【少女たちの東京遠征】(1)

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2000年10月7日(土)
 
千里たち、留萌N小学校の合唱サークルのメンバー・関係者52名は合唱大会の本選(東京)に出るため、早朝、N小学校の校舎玄関前に集合した。メンバーは6年生11人、5年生9人、4年生8人(小春を含む)、それに顧問の馬原先生と保護者23名である。但し保護者の中で合唱サークル親の会の会長である小野園子さん(小野部長のお母さん)は引率者として馬原先生のお手伝いをする。
 
点呼を取り、一緒に大型バスに乗り込む。定員53名のバスなので補助席もほぼ全部出している。なお補助席に座るのは母親たちである!長旅なので主役でもあり、体力の無い子供たちはできるだけ疲れさせないようにという配慮である。
 
一行は国道233号で深川市まで走り、国道12号を東行、旭川の市街地をかすめて国道237号で旭川空港まで行く。約100km, 1時間40分の旅である。経費節約のためひたすら下道を走るが、実は北海道の下道というのは高速道路と大差ない区間が多い!
 
部員たちはバスの車内で大会で歌う曲を最初の30分くらい練習したのだが、「練習終わり」と言われた後も、音楽の教科書に載っている歌、いわゆるキャンプソング、最近の流行歌(SPEEDやホワイトベリー、モー娘。など)をずっと空港に着くまで歌っていた。
 
本当に歌が好きな子供たちなのである。
 
ラッシュにひっかかった場合を考慮して早めに出たので到着したのは9:00であった。旭川10:55発(*1)のJAS192(A300)に搭乗する。
 
(*1)2000年10月の時刻表が入手できなかったので2000年3月の時刻表で見ています。2000.03の時刻表では 旭川10:55-12:40羽田になっていますが、2001.05の時刻表では旭川10:50-12:30羽田になっています。どちらもA300と書かれているので2000.10でも機種はこれで合っていると思います。
 

旅行代理店を通してツアー扱いにしてもらったため、料金は往復の交通費と1泊分の宿泊費込みで1人29000円(11歳以下は18000円)である。正規運賃だと“片道”の運賃だけで32590円(11歳以下は約半額)になる。なぜ宿泊費込みでこんなに安くできるのかは、なかなか不思議である。
 
(航空運賃は小学生であっても12歳なら大人運賃になるのでツアー料金も12歳は大人料金になっている)
 
なお大会の主催者から(北海道と九州の参加校に限り)子供たちと引率者2名分の“都道府県の中心空港(新千歳)と羽田間の往復航空運賃”分が支給されているので、それを差し引くと結局保護者1人あたりの負担は20000円で済む。つまり20000円で東京旅行が出来るようなものなので保護者の中から23名も参加してくれた。
 
むろん千里の母は不参加である!(千里の家では2万円なんて無理)
 
最初は鉄道で往復してもいいよと言ったのだが、旅行代理店の人によると飛行機だから割り引ける(特にJASは割り引ける)のであってJRではあまり割引できないらしく、それで飛行機を利用しての往復になった。なお、JRで行こうとすると、このような感じになる。
 
留萌5:57-6:49深川7:38(スーパーホワイトアロー2)8:45札幌9:46(北斗8)13:25函館13:39(はつかり22)17:53盛岡18:01(やまびこ24)20:26東京(*2)
 
(*2)2000.3の時刻表による連絡。
 
到着が夕方になってしまうので会場の下見にも行けない。それで正規運賃は片道24930円(小学生は約半額)掛かり、それプラス宿賃も2夜分掛かることになる。
 
(この時代は東北新幹線は盛岡までで、盛岡−函館間に《特急はつかり》が運行されていた。東北新幹線の八戸開業は2002年12月1日である)
 
なお《夜行急行はまなす》を使えば宿代が不要だが、さすがに体力的に辛すぎる。とてもではないが大会でまともな歌唱ができないだろう。実は保護者は《はまなす》を使うという案もあったのだが、体力的に自信が無いという人が多かった。
 
留萌18:04-19:00深川19:18(スーパーホワイトアロー26)20:23札幌21:56(はまなす)5:18青森5:41(はつかり2)7:55盛岡8:11(やまびこ4)10:48東京
 
(料金は《はまなす》は座席の指定席、やまびこを指定席にして他を自由席にした場合で24600円である)
 

さて、今回の遠征に参加した部員であるが、道大会の時から転校した4年生のリサが抜け、サブピアニストとして5年生の阿部さんが加わっている(正ピアニストは6年生の鐙さん)。阿部さんは本当は「歌唱者」ではないのだが、一応歌唱者として登録して旅費が出るようにしている。
 
合唱サークルの制服は会場で着るので、この日は全員私服である。千里は、朝まだ父が寝ているのをいいことに、可愛いブラウスとチェックのスカートという格好で家を出てきた。スカートは美輪子のお下がりで、元々は膝上サイズだったと思われるが背の低い千里が履くとセミロングという感じである。
 
「おお、可愛い可愛い」
と蓮菜や穂花から言われる。
 
飛行機に乗るのは初めてという子が多い。千里もむろんその口である。空港に来たこと自体多くの子が初めてでずいぶんはしゃいでいたが、飛行機が離陸する時はその強い加速度と飛行機の揺れで悲鳴まで上がっていた。千里は「きゃー」とは思ったものの、悲鳴まではあげなかった。
 

なお、今回航空券は手配してくれる旅行代理店の担当者に馬原先生が「児童は全員女子です」と伝えていたので、千里の航空券も年齢性別の所に 9F という表示がある。隣の席の蓮菜から「これ9歳・女という意味」と教えられて、じわっとした思いになった。
 
取り敢えず今自分は女として扱われているという思いが千里の心を感動させた。
 
「これでもし飛行機が落ちたら、私9歳女児って報道されるのかなあ」
などと言うと
「飛行機が落ちるとか、縁起でも無いことを言わないように」
と注意された。
「ごめーん!」
 
「だいたいスカート穿いていて、男の航空券持ってたら、あんたこれ違うと言われて飛行機に乗れなかったね」
「それは困る!」
 
そんなことを言いつつ、千里はズボン履いていても女の子にしか見えないから性別Mの航空券持ってたらトラブってたろうなと蓮菜は思った。
 

12:40着の予定が少し遅れて12:50くらいに羽田空港に到着する。飛行機を降りて荷物受取所の方に歩いて行っていたら、向こうの方から物凄いスピードで走ってくる男があった。その後ろから「待て!」と言って駆けてくる人たちもある。
 
