【夏の日の想い出・生存競争の日々】(2)

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4月26日(日)仏滅!
 
この日、私と政子は芹菜リセさんに唐突に呼び出された。
 
私と彼女は同じ「蔵田派閥」の一員ではあるが、彼女はひじょうに気むずかしい性格で友人は全く居ないと言われている。しかし彼女の曲は売れているし、テレビ番組ではその辛口トークがまた人気なので、業界としても彼女を干すことはできない。彼女を気遣って、蔵田さんはしばしば、蔵田さん・芹菜リセ・松原珠妃の3人での会食をしているようである。珠妃によればその席では普段見せるような辛辣な発言などもなく、おだやかに「ふつうのお姉様」という感じで会話しているという。
 
それでもふだん芹菜リセはその松原珠妃に対する「口撃」が凄まじい。
 
「松原珠妃、へー、そんな歌手居たっけ?」
「今歌っていたのは新人歌手か何か?下手くそだったね」
 
しかし珠妃はそんなこと芹菜さんが言ってましたよなどと記者から聞いても、「何かの間違いでしょ」とか「尊敬している先輩です」などと笑顔で話して決して喧嘩を買ったりはしない。
 
私や政子は彼女の姉の保坂早穂とは親交があるものの、芹菜さんとはテレビ局やイベントなどで顔を合わせて挨拶したくらいで、個人的に話したことはなかったので驚いたが、大先輩歌手から呼ばれれば行かない訳にはいかないので、出かけて行った。
 

彼女が指定したのは銀座の超高級レストランである。一見さんお断りで誰かの紹介が無ければ入ることもできない。私たちも一応サンローランのドレスを着て行ったのだが、芹菜さんはおそらくオートクチュールと思われる高そうなドレスにシルクの手袋、胸には1カラットはありそうなダイヤのネックレスも着けている。
 
政子が
「このダイヤすごーい。いくらしたんですか?」
などと率直に訊く。こんなのを何の遠慮もなく訊いてしまえるのが政子の便利な性格だ。芹菜さんも笑って
 
「大したことないわよ。400万円くらいだったから」
などと答えている。
 
政子は
「きゃー。しゃぶしゃぶに500回くらい行ける!」
などと言って感動(?)していた。
 
「なんか最近、ケイちゃんたちって、凄い活躍だよね」
「いえ、まだまだ未熟です」
 
そんなたわいもない会話から始まったものの、彼女のトークは最近活躍している様々な歌手・俳優の悪口オンパレードである。それに政子がいろいろ勝手なコメントをするので私はヒヤヒヤであったが、政子の素朴な反応を芹菜さんは結構楽しんでいたようである。
 
しかしさすがに料理は美味しかった。フレンチなので量的には少ないのだが、美味しいので政子もけっこう満足していたようである。ワインも昨年千里におごってもらった帝国ホテルのディナーで飲んだワインに近い味わいのかなり美味しいワインで、これもまた政子が
 
「このワイン、美味しい〜!幾らですか?」
などと言うので
 
「30万円だよ」
と芹菜さんが答えて
 
「きゃー、美味しいわけだ!」
と政子も言っていた。
 
私の舌では昨年千里におごってもらったワイン(16万円)の方がもう少し美味しい気がしたのだが、もうこの付近のレベルになると好みの問題になってくるのか、あるいは帝国ホテルのような量をさばいている店と、こういうこじんまりとした店の設定価格の差か。
 

お店に入ったのが20時頃で、私たちはゆっくりとディナーを楽しんだ。
 
21時半にウェイターが「ラストオーダーでございます」と言ってきたので政子のリクエストではブランマンジェを頼む。それが来る前に芹菜さんが「ちょっと失礼」と言って席を外した。私は化粧直しにでも行ったのだろうと思い、やがて頼んだ品が来ると彼女を待たずに先に頂いた。
 
「美味しいね〜。さすが高級店はデザートも美味しい」
などと言って楽しそうにしている。
 
私たちは芹菜さんが戻るのを待っていたのだが、なかなか戻ってこない。私は困惑した。やがて閉店時刻になる。ウェイターが来て
 
「お客様、たいへん失礼ですが、お会計をお願いできますでしょうか」
などと言う。
 
芹菜さんほどの人がこのシチュエーションで逃げたりする訳もないが、ここはお店に迷惑を掛けるわけにはいかない。それで私が取り敢えず払うことにして、私はVISAカードを出して「これで」と言った。
 
それでウェイターが金額をプリントした紙を持って来てサインしたがサービス料10%と消費税を入れて53万4600円である! 恐ろしい。
 
「連れがトイレに行ったのでそれを待っているのですが」
と私がウェイターに言うと、ウェイターは
「お具合が悪くなっていたりしたら大変ですね。女性スタッフに見てこさせます」
と言う。
 
ところが数分してやってきた女性スタッフは
「お手洗いにはどなたかもおられませんでした」
と言う。
 
政子が
「女子トイレが混んでて男子トイレに飛び込んでいたりして」
などというので、スタッフが再確認してきてくれたが、男子トイレにも誰も居ないということであった。
 
マジで逃げた!?
なぜ!???
 
芹菜さんはトイレに立つ時、ハンドバッグは持っていっているが、大型のトートは席に置いて行っている。
 

と思っていた時、突然数人の男性が入ってくる。
 
「お客様、もう閉店のお時間でございます」
と店長が言っているが
 
「警視庁の者です。麻薬の取引が行われているという情報があったので来ました。店内におられる方、その席から動かないでください!」
 
とひとりの男性が言った。
 

店内にはその時、私たちを含めて20人ほどの客がいた。みんな「え〜!?」という顔をしている。
 
その時、私は芹菜さんが席に置いて行ったトートバッグが気になった。それを手元に取ってみる。中には大したものが入っていない。芝居のパンフレットとかローズ+リリーの先日リリースしたCDとか!
 
しかし私はその中に布の生理用品入れがあるのに気づく。バッグの中で開けてみる。中には薬のシートが入っている。用心してシート自体には触らなかったものの、その錠剤の表面にはハートに矢を射たようなマークが入っている。
 
エクスタシーだ!
 
