【春花】(1)

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「今の所順調ですよ」
と医師が言いながら超音波の画面を見せてくれるが、赤ちゃんはまだ豆粒のように小さく、智美はよく分からなかった。でも自分の体内で新たな生命が育っていることに物凄く感動していた。
 
「つわりはどうですか?」
「きついです。でも頑張ります」
「まあこれは何とか乗り越えるしかありませんからね。あと半月くらいするとだいぶ収まってくると思いますよ」
 
自分では妊娠したことのない男性医師から言われてもそのあたりは微妙だよなという気もする。自分も半年前までは妊娠するはずのない身体だったんだけど・・・
 
付いてきてくれた怜が少し医師と言葉を交わす。
 
「そういえば犬帯って、いつ巻くんでしたっけ?」
と怜が訊く。
 
「腹帯のこと?」
と智美。
「あ、それそれ」
「5ヶ月目の戌の日ですから、10月4日か16日ですね」
と医師はカレンダーを見ながら言った。
 
「あと1ヶ月か・・・」
「まあ出産は来年3月ですから、半年頑張りましょう」
「はい」
 

智美は5月下旬に女の身体に変えてもらった後、病院で診察を受け半陰陽と診断されて裁判所に性別の訂正を申請。認可されて8月には法的に女性になり、すぐに怜と婚姻届けを出した。
 
すぐに提出したのは実は妊娠したからである!
 
5月に性別を変えてもらった後、半月ほどで最初の生理が来た。初めての体験に生理自体は辛いもののとても感動したのだが、翌月は生理は来なかった。最初は不安定なのかなあと思ったのだが、その翌月も生理は来なかった。
 
それで千里に連絡を取ってみたら
「妊娠しているんじゃない?」
と言われた。
 
全く想定外のことだったが、ひょっとするとと思い、怜にも付き添ってもらい産婦人科に行ったら、
「おめでとうございます。妊娠3ヶ月ですよ」
と言われた。
 
仰天してすぐに結婚することを決め、智美の戸籍の修正が終わるとすぐに婚姻届を出したが、新しい戸籍が作成されるまで時間が掛かるので、婚姻届けを出したという証明書を提示して、新しい姓で母子手帳も申請したのである。
 
双方の両親、特に智美の両親が仰天していた。むろん双方とも大歓迎ということで、式は妊娠が落ち着いてから11月頃に挙げることにしている。
 
「私って実(み)のできない花だと思っていたから、赤ちゃんできちゃうなんて、もうそのまま死んでもいいくらい」
と智美が言うと
「死ぬの100年くらい禁止」
と怜は言った。
 
「130歳まで生きる自信は無いよぉ!」
と智美は言う。
 
「でもうちの父ちゃん、私が性転換手術を受けたと思っていたみたいだから、妊娠というので、もう狂気してるよ」
 
「女になったと言った時は勘当だって言われたのにね」
「人の話聞かないんだもん」
「いや、ふつう理解できないから」
 
「ところで結婚式で怜はウェディングドレス着る?」
「いやタキシード着るよ」
「ウェディングドレスでもいいのに」
「唆さないで」
 

その日真珠はちょっと可愛い感じのワンピースを着て、ユウキさんとデートしていた。彼女の車でドライブした後、町外れにある「御休憩4000円」と書かれたモーテルに車をつける。田舎なので自動式ではなくフロントを通る必要がある。
 
「休憩で」
とユウキが言うと、フロントの70歳くらいの女性が言った。
 
「すみません。うちは同性の方同士のご利用はお断りしているのですが」
 
今時、都会のファッションホテルとかではこんなこと言う所は無いだろうし、男同士がダメでも女同士は何も言われないことが多いようだが、田舎なので古い感覚の所も残っているようだ。
 
「あら、この子、こんな格好しているけど男なのよ」
とユウキが言うので真珠は恥ずかしげにうつむいた。
 
「嘘でしょ?女の子にしか見えませんよ」
「保険証でも見せてあげなよ」
「うん」
 
それで真珠は自分のバッグから免許証入れを取りだし、その中に挟んでいる保険証を見せた。
 
「本当にあんた男の子なんだ?」
「男と女ならいいんでしょ?」
「ごめんねー。ゆっくり休んでね」
と言って、フロントの女性は鍵を渡してくれた。料金は出る時に払う方式のようである。
 

それで鍵の番号の部屋に入る。
 
「ふふふ、お嬢ちゃん、ちょっと楽しもうじゃん」
などとユウキは言っているが、実際問題としてユウキと性的な接触をしたことはない。真珠が“女の子経験”が浅く、最初の頃はブラジャーもひとりで着けることができなかったし、お化粧どころか眉の整え方も知らなかったので、そういう手ほどきをしてくれているのである。
 
ユウキは要するに“男の娘育成”が趣味なのである。
 
「さあ、服を脱いでごらん」
「うん」
 
それで真珠はひとつひとつ服を脱いでいく。スカートを脱ぎ、Tシャツを脱ぎ、パンストを脱いでブラジャーを外す。
 
「おっぱい随分大きくなったね」
「あれ〜?そういえばなんか凄く大きい気がする」
「ヒアルロン酸注射とかしたんじゃないよね?」
「してないけど」
 
「このブラジャーはB75だよね。この胸はどうみてもCはある。ブラジャー買い直しなよ。サイズ測ってあげる」
 
と言ってメジャーで測ってくれた。
 
「アンダー77、トップ94、これは・・・D75でいいよ」
「Dなの?」
「今のブラジャーきついでしょ?」
「うん。昨日あたりから急にきつくなってきた気がして」
「急成長の時期なのかもね。D買っちゃっいなよ。大きかったらパッド入れておけばいいし」
「買っちゃおうかなあ。Dなんて夢みたい」
 