「何だろう?」
などと千里たちは言っていたのだが、どうも逃げてくるっぽい男が拳銃のようなものを手にしているのに気付き、ギョッとする。
 
「端に寄って!」
と先頭を歩いていた馬原先生が叫ぶ。
 
みんな慌てて脇に寄るが、逃げてきた男は千里の少し手前で何かに躓くようにすると、バランスを崩して千里に激突してしまった。
 
「きゃっ!」
と声を挙げたのは隣にいた穂花である。
 
男が千里にぶつかった勢いで、千里は壁に激突してしまった。
 
後ろから追ってきていた人たちが追いつく。警察官のようである。ひとりの男性警察官が男を千里から剥がして「銃刀法違反の現行犯で逮捕する」と言って手錠を掛ける。
 
女性警察官が千里を起こして「君、大丈夫?」と声を掛けた。
 
が女性警察官は「え!?」という声を挙げる。
 
千里は意識を失っているのか首をだらんと後ろにやっている。
 
「君、しっかりして!」
と言って身体を揺すろうとしたのを中年の警察官が
「天野君、揺すってはいけない」
と言って止める。
 
「はい、黒木警視」
と言い、その天野と呼ばれた女性警察官は千里の身体を床に寝せ、頭は自分の持っていたバッグを枕にして少し高い状態でキープした。
 
黒木警視と呼ばれた中年の警察官は千里の鼻の所に手をやり、更に手首を握って脈を取ると
 
「宮田、AED持って来させて!」
と若い男性警察官に指示する。その宮田と呼ばれた警察官が走って行く。
 

「千里?まさか死んじゃった?」
と穂花が口を手で押さえるようにしながら言う。
 
「いや、すぐ処置すればたぶん蘇生する」
と黒木警視は言っている。
 
逮捕された男も焦った顔をしている。もしこのまま千里が蘇生しなかった場合は過失致死に問われるだろう。
 
ところがここでため息をつくようにして蓮菜がそばに寄ると、千里の傍にいる女性警察官に
 
「天野さんでした?ちょっとその子から離れて下さい」
と言った。
 
「あ、はい」
と言って、天野が千里から少し離れる(*3).
 

(*3)天野は、蓮菜の雰囲気があまりにも堂々としていたので、一瞬子供の保護者かと思ったと後で言っていた。
 

すると蓮菜はいきなり千里の足を数回蹴った!
 
「何をする!?」
と黒木警視が言ったが、蓮菜が千里の足を蹴った途端
 
「痛ったぁ」
と言って、千里が蹴られた足の所に手をやりながら起き上がった。
 
「きゃっ!」
と天野警部補が思わず後ろに飛び退く。黒木警視が驚く。
 
「蘇生した!?」
 
「この子、不整脈なんですよ。しばしば心臓が止まるけど、足を蹴ればたいてい蘇生しますから」
と蓮菜。
 
「持病なの!?」
と黒木警視。
 
「病気というより元々死んでるんじゃないかという説もあるんですけどねー。生まれて来た時も心臓止まっていたし」
などと蓮菜は言っている。
 
「蓮菜、もっと優しく蹴ってよー。それに蹴るより足を振ってくれた方が効果ある気がするんだけど」
などと千里本人は文句を言っている。
 
「るみちゃんなら足を手に持って振れるだろうけど。私そんなに腕力無いもん」
と蓮菜。
 
「君、大丈夫?」
と天野警部補が声を掛ける。
 
「あ、平気です。私の心臓しばしば勝手に止まりますけど、簡単に再起動しますからって、何か騒ぎになってた?」
と千里は後半はそばにいる蓮菜に言う。
 
「千里にぶつかった人が、人を殺してしまったかとビビッてたみたい」
「すみませーん、お騒がせして。でも私で良かったかも」
「そうだね。普通の人はそう簡単に蘇生しないから」
と蓮菜は言っていた。
 
その頃、やっと宮田巡査がAEDを抱えて白衣の医師と一緒に走って来た。
 

天野警部補が「病院に行きましょう」と言い、馬原先生や保護者たちもそうした方がいいと言ったものの、千里と蓮菜は
 
「いつものことですから大丈夫です」
と言い、蓮菜の母と馬原先生が天野警部補と連絡先だけ交換して全員手荷物受取所の方に進んだ。
 
騒ぎがあって足止めをくったおかげで、もう受取所の所には人が残っていない。N小学校合唱サークルのグループの荷物だけが回っていたのを受け取った。
 
「何かあったんですか?」
と声を掛けられたので
「1人死んだので」
と蓮菜が言うと
「え!?」
と言って驚く。
 
「でも生き返りましたから大丈夫です」
「ほんとですか!それは良かった。病院へは?」
「大丈夫です。いつものことなので」
「いつものことなんですか!?」
 

ともかくもタグを照合してもらい受取所を出ると、待機していた貸切バスに乗り、大会が行われるホールまで行く。ここで子供たちと馬原先生・小野園子さんだけ降りて、他の保護者はそのまま貸切バスで浅草に向かった。そちらでお昼ごはんを食べた後、浅草寺・浅草神社などを見学することにしている。
 
一方子供たちは近くのマクドナルドでお昼を食べてから会場を見学する。
 
(田舎に住む子たちにとってはマクドナルドは充分な贅沢である)
 
この日は下見だけである。今日は高校の部が行われていて、千里たち小学校の部は明日である。下見に来たと言うと、係の人が会場内に入れてくれてロビーまで案内してくれた。ホールは今演奏中だし満席なので入れないものの、モニターで中の様子を見たりして、充分雰囲気を味わうことができた。
 
その後、この日宿泊するホテルに移動する。
 
部屋は生徒たち(28名)は4人部屋7つ、馬原先生と保護者23名(男4・女19)が4人部屋6つである。実際には2人部屋にエキストラベッドを2個入れた感じの部屋だったが、できるだけ安くあげようというので、こういうことになっているようである。
 
なお保護者の中には夫婦で参加した人もいるが、男女は強制的に分離されている。しかし結果的に男部屋は酒盛りになってしまい翌日妻たちから非難されていた。
 

4年生は2部屋で千里は蓮菜・穂花・佐奈恵と一緒である。つまり4年1組の生徒4人で1部屋である。お風呂は部屋に付いているので交替で入ることにした。
 
「大浴場とか無いんだね」
「田舎の旅館とは違うでしょ」
「観光地とかならホテルでも大浴場持っている所あるけどね」
「あれは高度経済成長期に社員旅行とかの団体客を受け入れるために作られたものだとうちのお父ちゃんが言っていた」
「高度経済成長期って明治時代の日清戦争の後くらいだっけ?」
「違うよ。第二次世界大戦の後の確か昭和20年代くらいじゃない?」
 