私はどうすればいいのか、まさに進退窮まった。
 

取り敢えずバッグは元の場所に戻すが、やがて捜査員が来て言う。
 
「お荷物拝見できますか?」
「はい」
 
と私はポーカーフェイスで答えて、私は自分のバッグを見せる。中をチェックしている。ポケットの中まで調べている。政子のバッグも見るが、中にはおやつとかアンパンとかばかり入っているので捜査員も微笑んでいる。そして捜査員は芹菜さんが座っていた席に置かれていたバッグに目を留める。
 
「これはどなたのですか?」
「一緒に来ていた知人が持っていたものです」
「その知人はどこに?」
「トイレに行ったまま戻ってこないので困っていた所です。でもトイレには居ないということで」
 
と言うと、私たちのテーブルを担当したウェイターが
 
「お客様のおっしゃる通りです。お連れ様がおられたのですが、先に帰ってしまわれたようで」
 
と証言してくれた。
 
「このバッグは確かにその帰られた人の持ち物ですか?」
と捜査官がウェイターに訊くが
「すみません。そこまでは見ておりませんでした。申し訳ありません」
と言う。
 
確かにそんな細かい所までは見ていないだろう。
 
果たして捜査官はそのバッグの中を調べている。生理用品入れを見付ける。男性の捜査官ではあるが、仕事なので遠慮無く中を開けてみる。そして錠剤のシートを見付けて手に取った(捜査官はむろん手袋をしている)。
 
「あなたたちはこの錠剤を見たことがありますか?」
と捜査官が訊いた。
 
「いいえ」
とは答えたものの、私は目の前が真っ暗になる思いであった。脳裏にこんなニュース記事のタイトルが浮かぶ。
 
『ケイ、違法薬物を使用』
『★★レコード社長会見 厳正な対応をする』
 
ローズ+リリー、KARIONの全てのCDが廃盤になり、巻き添えを食ってケイ&マリの楽曲を使用していたアーティストの曲まで回収騒ぎになる。私たちの後見人ともいうべき町添部長が引責辞任。それどころか★★レコード倒産。
 

その時である。
 
「あれ〜、冬じゃん」
と言って結構離れた席に座っていた女性がこちらのテーブルにやってきた。
 
「千里!?」
 
彼女は品の良いドレスを着ていて、似たような感じの年齢でラルフローレンっぽいスーツを着た男性と一緒である。身体が引き締まっている。髪も短い。私はスポーツ選手だと直感した。もしかして彼、千里の元夫で現在は不倫相手の細川さん??
 
「奇遇だね」
と私は千里を見ながら言うが、内心は更に焦る。この状況は、私たちだけでなく、千里たちまで巻き込んでしまうぞ。
 
「済みません。席を移動しないでくださいと言ったのですが」
と捜査官が言う。
 
ところが千里はその捜査官の手からさっと錠剤のシートを取ってしまう。
 
「あ、これはあれじゃん」
と言って裏返して見たりしている。
 
「すみません。それは証拠品なので」
と言って捜査官がシートを取り返す。
 
「あなたはこの錠剤のことをご存じですか?」
と捜査官が千里に訊いた。
 
すると千里は平気な顔をして言う。
 
「これはラムネ菓子のタブレットですよ」
 
質問した捜査官が続けて寄ってきた上司らしき人と顔を見合わせている。
 
「1錠いただいていいですか?」
「あ、いいと思いますよ」
と千里が勝手に言う。
 
他の捜査官も集まってくる。
 
「舐めてみれば分かりますよ」
などと千里は言っている。
 
捜査官たちはお互い顔を見合わせていたが、責任者らしき人がその端を本当に舐めてみた。
 
「ラムネだ!」
 
周囲の緊張が一気に抜ける感じがあった。
 
私は・・・・腰が抜けた!
 

「念のため、分析に回していいですか?」
「どうぞ、どうぞ。これ***製作所という所が作っているラムネ菓子です。コンビニにも売ってますよ」
 
と千里が勝手に言うので捜査官がその名前をメモしていた。
 
「最近雑誌で紹介されていたのを見ていたんで、すぐそれだと確信したんですよね〜。まるでMDMAみたいですよね。ネットでも『いいのか?』って結構話題になってましたよ」
 
などと千里は笑顔で言っている。
 
それでも警察は結局、その店に居た全ての客、従業員の所持品検査をした上、最後は私と政子・千里と彼氏の4人については男女別に同性の捜査官の前で裸にされて下着の中などに変なものを隠し持っていないかまで検査された。数十人の捜査官がやってきて、お店の厨房やゴミ箱なども徹底的に調べていたが、結局「あやしげなもの」は芹菜リセが残していったバッグの中にあった錠剤シートだけしか出てこなかった。
 
私たちの所持品チェック・ボディチェックがされている間にその錠剤シートは本庁で化学的な分析が行われたようである。その結果、ラムネ菓子であることが間違い無いこと、そして千里が言ったお菓子屋さんでこういう菓子を作っていることも確認され、私たちは結局夜の1時過ぎに開放された。
 

「千里ありがとう。あの錠剤に刻まれているマークを見た時は私、もうこれで自分の人生終わったかと思ったよ」
 
と私は言った。
 
私と政子は、千里と千里の彼氏も誘って恵比寿のマンションに行き、お茶を入れながら話した。政子は眠いと言って寝てしまったが、政子は何が問題なのか分かっていないようであった。
 
「取り調べられている時、従業員の人がひとり『またか』とつぶやいているのを聞いたんだよ。あそこの店、たぶん過去にも薬物の取引現場になったことがあったんだと思う。それで捜査官もあそこまで徹底的に調べたんだよ」
 
と千里は言う。
 
確かにたれ込み情報だけで、あれだけ多人数の捜査官が来て、客を裸にしてまで検査するというのは、やりすぎな感じもした。
 
そして一息付いたところで千里が
 
「これ、自分のマンションのゴミには出さないで。どこかコンビニのゴミ箱にでも捨ててきた方がいい」
 
と言って錠剤シートを出した。
 
私はぽかーんとした。
 
「警察に押収されたのは・・・・」
「私がすり替えた」
「え〜〜〜!?」
 
と私は驚いて絶句する。
 
「千里、それ君が処分してあげた方がいい」
と細川さんが言うと
「うん。そうしようかな。今日中にはこれはこの世から消滅するから」
と彼女は言っている。
 
「でも都合良く、似たようなお菓子を持ってたね」
「私はその日必要になりそうなものが分かるんだ」
「そんなことを桃香が言ってたね」
 
「だけど、千里も所持品チェック・ボディチェックされたよね?」
「刑事のポケットの中に放り込んでおいた。あとで回収した」
「凄い! 千里って手品の達人?」
「うーん。指の力を付けるためにコインロールくらいは練習したからできるけどね」
 