「さあさあ、パンティーも脱いでみようか」
「恥ずかしいよぉ」
 
「恥ずかしいのは、ちんちんなんてまだ付けているからさ。ボクは20歳の時におちんちん切ったんだよ。マコちゃんもそろそろおちんちん切ろうよ」
 
「別にボクおちんちん切りたくはないよぉ」
「嘘、嘘。女の子になりたいんでしょ?」
「それはなれたらいいなとは思うけど」
 
「女の子になるには、ちんちん切らないといけないんだよ。そうだボクが切ってあげようか?」
 
と言ってユウキは鋭い刃物をパッグの中から取りだした。医療用ゴム手袋までつけて、その刃物を持つ。
 
「これは医療用のメスなんだよ。これでおちんちん切れるよ」
 
真珠はドキドキした表情でその刃物を見つめている。
 
「さあ、切ってあげるからパンティを脱ぎなさい」
「怖いよぉ」
「痛いのは一瞬だから。さあさあ」
 
まさか本当にユウキさん切ったりしないよね?と思いながら真珠はパンティを脱いだ。
 
「タック、上手になったね。これまるで本物の女の子のお股みたいだよ。さあタックを外しちゃおうか?」
と言いながら、ユウキは一瞬首をかしげた。
 
あまりにも女の子のお股にそっくりなのである。
 
「でもこれ本当によくできてるよ。まるでこの割れ目ちゃんが指で開けそうだ」
と言ってユウキはそこに(手袋をした)指を当てる。
 
「ん?」
 
ユウキは本当にその割れ目ちゃんが開けそうな気がした。これは女性の股間を偽装しているもののはずなので、ここは割れ目ちゃんのように見えて実は皮膚を接着しているはずなのである。ところが
 

「これ開けるんだけど?」
とユウキ。
「え?嘘?」
と真珠。
 
ユウキはその割れ目ちゃんを開いた上で、その“内部”を目と指で確認する。
 
「これ女の子のお股としか思えないんだけど。これが多分クリちゃん、ここがおしっこの出てくる所、ここにヴァキナらしきものもある」
 
「嘘?なんでそんなものがあるの?」
と真珠のほうが驚いている。
 
「あんた、性転換手術受けたの?」
「そんなの受けてないよぉ」
「だってこれは完全に女の子の形だよ。ちんちんなんてどこにも見あたらない」
 
「でも、ボク出かける前におちんちんからおしっこしたし、その後タックをしたんだけど」
 
「じゃその後性転換したんだな」
「そんなぁ」
 

ユウキは腕を組んで考えていた。
 
「いや、噂なんだけどさ、最近突発的に性転換しちゃう人が多発しているらしい」
「そんなのあるの〜?」
「性転換して妊娠した人もいるという噂」
「どういう原理でそんなことが」
「一種の病気か何かかもね。あんた、これどう見ても女の子になってしまっているけど、男に戻りたい?このまま女のままでいい?」
 
「そりゃ女の子になれたらとは思っていたけど、心の準備が・・・」
 
「じゃ1日考えてごらんよ。でも変なこと考えちゃダメよ」
「変なことって?」
「自殺とか」
「私が自殺するわけない」
「だったらいいけどさ。悩んだらボクに電話しなよ」
「そうする」
「明日のこの時間に、まだ悩んでいる最中であってもボクに電話して」
「うん。必ず電話する」
 
「今日はどうする?女の子になった記念にセックスしてみる?」
「それはまだ心の準備ができてないから勘弁して」
「まあ処女は大事にした方がいいだろうしね」
「私、処女なの!?」
「男の子とセックスした経験ある?」
「ない」
「だったら処女だよ」
「だって、私、女の子ともしたことないのに」
「もうそれは不可能になったね」
 

ユウキはその後、真珠に服を着るように言い、いつものようにお化粧の指導をしてくれたり、ファッション雑誌を開いてコーディネートのポイントなどを教えてくれた。ふだん通りにすることが真珠の気持ちを落ち着かせると考えてくれたのだろう。実際、真珠も普段通りの時を過ごすことで、何となく当初の狼狽は消えてしまった気がした。
 
それで2時間半ほど過ごして、ホテルを出る。ホテル代は真珠が出そうとするのだが「若い内は先輩におごられておけばよい」と言って受け取ってくれない。
 
「あんたをオカマバーとかに紹介しようかとも思ってたけど、女の子になってしまったらオカマバーでは働けないなあ」
などと言うので、真珠も吹き出した。
 
「オカマバーってちょっと興味あるけど、私、お酒を飲む自信無い」
「まあお酒は飲まないで済む要領があるんだけどね」
 

その日自宅に帰ってから大学の勉強をし、メイクの練習もする。
 
今日はきれいになったかもと思い鏡で角度を変えて眺めていたら
 
「真珠、昨日の金沢ドリルさんの件なんだけど」
と言って父が入って来たものの、真珠がきれいにお化粧をしているのでギョッとしている。
 
「どうしたの?ついでにドリルじゃなくてドイルね」
「ドイルって何だっけ?ヨーロッパの密教僧みたいなの?」
「それはドルイドかな。ドイルというのはアーサー・コナン・ドイルから採ったものだと思うよ」
 
「ああ、テレビでやってる子供の名探偵の漫画か?」
 
父のこの微妙にずれまくる知識ってどうやったら形成されたのだろう?と真珠は時々疑問を感じる。ドライバー仲間で無線でおしゃべりしている内にできあがった“不確かな知識”の集積かも??
 
「それで何だっけ?」
「実はさ、ZZ集落にある集会所だけど、前から幽霊が出るって噂があるじゃん。あれも見てもらえないかなという意見が出ているんだけど」
 
「直接頼んだら、たぶん見料は20-30万円かかると思うよ」
「けっこうするな」
 
「〒〒テレビに売り込みなよ。もし番組で取り上げてもらえたらたぶんタダ」
「それいいな。お前、連絡取れる?」
 
「アシスタントしてるアキちゃんはお友だちだし、彼女に訊いてみる」
「あの子、もしかして夏野君の妹さんか何か?」
「本人だよ。あの子も高校卒業と同時にフルタイムになったから」
「フルタイムって?」
「24時間365日女の子ってことね」
「性転換しちゃったの?」
「私もね。私、その内、お嫁さんに行くからよろしくね、お父ちゃん」
 
「お前、マジで嫁に行くの?」
「そのつもりだけど。アキとは、明日会う予定だから話してみるよ」
「あ、うん」
 

父が部屋を出て行った後、母が入れ替わりにやってくる。真珠を見ると
 
「メイクだいぶ上手になったね」
と褒めてくれるので
「ありがとう」
と言う。
 
「金剛はまだ戻ってこないし、あんた先にお風呂入らない?」
と言うので、入ることにする。
 
メイクをクレンジングで落とした上で、着替えをもって浴室に行く。少しドキドキしながら服を脱ぎ、浴室に入る。
 
そっとあそこを見てみる。
 
真珠はため息をついた。これマジで女の子の形になってるよぉ。これどうしたらいいんだろう?
 
焦る気持ちもあるのだが、この日は好奇心の方がまさっていて、おそるおそる触ってみた。これすごーい!クリちゃんって触るとこんなに気持ちいいのか。小陰唇もけっこう感じる気がするんだけど気のせい??
 