蓮菜はなんか時代が違うような気がしたものの、歴史は彼女もあまり得意ではないので、不確かな知識での訂正はやめておくことにした。
 
「でもどうして大浴場とか温泉って男女に分けるんだろう?」
などと佐奈恵が言い出す。
 
「男女一緒はまずいでしょ?」
「いや、男と女に分けられたら、男か女か曖昧な人が困るよなと思って」
「ああ、千里のような子ね」
「だから、女と、男と、女になりたい男に分ければいいかと」
「いや、男になりたい女もいる」
「あ、そうか」
「じゃ4つに分ける?」
「お風呂屋さん大変だ」
 

「千里も今はもう完全に女の子になってしまったから女湯に入れるみたいだけど」
「手術する前は大変だったかもね」
「千里、結局いつ手術受けたんだっけ?」
「手術なんて受けてないよー」
「でも今は女の子だよね?」
「え、えーっと・・・」
 
「脱がしてみれば分かる」
と蓮菜が言う。
 
穂花と佐奈恵が顔を見合わせる。
 
「いや、それ確認してみたい気はしていた」
「ちょっと待って」
 
「それか千里が自主的に脱ぐかだな」
と蓮菜。
 
「分かった、分かった。自分で脱ぐよ」
と千里は言うと、参ったなと思いながらスカートを脱ぎ、パンティも下げた。
 
お股には何かぶらさがるようなものは無い。それどころか、ちゃんと縦の線も見える。
 
「女の子だね!」
「やはり手術は終えてたんだ?」
 
「もうパンティ穿いてもいい?」
「千里、そのままお風呂入ったら?」
「そうする!」
 
それで千里はそのまま着換えを持つとお風呂に入った。
 

「でも実際問題として千里っていつ女の子になる手術とか受けたんだろう?」
と千里がお風呂に入っている間に佐奈恵が訊く。
 
「なんか色々噂があるよね〜」
「1年生の時にアメリカだかタイだかの性転換専門の病院で手術したとか」
「2年生の時に東京で手術して卵巣と子宮も移植したとか」
「3年生の時に札幌で手術して妊娠も可能な完全な女子になって戸籍も女の子に変更したとか」
 
しかし蓮菜は
「手術なんて受けていないというのに1票」
と言った。
 
「え〜〜〜!?」
「だったら最初から女の子だったとか?」
「それならあの子が男扱いされる理由が無い」
「男の子になりたい女の子とかは?」
「いや、あの子は間違い無く女の子になりたがっている」
「それは同感」
 
「だけど男の子たちに訊いてもあの子のおちんちんを目撃したことのある子は存在しない」
「トイレでも見ないの?」
「あの子、立っておしっこすることはないから」
「銭湯や温泉では見てないの?」
「あの子と一緒にお風呂に入ったことのある男の子は存在しない」
「うむむ」
 

「それどころかこないだ転校して行ったリサなんて、何度も千里と一緒にお風呂や温泉に入っている」
「だったらやはり最初から女の子だったとしか思えない」
「こないだ道大会のあと江別市で泊まった時、一緒にお風呂に入ろうとしていたら電話掛かってきて、あの子脱衣場から出て行ったじゃん」
「うんうん」
「で結局その後すぐ戻ってきて女湯に入ったみたいなんだよ」
「そうだったんだ!」
「リサと2組の映子ちゃんがお風呂の中で千里と話していたんだよ」
 
「だったらやはりちんちんが付いている訳ないね」
 
「それどころか、千里はお風呂から上がった後、パンティライナー切れちゃったなどと言って映子ちゃんからナプキンを1枚もらっている」
 
「ナプキンが必要なの〜〜?」
「あの子、こないだの婦人科検診では、女性ホルモンの量がおとなの女性並みと言われている」
「嘘!?」
「ってことは卵巣は少なくとも存在するのね?」
「その可能性はあると思う」(*4)
 

(*4)この時期、千里は癌の手術のあと放射線治療を受けている母の卵巣を守るため、大神様の手で、その母の卵巣を自分の身体の中に引き受けている。そのためおとなの女性並みの女性ホルモンが分泌されていた。この卵巣と競合しないようにするため睾丸は父の身体に移動させているので千里は睾丸が無く卵巣があって、ホルモン的には完全に女性になっていた。千里の骨盤が女性型になってしまうのはこの影響である。
 

「そうだ!病気とかになったとき、病院でお尻に注射とか打たれる時は看護婦さんに見られてるんじゃない?」
と穂花が言うが
 
「ところがあの子の診察券は全部女になっているんだな」
と蓮菜は言う。
 
「やはりあの子は女の子なのでは〜?」
 
「たぶんあの子は本当は男の子だけど、絶対に誰にもちんちんを見せない技を持っているんだな」
「お股にはさんで隠すとか?」
 
「いやさっき見た時は足を広げていたから隠しようが無い。割れ目ちゃんもあった」
 
「分かった!千里のおちんちんは取り外し可能なんだよ」
「取り外せる物なら、ずっと取り外していると思う」
「結局ちんちん無いんだよね?」
 
「それは結局良く分からないんだけど、あの子は心は間違いなく女の子」
と蓮菜は言う。
 
「それはこないだ蓮菜に言われてその後考えていたけど、それで納得した」
と穂花が言う。
 
「だからあの子が私たちと一緒に泊まるのは問題ない」
と蓮菜。
 
「それは全然問題無いと私も思ってたよ。あの子と一緒にいても男の子の傍にいるような感覚は全く無いもん」
と佐奈恵も言った。
 

翌10月8日は朝食を取ったあと9時にホテルをチェックアウトして会場に移動する。大会は14:00開始だが、午前中にリハーサルがあるのである。N小も案内に従ってステージに登り、鐙さんがピアノを弾いて歌唱した。サブピアニストの阿部さんは譜めくり係をした。彼女はピアノはうまいが歌は音痴らしい。
 
練習の後は他の学校の練習を聴くが「凄いね〜」「上手いね〜」という声が多数上がる。馬原先生も
「やはり全国大会でこういうのを聴くのも刺激になるんだよ」
と言っていた。
 
