イベンターの女性が携帯で110番する。観客が騒然としてパニックになりかけていたが、秋月さんが
 
「犯人は取り押さえました! お静かに願います」
と大きな声で会場に向かって言うと観客も静かになった。
 

ライブは結局前半だけで中止ということになり、その場で払い戻し用の引換券を急いで発行して客に渡したが、
 
「サイドライトのステージ、再度ちゃんと見たいです」
という声が多数あり、再公演を急遽検討することになった。
 
「大丈夫ですか?」
と私たちは執行さんに尋ねた。
 
「平気平気」
「でも頬に切り傷が」
「ああ、つばつけておけば治るよ」
 
などと本人は言うが、秋月さんがいつも持ち歩いているバッグからオキシドールを出して化粧用コットンに染み込ませて傷口を拭いてあげていた。彼女はピアスをしているので、その消毒用にいつも持っているのだという。
 
「いや、八雲さんがあの客が女装者だと言っていたので、へー、そんなものかなあと思って、あの客をなにげなく見ていたんですよ。そしたらどうも様子が変なんですよね。いやにスカートの横を気にしていて、ひょっとしてあそこに何か隠してないか?と思って、休憩時間にちょっと確認しようかとも思っていたんですよ。それですぐ動けたんです。でも録音機器か何かと思ってたから、まさか包丁とは思いませんでした」
と執行さんは言った。
 
そんな執行さんを秋月さんが憧れるように見ていた。
 

警察で犯人は自殺しようと思って包丁を買ったもののひとりでは死ねない気がして、道連れを探していたと供述した。
 
「性転換して女になりたかったんだって。でもお金がなくて手術どころかGIDの診断のための通院もできない状況で人生に絶望したって言ってた」
 
「彼女、服役することになるんですか?」
「怪我人は出なかったし、起訴猶予になると思うよ」
「よかった。そんな人でも服役するとなると、髪を短く刈られて男の服を着せられますよね」
「うん。ちょっと、そういうの可哀想だね」
 
警察から戻ってきて、私たちはそんな話をした。東京の加藤課長に連絡すると、サイドライトの再公演はすぐ検討したいと言い、その場で執行さんと直接話して翌週日曜日に公演をする方向になった(朝1番に会場の確保をするということで、その後正式発表するということだった)。そして今回払い戻し用の引換券を渡した客については、その引換券で直接入場できることまで決めて、翌日のお昼には★★レコードおよび、イベンターさんのホームページで告知した。
 

そのあたりの東京との連絡、執行さんたちとの打ち合わせなどは結局翌日の昼過ぎまでかかった。
 
「ノリちゃん、このあとどうする?」
「もう東京に帰って寝ます」
「私はしんどいから、福岡で夕方まで寝てそれから帰るよ」
「どこで寝るんですか?」
「イベンターさんの仮眠室を借りる」
「なるほど!」
 
それで私は秋月さんと別れ、博多駅から東京行きの新幹線に乗る。但し乗る前に駅近くの物陰で素早くマニキュアを塗った。他のメイクは途中ででもできるが、マニキュアだけは風通しのいい所でないとできない。みどりの自販機でカード決済で切符を買い、それからコンビニでお弁当と飲み物にファッション雑誌を買ってから、のぞみ号34号に乗り込む。座席にコンセントがあることに気づきパソコンと携帯の充電をさせてもらう。夜通しの作業でクタクタだったので、まずはひたすら寝た。
 
起きたら新神戸に停まった所だった。私は化粧水ペーパーで顔を拭いて肌を覚醒させると、バッグを持って多目的トイレに行った。実際におしっこをした後で、着替えることにする。昨日の朝金沢を出る前に着替えたままだったので下着も交換し、洗濯済みのショーツとブラジャーをつける。ストッキングを穿いてずり落ち防止でガードルを穿く。そしてキャミソールを着た上で膝丈のスカートを穿き、夏用のカーディガンを羽織った。
 