ヴァギナらしき穴がどのくらいの深さなのか確認したかったが、自分は処女だとユウキさんに言われたよなというのを思い出す。処女であるのなら自分の指に処女を捧げるのはさすがに嫌なので、触らないことにした。
 
胸が急に膨らんだのも女の子になったせいなのかもね〜。
 
でもなんかこの身体いいじゃん!
 

その付近を手に石鹸をつけて丁寧に洗った後は、ふつうに髪を洗い、身体を洗い、浴槽にゆっくりと浸かった。
 
「このままずっと女の子のままなのか、また突然男の子に戻っちゃうのか分からないけど、女の子のままでいれたらいいなあ」
 
などと考えた。
 
浴槽からあがり、身体を拭いた後、先日大学の友人に唆されて買っちゃった超可愛いパジャマを着て脱衣場を出る。帰宅したっぽい金剛の部屋のドアを開けて
「お兄ちゃん、あがったよ」
と声を掛けたら、金剛は着換えている所だったみたいで、慌ててお股を隠し、焦ったような顔をしている。“妹”に恥ずかしがらなくてもいいのにと思いながら部屋に戻った。
 
ラインが入っている。明恵からだ。ちょうどよかったなと思った。
 
「今どこ?電話できる?」
というメッセージなので、こちらから電話を掛けた。
 
「ハロー、どうしたの?アキ?」
「こんなの相談できそうなのはマコだけだと思って」
「何かあったの?」
 
「私、女の子の身体になっちゃったんだけど、どうしよう?」
「アキもなの!?」
「私もって・・・まさか」
「私も今日女の子の身体になっちゃんだけど」
「うっそー!?」
 

映画の撮影が順調に進んでいることから、俳優陣は何度か休日をもらった。アクアは同じ熊谷市内の実家に戻り、西湖は郵便物のチェックも兼ねて用賀のアパートに行ってみた。
 
西湖がお稲荷さんをどっさりとカルピスソーダの2Lペットボトル3本に紙コップ30個入りを買って帰ると、千代さんだけでなく、多数のおキツネさんが出てきて「頂きまーす」と言って食べていた。なんか壮観だった!その中には西湖に箏を教えてくれたおキツネさんや、サックスを教えてくれたおキツネさんもいた。カルピスソーダも好評でどんどん無くなった。
 
それで久しぶりに千代さんと一局打ったのだが
「あんただいぶ上手くなっている」
と言われる。
 
この日も今打った対局を最初から並べ直して、ひとつひとつの手についてコメントしてくれるので、物凄く勉強になる。
 
「じゃ次からは置き石は8つにしよう」
「はい!」
 

ところで貴司の会社であるが、6月末の突然の社長交代以来、社内が大混乱に陥り、納品遅れ、営業所の蒸発・工場の操業停止・下請けへの代金未納などが相次いで、7月上旬に出るはずだったボーナスが支給されなかったばかりか、7月25日に出るべき給与も支払われなかった。労働組合が団体交渉を申し込んだが、社長はそもそも労組など認めないと暴言を吐き、話し合いにも応じなかった。そこで労組はついにストライキを宣言して、8月5日(月)から、同社の労働組合員は業務から離れた。このことにより同社の業務は8割ほど停止した。
 
ただストライキをしたことで組合員たちは組合から僅かながらも争議費をもらうことができ、大いに助かったのである。
 
バスケ部では貴司は管理職で組合員ではないので、停止した業務のフォローに飛び回り、特に貴司は中国企業とのコネがあるので状況説明のために、何度も上海や香港に飛んだ(さすがに航空券代は支給された)。
 
貴司以外のバスケ部員は全員契約社員で労働組合には入っていないので、数少ない稼働可能な社員として、大津市の塗料工場での仕事を依頼され、そちらで勤務した。そして夕方で仕事を終えると美映がボランティア・コーチとなって彼らを大津市内の体育館で指導した。美映はこの男子チームのスターター組とタメを張れる実力を持っているし(実際、美映は社会人上位のチームにも行ける実力がある)、C級コーチライセンス・C級審判ライセンスも持っている。
 

千里はバスケ部員たちが給料をもらえないでいる間、暫定的な処置として、部員全員に貴司から各自に7月26日(給料日の翌日)に20万円ずつ、つなぎ資金として“出世払い”で貸し付けるようにした。部員たちは経済的な苦境を回避でき、次の所属先まで見つけてもらって感動していた。
 
この資金を千里から借りたことは貴司は誰にも言わなかったのだが、美映は、貴司の銀行や証券の口座がほぼ空っぽに近かったことから、恐らく千里から借りたのだろうと察したようであった。しかし取り敢えず美映も助かるし、部員ともどもバスケを楽しめるので、何も言わなかった。
 
ちなみに貴司自身への生活資金提供(阿倍子への送金分を入れて40万)も含めてこの合計180万円について千里は貴司からしっかり借用証書を取った。
 
「今すぐ美映さんと離婚するなら、チャラにしてあげるけど」
「それは2〜3年待って」
「ふーん。2〜3年ねぇ」
 

メインバンクと創業家が手を組み、いまだに意識を回復しない丸正義邦元社長(55)の次男・丸正義月(27)氏が代表になって、株主総会の招集請求を代表取締役(社長)に内容証明で送付した。株式は義邦氏が10%を持っているものの、親族3人(弟の昌二、息子の義陽・義月)とメインバンクの株を合わせると3%を越えるため、共同でなら総会召集要求ができる(会社法第297条の1)のである。
 
昌二ではなく義月が代表になったのは、昌二はかつて経営の指揮を執った時に会社の業績を低下させ、社員や株主の信用が無いからである。義月は経営参画の経験こそ無いものの、経営学修士の学位を持っている。兄の義陽も「俺よりこいつの方が経営センスがある」と言っている。
 
高縄社長はこの召集要求を無視した。
 
そこで株主側は株主による総会招集(会社法第297条の4)を行うため、その準備として、まず証券会社に個別株主通知の申し出を行った。それができた段階で、義月氏らは裁判所に、少数株主による株主総会招集の許可申し立てを行った。裁判所は8月23日(金)に審問を開くことを決定して通知した。
 

X町に熊が現れて封印を壊したのが8月4日(日)のお昼頃である。その後警察や最後は機動隊まで出動する騒ぎになった後、夕方近くに真珠が駆けつけて予備の剣で暫定的な封印をした。それで取材陣の中にたまたま居た神谷内さんが青葉に連絡し、青葉は千里1・瞬法とともに深夜、X町に駆けつけ、千里1が無意識に起動した秘法により、事件は解決した。
 
それで「よかった、よかった」と言って千里1は、青葉、瞬法、神谷内、および明恵・真珠と握手した。
 
この事件についてテレビでは“霊能者が事件を解決した”とは報道できないので、どこの局も曖昧な放送の仕方になった。しかし、あまりにもネットなどで噂が広がったことから、他局が深夜番組で住民のインタビューなどで構成して、この事件を取り上げたりもした。しかし〒〒テレビはこの事件について沈黙を守った。〒〒テレビは代わりに『霊界探訪・浄土編』と称して、3人のレポーターが“浄土”と付く場所を訪れてきた様子を放送することにした。この件はこの後、記述する。
 
ちなみに3人のレポーターとは
 
“霊界レポーター幸花”
“霊界アシスタント明恵”
“霊界サポーター真珠”
 
である!
 