練習時間が終わった後、外に出てお昼を食べる。この日は洋食屋さんに入ったのだが
 
「料理がおしゃれ〜!」
「東京のレストランは違う!」
という声が多数出ていた。
 
この洋食屋さんで、遅くホテルを出てきた保護者たちと合流したが、ここの料理は保護者たちにも好評だった。
 
食事後、一緒にホールに戻り、子供たちは合唱サークルの制服に着替えてから出演者席に座る。ここでピアニストの鐙さんだけは白いドレスを着る。譜めくり係の阿部さんは歌うメンバーと同じ制服である。保護者は少し離れた席なのだが、小野園子さんだけは馬原先生のバックアップのため生徒たちと一緒の席に座った。
 
「唐突に思ったけど、小野部長のお母さんって、もしかして名前が回文ですか?」
「そうそう。上から読んでも『このそのこ』、下から読んでも『このそのこ』」
と小野部長本人が言う(*5).
「へー!」
「お母ちゃんのお姉さんは、歌美(うたみ)なんだけど、結婚した相手の苗字が三田(みた)だったから、やはり上から読んでも『みたうたみ』、下から読んでも『みたうたみ』」
 
「すごーい!回文姉妹!」
 

(*5)「小野」の読み方は「おの」が代表的だが「この」「おぬ」「さぬ」などの読み方もある。
 

やがて一般のお客さんも入って来てホールは満席になる。
 
「すごいねー。この会場が満席になるなんて」
「まあ全国大会だからね」
 
ここは3600人入るホールである。出演者が350名くらい、保護者も同程度なので、2800人以上の一般観客が入っている。
 
「出場するのはやはり女声合唱が多いみたいね」
「**代表の学校が混声だったね」
「**代表はほとんど女子だったけど男子も数人混じっていたね」
「まだ声変わりが来てない子なら女子と同じ音域が歌えると思う」
「制服がお揃いなんだけど、みんなスカートなのに男子だけショートパンツだった」
「そりゃさすがに男子にスカート穿かせる訳にはいかない」
「いや、もしスカート穿いてたら男子ということに気付かない」
「なるほどー!」
 
「じゃスカート穿いて他の女の子に紛れて参加していた子もいたかもね」
「まさか!」
「あり得るとしたら女の子になりたい男の子にスカート穿かせてあげたケースでは」
「スカート穿いても違和感の無い子なら、本人が希望すればスカートでもいいんじゃない?」
「スカート穿いて違和感のある女の子の場合はどうする?」
「むむむ」
 
「私を見て『最近は男の子もスカート穿くのね』と言った人がいる」
「それ笑えないからやめなさい」
「いっそ性転換する?」
「男から女に?女から男に?」
 

N小の演奏順序は4番目なので、1番目の学校の演奏が終わった所で係員の誘導で席を立ち、楽屋口の方に移動する。楽屋の並びの中に広い練習室があり、そこで練習できるようになっている。N小の子たちが行った時には3番目の学校が練習中であった。
 
やがてその学校が練習室から出てステージ袖の方へ行く。入れ替わりでN小のメンバーが練習室に入る。
 
「さあ、リラックスして行こう」
と馬原先生が声を掛ける。鐙さんがピアノを弾いて、課題曲・練習曲を歌った。みんな緊張しているせいか、歌詞を間違いそうになる子、音を間違いそうになる子が結構出たが、何とか破綻せずに最後まで歌うことができた。
 
「よし。まあまあの出来だよ。この調子で頑張ろう」
と馬原先生は言ったものの、不安そうな顔をしている子が結構いた。特に今間違いそうになった子は暗い顔をしている。
 
それでともかくも練習室から出ようとしたのだが、その時、ピアニストの鐙さんが椅子から立とうとして、自分の足が椅子の脚に絡まるようにして倒れてしまった。
 
「鐙さん?」
「郁子ちゃん?」
 
と数人が声を掛けて彼女のそばに駆け寄る。
 
「大丈夫?」
「うん、大丈夫」
と言ったものの、鐙さんは起き上がった後、右手の親指を押さえている。
 
「どうしたの?見せて」
と言って馬原先生が彼女の手を取る。
 
親指の付け根付近が赤くなっている。おそらく転んだ時に、そこを床についてしまったのだろう。
 
「これはすぐ冷やした方がいい」
「でも私ピアノ弾かなきゃ」
「無理したらダメ。もっと酷くなってピアノ弾けなくなってしまいかねない」
「そんなあ。やっと伴奏できると思ったのに」
 
彼女は地区大会の時は乗っていた車が事故による渋滞に巻き込まれて間に合わず、馬原先生がピアノを弾いた。学習発表会の時は彼女は歌もうまいのでそちらに参加してもらうことにしてリサがピアノを弾いた。道大会でもそのリサがもう転校するというので彼女に譲ったので、今回やっと晴れ舞台でピアノが弾けると思っていたのである。
 
係の人が寄ってくる。その係の人が声を掛けたようで、廊下にいた少し偉そうな感じの中年男性も中に入って来た。
 
「どうですか?」
「今転んだので指を打ってしまって」
 
「それは無理しない方がいい。代わりのピアニストは?」
「この子が弾けます」
と言って馬原先生が阿部さんの方に手をやる。
 
「その人もN小学校の児童ですか?」
「はい、そうです」
 
「だったら交替を認めます。君は治療した方がいい。誰か医務室に連れていける人は?」
と中年男性が言う。結構な権限を持っている人のようである。
 
「私が連れて行きます」
と小野園子さんが申し出た。
 

それで結局鐙さんは園子さんと若い係の人に連れられて医務室の方に行く。馬原先生が
 
「それじゃ申し訳ないけど阿部さん、ピアノお願い」
と言うと、彼女は引き締まった顔で
「はい。頑張ります」
と言った。
 
「譜めくりは自分でできる?」
「はい。自宅で練習する時はそれでしてたので」
 
それでお偉いさんに誘導されてステージ脇に行く。その人はステージ脇まで行った所でN小のメンバーを置いて審査員席に行き、審査員長に何か囁いていた。たぶんピアニストの交替を認めたことを告げたのだろう。
 