あまり長時間トイレを占有してはいけないので、それでいったんトイレを出てから洗面台に行き、お化粧をする。化粧水、乳液、アイライナー、アイシャドウ、アイブロウにつけまつげをする。チークを入れ、最後に口紅をつけたら完成である。この口紅をする時に、自分の女としてのアイデンティティを再確認するような気分になる。
 
席に戻る。パソコンを起動してメールチェックをする。加藤課長、北川さん、秋月さんからメールが来ていたので、それぞれ返事を書いて送信する。その後パソコンを閉じて、博多駅のコンビニで買っておいたお弁当を食べる。そしてファッション雑誌を見ていると、名古屋で振袖姿の高校生くらいの女の子が乗ってきた。ギターケースを抱えている。振袖でギターというのに違和感を感じたのだが、私の視線に気付いたように彼女は
 
「あ、これギターのケースだけ使っていて、中身は三味線なんですよ」
と言った。
 
「ああ、それは面白いですね。確かにギターと三味線は似たようなサイズですね」
と私も答える。
 
彼女とは結局名古屋から静岡付近までおしゃべりをしたが、私は彼女と5分くらい話したところで気付いた。
 
この子、男の娘みたい。
 
ふつうに見たら女の子にしか見えない。物凄く完璧である。声だって自分はけっこう誤魔化しながら話しているのだが、彼女はふつうに女の子の声にしか聞こえない。しかし自分自身が女装者であることから来る、一種の勘のようなものが、この子は身体はまだ男だというのを確信させていた。
 

彼女とはお互い名前も名乗らなかったのだが、こんな若い女装者が堂々と出歩いているのを知り、後輩に追い越されたような気分で、自分ももっと先へ進まなければならないという気持ちになった。
 
帰宅したのはもう21時である。取り敢えず着替えを洗濯機に放り込んで回してから、郵便物をチェックする。それからパソコンを開いてメールなどもチェックする。
 
福岡で騒動を起こした女装者のことも考えていた。性転換手術代って高いもんなあ。自分もそのうち手術を受けたいとは思うものの、それっていつになるんだろうと思う。先に去勢だけでもしておこうかな。
 
そんなことを考えたりもしながら、メイクを落としながらmixiでの友人たちの書き込みなども見たりしていた。mixiには女性として登録している。私の戸籍上の性別を知っているマイミクはごく少数であり、多くのマイミクの前ではふつうの女性としてふるまっている。
 

結局いつの間にか眠っていたようである。起きたのはもう翌日の午前9時頃だった。さすがにお腹がすいた。冷蔵庫を見るもめぼしい物は無い。あいにくカップ麺のストックも切れている。よく食パンの余ったのを冷凍しておくのだが、それも切れている。仕方ないので、近くのスーパーまで買いに行くことにした。
 
でも・・・どうする?
 
ええい、女の子の格好で行っちゃえ。
 
それで鏡を見て眉毛をちょっとだけ整えた上で、化粧水と乳液だけ付けて、スカートを穿き、財布とエコバッグの入ったミニトートを持ち、女の子仕様の靴下にカジュアルパンプスを履いてお出かけした。
 
自宅から離れた場所ではけっこう女装で出歩いたりしているものの、自宅近くではあまり昼間はこの格好では出歩いていないので少しドキドキする。知ってる人に会わないといいけどなあ。
 
そんなことを考えながら、やがてスーパーに来て、タマネギ・ジャガイモ・にんじんにアスパラとブロッコリーを買う。アスパラやブロッコリーは茹でて小分け・冷凍しておくと便利である。豚肉がグラム118円だったので3パック買った。
 
賞味期限切れ間近のシールが貼られた品を集めているコーナーで充填豆腐をひとつと薩摩揚げのパックを買う。この薩摩揚げをオーブントースターで焼いて朝昼兼用の御飯にしよう。充填豆腐は賞味期限を少々過ぎても大丈夫だから、明日くらいにでも食べようかな。
 

そんな感じで買物をして、レジの方に行きかけた時、レジ前の通路を横切ろうとした人と接触した。
 
「あ、ごめんなさい」
「ごめんなさい」
 
と言い合う。
 
私はまだ女装外出をしていなかった頃、こういう時は「済みません」と言っていた。しかし女性はよくこういう場面で「ごめんなさい」と言う。私がこういう時にとっさに「ごめんなさい」という言葉が出るようになったのは、ここ1年くらいからである。この手の、とっさの反応というのはなかなか昔の癖が抜けないものである。
 