8月5-6日(月火)は、青葉たちもずっとX町に滞在して、様々な後処理に追われた。明恵と真珠も結果的に助手や連絡役などとしてその2日間走り回ることになる。
 
千里1と握手した後、どのくらいの時間で“変化”が起きるかは、どうも個人差?あるいは千里1側の体調?などにより、かなりの差があるようだと千里2は言っていた。早い人は握手した直後に起きるものの、数時間後に起きるケース、3〜4日経ってから起きるケースが確認されているという話であった。青葉は6日になっても2人にはまだ“変化”が起きていないようであることから、最も遅いケースか、あるいは2人は実は女の子になりたい気持ちは全く無い、単純な女装趣味だったのかも?と疑問を感じながら、6日の夕方、高岡の自宅に戻った。瞬法と千里1は千里1が運転するアテンザで東京に帰っていった。(瞬法はレクサス乗りであるが、自分ではあまり運転しない。誰か運転できる人がいたら、その人に任せている)
 
事件も解決し、みんな帰ってしまったので、翌日7日、明恵は友人から誘われていた、イベントコンパニオンのバイトに行き、コンパニオンの超短いスカートを穿いて、笑顔でパンフレットを渡したり、会場内の案内をしたりする仕事をした。そして夕方帰宅してお風呂に入った時に“異変”に気付き仰天した。
 
コンパニオンの仕事は16時までやっており、その間に明恵は数回トイレに行ったものの、その時はまだ男の子だったのに!
 
一方の真珠はユウキさんに誘われて“女の子レッスン”を受けることにし、お昼過ぎに“余分なものを抜いてから”(それが最後の男性機能使用になった)きれいにタックし、可愛い服を着る。しかめっ面をしている父親に「お出かけしてきまーす」と声を掛けてから家を出た。駅前でユウキさんと落ち合い、アクセサリーショップや洋服屋さんをのぞいたりした後、モーテルでちょっと危ないお遊びをしようとしていて、自分が女の子の身体になっていることに気付き仰天した。
 
半ば夢でも見ているような気分で帰宅し、お風呂に入ってあがった所で明恵から連絡があり、お互いに
「あんたもなの!?」
と更に驚いたのであった。
 
2人は精子の保存などしていないまま女の子になってしまったので、将来父親になることはできない。
 

津幡町は(石川県)金沢市と(富山県)高岡市のちょうど中間付近にあり、能登半島の西側の出入り口で、木曽義仲が火牛の計を使用したことで知られる倶利伽羅(くりから)峠などもある町。アルプラザ津幡、PLANT-3などの大型店舗が近い距離に集まり、隣のかほく市にはイオンかほくもあることから、周辺地区のみならず金沢や高岡から、また能登半島方面からも人が集まってくる商業拠点になっている。かつては国道8号・津幡検問所前交差点で慢性的な渋滞が発生していたが、山中を突っ切る津幡北バイパスの開通(2008)で、スムーズに車が流れるようになり、高岡−金沢間は距離的には3-4km長くなったものの時間は5-10分短くなった。
 
その企業はこの“地の利”を生かして大型レジャースポーツセンターの建設を企画し、5年掛けて町の開発承認を取った。
 
町に提出した計画では、敷地内に、12面のテニスコート、250m(270yd)のゴルフ練習場、25mプール、バッティング練習場、バスケット・バレーなどのできる体育館、ジムとスタジオ、スパ、などを装備し、飲食店とスポーツ用品店、地元の農産品や民芸品の販売所などを設けるということであった。300台駐められる駐車場を用意。開発面積は270m×140mの3.8ha(+取り付け道路)である。
 
それで認可が下りてから、山林の木を伐採し、切り土・盛り土で地面を平らにし、基礎工事を進め、再来月くらいには中核施設となるスポーツセンターの鉄骨を組み立て始めると言っていた。ところがここで経営者が所有していた株式がリーマンショックの余波で暴落。“多階建て”による高額の追証(おいしょう)を払いきれずに、社長はどこかに夜逃げしてしまった。当然会社も倒産した。
 
(株の信用取引では、所有する株式を担保に資金を借りて、それでまた株を買うということができる。これを“2階建て”という。その株を更に担保にして資金を借りて株を買えば“3階建て”である。しかし2階建ては、担保にしていた株が暴落すると担保価値が下がることにより、差額を現金で納入しなければならなくなる。これを追証(おいしょう)と言うが、多階建てだとこれが数倍必要になる。相場が全体的に下がる状況では追証を払いきれずに結果的に破産に追い込まれる人が続出する)
 
結果的に山林を開墾したものの、建てかけのバッティングセンターを含む、途中で放置された広大な土地と暫定的に舗装した取り付け道路が残された。現在取り付け道路の入口には誰が置いたか不明のバリケードが置かれ、車が入れないようになっている。
 
これがもう10年くらい前のことである。
 

「それで出るという噂なんですよ」
と津幡町出身の明恵が言った。
 
2019年8月8日(木)、明恵たちは〒〒テレビの一室で打合せをしていた。
 
「なんかうちの集会所で幽霊が出るという話より規模が大きい」
とX町に住む真珠が言っている。
 
「たぶん幽霊が出るような話は、浮遊霊が集まりやすい場所か、あるいは霊道とかが通っているケースだと思う。でもそもそも“空いている入れ物”には雑霊が溜まりやすいんだよ」
と、心霊番組が長いので自らもかなりこの手の現象に詳しくなっている神谷内さんが言う。
 
