【春根】(5)

前頁次頁目次

1  2  3  4  5 
 
元の封印をした倉橋さんと、その倉橋さんが呼んだ東京の霊能者・中村晃湖さん!は10時頃一緒に現場に到着したものの、既に解決してしまっていたので驚いた。
 
「あんたたちの仕事か!美事だね」
と中村さんは青葉と瞬法に言った。
 
「悪かったね、あんたの出番は無かったよ」
と瞬法さんも知り合いのよしみで軽口を叩いている。
 
「美事ですね。どうやってこれ処理したんですか?」
と倉橋さんは本当に驚いたようであった。
 
「まあ長谷川一門の門外不出の秘法を使いましたが、この3人の組み合わせでないと無理だったね。この3人が一門でも最も法力が凄いんだよ」
と瞬法さんは言っていた。
 
「この方たちは?」
と倉橋さんが中村さんに尋ねる。
 
「3人とも長谷川瞬嶽さんの数少ない直弟子。高美原瞬法さん、川上瞬葉さん、村山瞬里さん」
と中村さんは紹介した。
 
なお今回の処理の謝礼については、倉橋さんたちが辞退したので、彼女と中村さんには交通費だけを渡し、瞬法さん・青葉・千里の3人で頂いた報酬を3等分した。千里は「私は何もしてないのに」と言ったが、本当は千里1だけで全部処理してしまっている!青葉と瞬法がしたのは、主として放送局や警察・地元の人たちを安心させる作業である(それもとっても大事なのだが)。警察に関しては、やはり橋本警部補が青葉の“これまでの活躍”を説明してくれたので多くの警官が納得してくれた。
 
なお今回青葉は千里1と何度も身体接触が生じていたものの、性転換して男になってしまうことはなかった。千里2が言っていたように、性別に何も不安を持っていないので、性別転換の法の自動起動対象にはならないようであった。
 
でも多分、明恵と伊勢さんは・・・。
 

この事件はニュースとしては住宅街に熊が現れ、何か変なものに触って熊は死んだものの、危険物は専門家の手で処置がされたとだけ、報道された。どこの局も映像を出さなかった(カメラが壊れて映せなかった!)し、“霊能者が解決した”とはさすがに報道できない。神谷内さんも死者まで出ているので『霊界探訪』の番組としてまとめるのは断念すると言っていた。
 
しかし「例の熊の事件は物凄い祟りがあったのを金沢ドイルさんが鎮めたらしい」という噂だけが伝搬して行った。
 

青葉は翌日の8月6日いっぱいまで、この事件の後処理に追われ、8月7日(水)になって、やっと大学に出て行った。
 
指導教官に現在の卒論の進捗状況を報告し、書きかけの物も見てもらって助言などをもらった。また前期の試験を受けられなかったので、その代わりとなるレポートを全科目分提出した。
 
(試験は8/6までだったので完璧に青葉は試験を受けられなかったのだが、実際問題として、授業にあまり出ていないので、試験を受けてもどうせ追試あるいはレポート提出になる!)
 
その翌日、8月8日には水泳部の中の次のメンバーで九州の鹿児島市に移動した。鴨池公園水泳プールで8月9-11日に開かれる全国国公立大学選手権水泳競技大会に出場する。
 
※参加メンバー
女子 4年生 青葉・杏梨・春貴 3年生 希美 2年生 夏鈴・萌香・美虹 1年生 波花・美音
男子 4年生 吉田(邦生) 3年生 皆橋 桜池(裕夢) 1年生 大坂
 
女子9名と男子4名、それに引率の角光先生である。なお春貴は昨年までは男子として参加していたので、バストの扱いが大変だったのだが、今年からは女子として参加なので、安心して女子水着で泳ぐことができる。
 

男子は4人だけの参加で、リレーもこのメンツで組むが、女子のリレーは次のようなメンツで構成した。
 
400R 杏梨(4)→波花(1)→希美(3)→夏鈴(2)
400M 萌香(背)→美虹(平)→希美(バ)→夏鈴(F)
800R 春貴(4)→波花(1)→夏鈴(2)→希美(3)
 
春貴は女子のリレーで初の全国大会だったが、若干の罪悪感を持ちながらスタート台に立ったと言っていた。
 
「間違いなく女の子なんだから、罪悪感持つ必要ないのに」
と杏梨が言っていたが、春貴の気持ちがよく分かる、と青葉は思った。
 
しかしそういう訳で今回青葉はリレーには出なかった!
 
リレーは3種目とも金メダルを取ったものの、タイムが不満だと、事実上のキャプテンである杏梨は言っていた。
 
「インカレのリレーオーダーは改めて組み直そう」
 
この大会には800m, 1500m が無いので、青葉が出場したのは400m自由形と400m個人メドレーの2種目である。青葉はしっかりこの2種目で金メダルを取り、日本代表の貫禄を示した。
 
春貴はリレー以外では200m自由形と400m自由形にも出て、200m自由形は予選落ち、400m自由形は4位だった。昨年までのタイムなら青葉に続く2位が取れそうだが、やはり身体が女性化してものすごく筋力が落ちたと言っていた。たぶん元の筋肉までは永遠に回復しないだろう。
 
青葉は「性転換手術を受けた元男性」という状態から「天然女性」の状態に先月変化してしまったものの、筋力は全く落ちていない。むしろ卵巣の力でエネルギーがみなぎってきた感じである。しかし春貴の場合は、女性ホルモンを摂取していて睾丸がほぼ死んでいる状態だったとはいえ一応存在していた所から天然女性に変化したので、かなり筋肉が落ちたようである。やはり睾丸の存在は大きいようだ。
 
春貴を性転換させてしまった人は、どうも呉羽を完全な女性に変えた人とは別の人のようだと青葉は思っていた。今暴走中の千里1以外にも、完全性転換ができる人が日本国内で何人か暗躍しているようである。
 

その日、龍虎と西湖が、映画の監修をしている桜坂由実四段と話していたら両親ともに囲碁棋士だった小林泉美六段(元・女流本因坊/女流名人/女流棋聖)は1歳になる前に“アタリ”が分かったという伝説があるという話になる。
 
(小林泉美の父は小林光一(名誉名人/名誉棋聖/名誉碁聖)で母は小林禮子七段。更に小林禮子の父は現代日本囲碁の方法論を呉清源と共同で確立した木谷實・元最高位。この“最高位”というのは現在の名人戦の実質的な前身である)
 
「その年齢で囲碁のルールが分かるもんなんですかね」
「きっとテレビのバラエティを日常的に見ている家庭で、笑いどころで子供が一緒に笑うような感じで、囲碁の対局を見ていたんでしょうね」
「ほぼ囲碁しか無いような家庭だったのかもね」
「やはりお父さんとお母さんが、いかにも楽しそうに囲碁を打っていたら、赤ちゃんも興味を持つかも」
 
