広告:まりあ†ほりっく 第2巻 [DVD]
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■女子中学生・春ランラン(1)

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2005年3月25日、名古屋で愛・地球博が始まる。これに先行した3月6日には地球博関連の交通機関として、日本初の“浮上式”リニアモーターカー旅客線「リニモ」が開業した。(浮上式でなくても良ければ長堀鶴見緑地線、大江戸線などでリニアモーターは既に使用されていた。この年の2月にも福岡の七隈線が開業している)
 

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2005年3月26日(土).
 
黒沢柚美は、元気な男の子を出産した。予定日は5月8日で1ヶ月以上早い出産だったが、赤ちゃんは元気だった。そしてこの出産に、自分の男系子孫を諦めていた杉村蜂郎は狂喜した。
 
杉村蜂郎には3人の息子が居たが、三男の古広は女装癖があり、将来的には性転換手術を受けて女になると言っていた。蜂郎は上に2人も息子がいるし、まあ三男なら性転換して女になってもいいかと諦めていた。
 
ところが昨年の夏、上の2人が相次いで性転換してしまい、蜂郎は当時ショックで寝込んでしまった。ところがそんな所に古広が恋人の女性を妊娠させてしまったので中絶の費用を貸してと言ってきた。
 
蜂郎は喜んで古広の彼女・柚美に「全面的に支援するからぜひ産んで欲しい」と申し入れたのである。古広はまだ高校2年生なので柚美と結婚することができない。それでこの子供を古広が胎児認知し、また古広が18歳になったところで婚姻届けを出す予定である。
 
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先行して2人は昨年11月から同棲して夫婦として一緒に暮らしていた。柚美は大学生だが、絶妙な時期の出産となったため、休学無しで大学に復帰できそうである。
 

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なお“元長男”の初広は女性(レスビアン)の婚約者・鈴花がおり、彼女と法的に婚姻したいので、身体は女性になったものの法的な性別は修正しない。“元次男”の真広は性別を訂正したので、法的には次男あらため長女となった。そして従兄の杉村桂助と婚約した。
 
桂助は小さい頃から親に「お前は女になる手術を受けて真広ちゃんの嫁さんになれ」と言われ(多分70%くらいジョーク)「ぼくお嫁さんになるのかなあ」と思っていた。でもずっと真広のことが好きだった。それが真広のほうが女になってしまったので、桂助は男性の身体のまま真広と婚約した。
 
彼は現在、急速に女性化しつつあり、ふたりは双方女性の服を着てデートしている。そして彼は真広から“桂花”と呼ばれている。精液の冷凍も作り「これでいつでも去勢できるね」と言われてドキドキしている。彼はこの3月で大学を卒業。旭川市内の企業に勤め始めたが、会社には男装(但し下着女装)で出ていき、アパートに帰ると女装という二重生活になっている。彼はタックされてしまったのでもう小便器が使用できない(元々使ってなかったけど)。なお真広は札幌に住んでいるので、ふたりは週末同棲している。
 
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杉村蜂郎は自分の後継ぎには、高校時代はインターハイにも出場し、国立大学にストレートで合格した真広を現在考えている。女社長でもいいかなと思う。そのあと、古広の息子に引き継げたらというのが蜂郎の夢であるが、真広の子供(真広と桂花のどちらが産むのかよく分からない:真広の精液も保存されている)でもいい気がしている。
 

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2005年4月6日。
 
留萌の中学校ではこの日が始業式であった。
 
彼(彼女?)は学生服とセーラー服を目の前に並べ、どちらを着ていくか悩んでいた。
 
セーラー服を着たいけど、そんなの着ていったら叱られるかなあと不安で、そちらを着る勇気が無い。
 
「あんた、そろそろ行かなきゃ」
と言って母がドアを開けたので
「きゃっ」
と小さな声をあげてブラジャーを着けている胸の前で両手をクロスして身体を隠す。母は一瞬で状況を把握した。
 
「セーラー服着ていったら?」
「勇気が足りないよぉ」
 

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2005年3月26日から4月3日まで、S中女子剣道部、R中女子剣道部の精鋭グループは旭川の、天野貴子の家に付属した道場で強化合宿をした。その終わりかけ4月2日は少し自由時間を取った。この時間に工藤公世はスポーツ用品店に行って新しい靴を買い求めた。
 