「空き部屋の法則ですよね」
「そうそう、霊は人間が怖いから、人間が居ない所に集まるんだよ」
 
「まあそれで本来はバリケードがあって進入できないはずが、なぜか夜中にバリケードが外してあって迷い込んだ車が、駐車場で人魂を見たとか、若い女が立っていたので声を掛けて乗せたらいつの間にか居なくなっていたとか」
 
「ただ乗り幽霊の残存かな」
と何故かこの場に居る吉田君が言う。
 
「それはあるかも知れないけどね。あの落雷の時はこの付近まで遊女の霊が拡散した可能性があるし」
 
「ドイルちゃんの時間が取れたら、続けて見てもらおうかな」
と幸花。
 
 
「ドイルさんの日程は?」
と神谷内さんが吉田君に訊く。
 
「世界選手権、ワールドカップと続いて、今は全国公の準備で毎日練習していますね。僕も練習に行かないといけないんだけど。全国公が終わった後は、福島にツーリングに行くと言ってました。たくさん作曲頼まれていて、そのネタ探しらしいんですよ」
 
「あの人も本当に忙しいね!」
 

「なんか物凄い風景の場所らしいですよ。とても日本とは思えない、異世界の風景だとか。浄土平というんです」
 
「浄土ですか!」
「たくさん写真撮ってくると言っていたから、後で見せてもらおうと思ってる」
「それ僕たちも見たいね」
と神谷内さん。
 
「ツーリングかぁ。いいなあ」
と真珠が言う。彼女は高校時代に二輪の免許を取ったものの、高校在学中は練習で乗る時以外、母に免許を預けていた。
 
「バイク乗るの?」
と吉田が訊く。
 
「Suzuki GSX250Fなんですよ。実は兄貴のバイクなんだけど、兄貴は最近忙しそうで全然乗ってないから、この春以来、私が毎日通学やバイト行くのに使ってる」
 
「それはもう取得時効だな」
 
「吉田さんもバイク乗るんですか?」
「俺はKawasakiの Ninja250R に乗っていたんだけど、今はNinja1000に乗り換えたんだよ」
 
「すごーい。リッターバイクだ!」
 
「ドイルたちも大型バイクだよ」
「へー!」
 
「ドイルがYamaha FJR1300, 同行するお姉さんがKawasaki ZZR-1400」
「すごいですね」
 
「お姉さんってこないだ来ていた人?」
「髪の長い人?」
「長くしていたけど切ったと言ってた」
「へー。切ったのか。あの人はあの長い髪がシンボルマークだったのに」
 

「沢口(明恵)さんはバイク乗らないの?」
「四輪の免許は春休みに取ったんですけど、二輪の免許は持ってないです」
 
すると神谷内さんが思いついたように言った。
「沢口さんも二輪の免許取らない?それで、バイク浄土の旅、という特集で」
「浄土平に行くから、浄土の旅ですか?」
 
「一緒に浄土と名のつく所に、何人かで手分けして行ってみようよ。例えば福井県の浄土寺川ダムとか、射水(いみず)市の浄土寺とか」
と神谷内さんは言ってから、ネットで検索している。
 
「福島県に浄土松公園、岩手に浄土ヶ浜、隠岐に浄土ヶ浦ってあるね。隠岐は予算取れないけど、福島と岩手は浄土平の取材とセットで行って来られるかな」
などと神谷内さんはパソコンの画面を見ながら言う。
 
「立山に浄土山という山と浄土沢って沢がありますよ」
と登山が趣味の明恵が言う。
 
「おお、それも見てみたいね」
 
「登山の訓練を受けてない人には厳しいと思うので、私が誰か適当な人と組んで取材に行ってきましょうか?」
「それは助かる。あ、吉田君、君、登山とかできない?」
「登山の訓練は受けてないですけど、去年白山には登りましたよ」
「じゃ次は立山ということで」
 
それで明恵と吉田、それに〒〒テレビのカメラマンで登山経験のある浜中さんという人と3人で映像を撮ってくることになった。
 

「でも浄土平にも沢口さん行ってきて欲しいなあ。バイクの免許取りなよ。資金が無かったら僕が個人的に貸しといてもいいよ」
 
「借りようかな。学費でかなり親に負担を掛けているから」
 
「バイク本体は、ドイルがYZF-R25を買ったまま、全然使ってない筈だから、あれを借りられると思う。練習で乗っていただけで、すぐリッターバイク買っちゃったから。しばらく動かしてないなら整備が必要かも知れないけど」
と吉田君。
 
「だったらそれを借りたらいいね。じゃ今日にも自動車学校に入校しよう」
「今日ですか!?」
「探せば空いている所あると思う」
 
それで神谷内さんがあちこち電話を掛けまくった所、1ヶ所入校OKの所があり、明恵は合宿コースで二輪免許を取ってくることになったのである。費用の約10万円は神谷内さんが本当にポケットマネーから貸してくれた。
 

明恵が自動車学校に入っている間に、神谷内さんは皆山幸花と真珠を連れて福井県の浄土寺川ダム、射水市浄土寺の取材に行って来た。真珠は明恵の友人で、明恵が自動車学校に行っている間の臨時代理ということにして“霊界サポーター”を称した。実態は荷物持ちである!
 
浄土寺川ダムは2008年にできた新しいダムで、堤高72mの重力式ダムである。場所は福井県勝山市で、永平寺町から更に25kmほど東へ入って行った所にある。九頭竜川水系の浄土寺川に作られたダムだ。勝山市の市街地からは国道157を少し北上した後、5kmほど山道を入った場所。幸花も真珠も、しっかりダムカードをもらって笑顔でカメラに映っていた。
 
射水市の浄土寺というのは、そういう地名である!浄土寺というお寺があるわけではない。取り敢えず浄土寺の公民館を映して、基本的には取材終了である。場所は小杉ICの近くである。せっかく来たので、隣の上野地区にある親鸞会館も取材した。ここは2000畳敷の広大な講堂があり、これが地元では時々取材の対象になっている。
 

その日、★★レコードの氷川課長はローズ+リリーの鱒渕マネージャーと電話で長時間話した後、深夜0時すぎ、八雲礼江の車で送ってもらい、ゴールデンシックスの花野子が住んでいるマンションを訪れた。深夜の来訪に驚くも、その日は梨乃とふたりで次期ツアーについて打ち合わせている所だったので快くマンションのエントランスを開け、氷川を部屋にあげた。
 