などと言って百円玉を出して両手の指の背で同時にコロコロと転がしてみせる。
 
「すごーい!」
 
「だけど何でこんな危ないもの持ってたのさ?」
と千里は訊く。
 
それで私は今夜のことを話した。
 

「間違い無く、それはケイさんをハメようとしたんですよ」
と細川さんが難しい顔で言う。
 
「何のために?」
「ライバルを蹴落とすためでしょ。冬、芹菜さんの評判は知ってる癖に、そういうのに簡単に応じたらダメだよ。断る理由くらいいくらでもあるでしょ」
 
と千里は言う。
 
「でもそのためにわざわざ麻薬を入手して?」
 
すると細川さんが言う。
 
「昨年ドーピング追放の広報をしている人のお話で聞いたのですが、エクスタシー(MDMA, 通称「玉」あるいは「X」または「ペケ」)は今でこそ本物は入手困難らしいですけど、1990年代にかなりクラブなどで出回ったそうですし、その当時はまだ規制も弱かったから、エクスタシー使ってみましたとか堂々と言っている芸能人とかもいたそうですよ。当時の物をまだ持ってる人もいると思う」
 

私は夜遅くではあったが、芹菜さんのマネージャーに電話を入れて、芹菜さんと食事をしていて、途中で気分が悪くなられてお帰りになったようなので、彼女のかばんを預かっていますと言った。
 
すると深夜ではあるものの、マネージャーさんは飛んできて、バッグを受け取った。こういうケースでは下手すると翌朝、私のバッグが無いと言い出して付き人さんに当たったりすることもあるらしい。全く付き人さんも大変である。会計を代わりに払ったことも言うと、現金で54万円渡してくれた。ちなみにトートバッグの中には、千里が悪戯心で近くのコンビニでわざわざ買って来た例のソーダ菓子を1シート入れておいた。
 
マネージャーさんが帰って行くと千里は
「さて、私も帰ろう。貴司はここに泊めてもらうといいよ」
などと言っている。
 
「千里は世田谷区でしょ?どうやって帰るの?」
「さっきのレストランの近くの駐車場に車を駐めているんだよ。あそこまでタクシーで行ってから車運転して自宅に戻る。私もワイン飲んじゃったから醒めるの待ってたのよね」
 
「タクシー使うくらいならうちのリーフ使ってよ」
「うーん。じゃ借りようかな」
 
「でも千里、彼とデートしていたんじゃないの?」
と尋ねてみる。
 
「彼はデートしていたみたいだけどね」
と千里が言う。
 
「は?」
 
「すみません。僕が浮気しようとしていたのを千里に阻止されたんです」
と細川さんは言っている。
 
「千里がデートしたんじゃないんだ!?」
 
「東京に出張したのをいいことに、前からメール交換していた女の子とあの店で食事したあとホテルに連れ込むつもりだったみたいだけど、私が追い返したから。まあ食事はキャンセルすると悪いから私が頂いたけどね」
 
と千里は言っている。
 
「千里、帰っちゃうの?」
などと細川さんは寂しそうに言うが
 
「結婚している男性とセックスとかはできませーん」
と千里は笑顔で言うと、手を振って私が渡したリーフの鍵を持ち、マンションから帰っていった。
 
私は千里が本当に細川さんと寝るつもりが無かったのか判断はつかなかったものの、細川さんには
 
「千里とは長い付き合いなので、朝ご飯くらいは出しますから、今夜はお休みになってください。今客用寝室に案内しますね」
 
と言った。
 

翌朝、細川さんは7時に起きてきた。冷凍の鮭を焼いたのと、お味噌汁・御飯を出す。政子はもちろんまだ寝ている。
 
「すみません。色々お世話になって」
「いえ。千里とは遠慮の要らない間柄ですし」
と言う。
 
「奥様、妊娠は順調ですか?」
と訊くと、細川さんは驚いたように
「妻の妊娠の話まで聞いてるんですか!?」
と言う。
 
「おかげさまで今は安定しています」
 
「性別は分かっているんでしたっけ?」
「医者は男の子のようだと言ってますね。もうすぐ9ヶ月目に入りますが、お腹がだいぶ大きいので、外を歩くのが大変とか言うので、むしろ出ないでと言って買物はできるだけ私が1週間分まとめて買っておくんです」
 
「他人が口出しすることではないとは思いますけど、奥様がそういう時に浮気するのはどうかと思いますよ」
と私は言う。
 
「すみません。千里からも叱られました」
などと言って恐縮している。
 
「日本代表メンバーの発表はまだなんですか?」
 
男子のオリンピック・アジア予選は9月に行われる予定である。細川さんは昨年アジア競技大会の日本代表になり、彼の活躍もあって日本は3位になっている。但し今度のアジア予選では優勝しないとストレートにはオリンピックの切符は手に入らない。2位か3位になった場合は翌年の世界最終予選に出て世界12カ国の中からリーグ戦とトーナメントを勝ち上がって3位以内になる必要がある。
 
「メンバーに入ってもらうよと個人的には連絡されています。もう少ししたら取り敢えず代表候補が正式発表されると思うんですけどね。それより私はFIBAの制裁がどうなるかの方が気が気でないです」
 
「全くですね。でも何とか今のところみんなおとなしくタスクフォースの方針に従ってくれているようですね」
「まあここで和を乱すほどの馬鹿は居ないと信じたいですけどね」
と細川さんは言う。
 
「でも制裁解除が気になるのは千里は代表から漏れてしまったけど、ユニバ代表の人達のほうが切実だと思うんですけどね」
と細川さん。
 
ユニバーシアード女子代表12名は4月8日に発表されたのだが、そこに千里の名前は無かった。代表候補は24名居たので落ちた人たちも比較的ショックは少なかったようである。千里は「私は余暇にバスケしてる人だから、1日中練習している人たちにはかなわないよ」などと言っていた。
 
「かなり日程が切迫してますよね」
「そうなんですよ。制裁が解除されるかどうかの判断は6月20日の会議で決まる。でもユニバーシアードは7月3日からなんですよ」
 
「もう制裁解除してもらえる前提で選手たちは練習に励まないといけないけど、ひょっとしてと思ったら嫌な気分でしょうね」
「私の知り合いでU19女子の代表になっていて、世界選手権の参加はダメと通告されて、もう泣いてた子がいますよ」
「ああ、可哀想に」
 

細川さんは9時頃「ほんとにお世話になりました」と言って帰って行った。政子は11時くらいに起きてきた。
 
「でも昨日の御飯美味しかったね」
と言ってご機嫌である。政子には芹菜リセの悪意は分かっていないようだし、昨日の警察の取り調べも何だかゲームでもしているような感じで楽しそうにしていた。私は寿命が縮む思いだったんだけどね!
 