靴を見るのに千里も付き合ってくれたが、今使っているのがエアクッションタイプなので、次はゲルクッションのを買ってみた。
 
「お客様、よくこちらにお見えになりますよね」
「ええ、だいたい1月で1足履き潰すので」
「1ヶ月で?スポーツ選手ですか?」
「はい。剣道ですが、基礎トレで毎日20km走っているので」
「1日20kmですか!マラソン選手並みですね」
とお店の人は驚いていた。
 
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「ちなみに靴下は1回のジョギングで穴が空きます」
「なるほどですね」
とお店の人は感心していた。
 

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2005年3月27日、深川留萌自動車道の沼田IC−北竜ひまわりIC間が開通した、これで深川から留萌方面への“平野部”の工事が完了し、いよいよ山越え部分の工事が進むことになる。次は幌糠(ほろぬか)に作られるICまでで、この間の工事は山中に道を通すので、難工事が予想される。
 

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その幌糠ICができてしまうと完璧に“スキップ”されてしまうことになるR233沿いの場所に忘れ去られたような小さなドライブインがあった。
 
留萌がスケソウダラ漁で賑わっていた頃は人もたくさん来て、客席も広く、従業員も何十人も雇っていたが、留萌が寂れていくと共にお客さんも減り、店の経営も傾いた。
 
店の床面積が広いとそれだけ税金も高いので、10年ほど前に客席10席ほどの小さな店に建て替えた。現在は70代の夫婦のみでやっている。息子2人は深川で協同でフランチャイズチェーンの飲食店のオーナー店長をしている。実際問題として現在お店はほとんど道楽で開けているような状態であり、生活費も息子たちからの支援で何とかしている状況であった。
 
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そして幌糠ICができたら、この道を通る車が激減するのは目に見えているので夫婦は店を畳む時期を模索している状態だった。
 
このお店に4月1日「熊カレー鹿カレー300円。テイクアクトOK(原文ママ)」という幟旗(のぼりばた)が立ったのである。ピンク地に黒文字、熊の絵付きで、とても目立つ。
 
しかし何と言っても“300円”という安い値段に惹かれて車を停め買っていく客(多くはテイク“アウト”)が相次ぎ、初日はいきなり100食も売れて「売り切れ」
の紙を貼ることになった。
 
この店にはすぐに地元メディアが飛び付き、記者も試食して
「美味しいですね」
とレポートし、それでますます客が来て、この店は繁盛するようになったのである。
 
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この地は峠下と言い、留萌本線の峠下駅からあまり遠くない場所にある。以前は峠下小学校というのもあったが、1989年に廃校になっている。小学校ができる前は、ポンルルモッペ駅逓所が明治時代に置かれていた場所で、その記念碑も近くに残っている。“ルルモッペ”というのは、この付近を流れて留萌港に注ぐ留萌川のことで、この川の名前が“留萌”の語源と言われる。アイヌ語で「汐が深くまで及ぶ川」という意味らしい。
 
駅逓所というのは、江戸時代に松前藩が設置した、拠点基地であり、旅人の休憩所ともなる施設だった(今でいえば道の駅?)。明治時代に北海道の開発が進むにつれ、道内に多数の駅逓所が作られ、その和は数百に及んだが、開発が落ち着いてくるとその役割を終えて閉鎖されていった。
 
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このお店の名前は最初“峠下”という村の名前をアイヌ語で言った“ルチシポク”を名乗っていたが、昭和40年代に英語に直訳した「ダウンヒル・ハウス」という名前になった。しかし10年前に店を小さく建て直した時“峠の丼屋”と改名した。
 

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今回のプロジェクトは、1月に千里Gが室蘭まで旧友の珠良に会いに行ったのをきっかけに始まった。とにかく“早川ラボ”でたくさんヒグマやエゾシカが穫れるので、それを処理しようということで「熊カレーを作ろう」ということになったのである。
 
このプロジェクトは、割としっかりしている前橋善枝が主導している。熊肉の解体については、留萌市内の熊料理のお店に協力を求めた。しかしその店で販売できる量を超えているということで、結局、珠良のお父さんが提案した熊カレーを作ろうということになった。
 
そこで目を付けたのが丼物を販売していて御飯と汁の組み合わせに慣れていたこのお店だったのである。実際には深川で飲食店をしていた息子たちの内、次男さんが留萌に戻って来て、前橋などと打ち合わせた。味に関しては、千里・蓮菜・玖美子などのP神社グループの好みで監修したので、女子中生好みの甘いフルーティーなカレーになった。
 
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リンゴと蜂蜜を加えていて、ハウス・バーモントカレーに少し似た味である。使用しているカレー粉は珠良のお父さんの会社が販売しているG&Bカレー粉。
 