「さて、ゴールデンシックスの諸君、悪い相談をしようではないか」
と氷川は言った。
 
「あのぉ、何するんですか?」
「君たち、ローズ+リリーに挑戦してみないかい?」
「何かそれ面白そうですね」
と梨乃はワクワクした顔で氷川に言った。
 

明恵は順調に教習をこなし、見極めも1発合格、8月16日(金)に卒業試験を受けてこれも1発合格。8月19日(月)に金沢の運転免許試験場で学科試験に合格し、自動二輪免許を取得した。3月に普通免許を取っていたので、これで明恵の免許はグリーンからブルーに変わった。
 
8月20日には、明恵・吉田君・〒〒テレビの浜中カメラマンの3人で浄土沢まで行き、浄土山の映像も撮ってきた(山自体へは登らなかった)。
 
青葉と千里(千里2)は8月13-15日に裏磐梯を走って来たのだが、2人は8月15日に(東北道と磐越道の)郡山JCTで別れる予定であった。その直前の安達太良(あだたら)SAで休憩するが、その時、青葉は思い出して言った。
 
「そういえば、神谷内さんからYZF-R25を使ってないなら貸してと言われたんだけど、ちー姉、あのバイクは今使ってる?」
 
「あ、ごめん!忘れてた。あれはローズ+リリーの『郷愁』の制作に参加していた時に、郷愁村に通うのに使っていたんだよ。高岡の自宅に持って行けばいい?」
 
「金沢で使うから、金沢の〒〒テレビに持って来てもらうと助かる」
「OKOK。じゃ、東京に戻ったら、そちらに持って行くね」
「ありがとう。しばらく使ってないなら、使う前に整備が必要かな?」
 
「ずっと使っているから大丈夫だと思うよ。こないだも1番が秩父霊場の巡礼に使っていたし。でも念のため1度整備させるね」
「ああ、秩父34ヶ所か!あそこは小型バイクか変速機付き自転車って感じかもね」
 
それで青葉は千里と別れて高岡に帰還したのだが、途中の有磯海SAで、神谷内さんから《バイクはお姉さんが持って来てくれた。一応こちらでもお姉さんに御礼言っておいたけど、ドイルさんありがとうね》というメールが入っていたので仰天した。
 
私が1300ccのバイクで移動している最中に、どうやって250ccのバイクを金沢まで持って行ったのさ!?
 
そういう訳で、千里が借りっぱなしにしていたYZF-R25は、この後、明恵が借りっぱなしにすることになるのである!
 

MM化学の株主による総会招集の申し立てについて、裁判所は8月23日(金)に社長を呼んで審問を開こうとしたのだが、社長は出席しなかった。それで裁判所は株主側に株主総会の招集許可を出し、9月22日(日)に株主側が招集する株主総会が開かれることになった。
 
そして8月23日、会社は給与を支払わなかった。ストをしている組合員についてはストを開始した8月5日以降の分の給与を支払わないのは当然だが、7月21日から8月4日までの給与は支払う義務がある。また組合員以外は普段以上の負荷で働いているので、当然給与を支払わなければならないが、彼らにも支給しなかった。それでとうとう、全ての社員が出社拒否をして、8月26日(月)以降、会社には、社長の側近以外、誰も出て来なかった。これでMM化学の業務は完全に停止した。
 
貴司も美映から「会社に行く必要無いよ」と言われ、バスケ部員たちを誘って(千里の許可も出たので)美映と緩菜も連れて、市川ラボに行き、そこで1日バスケの練習をして過ごした。
 
「ここ自由に使っていいの?」
「うん。友人が所有している私設体育館なんだよ」
「ふーん。友人ねぇ」
美映も敢えて突っ込まない。
 
「深夜でも使えるっていいですね!」
と部員たちからは声があがる。
 
「ここはむしろ深夜練習のために建てたんだよ。だから日中は地元の小中学校が来て使う場合もある」
 
実際その日は午後に近くの小学校のミニバスチームが来て練習したので、こちらの部員たちが、ドリブルやパスの指導をしてあげた。
 
千里はあらためて貴司に180万貸し付けたので、貴司から部員たちに20万円ずつ“出世払い”で貸し付けたし、10万円を阿倍子に送金して、残り30万円を自身の生活費(バスケ部の活動費を含む)とさせてもらった。もちろん千里は180万円の借用書を貴司から取った。
 

8月27日(火)、社長は唐突に株主側の総会と同じ9月22日にそちらとは別の場所で株主総会を開催すると宣言。いまだに会社に出てきている側近の手により株主に通知が送られた。それで2つの株主総会が同日開催されることになった。
 
これに対して株主側は「裁判所によって開催が決定された以上、会社側が招集する総会は無効である」とネットを通して広報した。会社側も対抗して「会社が総会を開くと言っているのだから、こちらが有効であり、勝手に一部の“頭のおかしな株主”(原文ママ)が開く株主総会は無効であると全株主に文書を送った。株主たちは大いに混乱したが、この事件を取材した報道各社は株主側の主張が正しいことを法律の専門家のコメントとして報道した。
 

MM化学はこのまま倒産するのでは?(あるいは既に倒産したのでは?)という見方が広がる中、思わぬ事態が起きた。
 
9月2日(月)の取締役会で、高縄社長が他の取締役の全員一致により解任されてしまったのである。
 
解任に賛成した取締役の中には、6月の取締役会で新任になった、社長自身の長男も含まれており、社長は思わず「息子よ、お前もか!」と叫んだらしい。
 
本人は
「息子と言われるのも面倒だから娘になろうかな」
と言ったとか言わなかったとか。
 
高縄社長の失敗は、何よりもメインバンクを怒らせたことである。それで資金が調達できなくなってしまった。また同時に“報復人事”によって大量の退職者を出し、業務が麻痺した。銀行が協力してくれないので、工場生産に必要な材料の仕入れ費を確保するため7月上旬支給予定のボーナスを凍結したが、これが更に離職を促し業務が停滞する。納期遅れによって納入先から違約金を請求され、ますますお金が無くなり、ついに給料まで払えなくなってしまった。怪しげな金融業者からお金を借りて何とか材料費の購入や、輸入代金に充てるが、利子が高すぎて、更に自分の首を絞めることになってしまった。
 

 
新社長(むしろ暫定社長)に就任した平本氏は社員・株主に向けて
 
「和解しよう」
 
と呼びかけた。
 
まず6月末の前社長就任の直後に行われた管理職人事を全て白紙に戻すことを宣言。その後退職した人で、会社に戻って来てくれる人は、そのままの給与と勤務地の条件で受け入れると宣言(退職金をもらった人は皆無なので退職金返還問題は発生しない)。また下請け企業への代金支払いが遅れていた所にはできるだけ速やかに支払いを行うとした。更には取り敢えず7月分の給与を一週間以内には支払いたいと述べた。
 