「でも発達の個人差もあると思うよ。最初の2〜3ヶ月くらいまではあまり差は無いかも知れないけど、1歳くらいになると結構早熟な子とのんびりした子との差が出てくるかもね。11ヶ月でアタリが分かったというのは多分早熟だったんだと思う」
と傍で聞いていた藤原中臣が言う。
 
「それはあるでしょうね」
「葉月ちゃんとかも、お芝居の中で育ったでしょ?」
「そうなんですよ。両親は家の中でもいつもお芝居やってました。衣装つけて『おお、ロミオ、ロミオ。どうしてあなたはロミオなの?』とか」
 
「それも凄い家庭だなあ」
と桜坂四段が言う。
 
ボクってその頃から女の子の服を着せられていたよなあ、と葉月は思った。
 
「アクアさんは音楽の中で育ってますよね?」
「うん。自分では覚えてないけど、まだ歩けるようになる前からピアノの鍵盤を叩いて遊んでいたらしい。両親がいつも歌を歌ったりギター弾いていたのは覚えている」
 
「やはりいい環境で育ってるね」
と元原マミも感心するように言っていた。
 

8月12日(月)に青葉が全国公を終えて鹿児島から高岡に戻ると、千里(千里2)が来ていた。
 
「さあ、出かけようか」
と言うので
「うん、明日出発で」
と青葉は答えた。
 
「千里ちゃんと一緒でなかったら絶対許可しないんだけど」
と母は言っている。
 
千里と2人で裏磐梯をバイクで走ってくる約束をしていたのである。
 
裏磐梯はアップダウンもカーブも多く、国道459号は“しごく”きつい道とも“地獄の道”とも言われる。しかしその先の県道70号線沿いには日本とは思えないような物凄い光景が広がっている。
 
アメリカのWBDAは7月いっぱいで終了しており、フランスのLFBは10月から始まるので、2番さんは8-9月はわりと時間が取れる。青葉も全国公からインカレの間は時間がとりやすいので、一緒に行くことにしたのである。
 
なお、千里3の方は8月13日から中国遠征が入っている。
 

使用するバイクは、
 
青葉 Yamaha FJR1300AS
千里 Kawasaki ZZR-1400
 
と、どちらもリッターバイクで、アップダウンの多い道を走るのにもパワー充分である。青葉の FJR1300AS はツアラータイプで長時間の走行に適している。千里の ZZR-1400 (Ninjaのシリーズだがこのバイクには"Ninja"の名前は冠されていない)はメガスポーツ系で、普通のスーパースポーツより、少しツアラー寄りの設定になっている。
 
千里のバイクの左右側面には、バスケットボールをする人の影絵のようなシールが貼られている。それを見守る2匹の子狐の絵もあるので訊いたら
 
「もちろん京平と緩菜だよ」
と千里は答える。
 
「このシールいつ貼ったの?」
「2012年だったと思う」
「京平君も緩菜ちゃんも産まれてないじゃん」
「たぶん子供が2人できるという予感があったんだろうね」
 

8月13日(火)の朝高岡を出発する。
 
「台風(10号)が来てるけど大丈夫?」
と母は心配したが
 
「福島の方には来ないと思うよ」
と千里が言うので、だったら大丈夫だろうということにした。
 
但し台風の影響によるフェーン現象で猛暑となったのだが、取り敢えず13-15日は雨は降らなかった。
 
2人はインカムを装備して走行中も会話ができるようにしている。
 
青葉はピンクのライダースーツ、千里はブルーのライダースーツである。168cmの千里がブルーで、159cmの青葉がピンクだと、カップルでツーリングしているように見えるかも知れない。基本的にはバイクの競技ライセンスも持っていて今回のルートも走行したことのある千里が先、バイク自体の経験が浅い青葉が後を走る。距離が離れてしまった場合は、千里が適当な場所で待ってくれる。
 
それにしても大型バイクが2台続いて走っていると、かなり目立つので対向車からの視線をかなり感じた。
 

鏡宮の立体交差から南下、小杉ICで高速に乗り、北陸道を東行。親不知子不知を含む多数のトンネルを通過して行き、名立谷浜SAでいったん休憩する。1時間休んでから更に東行し、新潟から磐越道に移行する。阿賀野川SAでお昼を食べてからまた1時間休む。
 
そして気合いを入れて!津川ICを降りると国道459号に入った。
 
青葉は福島で震災復興イベントをした年(2016年)に黒崎PAで遭遇した男の子たちとけっこう意気投合し、彼らとこの津川ICで別れたよなと思い出していた。彼らは国道459号に入り、青葉は磐越道を走り続けて福島まで行った。3年前に自分が行かなかった側の459号を今回は走って行く。
 
青葉はインカムで千里姉と話した。
 
「なんか普通の田舎の山道という気がするけど」
「田舎に住んでいればこのくらいは普通だよね」
「むしろ思ったより整備されている」
「多分年々改良されていっているんだよ」
 
確かに道は狭いしよく曲がっているが、石川・富山でもこのくらいの道は割と多い。この日は喜多方市までの約55kmを2時間弱掛けて走行。喜多方市内の旅館に投宿する。宿泊手続きをした後で、千里姉お勧めのラーメン屋さんで喜多方ラーメンを食べた。
 
「あ、これ去年新幹線の中で食べたのと同じ味だ」
「そうそう。ここのラーメンを買ってきたんだよ」
「なるほどー」
 
新幹線が走っている最中にどうやって買ってきたのかまでは追及しない!
 

「ちー姉、夢紗蒼依は順調?」
と青葉は訊いた。
「上島さんが復帰したら需要無くなるかと思ったんだけどね〜。受注が続いている。そちらの松本花子はどうよ?」
「こちらも同じ。ますます繁盛している。上島さんの所への依頼はあまり多くないみたい」
 
「それでも上島さんは“上島新御三家”のおかげで、何とか住んでいるアパートの家賃は年明けくらいからは自分で払えるようになりそうだって」
「それは良かった」
 
今年の春の時点で上島雷太は無収入・無資産だったので、家賃は雨宮先生が肩代わりし、生活費は春風アルトさんの過去の作品の印税から出す、と称して実は紅川会長が出してくれていた。他にベビー用品は熱心なファンの人が§§ミュージック気付けで送ってきてくれて随分助かったらしい。
 
上島新御三家というのは、松浦紗雪、ローズクォーツ、山折大二郎で、この3組が積極的に上島作品を使用したおかげで、それにつられて他のアーティストでも特に過去に上島作品を使用していた歌手が、また上島さんに作曲を依頼している。
 