「芹菜さんのバッグ返しに行かなくていいの?」
「連絡したらマネージャーさんが取りに来てくれたよ。ついでにお金も払ってくれた」
「やっぱり芹菜さん、いい人だね」
 
と言って政子はニコニコしている。
 
私は政子が羨ましくなった。
 

4月28日(火)、★★レコードほか数社のレコード会社の共同発売の形で
『懐かしの1980年代アイドル&シンガー・オンステージ』というDVDシリーズが発売された。ボックス形式でまとめての購入も、1枚単位での購入も可能である。
 
中身が過去にテレビなどには露出したことのない映像ばかりで40代から60代くらいの層の心をくすぐるものであった。
 
この映像のソースは○○プロの丸花社長が所蔵していた8mmフィルムである。シングル8と呼ばれる規格で、映像は光学的にフィルムに撮影し、音声は磁気ストライプ、いわゆるサウンドトラックに録音する。ちなみに名前は似ているが1990年代に使用された8mmビデオとは全く別規格だ。
 
ローズ+リリーのアルバム『雪月花』の中の『白い虹』という曲のPV制作で8mmカメラによる撮影を行ったのだが、それを見た丸花社長が「懐かしい!これちょうだい」などと言ってこちらの制作が終わった後、「お持ち帰り」になった。
 
丸花社長は昔歌手のステージを大量に8mmカメラで撮影したのでと言っていたのだが、このカメラを持ち帰って自分で古いフィルムを見ている内にこれをひとりで見るのは惜しい。発売しようと思い立ったのである。
 
それでメーカーの技術者、★★レコードや老舗の〒〒レコードなどの技術者数人が集まってプロジェクトを組み、丸花社長が所蔵していた大量のフィルムのデジタル化を行なった。この時、音源に関しては最新の技術でノイズの減少やダイナミックレンジの拡大などの処理が行われている。
 
まとめられた内容は出演している歌手が124組、映像時間は全部で90時間にも及ぶ膨大なものである。DVD50枚にまとめられ、5枚単位のボックスが10種類。DVD1枚買いは1500円、ボックスのまとめ買いは解説書・写真集付きで7000円、全部買うと7万円になるが全巻購入する場合は特別値引き価格64,000円となっている。
 
そもそもプロダクション側で撮影していたものなので、ライブ映像が多い。しかも多くの場合撮影禁止であったものを撮っているので、これ以外には存在しない貴重な映像が多かった。
 

「みっちゃんのアイドル時代の映像がありましたね」
 
と私と政子はこの全集をUTPに持ち込んで再生しながら須藤社長と話した。
 
「いや、びっくりした。河合奈津子(当時の芸名:みやえいこ:スイート・ヴァニラズの事務所社長)から連絡があって、あんたも映ってるよと言うからその巻だけ取り敢えず買って来た」
 
などと言っている。須藤さんや河合さんなどが所属していたサンデーシスターズは1980年から1987年まで活動しており、須藤さんは1982年に加入して解散まで在籍している。解散後ソロ歌手としてデビューしたものの全く売れずに引退。しかしそのソロ歌手時代の貴重な映像が丸花さんの持っていたビデオの中に残っていたのである。
 
「でも冬が全集買うのなら、ここだけコピーさせてもらえば良かったな」
 
などと、著作権ビジネスをしている人間の発言とは思えないことを言う。
 
「でも、みっちゃん歌下手」
などと政子は手厳しい。
 
「ごめーん。でもサンデー・シスターズって、基本的には番組のアシスタントだったから、愛敬の良い子とか、機転の利く子とかを採用しているんだよね。歌を歌うようになったのもあの番組の後期になってからだし、歌がうまい子といったら、ゆきみすずさんとか少数しか居なかったんだよ」
 
まあ確かに須藤さんは機転は利くし、どんな状況でも絶対に諦めずに打開策を考えて行動して行くしぶとさは持っている。だからこそ30年以上もこの浮き沈みの激しい芸能界で生きてきたのだろうが。
 
「それにこれライブ映像だしね」
と私は言う。
 
「うん。レコード作る時はたくさん録音して出来のいいところをつなぎ合わせて作るけど、ライブだとそういうごまかしが利かないから、昔のアイドルって、ライブはとても聞くに堪えないほど下手な子が多かったんだよ。今の秋風コスモスとか、当時のアイドルよりはまだマシって感じ」
 
「あ、私も思った」
と政子が言っている。
 
「だけど中には上手い子もいますね」
「うんうん。北見裕子ちゃんとかほんとに上手いし、当時もうアイドルではなく歌謡曲歌手という扱いだったけど、西川令子さんとかも無茶うまかった」
と須藤さんは言っている。
 
「西川さんって冬の関係者だよね?」
と政子。
 
「うん。私の先生の先生って感じ」
 
西川令子こと4代目若山桜盛は現在民謡若山流の総家元である。若山流総宗家は「自分の子供には家元を継がせない」という不文律がある。基本的には共同で一派を立てた3つの家(桜家・橘家・藤家)の一族から第一優先50歳以上60歳未満、第二優先40歳以上65歳未満の歌い手で最も上手い人を現在の家元が指名して継がせ、70歳になった年の年度末で定年である。70歳定年制は「衰えて声も出ないのに名前だけの家元に留まることは許さない」という考えから出ており、初代若山桜盛も70歳で引退して2代目若山橘丘に家元を譲った。
 