トラぶったので既に前の学校の演奏は終了し、N小学校を紹介するビデオが放映されていた。このビデオが終わればもうステージに上がらなければならない。
 
小春はみんなの顔を見回した。全員物凄く緊張している。それでなくても緊張するところで鐙さんのトラブルまで起きた。小野部長まで完璧にあがってしまっている感じだ。
 
小春は「やばいな」と思った。このままでは全く実力を出せない気がする。それどころか演奏に失敗するかも。チラッと蓮菜を見ると彼女も腕を組んで悩んでいるよう。ふたりの視線が合う。
 

蓮菜は千里の後ろに回ると、いきなり抱きつくようにして両手で胸を触った。
 
「きゃっ!」
と千里が悲鳴をあげる。
 
「何すんのよ!?」
 
「昨夜はあそこは見たんだけど、上半身は見てなかったなと思って、おっぱいの状態を確認してみた」
などと蓮菜は言っている。
 
「そういう話はホテルに戻ってからでもいいじゃん」
「今日はこのまま夕方の便で帰るしね」
「じゃ、留萌に帰ってからでも」
 
「これ微かに膨らんできてない?」
と蓮菜。
 
「そんなことないと思うけど」
と千里が言ったが、小春が
「どれどれ、私にも触らせて」
と言って、やはり千里の胸に触る。
 
「これジュニアブラ付けてもいいくらいだと思う」
と小春。
 

「え?千里、もうそんなに胸があるの?」
「女性ホルモンとか飲んでるんだっけ?」
「え?ホルモンとか飲まなくても、4年生の女子なら胸が膨らんできていても不思議では無い」
 
ここには千里の性別のことを知っている子と知らない子が混じっている。
 
「取り敢えず触ってみてごらんよ」
などと小春が言うので、結局4年生の女子が全員千里の胸に触ってみる。
 
それで千里が「ちょっとぉ」「やめてー」などと言っているので、小野部長がこちらにやってきて
 
「あんたたち何やってんのよ?」
と言う。
 
「すみませーん。おっぱいの触りっこです」
「部長もひとついかがですか?この子の胸、けっこう柔らかいですよ」
「そんなのは帰ってからにしなさい!」
と言って小野部長は4年生たちを叱ったが、部長自身これでけっこう緊張が解けた感じもあった。
 
この騒ぎを見て、苦笑している5年生・6年生もおり、その子たちはみんな緊張がほぐれたようである。
 

その時、N小紹介のビデオが終わり「ステージに上がって下さい」と言われる。
 
先頭を務めたのは小野部長で、譜面を指揮台の所に置いていく役目ももらっていた。彼女はさっきまで足が少し震えている感じだったのに、4年生たちの“おっぱいの触りっこ”を注意したので緊張が解けたようで引き締まった顔をしている。
 
部長はソプラノなので譜面を置いた後は、前列の中央付近に立つ。その後アルトの子たちが入って行き舞台の上手(客席から見て右)側に並び、ソプラノの子たちが続いて入って行き下手(客席から見て左)側に並ぶ。ピアニストを突然することになった阿部さんも制服姿のままピアノの前に座る。彼女がおそらくいちばん緊張していたろうが、彼女も“おっぱいの触りっこ”のおかげで緊張が解けている。普段通りの気持ちでピアノの前に座ることができたようだ。
 

最後に入って来て指揮台の所に就いた馬原先生が阿部さんとアイコンタクトを取り、先生の指揮棒と同時に阿部さんのピアノ前奏が始まる。
 
そしてN小合唱サークルのメンツは課題曲『大すき』を歌い始めた。
 
直前の小さな事件のおかげで、みんな適度の気持ちの集中ができた感じであった。
 
この曲はダイエーホークス(当時)の応援歌『いざゆけ若鷹軍団』の作曲者でもある山本健司さんの作品だが、結構難しい歌である。それでもN小のメンツは堂々とこの歌を歌って行った。
 
やがて終曲。
 
会場から拍手がある。部員たちもお互いに笑顔で顔を見合わせる。かなり上手く行ったという感触があった。
 
小春が小野部長の隣から出て行き、指揮者である馬原先生の傍で篠笛を構える。再び馬原先生と阿部さんのアイコンタクトで自由曲『キタキツネ』の前奏が始まる。小春の篠笛も優しく鳴り響く。そして歌が始まる。
 
これぞ合唱の醍醐味という感じの、ハーモニーの美しい曲である。それにチョロチョロと走り回るかのような小春の篠笛の音が彩りを添える。課題曲がけっこううまく行ったこともあり、みんな楽しんでこの歌を歌うことができた。コーダで可愛らしい篠笛のモチーフの流れる中、スケール的な動きのソプラノとアルトの声がやがて美しい和音を作って終了する。
 
会場から物凄く大きな拍手が送られた。
 

「うまく行った、うまく行った」
とステージから降りたメンバーは大喜びである。ただ阿部さんが
「8ヶ所も間違ったぁ!」
と言って頭を抱えていた。
 
「気にしない気にしない」
「気付いた人は少ないよ」
とみんなで彼女に声を掛けた。
 
「だって急に弾くことになったんだもん。心の準備もできなかったろうし」
「でも1時間前に言われたら緊張して自滅していたかも」
 
「ああ、緊張する暇も無かったよね」
 
正確には緊張しかかっていた所を“おっぱい”騒動で気持ちを切り替えることができたというところか。
 
医務室に行った鐙さんの方だが、単純な突き指ということで取り敢えずアイシングし、テーピングされた上で、しばらく指を心臓より上に掲げたままにしておくよう言われたらしい。
 
「それで頭に手をやっているけど、なんか馬鹿みたい」
「いや、その姿勢をキープしておけば早く治るから」
と医学的な知識に詳しい蓮菜が言っている。
 
「寝る時はお腹の上で手を組んでおくといいよ」
「それで心臓より上になるわけか」
 
「一週間は指動かしてはいけないといわれた」
「親指使えないと大変だね」
「でもその程度で済んでよかった」
 
「鐙さん、市内のクリスマス・コンサートに出よう。そこで伴奏してくれない?」
と馬原先生が言う。
 
「はい!」
と彼女は嬉しそうに答えた。
 

馬原先生は会場の席に戻ると保護者たちの所に行って、鐙さんがステージに行く直前に突き指をしてしまったのでピアニストを交替したことを説明した。
 
「あらぁ、郁子ちゃん可哀相に」
「でも光恵ちゃんも頑張ったね」
 
ステージ上では次々と出場校がビデオで紹介されてはその後演奏が行われる。10校全部の演奏が終わったのは16時すぎである。コンクールは審査に入る。
 
ここでN小の中から、小野部長、野田副部長、深谷さんの6年生3人が席を立って別室に移動した。
 
この日の出場校からの「選抜メンバー」で「スペシャル合唱団」を結成して1曲30分ほど練習してから演奏するのである。この大会独自のお楽しみイベントである。各校3名と言われていたので、馬原先生がその3人を指名していた。
 