「上島さんが年間数百曲書いていた時代は、大勢の人が書いてもらう順番待ちで“上島邸詣で”していたけど、夢紗蒼依の事実上の窓口になっているЮЮレコードにしても、松本花子の公式の窓口になっている木ノ下大吉さんにしても、そこに並んでもしかたないから、ああいう順番待ち行列はできない。待ち行列は電子的なキューで管理されているだけ。まあネットの時代、バーチャルの時代になったということかな」
 
と千里(千里2)は言う。
 
「夢紗蒼依にしても松本花子にしても、集団作曲家グループと世間的には思われているから、新人作曲家で売り込みにくる人が、あるんだよ。木之下先生の所に」
「そういう人は出るだろうね。ЮЮレコードにも来ているようだよ。普通に作曲家の売り込みとして処理している」
「こちらは王絵美さんとこ(望坂拓美プロジェクト)に紹介している」
 
「ああ、松本花子的な世界は、そちらが合うかもね」
「量産品だからね。松本花子はコンビニフーズの世界。夢紗蒼依はロイヤルホストとかココスの世界、望坂拓美は・・・暖簾分けしていくお菓子店的な世界?」
 
「そのたとえは割と適切な気がするよ。各々手法もターゲットも違うんだよね〜」
「まあ競合はしないよね」
 

8月14日は喜多方を出発してからまずは檜原湖(ひばらこ)まで走る。この付近が裏磐梯・観光コースの目玉である。明治21年に磐梯山の噴火でできた多数の湖があり、特に大きな檜原湖・小野川湖・秋元湖は裏磐梯三湖とも呼ばれる。この付近は高級リゾートホテルも多い。
 
(裏磐梯高原はこの時の噴火による磐梯山の山体崩壊で、吹き飛んだ山の土砂により、村が埋まってできたものである。数百人の村人と湯治客が犠牲になっている)
 
青葉たちは檜原湖の周りを一周したあと、小野川湖・秋元湖のそばを通る磐梯吾妻レークライン(lake line)を走る。なかなか“素敵な”道である。ここは福島県道70号・福島吾妻裏磐梯線の一部なのだが、レークラインと呼ばれている部分が終わって少し走った所に茶屋があり、休憩している人が多数あった。青葉たちもここでいったん休憩した。ふたりとも軽食を取りながら曲を1曲ずつ書いた。
 
お腹が落ち着いた所でトイレに行ってから出発する。
 
県道70号を走り続ける。結構なワインディングロード、ヘアピンカーブの連続を経て、土湯峠に到達する。県道30号との交差点で、これを30号の方にいくと土湯温泉に到達する。この日はそちらには行かない。
 
いったん休憩して体操などもしてから、覚悟を決めて!県道70号を走り続ける。ここからは磐梯吾妻スカイライン(sky line)と呼ばれる部分である。
 
ここが今回のツーリングの目的地であった。最初は普通の山道かと思うのだが、その内、絶景ポイントがいくつも出てくる。
 
「これ凄い」
「ちょっと停まろうよ」
 
それで青葉たちはこの道の途中、何度も停まっては詩を書いたり、写真を撮ったりした。このあたりはバイクで来ているので気兼ねなく道の脇に停めることができる。
 
浄土平の付近は、植生の無い岩山で、本当に日本とは思えない、アメリカ西部かシルクロードかと思うような物凄い光景であった。
 
むろん写真を撮るのは青葉だけである。千里2が写真を撮ろうとしても写る訳が無い!千里姉も「あとで見せてね」というので、青葉も「まとめて送るよ」と言っておいた。
 

浄土平パーキングエリアで1時間休んだのを含めて、約30kmのスカイラインを4時間も掛けて走破し、最後は多数のヘアピンを慎重に降りて高湯温泉に到達する。この日はここで泊まる。無理はしない日程である。実際さすがの青葉にもこの日の行程はなかなかハードだった。
 
「でも、ここまた来たい」
と青葉が言うと
「ハマる人が居るんだよ」
と千里も言っていた。
 
「スカイラインを走った後ではレークラインは凄く走りやすい道という気がする」
「そうそう。レークレインは天国だよ」
「スカイラインは完璧に“あの世”だった」
「だから浄土平なんて名前が付いてる」
「あそこは本当に浄土だと思った」
 
以前はレークライン、スカイラインは結構な料金の有料道路だったのだが、現在は無料開放されており、来やすくなった。道路が通る前は修験者だけが近寄れる場所だった。物凄い場所にあるので冬季は通行止めである。千里姉が最初に来た時は冬だったのでここを通れず、国道115号のほうを通ったらしいが、そちらもなかなか“走りがい”のある道らしい。
 
「帰りはそちらを走る?」
「それって、もう1回死ねって話?」
「そうそう。今通って来た道もだけど非力なバイクでは辛い。前やった時は250ccの子が上り坂で遅れて、けっこう待ってあげた」
「250ccでも辛いのか」
 
※福島県道70号スカイラインは2019年台風19号により被害が出て通行止めになりました。その後冬季の閉鎖期間に突入しています。春のオープンは遅れるかも?
 

《きーちゃん》は千里1に言った。
 
「千里、坂東・西国・秩父の100観音霊場を達成したからさ、最後の仕上げに四国のお遍路さん、やってこない?今度は歩いて」
 
「それもいいかもねー。でも歩くなら今の時期は無理だよね?」
「うん。夏は消耗が激しいから少し涼しくなってからかな」
「何日かかるんだっけ?」
「歩くと40-50日だと思うよ。千里の足ならもっと短くて済むかも」
 
「だったら、9月中旬に歩き始めたら、10月中には終わるよね?11月になると寒そうだし」
「うん、そのくらいの日程がたぶん歩きやすいよ」
「じゃ9月14日に玲羅の結婚式があるから、その後で」
「二百十日、二百二十日も過ぎて、ちょうどいい季節かもね」
「そしたら取り敢えず写経88枚やるか」
 
「その後、高野山でも納めるから89枚かな」
「ああ、高野山で結願なの?」
「88番札所の大窪寺で結願して結願証をもらって、1番札所の霊山寺に戻って四国一周が完了して“四国八十八ヶ所霊場満願之証”ももらう。でも納経帳や掛け軸には高野山の欄まであるから、その後高野山まで行く」
 
「歩いて?」
 
「ふつうの人は海の上を歩けないから、電車で行く人が多い」
「私も海の上は歩けないよ」
と千里が答えると、なぜか《きーちゃん》は笑っている。
 
「更に89個の御朱印が揃ったのを持って京都の東寺に行き、成満証を発行してもらえる」
「結局91ヶ所行く訳か!」
 
「他に衛門三郎終焉の地の杖杉庵に行きたい。あと30番札所が分裂して2つある(現在は片方が奥の院を称することで和解)から、結局行く場所は1番の再訪まで含めて93ヶ所かな。更に番外札所とか奥の院とか行っていると多分150ヶ所以上あると思う。私も数えたこと無い」
 