これらの支払いのためには最低でも6億円の資金が必要と見られたが、その原資として、まず役員全員が個人的に1000万〜5000万程度を拠出し、これが合計で1億円になるのを使用する。また8月23日の段階で工場生産のため新たな材料購入費や輸入代金支払い費として用意されていた1億円を転用。会社が所有する有価証券の売却で2億円調達。更には東大阪市の第1工場、大津市のW町工場の土地を担保に銀行に融資を申し入れたいと述べた。
 
平本新社長はこれらの方針を発表してすぐにメインバンクの本店に赴き、土下座して前社長の行動について謝罪。協力を申し入れた。メインバンクは緊急会議を開き、現在の経営陣が、9月22日に予定されている株主総会で、全員退任すること、退職金はゼロとすることを条件に、取り敢えず社員の7-8月分の給与や、下請けへの支払いの資金については考慮すると述べた。
 
この新社長の呼びかけに応じて、労組はストライキを解除。9月4日(水)から業務は再開された。但し材料購入費を転用してしまったので新たな資金が得られるまで工場では仕入れの無いままストックによる生産を可能な範囲で続ける。
 
実際、9月6日(金)までに取り敢えず下請けへの代金支払いが実行されるとともに、社員に7-8月分の給料が支給され、しかもストライキ中の給与も基本給の分だけは払ったので、多くの社員がギリギリ救われた。もっともローンを抱えていて、期限の利益喪失で残債の一括支払いを求められ苦境に陥っていた社員も少なからず存在した。平本新社長はそのような状況に陥った社員について、メインバンクから借り換えローンが組めるように斡旋することにして、個別の対応を進めてもらった。また下請けで支払い延期により倒産してしまった所が1社あった。そこは9月22日の株主総会で新社長に就任する予定の丸正義月氏とも連絡を取りながら交渉した結果、MM化学の子会社として再建する方向で進めることになった。
 

9月6日に7-8月分の給与が支給されると、バスケ部員たちに貴司が貸した分は280万の内、半分がすぐに返済してもらえた。残りは本当に“出世払い”ということにして「ゆっくりでいいよ」と言ってあげたのだが、最終的には後述の事情により9月末までに全額返還された。
 
貴司自身に貸した分は・・・
 
「済まない。阿倍子への送金原資としてもうしばらく貸しておいて」
などと言うので、
 
「利子はトイチね」
と言っておいた。
 

インカレの水泳が終わった後、他の部員は高速バスで金沢に戻ったのだが、青葉は東京に1泊し翌朝の飛行機で北海道に飛んだ。
 
羽田 9/9 6:50 (HD11 767-300) 8:20 新千歳8:45-9:22札幌
 
青葉は札幌エクセルホテル東急で丸山アイと落ち合い、取り敢えずモーニングを一緒に食べた。アイは北海道で新曲のキャンペーンをしていて、明日からは九州!に移動するらしいが、今日は1日オフだったらしい。
 
「金メダル4つおめでとう」
「ありがとうございます。まあ最後のインカレでしたし」
「青葉ちゃんって、中高時代から水泳やってたんだっけ?」
 
「水泳部に入ったのは高3の時なんですけどね。中3の時に卓球部で女子選手として参加したことがあったので、水泳でもスムーズに受け入れてくれた感じはありました。過去にかなり徹底的な性別検査をされましたけど」
 
「私もされたことあるけど、あれってほぼ人権無視だよね」
「まあ巧妙に誤魔化そうとする人もあるから仕方無いですね」
 
と言いながら、アイは“確かに女子なのか”を検査されたのだろうか?それとも“確かに男子なのか”を検査されたのだろうか?あるいは“確かにふたなり”なのを検査されたのだろうか??と疑問を感じた。
 
11時頃、五島節也(せいちゃん)が迎えに来てくれたので
「松本花子プロジェクト・小樽ラボ所長の五島節子です」
とアイに紹介した。
 
「節子さん、以前見かけた時より女装が様になっている」
とアイは面白そうに言う。
「千鶴子さんも、以前見かけた時より女装が様になっている」
と《せいちゃん》は逆襲する。
 
「おふたり、どこかで会ったことありました?」
と戸惑うような顔で青葉が訊くと
「まあ、万葉ちゃんも随分女装が様になってきたよね」
とアイは言った。
 
「私、男装したことないよぉ」
と青葉は困ったような顔で答えた。
 
ちなみに青葉は、五島が実は千里の眷属であること、つまり人間ではないことに全く気付いていない!
 

割と年季の入ったジムニーの後部座席をアイに勧め、青葉がその隣に乗る。五島の運転で小樽市まで行き、その町外れの山道を進み、更に私道っぽい細い道を数十メートル入った所に、そのボロ家はあった。ボロ家だが太陽光発電ユニットが屋根に並んでいるのを見てアイが
 
「ああ、自家発電しているのね」
と言う。
「あれは日常の電気を供給するためのものですが、非常用にプロパンガスによる発電機も持っていますよ」
と説明する。
 
「なるほど。うちにはその手の非常用の発電体制が無いな」
とアイは言うが
「ミューズの場合は、非常用発電設備を作るとしたら、内燃力発電所が1個必要でしょ?」
と青葉は言う。
「そのくらい必要かもね〜」
 

それで中を案内する。
「いらっしゃいませー」
と言って間枝星恵が出てきて挨拶する。奥の方で作業していた矢島彰子も座ったまま
「いらっしゃいませ」
と声を掛けた。
 
青葉がその2人をアイに紹介する。
 
「こちらが松本花子のプログラム・リーダーの矢島さん、こちらは松本葉子の朗読係の間枝さん」
 
「マエダさんって見たことある。林檎座の『ハムレット』でオフィーリアとかしなかった?」
 
「すみません。オフィーリアの侍女役で3回だけ舞台に立ちました」
「侍女だったか!」
「でも凄いですね。私が舞台に立ったの、その3回だけなのに」
「偶然それを見たんだね」
 

「間枝さんは、松本葉子のシステムの一部なんですよ。彼女に詩を朗読してもらって、その抑揚・強弱をそのままメロディーのベースにしちゃう」
 
「なるほどー。むしろ松本花子のコアかな」
「そうかも」
 
夢紗蒼依だと人工知能が詩を解析して、単語識別構文解析をした上で、どこが強調ポイントかを自動認識して、それと日本語のイントネーションデータベースを引いて抑揚を付ける(これは自動読み上げソフトのエンジン部分のロジック)という物凄く複雑なことをしているのだが、松本花子では、その部分を朗読の訓練を受けた生身の俳優さんがしているのである。
 