そして審査を待つ間、まずは会場全体で今年の課題曲『大すき』の合唱が行われた。予め指名されていた、最初に演奏した学校の部長さんと2番目に演奏した学校のピアニストがステージに登り、その2人の指揮とピアノで大合唱をした。
 

その後は有志によるパフォーマンスの時間となる。進行係の人が
 
「何かしたい人、どんどんステージに来てパフォーマンスしてください」
と呼びかけるので会場の数ヶ所から数人単位で立ち上がり、ステージに向かう。どうも過去に全国大会に出たことのある学校では、このフリーステージでの出し物も用意していたようである。
 
「うちも誰か出よう」
と右手を頭の上にあげたままの鐙さんが言う。
 
「よし、千里、小春、穂花、おいでよ」
と蓮菜がその3人を誘うので千里も立ち上がって一緒にステージ前方に行った。
 
「何するの?」
「『恋のダンスサイト』」
「え〜〜!?」
「歌えるよね?」
「歌えると思うけど」
「穂花、セクシービーム担当で」
「あははは」
「千里ピアノ弾いて、小春、笛吹いてよ」
「いいよ」
「歌にも2人とも参加してね」
「私さすがに笛吹きながらは歌えない」
「それはそうか。千里はピアノ弾きながら歌えるよね?」
「その曲なら大丈夫と思う」
 

それで千里たちは5番目のパフォーマーとなった。それまでの4組がピアノ伴奏でグノーの『アヴェマリア』、アカペラで『アメイジング・グレイス』、ギター伴奏で『スカボロ・フェア』、男女のデュエットで『美女と野獣』と続いていたので、突然出てきた流行歌に会場がざわめく。
 
千里はかなりスウィングした感じでピアノを弾く。小春はどこに持っていたのかフルートを取り出して吹いて、装飾音をたくさん入れる。それで蓮菜と穂花がメインで歌うが千里もピアノを弾きながらそばに持って来たスタンドマイクに向かって「Uh! Ha! Uh! Ha!」とか「マジっすか?」といったバックコーラスや合いの手を入れる。
 
実はこの曲は先日転校して行ったリサの家に外人の子供半分、日本人の子供半分で集まってよく様々な歌を歌っていた時のレパートリーのひとつなのである。それで千里もピアノを弾きながら合いの手を入れるのを随分やっていた。この4人の中で穂花はその集まりに参加していなかったが、メインの歌を歌うのは問題無い。
 
4人がステージ上でパフォーマンスをしていたら会場全体からたくさん手拍子がうたれ、会場は物凄く盛り上がって、最後は盛大な拍手が送られた。
 
4人は会場全体に手を振ってステージを降りたが、この後フリー演奏の参加者がどっと増えて、大半がポップス系の歌を歌った。
 

「まだまだ歌いたい人はあるでしょうが、お時間になりましたので」
と進行係の人がパフォーマンスを区切った上で、スペシャル合唱団(*6)が登場した。
 
演奏曲目は『竹田の子守唄』である。
 
東京都のプロ合唱団指揮者が指揮し、その合唱団のピアニストが伴奏してこの有名な歌を歌い上げた。
 
参加者は全員この歌自体は知っていたと思うが、それでもわずか30分で、初めて集まったメンバーの歌をまともな合唱にまとめるのは、かなり大変だったのではないかという気がした。
 
その美しいハーモニーが終わった所で会場全体から大きな拍手があった。
 

(*6)このコンクールのモデルにしているNHKコンクールで実際にスペシャル合唱団のパフォーマンスが行われるようになったのは2004年からでこの時期はまだ行われていませんでした。
 

そして結果発表となる。
 
「金賞から発表します。金賞は関東甲信越代表・東京都A小学校」
 
物凄い歓声があがって、代表が2名ステージにあがった。そして賞状とトロフィーをもらう。
 
馬原先生が小野部長に何か言っている。それが伝言ゲームで全部員に伝わった。
 
「このA小学校はこれでこの大会3連覇だって」
「すごっ!」
 
「上手いなあと思ったよ」
「うん。やはり凄かったもん」
と千里たちは言い合った。
 

「銀賞、九州代表・熊本県Z小学校」
 
歓声があがり、代表の人がステージにあがって表彰される。賞状と楯をもらう。
 
「最後に銅賞です。銅賞、関東甲信越代表・長野県K小学校」
 
歓声があがり、代表の人がステージにあがる。賞状をもらって高く掲げている。
 
「同じく銅賞、関東甲信越代表・東京都O小学校」
 
やはり歓声があがり、代表の人がステージにあがる。やはり賞状をもらう。
 
このコンクールは通常、金賞1校、銀賞1校、銅賞2校で残りは優秀賞が与えられる。それでこれでもう終わりだろうと思い、席を立つ人もある。千里たちも「帰ろ帰ろ」と言っていたのだが、司会者は言った。
 
「今年は審査の結果実は3校が同順になってしまいまして、今年だけ特に銅賞がもう1校あります」
 
会場内がざわめき、会場を出ようとしていた人たちが立ち止まる。
 
「同じく銅賞、北海道代表・留萌N小学校」
 

「きゃー!」
N小の児童たちから悲鳴にも似た歓声があがる。信じられないという顔をしていた小野部長が小春に背中を叩かれて、急いでステージに上がる。
 
審査員長さんから「おめでとう」と言われる。「ありがとうございます」と言って賞状を受け取る。そして高く会場に向けて掲げた。
 

閉会の辞があり、多くの客や参加者は席を立ってホールを出るが、金賞・銀賞・銅賞を取った学校は記念撮影をする。
 
これは遠くから来ている学校優先で撮影をした。早く帰れるようにするためである。それでN小が最初にステージ上に並び、出演者(鐙さんを含む)だけで1枚、保護者たちも入って1枚、記念写真を撮ったが、保護者たちは自分たちのカメラ(*7)でも写真を撮っていた。
 
他の学校に挨拶してホールを出たが、N小の後は銀賞を取った九州代表の子たちがステージに登っていた。
 

(*7)まだこの時代には多くの携帯にはカメラが付いていない。「写メール」の名前でカメラ付き携帯が(大々的に)売り出されたのはこの翌月2000年11月である(J-Phone J-SH04).
 