「番外札所はいいことにしようかな」
 
(この他、62番札所の宝寿寺は、八十八ヶ所札所の住職で作る四国霊場会に入会していないが、現時点では他の札所とほぼ同様の対応をしている。但し納経時間が変更になっている可能性もある。霊場会では宝寿寺で納経できなかった場合に備えて、61番札所・香園寺で62番札所の納経もできるようにしている)
 
「じゃ100枚くらい書いておくていいよ」
「そうする。一週間は掛かるよね?」
「他のことを何もせずにそれだけするなら一週間でも行けるだろうけど」
「確かに秩父の時は写経していた間、バスケの練習にも行かなかったし作曲も止まっていたもんなあ。だったら1ヶ月掛かると思った方がいいかな?」
「千里、結構忙しいもんね」
 
実際には四国に出発するまでには70枚しか揃わず、残りは矢立を持って行き、道中毎日1〜2枚ずつ書くことになった。
 

2019年8月23日(金)は緩菜の1歳の誕生日だった。
 
千里2、千里3は美映が外出したり寝ている時間を利用して誕生祝いに来たが、“封印”はまだ解けていないようで、緩菜はまだ“普通の赤ちゃん”という感じだった。京平は1歳になるのと同時に思念による会話ができるようになったのだが、やはり“**”と普通?の人間では違うのかな、と2人の千里は思った。
 
千里1も《きーちゃん》に頼んで連れて行ってもらったが、千里1は緩菜が実は小春であることをまだ思い出していないので、自分が産んだ貴司の子とだけ思い込んでおり「なかなか来れなくてごめんね」と言って緩菜にキスした。
 

映画『ヒカルの碁』の撮影は予定より少し早く2019年8月29日にクランクアップした。アクアと葉月は撮影が終わると、8月30日の朝から小浜に移動した。
 
8月31日にアクアのライブがあるのである。
 
会場はこのライブにあわせて建設されていたミューズアリーナ・ミューズシアターである。2つの施設は隣り合って建っていて、それをつなぐと7万人も入る巨大なライブ会場が出現する。最初話を聞いた時は、地方自治体が使い道や採算も考えずに作った“箱物”かなと思ったのだが、首都圏などでトレーラーレストランを運営しているムーランが建設したものと聞き、民間企業が建設したのならこんな場所に7万人の会場を作っても採算が取れるのだろうか?とアクアは不思議に思った。
 
このスペースにトレーラーレストランを200-300個並べるとか!?
 

アクアたちは実際に現地に行って7万人収容の巨大会場を見てみたのだが、ここは要するに野外会場に屋根をつけたようなものだと思った。だからサマフェスとかで歌うような気持ちで歌えばいいと思った。実際コスモス社長もそんなことを言っていた。
 

千里3は8月13日から日本代表の活動で中国に遠征していたのだが、帰国後、8月24-25日は、さいたまスーパーアリーナで台湾代表を迎えて親善試合を行った。次の代表活動は9月2日からの第9次合宿(NTC)なので、それまでの間は少し時間が取れる。
 
青葉は今年は9月6-8日がインカレなので、それまでは少し時間が取れる。
 
ということで、青葉と千里3は敦賀駅で8月29日に待ち合わせ、千里3の運転するアテンザて小浜に入った。ミューズ3のいちばん下のゲートを通り、地下への坂を下りて地下の駐車場に駐めさせてもらう。
 
丸山アイ自身が出迎えてくれた。
「ようこそ、ミューズ3データセンター(MDC3)へ」
と言って、2人を案内してくれる。
 
地下4階にある中核施設“Muse-3”を見せてもらった。
 
「壮観ですね」
「これが夢紗蒼依の本体ですか」
 
「インテル Core-i7 8086K (Cofee Lake-S) を2500個ほど使用している。ラックは100台くらい。6コアだから全部で2500×6=15000コア程度。速度は600TFlopsくらい。消費電力は記憶媒体の消費電力、エアコンや照明の分まで入れて1500kwほどで月間10万kwhくらいかな。その内、太陽光パネルによる自家発電で3割程度をカバーしている。電力需要の大きな午前10時から夕方17時の間は電力会社からの供給をほぼ停めて太陽光と蓄電で動かしているから、関電への支払いは1日45万円くらい。実際太陽光発電のピークがうまい具合に電力会社で電気が不足しやすい時間帯と一致しているからちょうどいいんだよね。でもこれで1日に3〜4曲程度の作品を生み出してくれる」
 
全部“ほど”とか“くらい”が付くのがアバウトな性格のアイらしい。しかし電気代だけで1日45万円掛かるなら人件費や研究開発費、システムのメンテ費用も考えれば、作曲料(最低料金)を最低30万くらいは取らないと採算が取れないわけか、と青葉は考えた。
 
結果的に人海戦術で多数の楽曲を提供している王絵美さんの“望坂拓美”よりコストが高い(コンピュータの方が人間より金が掛かる!)。その代わり品質の均質性が良いだろう。人間の書く作品はどうしても波がある。
 

もっとも千里(千里3)は
 
「その規模のスーパーコンピュータにしては電力消費は少ない気がする」
と言っている。
 
「ああ、こちらの千里さんは計算ができるみたいだ。やはり既製品のCPUを使っているのが大きい思うよ」
とアイ。
 
「太陽光発電は天気によって随分発電量が変わると思うけど蓄電か何かしてる?」
「うん。揚石式発電施設がある」
「ようせき?」
 
「揚水式発電所の水の代わりにコンクリートのブロックを上げ下ろししてその位置エネルギーで電気を蓄える。コンクリートの比重は2.3だから水の43%の容量で済む」
 
「面白いことしてるね」
 

「まあこれだけのCPUがあると凄まじい熱が出て、水で冷却しているからその熱で“藍小浜”のお風呂を沸かしているんだよね」
「エコだね」
「これからの時代は、いかにエネルギーを無駄にしないかというのが営業効率と密接に関わってくると思うよ」
 
500年間?生きて来た人は、やはり時代の変化にも敏感なのかもと青葉は思った。
 
そんな話をしていた時、白衣を着たスタッフらしき人がこちらに近づいてきた。
 
「お話し中の所大変申し訳ありません。社長、Muse-2の施設部分の屋根が一部今回の豪雨(*14)で壊れたらしいんですよ。取り敢えずMuse-2は停めて、あり合わせのシートを筐体の上に掛けているそうなのですが、被害の修復はどうしましょうか?それと2を停めている間の生産体制は?」
 