ある程度の実力を持つ弟子には新派を立てることを許すので私の祖母若山鶴乃もそれで若山流鶴派を立てている。この手の分派が現在10個ほどある。派として設立されたのはもっと多いのだが、一派を維持するにはそれなりの経営的な才覚も必要だ。鶴派が現在500人以上の名取りを抱えていて若山流の中でも特大勢力になっているのはやはり鶴乃の長女で私の伯母・若山鶴音の積極的な全国行脚のおかげだろう。鶴音は現在66歳だが、見た目はまだ50歳前後にしか見えない。体力もあり、毎年フルマラソンを走っていたが、周囲に心配されて60歳以降はハーフマラソンにしている。山歩きも好きで熊野古道などもよく歩いているし、愛車のRX-7を乗り回して車中泊の旅でどこにでも出かける。
 
西川令子は桜家一族の中で1つ違いの実姉と熾烈な後継者争いをしていたものの、15歳の年にもう姉にはかなわないと察して民謡を事実上辞める。一時的に高校の合唱部で活動していた後、アイドル歌手に転身、人気を博す。事務所の倒産で活動停止に追い込まれたもののロックバンドのボーカル兼ベーシストとして復帰したのちソロの歌謡曲歌手として一定の地位を築く。ところが30歳になった時、姉が唐突に失踪。その後アメリカ人と結婚してロサンゼルスに住んでいることが判明したものの、帰国の意志はないと言った。それで親族の要請に応えて彼女が民謡界に復帰し、その後厳しい修行を経て、50歳の年に4代目若山桜盛を襲名。2009年4月に先代の定年引退をうけて56歳で家元の地位に就いた。
 
アイドル歌手には浮き沈みの多い人生を送る人が多いが、彼女も本当に激動の人生を歩んでいる。
 

「セックスって何ですか?」
 
あっけらかんとした表情でそう発言した山村星歌のことばを居並ぶ記者陣はカマトトぶっているのか本当に知らないのか、判断に迷った。
 
前日、19歳になったばかりのアイドル歌手の山村星歌(やまむらせいか)と、人気男性アイドルユニットWooden Fourの最年少メンバーで先日女装姿が可愛いと話題になった本騨真樹(ほんだまさき)との熱愛が報道された。それを受けてこの日、その件で記者会見をしますといって、ふたりが各々の事務所社長とともに共同記者会見をしたのだが、冒頭
 
「私たちは結婚します」
 
という発言が飛び出し、日本中に悲鳴があがったのである。
 
山村星歌は、坂井真紅・富士宮ノエルと並ぶトップアイドルで、全国に大勢の男性ファンがいる。一方の本騨真樹も甘いマスクで女の子たちに絶大な人気がある。そのふたりが結婚を宣言したことで大量の「失恋者」を生み出したのであった。
 
本騨が贈った大きなカラットの婚約指輪を、星歌は左手薬指にはめて、カメラに向けて見せ、嬉しそうな顔をしていた。
 
それでふたりはこれまでどのような交際をしていたのかと質問され、本騨は
 
「ふたりとも忙しいので主としてLINEで話してました」
と言ったのだが
 
「デートはどのくらいしたのですか?」
という質問に
 
「一緒にカリフォルニアのディズニーランドでデートしましたし、韓国のソウルランドでもデートしました」
 
と答える。
 
「海外でのデートが多いんですか?」
「国内だとどうしても目立ってしまうので。現地に行くのも往復とも別の便を使って人に気づかれないように気をつけました」
 
「でも宿泊は一緒ですよね?」
「いえ。部屋も別々に取っています。食事は一緒にしましたけど」
 
どうにも煮え切らない感じの回答に記者のひとりが
 
「でもセックスはしたんですよね?」
 
と訊いた。それに対して本騨君は答えを一瞬躊躇したのだが、その時山村星歌のほうが
 
「セックスって何ですか?」
 
と訊いたのである。
 

記者たちの間で視線を交換したり、近くの人同士ささやき合ったりする様子がある。それで本騨君は双方の事務所社長と視線で会話した上で言った。
 
「僕たちは清純な交際をしています。キスは何度もしていますが、まだセックスはしていません」
 
するとひとりの意地悪そうな記者が尋ねる。
 
「セックスの経験無しで結婚しても大丈夫ですか?」
「僕たちは日本海溝よりも深く愛し合っているので大丈夫です」
 
と本騨君が断言すると
 
「おお!」
という声があがり、ツイッターでもこの発言が大量にツイートされ『日本海溝』がトレンドにあがってしまった。
 

「セックスって何ですか?」発言に関してはネットの住民たちも意見が分かれた。
 
「今時セックスを知らない19歳なんてあり得ない。うぶな振りをしてるだけだろ」
という批判派が大半ではあるが
 
「いや小学5年生でアイドルグループに加入して中学2年でソロデビュー。学校にもまともに行けない状態で朝から晩までアイドルの仕事をずっとしてきて、性教育だって受けてないだろ?本当に知らないのかも」
 
という擁護派もかなりいた。
 

ふたりの結婚式は9月に行われること、山村星歌は結婚に伴い「一時休業」し、休業前の8月に全国ツアーをすることも発表された。
 
「引退ではなく休業なんですか?」
と質問される。
 
「結婚前後はいろいろ忙しいと思うので一時的に休業します。落ち着いたらまた戻って来ます」
 
「女性歌手には結婚に伴って引退する方が多いようですが」
との質問に、本騨君が答える。
 
「僕が結婚のため引退しますなんて言ったら、馬鹿か?と言われると思います。星歌も結婚という経験を土台にして、ひとまわり大きくなって帰ってくると思いますので、よろしくお願いします」
 
この本騨君の発言には、特に女性から好感する意見が多かった。
 
山村星歌も発言する。
 
「私も結婚した後に、今ほど売れるとは思ってはいません。でも私は歌が好きですし、死ぬまで歌っていきたいです。ですからまたCDとか出させて頂くと思いますが、もし私の歌に共感してくださる方があったら買ってくださったら嬉しいです」
 