またデジカメもかなり普及しつつあったものの、この時期はまだフィルムカメラを使用している人もかなりいた。“二眼カメラ”が完全にデジカメの世界になってしまうのは2002年頃ではないかと思われる。DPE事業への依存が大きくデジカメ化に対応できなかった《カメラのドイ》が2003年8月に倒産している。また当時のデジカメはまだ解像度が低く、プロセッサの能力も低くて、結果的に連写性能が出なかったこともあり、一眼カメラのデジタル化はコンパクトカメラよりかなり遅い。ミノルタαシリーズの最初のデジタルモデルα-7 digitalが出たのは2004.11.19である。
 

大会が終わったのが17時前で、一行は次の行程で帰途に就いた。
 
原宿17:23(山手線)17:37品川17:47(京急)18:09羽田20:05(JAS123:A300-600R)21:35新千歳(貸切バス)24:30
 
晩御飯は羽田空港内の食堂で食べた。新千歳に着いたのが21時半で、そのあと大型バス(例によって保護者が補助席に座る)で留萌に戻ったが、バスの中では寝ていなさいと言われ、車内の灯りも落としてみんな寝ていた。
 
深夜到着だが、遠征に参加した保護者の車は学校に駐めてあるし、それ以外の子の保護者も迎えに来ているので、各々の保護者の車で帰宅した(田舎は自動車社会なのでこういう時は便利である)。それにしても深夜の運行になったので、小野園子さんが運転手さんに「お疲れ様です。これ賄賂の“汚職事件”ですけど」と言って封筒を渡していた。保護者数人で出し合ったものである。
 

10月9日(火).
 
朝の全体集会で、合唱サークルが銅賞をとったことが報告され、全校生徒から拍手される。合唱サークルの全員がサークルの制服を着てステージにあがり、馬原先生の指揮、阿部さんの伴奏で本番でも歌った2曲が披露された。(鐙さんは一週間指を使うの禁止)
 
この時、4年1組の児童が並んでいる付近で囁く声があった。
 
「村山、スカート穿いているね」
「でもあいつがスカート穿いているのは別に珍しくない気がする」
「そういえばそうだ」
 
千里は全体集会が終わった後は着換える時間が無かったので午前中はそのまま合唱サークルの制服姿で授業を受けたが、千里がスカートを穿いていても、誰も気にしなかった。更に1時間目の後でトイレに行こうとして、いつものように男子トイレに入ろうとしたら
 
「ここは男便所。スカート穿いている奴は女便所に行け」
と言って追い出されてしまう。
 
「千里何やってんの?」
「男子トイレから追い出された」
「当たり前。千里は女の子なんだから女子トイレに入らなきゃ」
と言われて、穂花に強制連行されて女子トイレに入った。
 

例によって女子トイレ名物の行列に並ぶが、千里が行列に並んでいても気にする女子は居ない。そもそも千里は今日はスカートなので、全く違和感が無い。千里自身も特に緊張したりはしていない。
 
「だいたい東京遠征中はずっと女子トイレ使ってたじゃん」
「学校の外だからいいかなと思って」
「千里って、学校では男子トイレ使って、学校外では女子トイレ使う訳?」
「そうかも」
 
「それ絶対変!」
と近くに居た美那にも言われていた。
 

昼休みに給食を食べてから、他の子と一緒に音楽室に行くことにする。会合をしたあと着換えるつもりだったのだが、行く途中で
 
「4年1組の村山千里さん、職員室まで来て下さい」
という放送がある。
 
何だろうと思い、蓮菜たちと別れて職員室に行くと、教頭先生の机の前に見た記憶のある女性が立っている。
 
「空港で会った婦警さん?」
「天野と申します。一昨日は大変でしたね」
と彼女は言って、《警視庁東京空港警察署・警備課 警部補・天野貴子》と書かれた名刺を渡す。
 
「その後、体調はどうですか?」
「あ、全然平気です。お騒がせして済みません」
 
「それはよかった。でも念のため健康診断を受けてもらえませんか?捜査のために必要なんですよ」
「はい、それは構いません」
 
それで先生にことわって、天野警部補といっしょに病院に行くことにする。
 
「あれ?パトカーじゃないんですね?」
「北海道警の車なんですよ。でも捜査で使う車両ではないのでサイレンとかの機能はついてないんです。警察無線はついてますけどね」
「へー!、でも車の屋根になんか凄いアンテナが付いていると思いました」
 
「うん。その無線のアンテナなのよね」
 

天野さんの運転で千里は留萌市立病院に来る。
 
取り敢えずおしっこを取ってきてといわれて看護婦さんから紙コップをもらうので、トイレ(当然女子トイレ)に入り、おしっこを取った。それを提出した後、採血をされる。なんか大きな注射器なので痛そう!と思ったが、上手な人だったので、あまり痛くなかった。
 
そのあと身体全体のMRIを取られる。MRIの技師(女性)は千里にチュニックとスカートを脱ぐように言ったが、下着をチェックして「この下着は着けたままでいいです」と言った。ただ千里が付けている子ギツネの髪留めに気付き「その髪留めは外してください」と言われたので、外して合唱サークル制服の上に置いた。
 
それで初めてMRIなるものを体験するが
「何〜。このドンドンドンドンという大きな音は〜?」
と思った。結構長時間やっているようだったので、いつしか千里は機械の中で眠ってしまった。
 

その後、心電図を取られるが、大きなクリップをまだほとんど膨らんでいない胸に取り付けられると、すごく変な気分である。
 
けっこう痛い!
 