(*14)2019.8.27-29に前線がもたらした豪雨。九州北部の被害が大きかった。Muse-1/Muse-2のある場所は九州南部だが、元々の施設自体が古い工場を改造したものなので、弱くなっていた所もあったのだろう。
 

「Muse-1は動かせるの?」
「そちらの屋根の部分は大丈夫だそうです」
 
「1が使えるなら、そちらで代替させて。生産についてはストックにも余裕があるし、大丈夫だと思う。向こうはまだ雨降っている?」
とアイが訊く。
 
「今は、やんでいるそうです」
「取り敢えず屋根にビニールシートを掛けさせよう。手配するよ」
と言ってアイは電話を掛けていた。
 
九州はそもそもアイの親族が経営する企業グループの本拠地である。今回の豪雨での被害も大きかったろうが、たぶん動員できる人員も多いだろう。
 
「でもそれ雨に当たったのなら、Muse-2自体の点検補修が必要だろうね」
と千里が言う。
 
「そうなんですよ、常務。それで今何人かで話していたんですが、今回のアクアちゃんのライブが終わった所で、こちらからも技術者を派遣したほうがいいのではないかと」
 
「それがいいね。じゃ金井さん、大原さんと2人で、派遣するスタッフの人選をしておいてくれる?」
と千里。
「分かりました。すぐ検討します」
 
それでその金井と呼ばれたスタッフは戻っていった。
 

丸山アイが呆れている。
 
「3番さん、まるでうちのスタッフを全員把握しているかのようだ」
 
むろんスタッフは千里3を見て、ここの常務をしている千里2と間違えたのである。そもそも千里が3人もいるなんて想定外である!
 
その時、青葉は唐突に尿意が生じた。
 
「あの済みません。トイレお借りしていいですか?」
 
すると千里3が言った。
 
「トイレはそこの廊下を出て右手30mくらい行った所のT字路の先。青葉が男の子なら左側、女の子なら右側」
「ありがとう」
 
それで青葉は部屋を出るが、丸山アイは呆れている。
 
「3番さん、なぜこの施設のトイレの場所が分かる!?」
 
「アイちゃんだって、沖縄で松本花子の窓口をしている女性の父親の名前を知っている癖に」
と千里3が言うとアイは“参った”という顔をして
 
「それ知っているのは多分木之下先生の他は、ボクたちくらいかもね」
と言った。
 

31日のアクア・ライブは前座の§§ミュージックの多数の歌手たちのライブも含めて、大いに盛り上がった。7万人が集まり、そして去って行くのは、ひとつの都市ができて、また消えて行くかのようである。
 
例によって地元の商店街や青年会などによって多数の出店が出ていて、その売上げも凄まじかった。ここには2000器もの便器数があるトイレ群も付属している。実際このトイレを収容するため、アリーナ横の4階建ての建物“サイドストリート”は建てられたのである。今回はその建物の余剰の部屋に作られた出店用スペースが活用された。
 

ライブが終わった後は、青葉や千里3も含めて打ち上げの焼き肉パーティーをした。アクアは今回の“こけら落とし”のお祝いに来てくれた小浜市長の名代の市会議員さんにつかまって、ずっとお話をしていた。議員さんも娘さんもアクアの大ファンだと言っていたので、サインを進呈したら喜んでいた。
 
青葉は丸山アイと今後のミューズや松本花子の方向性について結構話した。
「今度、そちらの本拠地もみせてよ」
「いつでもどうぞ。歓迎しますので」
「歓迎ってパイが飛んでくるとか?」
「食べ物を無駄にするのは嫌いです」
「同感同感」
 
それで近日中に、アイを小樽ラボに招待することにした。
 

千里3は西湖と話し合っていた。
 
「でも女の子の身体になっていること、意外とバレないもんでしょ?」
「そうなんですよ。ボクが元々女の子だと思っている人は当然何も疑問を感じないし、実は男の子だと思っている人もうまく偽装してると思っているし。母だけです。ボクが性転換手術しちゃったと思っているのは」
 
「でもおかげで、お母さんの“魔の手”から逃げられたね」
 
実は西湖の母や政子、あるいは《こうちゃん》などの“魔の手”から逃すためにわざと西湖を女の子に変えてしまったというのが本当の所である。そのことは本人にも言っていないが。実際昨年性転換した直後にお母さんがアパートまで来て、西湖に眠り薬を飲ませ、意識を失った所で麻酔注射をして、去勢手術を実行しようとしたらしい。しかしちょうどそこに、偶然山村マネージャーこと《こうちゃん》が来合わせた。彼は勝手に西湖の豊胸手術をしようと思っていたらしい。しかし2人がかちあったため、どちらの手術も中止になったという。
 
毒を以て毒を制す?
 
「母はあからさまにボクを女の子に変えたがってましたから。病院に去勢手術の予約とかもされていたんですよ。この身体になったことで去勢は不要というか不可能になったから予約取消しして、返金も受け取ってお小遣いにさせてもらいましたが」
 
「ああ、いいんじゃないの?」
 

「それで西湖ちゃん、どうする?男の子に戻る?それとも女の子のままでいる?」
 
「それ考えていたんですけど、ボク女子高に在籍している間はやはり女の子の身体でいるのが便利なんです。ですから、高校卒業後にその判断を延期できないでしょうか?」
 
「いいけど、その間、西湖ちゃんの身体はどんどん女性化して、男の子に戻っても、必ずしも男らしい身体付きには戻れないよ。特に骨格はどうにもならない」
 
「それは全然構いません。男性器を戻すかどうかだけの問題ですよね?」
「そうそう。でも西湖ちゃん、精液は保存しているんだし、別にちんちん無くてもいいのでは?」
「それで悩んじゃうんですけどねー。ここだけの話、アクアさんはどうもやはり女の子になっちゃったみたいだし。だったらボクも女の子でいいかなあという気もして。でも積極的に女の子になりたいような気持ちは無いんですよ」
 
「ああ、西湖ちゃんは別にGIDとかでもないもんね」
 
「自分の心は間違いなく男の子だと思うんですけど、既に完璧に女性不感症になっちゃってます。女性の裸とか見ても何にも感じないし、日常的にクラスメイトの女子たちとスキンシップしてるけど別に興奮したりもしないし」
 
「それは別にいいんじゃないの?将来、女の子が好きになったら、お友だち同士みたいな夫婦になってもいいし、男の子が好きになった場合は、西湖ちゃん、いいお嫁さんになれると思うよ」
 