しかしそのぶつかった相手の女性を見て、私はハッとした。向こうもあれ?という顔をしていたが、
 
「もしかしてノリちゃん?」
と彼女は言った。
 
私は顔がこわばって、返事ができなかった。それは中学のコーラス部の先輩・宣代さんであった。
 

私はこわばった顔で彼女を見つめていたのだが、向こうは私の表情は気にしないようで、
 
「似合ってるよ。ノーメイクでも可愛いね」
と言ってくれた。それで私も少し緊張がゆるむのを感じた。
 
「でも爪はマニキュアしてるんだね?」
「休みの日だけ」
「ああ、今日は休みなの?」
「はい」
 
彼女は
「この辺に住んでるの?」
とか
「勤め先はどちら?」
などと、当たり障りのないことを訊く。
 
こちらは女声で話すのが得意ではないので、性別が曖昧になる無声音を使って
 
「ええ。このあたりのアパートです」
とか
「勤め先は港区のほうなんです」
などと答えた。
 
結局レジを通った後、氷をもらって袋の口をしばったまま、彼女に誘われて近くのヴェローチェに入った。
 

「でもノリちゃん、やっぱり女の子になっちゃったんだね」
 
このあたりで私も開き直りができてきた。
 
「実はまだ。会社には男の格好で行っているんですよ」
「でも会社でバレてるでしょ?」
「どうでしょう。隠してるから。でも男子社員より女子社員と話している時間の方が長いかも」
「まあ、そうなるだろうね」
 
と言って、懐かしそうな顔をしている。
 
「夏休みの練習の時に、一度男子部員たちの女装大会になっちゃったことあったじゃん」
と宣代さんは言う。
 
「そうですね」
と言って私も苦笑する。
 

「あの時、みんなが静まりかえってしまった訳分かる?」
と当時を懐かしむように宣代さんは言った。
 
「いいえ」
「だってセーラー服を着たノリちゃんって、女の子にしか見えなかったんだもん」
 
「そうですか? だってその後、私二度とセーラー服着てみない?とか言われなかったのに」
と私は言う。
 
あれは中学1年の時。大会に女声合唱で出ることにしたものの女子制服を着ても違和感無い男子は出てもいいぞ、などという話になり、男子部員が全員セーラー服を着てみた。ひとりの男子がけっこう女の子に見えたので、ステージに立ったのだが、私は指揮者としての参加になった。
 
コーラス部での《女装大会》はその後も何度か起きたのだが、2度目以降はなぜか私には「着てみて」という声が掛からず、他の男子たちだけがセーラー服を着て、私はただ「いいなあ、私も着たいのに」と思って眺めているだけだった。
 
「だって、男子は女装させられるけど、女子は女装させられないじゃん」
と宣代さんは言う。
 
「そういうもんですか?」
「あの時、あとから女子たちで言ってたんだよ。ノリちゃんってたぶん普段から女の子の服を着てるよねって」
 
「当時はそんなに着た経験は無かったんですけどね」
と言って私は苦笑する。
 
「やはり少しは着てたんだ」
「こっそりと母の服を身につけたりしてました」
 
「でもそんな訳で、ノリちゃんのこと、みんな名前で呼ぶようになったんだよ」
 
男子たちはだいたい苗字で呼ばれることが多い。一方女子はお互いに名前で呼び合うことが多い。しかし確かに私は女子部員たちから「ノリちゃん」と名前愛称で呼ばれていたし、私も彼女たちを名前や愛称で呼んでいた。
 
「あの大会は結局、私は指揮者をさせてもらったし」
「うんうん。それであとから事務局の人から訊かれたんだよ。指揮者を務めた女生徒はなんで学生服を着てたんですかって」
 