クリップを挟むのはむろん女性の技士さんがやってくれるのだが、その技士さんが凄く胸が大きい。私ももう少しおっぱい大きくなったら、これ挟まれてもあまり痛くなくなるのかなあ、などと思った。
 
なお、千里の場合、ふつうに心電図を取るだけでは不整脈の兆候などは見られないので、心電図はごくノーマルということのようであった。
 
心電図の後は、女性の医師(内科の先生らしい)の前で裸になって、全身に傷や痣(あざ)などが無いかチェックしてもらう。実はこれがいちばん重要だったようである。
 
千里は“女の子になってから”医師の前でオールヌードを曝すのは初めてだったので「恥ずかしい〜」と思ったものの、開きなおった。傷を確認するためなのでパンティまで脱いで完全ヌードである。
 
腕を上げ、足も開いて大の字の姿勢である。あ、これおちんちんが付いてたら「大」じゃなくて「太」かも、などと変なことを考えた。しかしお股の付近まで覗き込まれて傷をチェックされるので、マジで恥ずかしかった。
 

背中の上の方に軽い痣が見られたので、これがたぶんぶつかった時のものだろうねと言われた。
 
「ここ痛い?」
と医師が尋ねる。
「全然痛くないです」
と千里。
 
「治療の必要とかは?」
と天野が尋ねる。
 
「必要ないと思います。今週中には消えてしまいますよ」
「過失傷害に問えますかね?」
「うーん。難しいとは思いますが、一応診断書を書きましょう」
「お願いします」
 

それで診察が終わったので服を着てくださいということになるが、その時、千里は天野がこんなことを“思考”したのに気付いた。
 
『この子、何か不思議。ちょっと男の子と思えば男の子にも思える体つき。でも、おちんちんが付いてないから女の子なんだろうな』
 
あははは。
 
卵巣が千里の身体に入ったのは9月4日なので、千里はまだ女の子になって1ヶ月ほどしか経っていない。体つきが男の子なのは仕方ない。
 
すると天野は更に思考した。
 
『まさかこの子、性転換手術を受けているなんてことはないよね?』
 
ドキッ。
 
それで天野は医師に言った。
「この子のMRIの写真を見せていただけませんか?」
「はい?」
 
医師が写真の入った袋を取って天野に見せる。天野は写真の下腹部が写っている付近を見た。
 
『卵巣、子宮、膣、ちゃんとあるな。やはり女の子か。二次性徴が始まる前の女の子だと、まだこういう男っぽい体格の子もいるのかな?それにさすがに小学生で性転換手術なんて受けている訳ないよね?』
 
その天野の《思考》を聞いて、千里は「あれ〜?なんで私に子宮とか膣とかもあるの?」と思った。
 
千里の右後ろで『くすくす』という声が聞こえた。
 

病院ではこの後、婦人科医の検診も受けたが、千里がまだ生理は来ていないと言うと
 
「あなたのこのホルモン量なら、まだ来ていないのが不思議という感じ。たぶん1ヶ月以内には来るから、ナプキンとか生理用ショーツとか、お母さんに言って買ってもらうといいよ」
 
と医師は言った。
 
いや、そんなの母に頼んだら母は仰天するだろう。どうしよう?と思ったが、小春が『私が買ってあげるから大丈夫だよ』と言ったので安心した。
 

全ての検診が終わったのはもう夕方である。天野が学校に電話を入れていたが、結局天野が自宅まで送って行ってくれることになった。
 
「今日は授業もあるのにごめんなさいね」
「いえ、天野さんこそわざわざ北海道まで済みません」
「本当はすぐ病院に連れて行きたかったけど、大会では仕方ないですもん」
 
そんなことを言いながら病院を出て駐車場方面に行こうとしていた時、千里は急に《胸騒ぎ》がした。それで自分の前を歩いている天野に
 
「天野さん」
と呼びかける。
 
「はい?」
と言って彼女が立ち止まり振り返った。
 

その次の瞬間、廊下の前方(振り返った天野の後方)にあったスティール製の棚が、いきなり倒れてきて凄まじい音を立てた。
 
「きゃっ」
と天野が悲鳴をあげる。しかし千里はじっとその倒れた棚を見つめていた。
 
多数の人が駆けつけてくる。
 
「君たち怪我は?」
「その子を見てあげて」
と天野が言うので、千里はすぐ近くの診察室に連れ込まれ、服を脱がされて!どこか怪我していないかチェックされた。
 
天野も別の診察室に連れ込まれてチェックされたようである。
 
「大丈夫のようだけど、どこか痛くない?」
「はい、全然問題無いです」
 
天野のほうも怪我はしていないようであった。ふたりとも30分ほどで解放される。名前と連絡先だけ記録された。
 

天野が《心の声》で語りかけてきた。
 
『村山さん、もしかしてあの棚が倒れるのが分かったの?』
 
千里も《心の声》で答える。
 
『何か感じたんです。だから呼び止めました』
『じゃ、村山さんは私の命の恩人だ』
『それ大袈裟(おおげさ)です。でも天野さん、この話し方使えるんですね?』
『村山さんもね。あの棚が倒れて来た後の、村山さんの表情が普通に驚いたのとは違っていたから、この子ひょっとしてと思って試してみた。それに、あなた全然“思考が読めない”んだもん。これって物凄く霊的なパワーのある子だという気がした』
 
『天野さん、占い師さんかなにかですか?これ使える“人間”は占い師の人しか知らなくて』
 
『私は人間ではないかも』
『じゃ神様?』
『村山さんが髪に付けている髪留めに擬態したキツネの女の子と似たような感じかな?』
 
『え?天野さんもキツネなんですか?』
『キツネではないよ。人は私たちの種族を天女(てんにょ)と呼ぶ』
 
『天の羽衣を持っているような?』
『そうそう。私たちの中には馬に乗るのが上手くて《ワルキューレ》と呼ばれる子たちもいるけど同族』
『天野さんも馬に乗るの?』
『乗馬は得意だよ。バイクも小型のなら乗るよ。大型のはあまり自信無いけど。むしろ四輪の自動車に乗っていることが多い』
『へー』
 
『でも村山さんとはまた逢えるような気がするな』
『だったら《千里》って名前で呼んでもいいよ』
『じゃ私のことは《きーちゃん》でいいよ』
『そう?じゃ、よろしく、きーちゃん』
 
そこまで会話してから2人は診察室を出た。そして廊下で顔を合わせるとニコッと笑い、握手をした。
 
『そうだ。通信鍵を交換しない?』
『それどうやるんですか?』
『こうやって身体を接触していると2人だけの間で成立する通信の鍵を渡せるんだよ・・・渡した』
と言ってから
『こちらで会話できる?』
といって“別の周波数”で語りかけてくる。
『はい。聞こえてくる周波数が違う感じ』
『これで遠く離れていても自由に会話できるよ』
『へー!凄い』
 
この時点では彼女はまだ別の宿主に仕えていたので、この時《きーちゃん》が千里の眷属になった訳では無い。しかしこれ以降、彼女は千里の“協力者”になったのである。このことは美鳳も知らない。
 
ふたりは片付け作業の進む廊下を通り抜けて玄関を出、駐車場に向かった。
 
 
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【少女たちの東京遠征】(1)