「お嫁さんになるのも悪くない気はしているんですけどね。お料理は好きだし」
「それも含めて1年半後までモラトリウムということね」
 
「そうなんです。お手数お掛けしますが」
「じゃ、私が1年半後に忘れているようだったら、西湖ちゃんから連絡してね」
「はい、済みません」
 

青葉は冬子から、アルバム『十二月(じゅうにつき)』を制作するのに、しばらく郷愁村に籠もることにしたので、その間、恵比寿のマンションの留守番を誰かにお願いしたいのだが、適当な人物が居ないかと相談を受けた。
 
どうも冬子と同世代の友人たちの多くが家庭を持っており、主婦という立場ではなかなか長時間そこに泊まり込んだりするのは困難なようである。それで青葉の友人たちの中にそれが可能な人がいないか打診してきたようだ。
 
青葉は1人は日香理を思いついた。彼女は相沢海香が以前住んでいたアパートに格安家賃で住んでいるのだが、調布飛行場の傍で大きな道路も通っており、凄まじい騒音があるらしい。それで普段そこに住んでいるのは構わないのだが、卒論をまとめる間だけでも、どこか静かな場所で作業したいという話だった。
 
そしてもう一人青葉が考えたのが“アキ”だった。
 
青葉は佐藤玲央美に電話した。
 
「いつも姉がお世話になっております。ちょっと相談事があるのですが」
 

実は左倉アキは、玲央美の“代役”というお仕事をしているのである。玲央美は日本の社会人チーム・ジョイフルゴールドに所属している一方で、フランスLFBのオルレアンのチームにも所属していて、日本とフランスの昼夜が逆転するのをいいことに、両方兼任しているのである。
 
日本が昼・フランスが夜→日本に玲央美、フランスにアキ
日本が夜・フランスが昼→フランスに玲央美、日本にアキ
 
位置交換はどうも千里の眷属の力を勝手に使っているようである。
 
(玲央美が日本代表の活動をしている間はフランスのチームも休むのでアキは休暇となり、ハルのそばに居る)
 
それでアキに日本に居る間、つまり日本が夜の時間帯に恵比寿のマンションのお留守番をしてもらえないかと玲央美から打診してもらえたらと言ったのである。
 
「なんならハルさんも一緒でもいいですよ」
「取り敢えず訊いてみるね」
 
すると結局、ハルとアキの2人でやってくれることになった。話が面倒なので、冬子にはアキと飼い猫ということにして話をしたが、冬子はちゃんと躾けのできているネコなら問題無いと言った。
 
それで基本的に昼間は日香理、夜間はアキ(またはハル)がお留守番していることにした。日香理が大学などに出かける時は、アキの“知り合いのネコ”で信頼できる子に留守番させる、とアキは言っていた。
 
「ボク、玲央美ちゃんからもたくさんバイト代もらっているけど、まさにこれ“ネコに小判”なんだけど」
 
「必要に応じてカリカリやちゅ〜ると交換してもらうということで」
 

その夜は、アキは“ネコの集会に出る”とかでハルがお留守番をしていたのだが、そこに千里1がやってきた。
 
「頼まれていた編曲が出来たんだけど、急ぐみたいな話だったから直接持ってきた・・・って、あれ?ハルちゃんだ」
 
「さすが、私とアキの区別が付きますね、千里さんは」
「青葉はあまり区別が付いていないみたいね」
と言って千里も笑っている。
 
「W大でも私とアキで交替で部活しているんですけど、まずバレないです」
「面白いことしてるねー。自分が2人いたら便利だろうね」
 
「そうなんですよね。生理が重い時とかアキに代わってもらうんです。あの子は男の子だから生理が無いし。もっとも男子だから女子の試合には出せませんけどね」
 
この子の“生理”って何なんだろうなと千里は前々から疑問を感じていた。
 
なおアキのほうがハルより運動能力が高い主たる要因はアキが男の子だからということのようである。アキは“人間の女の子”には興味が無いので、女子更衣室で着換えても平気である。人間側も女子更衣室にオス猫がいても誰も気にしないだろう。
 
アキは人間態(人間体?)の時、お股はほぼ常時タックしているしバストも偽装しているようだ。もっともアキが女の子だったら、バストが8個くらいあって隠すのが大変かも!?(猫の乳首の数は個体によって6-12個。なぜ個体により違うのかは理由不明らしい−但し猫の乳は人間のように脂肪は付いていない)
 
「そうだ。こないだ桐蔭横浜との練習試合で初めてスターターに使ってもらったんですよ」
「おお、1年生からスターターって凄いね。私が教えた甲斐があったよ。このまま関女リーグ(9月)でもスターターに使ってもらおう」
 
「はい、頑張ります」
「だったら握手握手」
 
と言って、千里1はハルと“握手した”。
 
「そういえば、千里さん、髪切ったんですか?」
 
「うん。自分自身少しナマってるなあと思って鍛えなおそうと思って、今自宅から車で30分くらいの所に建てた板橋区の練習場に毎日通って特訓しているんだよ。シュートの練習ができるだけの狭い練習場だけどね。髪が元の長さに戻る頃にはだいぶ戻っているかなと思って」
 
「千里さんのレベルでもそうなら、私も頑張らないと」
 
ハルは千里が日本代表としてバリバリ活躍していると認識している。でも“この千里”は日本代表候補にまたリストアップしてもらえるくらい頑張ろうと思っている。
 
「練習場、私だけが使っているんだけど、何ならハルちゃんも使う?ハルちゃんならタダで貸すよ。防音をしっかりしているから夜間でも使えるし。私はだいたい午後に使うから、午前中も夜間も空いてると思う」
 
「板橋区ならわりと近いかも」
 
「ハルちゃん、アパートはどこ?」
 
「としまえんの近くなんですよ。うるさいおかげで安いアパートがあったんです。学校へは自転車で通っているんですよね。雨の日が大変だけど」
「としまえんからなら4kmくらいしか離れてないよ」
 
「それなら自転車で10分あれば行くかな」
「4kmくらいジョギングで行こうか。ウォーミングアップ」
「そうですね!頑張ります!」
「シャワーも洗濯乾燥機もあるから、着換えを置いておけばいいよ」
「そうしようかな」
 

その日、桃香は千里に相談した。
 
「青葉が勝手に使用している平田家の土地家屋だけどさ、あれは法的に公告をして他に相続人が居ないことを確認して、特別縁故者として正式に相続するという方法は採れないのかな?」
 
「それは実は私、弁護士(白金)さんとも相談してみたことあるけど、難しいというんだよ」
「難しいんだ!」
 
「手続きとしては、まず裁判所に相続財産管理人選任の申立てをして、選任されたらそのことを公告して2ヶ月待つ。それから相続財産管理人が、相続債権者と受遺者に対して請求を申し出るべき旨を公告する。その後、相続人捜索をする旨の公告をして6ヶ月待つ。その上で、誰も相続の権利があると申し出てこなかったら特別縁故者に対する相続財産分与の申立てを裁判所にする」
 