「なんかちょっとC&B(*1)カレー粉と一瞬空目しません?」
「それ偶然の一致ね。G&Bは Girls and Boys で、女の子も男の子美味しいと思ってくれる味だよ」
と珠良父は言っていた。
 

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(*1) C&B (Crosse & Blackwell) はカレー粉で有名な英国の食品会社。明治時代に日本でカレーが食べられるようになった当初、みんな C&B のカレー粉を使っていた。国産のカレー粉を最初に作ったのはキンケイ食品(現在のエバラ食品につながる会社)と言われる。
 
なおS&Bとは無関係である。
 

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経営組織としては、このお店自体を天野産業で買収し、次男さん夫婦に毎月の給料の最低保証をした。だからこそ次男さん夫婦は留萌に帰ってきてくれた。
 
カレー粉は珠良の父の会社から安価に仕入れる。馬鈴薯・玉葱・人参については当面、店の夫婦が自分の畑で作っているものを使用したが、安定供給のため、近所の農家からも買うようにした。お米も留萌市内の契約農家から仕入れる。そして前橋が精肉の形にした、熊肉・鹿肉を持ち込み、次男さん夫婦でカレーを作り、試作品を2月・3月と作った末に、4月1日の午後から一般発売するようにしたのである。老夫婦が販売員およびお客様係である!
 
ヒグマ・カレー、エゾシカ・カレー 各300円
トンカツ丼、牛丼、天丼 各300円
親子丼 250円
納豆丼、玉子丼、木の葉丼、とろろ丼 各200円
 
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(数的にはトンカツ丼・親子丼がもっとも売れた。熊カレーは客寄せ商品)
 
テイクアウトの客で希望者には、次男さんの奧さんの提案で紙エプロンを付けるようにした。車内で食べていて車が揺れたときに服を汚さないようにするためである。
 
300円などという安い値段で提供できるのは、熊肉をとても安価(事実上解体費のみ)で提供でき、お米・野菜なども安価に入手できるからである。それに千里としては熊肉・鹿肉の処分が目的なので、儲ける必要は全く無かった。
 
しかしこのお店は繁盛して、連休前には売り子のパートさんを雇うことになった。(地元の女子高生を数人雇った)
 

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「千里さん、割り箸や木のスプーンを買うの面倒です。木材加工所をひとつ買いませんか」
と九重が言う。
 
「そんなの売ってるの?」
「経営の苦しい所たくさんあるから、そこの借金を返してあげて、社長はそのまま所長か何かの名目で残ってもらって、経営権だけこちらに取ればいいんですよ」
「ふーん。任せる」
 
ということで、前橋が主導して、天野産業は木材加工所、次いで製材所を買収。更に小さな製紙工場も買収して、このカレー屋さんで使用する使い捨て容器、木のスプーン、紙エプロンなどを自給できる態勢にし、ますますコストを下げることに成功する。熊肉の解体についても、何人かの眷属(歓喜のお友だち)に学ばせスタッフを増員して処理能力を上げた。
 
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(九重のお友達なら危ないが、歓喜のお友達なら信頼できるだろうと千里は考えた)
 

2005年4月。
 
千里たちのS中では新2年生も新3年生もクラスの再編を行わなかった。3月下旬の時点で新3年生は81人で3クラスを維持できる下限人数、新2年生は78人で2クラスになる人数だった。
 
北海道のこの頃の基準
1年生:1学級は35人以下
2-3年生:1学級は40人以下
 
つまり1年生は70人まで2学級、71人以上で3学級。
2−3年生は80人まで2学級、81人以上で3学級、となる。
 
3年生はギリギリだが万一新学期が始まるまでに1人でも転出すれば2学級に再編し直さなければならない。2年生は否応なしに2学級である。それでどちらも“再編しない”ことで3クラスを維持した。2クラスにすると教室が寿司詰めになってしまう。
 
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新1年生は1年生の特例を使っても3クラスにできないため2クラスで密度の高い教室になる。
 
ここの学校は生徒数の多かった時代の名残で、狭い敷地に多数の教室を確保するため、各教室の面積が狭い。校長は「基準通りの学級数にしろと言うなら校舎を建て替えてくれ」と教育委員会に要求した。すると2年3年を再編しないことを認め、それに対応する教員数を確保してくれた。
 
校舎は2007年にF中学を吸収合併する際に建て替えられることになる:一時的に生徒数が増えてまた3クラスになる。
 

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女子中学生・春ランラン(1)

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