この謙虚な発言には男女双方からやはり好感する意見が多かった。
 

5月の中旬、私が次のローズ+リリーのアルバム制作の下準備のため、七星さん、大宮副社長、氷川さんと打ち合わせてから帰宅すると、政子が何だかご機嫌である。
 
「マーサどうかしたの?」
 
「うん。こないだ芹菜リセさんに食事をおごってもらったじゃん。それで何かお返しできないかなと思っていたからさ、六本木の洋菓子店で限定スイーツが販売されるというニュース聞いて、芹菜さんを誘って食べに行ってきたのよ」
 
「芹菜さんと!?」
 
私は驚いて言う。
 
「芹菜さん、こないだは急に気分悪くなっちゃって途中で帰ってごめんねと謝ってたよ」
「そ、そう?」
 
「たくさんおしゃべりしたけど、楽しかったなあ。こないだはごちそうになったからというので、今回は私に出させてくださいと言って、自分のカードで払ってきた」
 
と言ってクレカの控えを見せる。21,600円と書いてある!そりゃお一人様1万円のスイーツなら、さぞかし美味しかったことであろう。
 
私は政子が変な荷物などを持たされたりしていないか心配したのだが、そういうのも無かったようである。念のため政子のバッグを点検させてもらったが、別に「紙」とか「玉」とか「草」とかいった危ないものは入っていない。
 
私はさすがの芹菜さんも政子の天真爛漫な性格には毒気を抜かれてしまったのかも知れないと思った。政子は芹菜さんのお姉さんの保坂早穂さんとも仲が良い。保坂さんも、芹菜さんよりは随分マシであるものの、付き合いにかなり神経を使う人物である。
 

5月22日。私は雨宮先生から電話を受けた。
 
「美人の冬子ちゃん、おっはよー。ご機嫌いかが」
 
私は
「お疲れ様でした。おやすみなさい」
と言って電話を切る。
 
再度掛かってくる。
「こらー!電話切ったら罰金100億円」
「そんなに払えません!」
「だったら話聞きなさい」
 
「なんですか? 今私今年のローズ+リリーのアルバムに入れる曲の編曲作業してるので、あまり中断されたくないんですけど」
 
「ケイなら簡単にできるお仕事よ」
「なんか大変そうなんですけど」
 
「実は北野天子のアルバムを制作してるんだけどさ」
「へー!」
 
「彼女の楽曲は上野美由貴が主として書いているんだけど、アルバムはどうしても多人数必要なんだよね」
「そうでしょうね」
 
「まあそれで匿名希望でソフトハウス勤務の性転換している女子バスケット選手で元巫女の作曲家に3曲今月中に書いてと頼んでたんだけど、急用が入って書けなくなったと言うのよ」
 
全然匿名じゃない!!
 
「やはりソフトハウスのお仕事が忙しいんですか?」
「いや、ユニバーシアードの代表合宿が明日から30日まであるらしい」
「あの子、代表落選したんじゃなかったんですか?」
 
「それが代表に選ばれた子がひとり怪我しちゃってさぁ。あいつが代わりに緊急招集されたんだよ」
「あらら」
 
「まあそれであの子が書くことになってた曲を、あの子の友だちのよしみであんた書いてくれない」
 
「まあそういう事情なら書きますよ」
「さんきゅ、さんきゅ。で1曲はスイート・ヴァニラズからもらったことにするからElise,Londa風に、1曲は東郷誠一さんの名前で出すから、東郷さんの山村星歌系の作りで、もう1曲は上野美由貴が自分で書いたことにするから上野美由貴風に」
 
「ゴーストライターですか!?」
「一度やってみない?」
 
私は千里がこういうのは知的なゲームなんだよと言っていたことを思いだした。
 
「今回限りでしたらやりましょう」
「OKOK。まあケイをこちらの世界に引き込んだりしたら雷ちゃんから殴られて蔵田からは一発やられちゃうよ。ケイは日本のポピュラー音楽界の若きエースなんだから、あまりこういう世界には関わらせたくないんだけどね。でも今回は背に腹は替えられなくてさ。今回うちのチームは遠上笑美子のアルバムも同時進行でやってて全員フル稼働状態で、余裕が無いんだよ」
 
遠上笑美子もやってるのか!? そういえば東郷誠一さんも関わっていた気がするな、あの子。
 
「分かりました。東郷先生の山村星歌系って、アクアがこないだ歌った曲なんかもそうですよね?」
「そうそう。中の人が同じだから」
「上野美由貴さんって、私、プロフィールとか知らないんですが、若い方ですか?」
「秘密」
 
「うーん・・・」
「別に本人のこと知る必要はないでしょ? 作品が全てだよ」
 
私はドキっとした。作品が全て。
 
そうだ。私はケイや秋穂夢久・鈴蘭杏梨、そして水沢歌月などの名前で書く時、一種の自負を持って書いている。
 
しかし。
 
それが結果的には自分の可能性を枠にはめてしまっているのではなかろうか。もっと自分を解放して自由にしなければ、いづれ自分の創作は行き詰まる。
 
それに・・・・。
 
そもそも私が曲を発表した時、それはその曲が良くて売れているのだろうか。それとも私の名前が有名だから買ってくれているのだろうか。
 
私は民謡の若山流宗家の家元制度のことに考えが及んだ。
 
名前だけの家元は許さない。
 
自分は名前だけのケイにはなっていないか?
 
一度、ゴーストで書いてみるのは面白い脳のトレーニングかも知れない。
 

それから一週間、私は麻布先生のスタジオの一室に籠もり、ゴーストライターとして頼まれた3曲を書き上げた。ローズ+リリーの曲の大半は政子、KARIONの曲の大半は和泉が歌詞を書いているのだが、この3曲は全部自分で歌詞を書く。そして依頼されたように、各々Elise風の歌詞、八雲春朗さん風の歌詞、風間絵美さん風の歌詞を書き、Londa風の曲、東郷誠一(山村星歌や川崎ゆりこ向け)風の曲、上野美由貴風の曲を付ける。
 
これって結構楽しい!
 