「面倒くさいね!」
「面倒くさいのは弁護士さんに任せておけばいいんだけどね。問題は比率なんだよ」
「比率?」
 
「特別縁故者と認められても、たとえば被相続者がずっと病気だったのを日々看護していたとか、事実上の妻として同居していたとか、そういう深い縁故があった場合しか100%は認められない」
 
「青葉では無理だな」
「青葉のお母さんだって、話を聞いてみると週末に滞在するくらいだったみたいだし、そもそもお母さんには別に夫が居た訳で」
 
「うーん・・・」
 
「だから、特別縁故者として認められても、認定され相続可能な財産の額はせいぜい5%程度だと思う」
「他は?」
「相続人が居ないということが判明すれば国に収用される」
「国が持って行くんかい!?」
 
(福岡市の川端商店街で“川端ぜんざい”のお店を経営していた老夫婦が亡くなった後、相続人が居なかったので国が収用する予定だった。しかし川端商店街がこのぜんざいは博多の大事な名物だとして、商店街自身が特別縁故者を主張してそのお店の土地・建物の相続を申し立てた。この主張が認められてここは商店街のものになり、その場所に“川端ぜんざい”が復活したが、地元の文化を守るという大義名分があったことによる、極めて例外的な審判である)
 

「だから20年間あそこを使い続けて、取得時効を待てばいい。どうせ誰も文句は言わないし」
 
「それでいい訳?」
「国だって、あんな使い道の無い土地は要らないよ」
「確かにそうかも!」
 
「福岡市で市電が廃止された時、市電の線路部分の土地は西鉄の所有だった。それを廃止後は公共の道路として使用したけど、市も県も国もその土地を買い取らなかった。なぜなら20年間使い続ければ、取得時効により市・県・国のものになるから」
 
「そんなのあり?」
「むしろ買い取ったら、無駄な公金を使ったとして西鉄との癒着では?と責任追及されたろうね」
 
「私は何か割り切れない」
 

「ところで桃香、男に性転換したという噂を聞いたんだけど?」
 
「時々夜中に起きてみるとちんちんが付いているんだけど、朝までには無くなって女のお股になっているんだよ。だから夢だと思う」
 
(桃香は、ちんちんが付いているのに気付いたらこれ幸いと必ずもう1度セックスする。それで朝までには確実に女に戻ってしまう!)
 
「それは男に変身する前兆かもね。桃香、男になった場合の名前を考えておきなよ」
と千里(実は千里2)は言った。
 
「うーん。。。そういう事態は考えたことなかったな。だけど射精って凄く気持ちいいよ。あんなのを日常的に体験できる男ってずるいと思う」
 
「やはり桃香には隠し子が7〜8人居そうだ」
 
「千里だって男の子だった頃は射精を経験してたでしょ?」
「私は射精の経験は無いよ」
「やはり千里って、生まれた時から女の子だったということは?」
 

2019年9月5-8日、東京辰巳水泳場で、今年のインカレ水泳(日本学生選手権水泳競技大会)が開かれた。青葉たちのK大学は、女子は昨年シード権を取得しており、男子も中部大会で2位になり、男女とも団体出場である。
 
遠征メンバーは下記である。
 
女子(13) 4年 青葉・杏梨・蒼生恵・春貴 3年 希美・百合花 2年 夏鈴・萌香・美虹 1年 波花・美音・夢世・玲夏
男子(10) 4年 吉田・中原 3年 皆橋 桜池 2年 高岩・蓮沼・小阪 1年 大坂・春山・金藤
マネージャー(4) 男子 原田(3年) 近石(2年) 女子 芽紅(3年) 舞弓(2年)
顧問 角光
合計28名
 
部長は女子は青葉、男子は吉田君である。今年は部長が男女とも選手なので選手しか入れないエリアに部長が入れないので部長代行を立てるなどという必要は無い。
 
青葉たちは9月3日夜の高速バスで東京に出てきて、江東区内の安ホテルに投宿した。そして9月4日は深川アリーナのサブプール(25m×4Lane)でたっぷり練習した。今年もこのサブプールを期間中貸し切っている(空いている場合はメインプール25m×8Laneも使用してよい)。事実上のオーナーである千里と青葉の関係からそれができているのだが、来年以降もインカレが東京で行われる年はこのサブプールを貸してよいと、千里と角光先生の間の“口約束”がされている。
 
9月5日は公式練習日であったが、全員軽く水に入っただけで、すぐ深川アリーナに引き上げ、そちらで練習した。
 

春貴は昨年までは男子として参加したが、今回は女子としての参加である。
 
運営側から非公式に短距離は遠慮してもらえないかという打診があり、春貴は女子400mと800mの自由形に参加する。昨年は男子として400m自由形で銅メダル、200mで7位入賞している。念のため全国公直前の7月中旬に性別検査を受け、筋力検査まで受けていたが「ほんとうに女性の筋肉ですね!」と感心されていた。それで大会参加OKということになったようである。しかし彼女はインカレよりレベルがどうしても落ちる全国公でメダルを取れなかった。
 
「物凄く筋肉が落ちている」
と本人も言っていた。
 
「でもおっぱい曝さなくて済むようになってよかったね」
「うん。去年はほんとに恥ずかしかったし、胸が邪魔になって泳ぎにくかったよ」
 
彼女は昨年までは男子として参加したため、胸を覆う水着をレース中つけることができなかった。それで水着メーカーと共同で開発した、FINAマークのついた下半身だけの水着をつけ、マジックテープで留められる共布の上半身を覆う水着をスタート直前まで着ていて、それを脱いでレースに参加し、退水したらすぐその上半身水着を身につけるという方法で、ほとんど胸を曝さなくてもいいようにした。しかし、それでもスタート台に立ってから退水までの間にCカップの生バストを曝すのは恥ずかしかったという。
 

ところで、今回男子として参加している桜池裕夢のバストが膨らんでいる問題については
 
「ああ、胸を曝すのは平気。ボクは別に女の子になりたい訳ではないから」
と本人が言っているので、特に何も対応しないことにした。
 
但し彼は普段の練習では女子水着を着ているし、公式練習の日も女子更衣室で女子水着に着替えて参加した。本番の6-8日は男子更衣室で男子水着に着換えると言っていたのだが、運営側から、他の選手が目のやり場に困ると言われ、結局、着換え用の個室を用意された!
 
だいたい女子下着をつけているし!そもそもスカート穿いているし!!
 