「そうだったんですか」
と言って、私はどうしていいのか分からない戸惑いを苦笑の中に隠した。
 

「会社に男の格好で出て行って、プライベートでは女の子なの?」
「そうかも。でもあまりこの格好で出歩く勇気無いんです。この格好で知っている人に会っちゃったのも今日が初めて」
 
と私は言った。
 
「きっとノリちゃんって、そういう格好で出歩いた方が、より自分らしく生きていけるよ。ノリちゃん、女の子の服を着ると女の子にしか見えないから、もっと自分に自信を持ちなよ」
と宣代さんは言った。
 
「そうですね。少し頑張ってみようかな」
と私も答えた。
 
私は彼女と携帯の番号とアドレスを交換したほか、どちらもmixiのアカウントを持っているということでマイミクになった。
 
「なんだ。ちゃんと女性になってるじゃん」
「性別のところで男性を選択する気になりませんでした」
「名前は礼江(のりえ)なんだ」
「戸籍名の礼(のり)の字は残したかったから」
「じゃ、ノリちゃんでいいのね?」
「はい。mixiはその名前にしましたけど、ソフトウェアのユーザー登録とかは、クレジットカード使う関係があるから、名前は本名でないといけないかなと思って礼朗(のりあき)と書いていますけど性別は女性を選択していることが多いです」
 
「名前も女性名にした方がいいよ。男名前で性別女性で登録していると、そのほうがトラブルのもとという気がするよ。女で行くんなら完全に女で通した方がうまく行くんだよ」
 
「そうなのかも・・・・」
「クレジットカードって苗字が同じならたいてい通るよ。家族のカードで決済する人もけっこう居るから」
「あ、そうかも」
 
「mixiでは本業のこととか何も書かないんでしょ?」
「仕事上の守秘義務があるから、仕事に関することは一切書きません」
「だったら、ネット上では完全に女で通しちゃいなよ」
 
「それがいいかも」
と答えて、私は遠い所を見るような目をした。
 

宣代さんと別れた後で、いったん自宅に戻って買物の荷物を冷蔵庫に入れる。その後、私は街に出てみることにした。宣代さんと話して、ちょっと女の子の自分に自信が持てた気がした。
 
さっきはスーパーに行くだけのつもりだったからノーメイクだった。しかし今度はしっかりとメイクをする。付けマツゲも付けてアイラインも入れる。エスティローダーの口紅を入れると自分でも「美しい」と思う仕上がりだ。
 
電車で新宿に出た。特に目的は無いので、洋服屋さんをのぞいたり、本屋さんに行ったり、いろいろ歩き回る。いつしか商業ビルがまばらになってきた。町外れまで来てしまったようだ。そろそろ帰ろうかな・・・と思った時だった。
 
私は1軒の看板を目にした。**クリニックと書かれている。その名前にドキッとする。この病院、去勢とか豊胸とかしてるんだよねー。その時、私は唐突にこの病院の中に入ってみたい気分になった。
 
それで階段を登って2階の受付まで行く。でもここで何するんだ?などと自分で思いながらもドアを開ける。
 
後から思えば、福岡で騒動を起こした女装者がいたこと、新幹線で男の娘に会ったこと、そして宣代さんに女装姿を見られて、むしろ励まされたこと。そんなことが重なって、私の中の自分を押さえつけていた何かが外れてしまったのだと思う。
 
受付で「いらっしゃいませ。何を受診なさいますか?」と訊かれた。それで私は
 
「すみません。去勢手術を受けたいんです」
と言っていた。
 
ちょっと待て。そんな安易に手術受けていいのか〜!?と内心思う。しかし、受付の女性は困ったように
 
「申し訳ありません。うちでは卵巣の除去手術はやってないのですが」
と言った。
「あ、いえ。すみません。私、男なので。睾丸を取って欲しいのですが」
 
「え?」
と受付の女性は言ってしまってから
「すみません。それでしたら、こちらの問診票にご記入願います」
と言った。
 

それで15分ほど待ってから診察室に通された。
 
「GIDの方ですか?」
「はい。そうです」
「GIDの診断書は取っていますか?」
「いえ。仕事が忙しくて、なかなか受診にいけないのもあって」
「性別に違和感を感じるようになったのはいつからですか?」
「物心ついてからです」
「ふだん女装で生活なさっています?」
「休みの日だけです。会社には男の格好で行っています」
「女性ホルモンを飲んでいますか?」
「飲んでません」
「性転換手術を希望していますか?」
「いづれ手術したいですけど、今はお金がないので」
 