「矢島さんは、二子玉川のJソフトって会社でシステム課長をしていた人で、ソフトハウス勤務だから、様々なシステムを経験しているんですよ。多人数のプロジェクトもたくさん経験しているので、プログラマの管理が上手いんです」
 
「千里ちゃんが勤めていることにしていた会社だ」
「本当に勤めていたのは、女装の五島さんですけどね」
 
「ああ、千里ちゃんは長い髪で識別されるから、顔が多少違っていても誰も代役に気付かない」
とアイは言っている。
 
多分、アイさんも千里姉の振りしてあちこちで“いたづら”してるよね?と青葉は内心思った。
 
「まあそれで私たちもすっかり騙されていたんだけど」
と矢島さん。
 
「実際には千里が書いたプログラムがまともに動いたことはない。1から10までを DOループで回して足し算するプログラムで、54という答えを出せるのは千里くらい」
と五島は言っている。
 
「45にしちゃう人はたまに居るんですけどね」
と矢島。
 
(1+2+3+4+5+6+7+8+9+10=55 だが、45は最後の10の足し忘れで多分 i<=10 と書くべき所を誤って i<10 と書いたもの。54は先頭の1の足し忘れ!)
 
「まあ千里姉は大学大学院の6年間、Jソフトに勤めていたことにしていた3年間、実はバスケットしかしていない」
と青葉も言っている。
 

「まあそれでこのラックBに積んであるのが、Yamada21から30までで松本花子の本体、こちらのラックAに積んでいるのが、Yamada11からYamada20までで、こちらは多数の編曲者の本体ですね。ラックCはストレッジです」
と五島は説明した。
 
「ブレードコンピュータか!」
「まあ筐体が無いほうが扱いやすいから」
「そうだろうね!」
 
「Yamada-11から20はインテルCore-i7 8086K, Yamada21-30は Core-i7 9700Kを使用している。メモリは編曲用の11から20は64GB, 作曲用の21-30は128GB」
 
「ストレッジは?」
 
「ラックCに置いた4台の1TB-SSDを全てのノードから10GBのLAN経由で共用している。データはラックCに置いた専用のバックアップ用PC Yamada-10で、2台の1TB-HDに日々バックアップしている。ちなみに各々のノードにはOS格納用に100GBのハードディスクを付けている」
 
「ハードディスクなんだ!?」
「速度を必要としないから」
「確かに」
「どうせデータベースは全部メモリにロードしちゃうし」
「メモリにロードできるの!?」
「データベースはせいぜい20GB程度しかない」
「コンパクトだね!」
 

「でもここは開発室?松本花子を運用しているコンピュータ群はまた別の場所?」
とアイが尋ねると、五島も矢島も一瞬きょとんとした。
 
「いや、これが松本花子の全てですよ」
と青葉は答えた。
 
アイはしばらく青葉の言葉が理解できないようだった。
 
「もしかして、この20個くらいのパソコンであの膨大な松本花子の作品を製作してるの!?」
 
「そうそう。この20台のパソコンではひとつひとつが独立に松本花子システムを実行している。需要が増えたらパソコンを買い増す。需要が減ったら適当に停止させる」
と五島。
 
「パソコン1台で動くんだ!?」
 
「従来型のプログラムだから。といっても1970年代までのフローチャート・プログラミングや、1980年代の構造化プログラミングではなく、1990年代以降のオブジェクト指向プログラミングだけどね。プログラム言語は Perl だよ。一部どうしても速度が必要な所だけ C で書いた」
と五島は説明する。
 
「よくそんなので作曲できるね!」
 
「松本花子がやっているのは、あくまで“埋め曲”レベルの製作なんだよ。夢紗蒼依みたいな創造的な作曲はできないし、最初からするつもりも無い。でもこの業界の楽曲の需要のほぼ95%くらいは実は埋め曲レベルの曲なんだよね。それを代替するのが松本花子の目的」
と青葉が説明すると
 
「うーん・・・」
と言って、アイは悩んでいる。
 
「歌詞は人間が書いている。これは実は30人くらいの作詞家集団を抱えているんだよ」
 
「けっこう人間を使っているね!」
「人間が得意な所は人間がやる。人間では大変な部分を機械にさせている」
 
「それは凄く正しいやり方だという気がする」
 
「まあそれで松本花子と夢紗蒼依は手法もターゲットも違うということになる」
 
「確かにそうだ!」
とアイは感心していた。
 

「そういえば、元東京スター銀行社長のタッド・バッヂさんがさ」
と矢島さんが言った。
 
「あの人は若い頃から何度も日本に来ていたんだけど、初めて奥さんを連れて東京に赴任してきた時に、日本で住む家に連れてったら、見せられた部屋を奥さんは玄関ホールだと思い込んで『部屋に行く通路はどこ?』と訊いたんだって」
 
「ああ」
 
「さっきのアイさんの反応は、そのエピソードを思い出した」
と矢島が言うと、アイは照れ笑いをしている。
 
「まあ、日本の家は狭いからね」
 
「日本人はウサギ小屋に住んでいると言われたゆえんだよね(*1)」
 
(*1)1979年にEC(ヨーロッパ共同体:欧州連合(EU)の前身のひとつ)が出した文書の中で使われて日本でも大いに共感!された表現。
 

「もっともペレストロイカ前のソ連とかは日本よりもっと酷かったんだけどね。日本だと4畳半1K程度に相当する狭いアパートに1家8人とか住んでたらしいから」
 
「庶民の生活を犠牲にして、兵器開発・宇宙開発をしていたんだな」
「帝政ロシア時代よりは改善されたんだろうけど、ロシア革命以降60年間、時が停まっていたのかもね」
 

「ここ2階は何かあるの?」
と丸山アイは尋ねた。
 
「2階は女子社員のプライベートスペースだな」
「女子とは言っても所長(せいちゃん)は立入禁止」
「会長(青葉)は入ってもいいよ」
 
「ボクは?」
とアイが訊くと
「アイちゃんは女の子みたいだから入ってもいいよ。竜さんは男の子らしいから立入禁止」
と間枝さんが言っている。
 
丸山アイと高倉竜が同一人物というのは、ネットで検索したりしてもその話はヒットしないのに、どうも実際は結構知られているようだなと青葉は思った。(間枝が雨宮先生の関係者であることを青葉は知らない)
 
「今日はアイだから、後でお邪魔するね」
 
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【春花】(1)