ここを自分ならこうする、という気持ちを抑えて、ここがLondaならこうするよなという感じにまとめてみる。
 
編曲は誰かにさせるからメロディとギターコードだけあればいいということだったので、そのようにまとめたが、結局各々2日かかった。それで雨宮一派の管理人である新島さんに送り、もしよろしかったら添削料を払うから添削してもらえないかと言った所、結構な量の赤ペンを入れて返してくれた。それを元に私はまた2日かけてその3曲を全面的に修正。5月30日の夕方、再送信した。
 
さすがに疲れたなと思い、都内のレストランで少し「放電」しながら軽食を取っていたら、電話が掛かってくる。見ると町添部長である。いったん店外に出て電話を取ったら、何やらひじょうに厳しい声で
 
「ケイちゃん、今すぐ**区の**弁護士事務所に来て」
と言う。
 
弁護士事務所への呼び出しというのは異例なので、いったい何だ?と思って食事は結局残したまま精算してそちらに向かった。
 

弁護士事務所に入っていくと、いきなり事務所の人に
 
「これにおしっこを取ってきて下さい」
と言って、紙コップを渡される!?
 
何なんだ!?と思いトイレでおしっこを取ってきて事務所の人に渡す。
 
そしてそのまま30分ほど待たされる。
 
「陰性でした。こちらへどうぞ」
と言われて案内されていくと、そこには★★レコードの松前社長、町添部長、加藤課長、氷川さん、UTPの大宮副社長、○○プロの丸花社長・浦中部長、津田アキ先生、∂∂レコードの大倉社長、∞∞プロの鈴木社長といった面々が並んでおり、政子が心細そうな顔で座っていた。
 
「冬〜、さびしかったよぉ」
と政子が言っている。
 
「一体何事ですか?」
と私は尋ねた。
 

松前さんと大倉さんが顔を見合わせた。そして氷川さんに目配せする。
 
「マリさん。ちょっと出ていましょう。難しい話になるので」
と言って、氷川さんが政子を部屋の外に連れ出してくれた。
 
それで∂∂レコードの大倉さんが切り出す。
 
「今日の午後、うちの倫理調査班が芹菜リセのマンションに踏み込みまして」
 
私は緊張した。
 
「バッグの中に隠し持っていた違法薬物メチレンジオキシメタンフェタミンの錠剤シートを発見しました」
 
要するにMDMA、エクスタシーのことだ。先日彼女がレストランでバッグの中に(わざと)残していったものと同じ物であろう。
 
「自分は知らないと主張するので、知らないなら検査を受けてもらってもいいですよね?と言って尿検査と毛髪検査をしたところ、尿検査は陰性だったのですが、毛髪の方は陽性でした。つまり常用はしていないものの、結構な頻度で使用していたことが想像できます」
 
その後を引き取って鈴木社長が言う。
 
「彼女には2年間の謹慎・社会奉仕運動か、このまま引退かを選びなさいと私が通告した。そしてここでなおも自分は知らないと主張するつもりなら警察に通報すると」
 
業界随一のわがままな芹菜にこんなことを通告できるのは鈴木さんくらいだろう。
 
「彼女は2年間の謹慎を選ぶと言った。彼女は向こう2年間、一切の芸能活動をさせない。音楽とは無関係の奉仕活動をさせる。お姉さんの保坂早穂さんと彼女に楽曲を提供してきた蔵田孝治君が彼女の保証人になりたいと申し出たので受け入れた」
 
私は蔵田さんが芹菜リセのために書いた曲のとりまとめをいったいこれまで何曲したろうと思い起こしていた。私にとってもこういう結果は残念というよりも悔しい。
 
「私たちは彼女に薬物の入手経路を尋ねた。するとそのバッグは先日一時的にケイに預けていた。ケイから返してもらった時に錠剤が入っていたと主張した」
 
「それは全く逆です」
と私は言い、先日のレストランでの出来事を説明した。
 
「うん。どうも警察も芹菜については数ヶ月前から内偵している雰囲気があったんだよ。それで警察の手入れが入る前に僕たちが動くことにした」
 
などと丸花さんが言っている。丸花さんは警察関係に深い人脈を持っている。警察から情報漏れが起きているのではと私は想像した。
 
「じゃ、そのレストランでの出来事については醍醐君に話を聞けばハッキリするかね?」
 
「はい。ただ彼女は今ユニバーシアード日本代表に選ばれて今日まで合宿しているはずです」
と私は言う。
 
そこで私が千里にメールを送った。メールの内容は私と直接関わりの無い大倉さんが確認する。千里からは30分後に返信があり「今合宿が終わったのでそちらにタクシーで急行する」ということであった。千里は15分後にやってきた。そして、正直に先日の件を話してくれた。
 
「危なかったな」
という声が上がる・
 
「それ錠剤が見付かっていたら、マジでケイ君も一緒に逮捕されていたな」
 
と松前さんが脱力するように言う。
 
「実は、去年の秋に****が薬物で逮捕されたでしょ?」
と丸花さんが言う。
 
「ええ」
「****は無期限謹慎に追い込まれた。彼女の場合実際尿検査が陽性だったので言い訳のしようも無かったのだけど、彼女が事務所の社長にだけ語ってくれたが、自分は芹菜リセにハメられたということだったんだよ」
 
「うーん・・・・」
 
彼女は中堅歌手で、セールスはそうでもないものの実力は高く評価されていた。いわば芹菜リセのライバルに成長する可能性のある歌手だった。それを事前に潰したのだろう。しかしそれを警察には言わずに事務所の社長にだけ言ったというのはここで恩を売っておいて自らの復帰の礎にしたい打算がありそうだと私は思った。
 
「その頃からうちでは密かに彼女の周囲を調べていたのだよ。先日不酸卑惨の発言に対して、彼女、異様に激しい怒りを見せたでしょう。僕はこの子、薬の影響で感情が不安定になっているのではと疑ったんだ。それで元警察官の調査スタッフを数人投入して、彼女の家から出たゴミなども毎回チェックした。それで怪しい錠剤シートのカラを見付けたので、踏み込んだんだ」
 
そのシートって本当は千里が悪戯で放り込んだラムネのタブレットなのではと私はいぶかった。しかし結果的に本物が見付かったのであれば、やはり警察の手が入る前で良かったというべきなのだろう。
 

「しかしケイちゃんの件がそれで、逆に芹菜から嵌められようとしていたのであれば、実際彼女の薬物入手ルートはどこなんでしょうね?」
 
と丸花さんは言ったが、鈴木さんが言う。
 
「いや。まさかとは思ったケイちゃんの線が消えたのなら、あとはこちらで吐かせてみせますよ」
と言って鈴木社長はどこかに電話を掛けていた。
 
「まあ歌手としての能力を失いたくないなら、少々のことがあってもしゃべる方を選択するでしょう」
 
などと言っている。
 
何だか怖いよぉ!!
 