医師と5分くらいやりとりした後、検査室に行かされ、尿や血液を検査したり、また心理テストのようなものも受けさせられた。その後で再度医師の診察を受け、陰部も診察された。医師は私のアレを握って皮を剥いてみたり、少し刺激してみたりする。サイズも測っていた。精液の検査もしたいというので別室で容器に射精して渡した。
 
「去勢すると子供が作れなくなりますがいいですか?」
「はい。構いません」
「高確率で勃起不全になりますが、いいですか?」
「むしろ立たないほうがいいです」
 
その他、医師は去勢することにより出てくる身体の影響についても詳しく説明してくれた。私が月火が休みということを言うと、それでは来週の月曜に入院して火曜日に手術しましょうと言われた。日帰りでも手術はできるが、容体が急変するような場合にそなえて一泊または二泊の手術を勧めているらしい。
 

私はそれで手術の予約をし、誓約書にもサインして帰ったが、とうとう自分は男から卒業できると思うと、物凄く嬉しい気分になった。
 
その日の夜はそのことで興奮して、3回もあれをしてしまった。でもこういうことも来週からはできなくなるんだなあと思うと感慨深くなる。そして夜12時頃、リムーバーで爪のエナメルを落とす。
 
今日はエナメルをリムーブするけど、来週は男の素を身体からリムーブするんだなあ、などとつまらぬダジャレを考えたりしながら、その日は眠った。
 

水曜日の朝、ためいきをつきながらワイシャツにズボンを着て、背広も着て、紳士靴を履き会社に出て行った。会社に行くときは髪はゴムでまとめて背広の背中の所に押し込んでおく。
 
秋月さんとふたりで加藤課長に日曜日の福岡の事件について報告する。それで結局来週の日曜に再度福岡でサイドライトのライブをするので、それに秋月さんと私のふたりでまた行くことになった。
 
「それからチェリーツインの方はこちらのスタジオのスケジュールが変わっちゃってね。再度調整した結果、来週やることになったから1週間延期で」
「分かりました」
 
「それから人事部の方から注意されたんだけど、君昨年1度も有休を取ってないって?」
「あ、すみません。タイミングがうまく見付からなくて」
 
「有休は毎年・・・・」
と言ってから加藤課長は秋月さんに
「7日間だったっけ?」
と確認する。
「1年目が10日、翌年は11日と毎年増えて行って7年目以降は20日です」
と秋月さんが答える。
 
他人にはそんなこと言っておいて加藤課長はたぶん全く休んでいないのだろう。有休どころか、そもそも課長は週に2回の休みも取っていないみたいだ。
 
「そうか。それだけ取らないといけないことになっているから。取れる時に取ってよ」
「分かりました。でしたら、チェリーツインの予定がずれ込んだし、今週、このあと木金土と休んでもいいですか?」
「うん。OKOK。じゃ届けを秋月君にでもいいから出しておいて」
「分かりました」
 

それでその日は細々とした作業をしたりして定時に帰宅した。唐突に3日間休めることになったので、その3日間はまた女の子モードで過ごすことにする。そこで帰宅後お風呂に入った後、マニキュアをした。爪に輝きをつけるだけで凄く気持ちがやわらぐ。
 
でも私、来週には男ではなくなってしまうんだよなあ。いっそこの3日間は男らしく生活しようか、とふと思ってみたものすぐに否定する。男なんて嫌だ。ああ、早く性転換してしまいたいなあ、などと思う。
 
でも私・・・・性転換してそれを周囲にカムアウトできるかしら?
 
それ言うと会社をクビにされそうな気もしてしまう。やはり女になったら、あらためて女として雇ってくれる所を探さないといけないのかなあ。そういう会社見付かるかなあ、などと変な不安を感じながらその日は眠った。
 
 
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【私の二重生活】(中)