「裕夢ちゃん、既に男性を廃業しているのでは?」
と(次期女子部長に内定している)希美が尋ねていたが
 
「しぶといんだよね〜。かなり女性ホルモン飲ませたけど、まだ立つんだよ」
と“犯人”の百合花は言っていた。
 
「ふたりは遠征中はセックスしないように」
と青葉は釘を刺しておいた。
 
なお、裕夢と百合花は実は大学に入ってすぐから同棲しており、既に事実上の夫婦である。卒業してから籍を入れることで双方の両親は同意しているが、ウェディングドレス同士の結婚式になるかも知れない!?
 
ちなみに男子の次期部長は、裕夢が本当に1年後まで男子選手であるか不安だという声があるため、皆橋君か、今回はマネージャーとして参加している原田君にお願いしようという話になっている。ふたりで話し合ってインカレが終わるまでに決めてくれ、と本人たちにボールを投げている。
 

インカレでは各種目1大学3人まで、(リレーを除いて)1人2種目までという制限がある。青葉は800m自由形と、400m個人メドレーに出ることにした。リレーのメンバーは直前まで安定しなかったのだが、結局下記のメンツで出場することにした。
 
400R(1) 杏梨→青葉→希美→夏鈴
400M(2) 杏梨(背)→美虹(平)→希美(バ)→夏鈴(F)
800R(1) 波花→青葉→夏鈴→希美
 
短距離では希美と夏梨が、絶対的に速いのでこの2人が第3・第4泳者なのだが、その前の2つを誰が泳ぐか最後まで悩んだのである。青葉は全国公ではリレーのメンツに入らなかったのだが、結局インカレでは400m, 800mリレーの第2泳者を務めることになった。
 
メドレーリレーの背泳については、背泳100mを改めて女子全員計測した結果、いちばん速かったのが春貴、続いて杏梨、僅差で青葉だった。春貴は“短距離に出さない”という主催者との約束でスキップして、杏梨が出ることにした。杏梨は青葉に出てと言ったのだが、青葉が“部長権限”で杏梨に決めた!杏梨は「計測の時、絶対手抜きしたでしょ?」と言っていたが。
 

インカレは基本的に午前(9:00-13:40)に予選が行われ、午後(14:30-18:45)から決勝が行われる二部制の日程になっている。
 
初日はこのような結果になった。
 
予選
400m自由形 杏梨(A) 百合花(-) 春貴(-) /皆橋(B) 吉田(A) 高岩(-) 200mバタフライ 玲夏(-) /大坂(B) 200m背泳ぎ 萌香(B) 夢世(-) 蒼生恵(-) /桜池(A) 金藤(-) 100m平泳ぎ 美虹(A) 美音(-) /中原(-) 蓮沼(B) 4x100mリレー 女子(A) /男子(-)
 
決勝
400m自由形 杏梨(6) /吉田(8) 皆橋(9) 200mバタフライ /大坂(13) 200m背泳ぎ 萌香(12) /桜池(6) 100m平泳ぎ 美虹(4) /蓮沼(11)
 
4x100mフリーリレー 女子(1)
 
リレーでは“部長のタッチを信じてますからね”と希美が言って、普通のタイミングで飛び込み、2位と0.01秒差、3位と0.23秒差で優勝した。青葉のタッチが昨年までのように下手なままだったら、引き継ぎ違反で失格するか、あるいは希美が遅めに飛び込むことになり、3位になっていたであろう。
 
「部長、かなりタッチうまくなりましたね!」
とみんなから褒められて、青葉も照れていた。
 
この他、美虹が平泳ぎ100mで4位に入る大健闘をした。彼女は昨年はB決勝に進んで10位であった。この1年間でかなり成長したようである。
 
初日の夕食は焼肉で、大いにみんな食べていた。
 

2日目はこのようになった。
 
予選
200m自由形 希美(A) 夏鈴(A) 波花(A) /小阪(-) 春山(-) 100mバタフライ 玲夏(-) /大坂(-) 女子800m自由形 青葉(A) 百合花(9) 春貴(A) 男子1500m自由形 吉田(A) 4x100mメドレーリレー 女子(A) /男子(B)
 
(男子1500m,女子800mのB決勝は行わず予選タイムで9-16位を決める)
 
決勝
200m自由形 希美(2) 夏鈴(3) 波花(8)
 
4x100mメドレーリレー 女子(2) /男子(12)
 
メドレーリレーは惜しくも2位であった。どうしても背泳・平泳ぎのところで他チームがもっと速い泳者を入れているので、希美と夏鈴の後半では挽回できなかった。
 
この日の夕食はメドレーリレーで優勝なら、しゃぶしゃぶの予定だったが、2位だったので、再度焼肉に変更になった。
 
「明日こそしゃぶしゃぶを食べるぞ!」
と女子たちは気合いが入っていた。
 

そして最終日はこのようになった。
 
予選
400m個人メドレー 青葉(A) 蒼生恵(B) 杏梨(A) /皆橋(A) 高岩(B) 100m自由形 希美(A) 夏鈴(A) 波花(B) /小阪(-) 春山(-) 100m背泳ぎ 萌香(A) 夢世(-) /桜池(A) 金藤(-) 200m平泳ぎ 美虹(-) 美音(B) /中原(B) 蓮沼(-) 4x200mリレー 女子(A) /男子(-)
 
決勝
女子800m自由形 青葉(1) 春貴(8) 男子1500m自由形 吉田(3) 400m個人メドレー 青葉(1) 杏梨(8) 蒼生恵(11) /皆橋(7) 高岩(16) 100m自由形 希美(3) 夏鈴(2) 波花(15) 100m背泳ぎ 萌香(5) /桜池(8) 200m平泳ぎ 美音(15) /中原(9)
 
4x200mフリーリレー 女子(1)
 
青葉は800m自由形と400m個人メドレーで優勝して、日本代表の貫禄を見せた。吉田君は1500mで銅メダルを取る大健闘で最後のインカレを締めくくった。春貴は女子800mで8位入賞である。今年女子としてはメダルを取ることができなかった。
 
800mリレーは2位と0.1秒差で優勝、金メダルを獲得した。やはり青葉のタッチが下手なままだったら、獲得できなかったメダルである。しかしこれで青葉は4つの金メダルを得たことになる。有終の美を飾ることができた。
 
希美と夏鈴はリレーの3つと合わせて5個のメダル獲得である。インカレは1人で最大5種目にしか出られないので、これが最高である。
 
なお総得点だが、男子は100点で11位(昨年は108点で12位)、女子は315点で5位(昨年は250点で6位)だった。女子は3年連続のシード権獲得である。男子はシード権は取れなかったものの、昨年より順位をあげた。
 
この日は閉会式が18:45に終わったので、しゃぶしゃぶ屋さんで打ち上げをした後、夜行バスで金沢に帰還した。
 
 
 
前頁次頁目次

1  2  3  4  5 
【春根】(5)