「じゃそのルートも判明したら僕が潰すから」
と丸花さん。
 
こちらも怖い!!
 
「表の世界のものは表にちゃんと戻し、裏世界のものは闇に消えてもらおう」
 
と浦中さんも言っている。私はもうこのあたりの話は聞かなかったことにすることにした。
 

話し合いが終わったのはもう0時すぎであった。私は別室でおしゃべりしていた政子と氷川さん、そして今回の大恩人となった千里と一緒に恵比寿のマンションに戻った。
 
「今日はほんとにお疲れ様でした。私はケイちゃんがそんな馬鹿なものに手を出す訳がないと信じていたけどね」
と氷川さんは言う。
 
彼女もケイ担当者ということで尿検査・毛髪検査を受けさせられたらしい。
 
「芹菜リセさん、どうかなるの?」
と心配そうに政子は訊く。
 
「2年間の謹慎。社会奉仕活動」
と私が言うと
 
「可哀想」
と政子は言う。
 
「おやつ食べに行ったりするのに誘ってもいいかな」
などと言っている。
 
私は氷川さんをチラッとみたが、笑顔だ。
 
「いいと思うよ。マリちゃんとおやつ食べていたら、彼女もしっかり自分を鍛え直すつもりになるだろうし。2年後、手強い歌手になって戻ってくるかもね」
 
「じゃ励ましに行こう」
と政子が言うので、私たちは微笑んで頷いた。
 
「ケイ、私も鍛え直すね」
と政子が言う。
 
「何を?」
と私が訊くと
 
「いや、実はリーフをちょっとぶつけちゃって」
「ん?」
「左のヘッドライト壊しちゃった」
「うーん・・・・」
 
「運転練習しなおすから勘弁して」
などと政子は言っている。
 
「これ上司に報告したら、マリさんから免許証取り上げて来いと言われるので、私今日は何も聞かなかったことにしますね」
 
と氷川さんは言っている。彼女も今日は疲れているようなので、許容的になっているのだろう。
 
「私よく分からないから、修理に出すの、冬、やってくれない」
と政子。
「ヘッドライトの交換くらいなら麻央ができると思うから連絡しておくよ」
と私は答えた。
 
麻央に頼むという話で政子はどうもホッとしたようである。大袈裟なことになるとやばいなと思っていたのだろう。それでこんな発言も出てくる。
 
「アクアもちょっと鍛えたいよね」
「ん?歌の練習?」
「あの子、歌はうまいから、女の子っぽく行動できるような練習。可愛いスカート穿かせて」
「いや。それは要らない」
 
「でも私も今回のユニバーシアード日本代表合宿に参加して、また自分を鍛え直さなきゃと思ったよ」
と千里は言っている。
 
「下位の大会では枠が多いものもあるけどバスケのベンチ枠は基本的に12人。コートに立てるのは5人。みんなその枠を取るために必死に日々練習してる。私、大学・大学院の6年間で、そういう気持ちを忘れてしまっていた。私が練習に出るのも出ないのも自由という、のんびりしたクラブチームで時間を過ごしていた間に、他の子たちはバスケ漬けの日々で自分を鍛え上げていた。私は過去に何度もスリーポイント女王取っているし、自分は実力があると勝手に思い込んでいた。今回いったん落とされてから怪我した伊香さんの代わりに緊急招集されてベンチ枠の重みというのを再認識した」
と千里。
 
彼女のことだ。きっと仕事をサボってもたくさん練習するのだろう。
 
「音楽業界は定員こそ決まってないけど、市場に対する適正なアーティスト人数というのはあるよね。だから強力なライバルが出てきたら叩きたいと思うのは自然なこと。モーツァルトほどの天才でもライバルのサリエリから随分と嫌がらせを受けている」
と私。
 
「だけど、他人を蹴落として結果的に自分を守るんじゃなくて、自分を高めて勝つべきだよね」
と政子が、とってもまともなことを言う。
 
「バスケの場合、みんながライバルではあるけど、そのライバル同士が協力し合わないと試合には勝てないんだよ。その二律背反ってのはおそらくバスケだけじゃなくて全てのスポーツ選手が感じていることだよね」
と千里。
 
「バンドなどでもメンバー間の感情ってそうなりがちですよね。一緒にやるから商業価値が出るけど、できたら自分がこのバンドの中心でありたいと思ってしまう」
と氷川さん。
 
「それでもやはり潜在的に爆薬を抱えているようなものだから、どうしても爆発して分裂するバンドは多い」
「漫才とかでもステージをいったん降りたら口も聞かないなんてペアはいますよね」
「うん。でも別れたら金にならない」
「バンドの分裂ではよく路線の違いとか、音楽性の違いとか言うけど、むしろお山の大将争いであることが多い」
 
「でもそういうライバル心が良い方向に働けば、ほんとに良い音楽が作られていくんです」
と私は言う。
 
「冬が今回私の代わりに書いてくれた曲を見て、すげー、さすが冬だと思ったよ」
と千里は言っている。
 
「新島さんからかなり添削された」
と私は答える。
 
「いや、それは良くできすぎたのをデチューンしたんだと思う。冬ってそもそもの才能が違うもん」
 
などと千里は私を褒めるが、私は彼女がお世辞などを言う人ではないことを知っている。本気で褒めてくれているのだろう。
 
「私ってセンスも無いし音楽理論も学んでなくて、素人のまま適当に曲書いているからさ。やはりもっともっと勉強しなきゃと思ったよ。私にとってはケイという作曲家は雲の上の人だなと思い知らされた」
と千里。
 
「うん。それなんだけど、みんなが褒めるから、私は自分を見直すきっかけになった。だってケイとか水沢歌月とかの名前で曲を出せばみんなが評価してくれる。匿名で書く場合は純粋に作品が全て。私は自分のネームバリューにあぐらをかいていないかと。再度自分を切磋琢磨していかなきゃと思った」
と私。
 
「そういうことを考えていける人はまだまだ伸びると思いますよ」
と氷川さんは言った。
 
 
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