【娘たちの1200】(1)

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第4試合では玲央美たちのジョイフルゴールドと花園亜津子などのエレクトロウィッカの試合が行われたが、この試合も千里たちの試合同様のロースコアの接戦となった。観客としては2試合続けてストレスの溜まる試合となったであろう。
 
エレクトロウィッカはステラストラダに在籍していたことのある母賀ローザをかなり評価していた。また亜津子や武藤博美が佐藤玲央美の凄さを知っている。馬田恵子も熊野サクラをかなり評価していた。メンバーの中には池谷初美や堀江希優を知っている人もあった。それでE女子高とのビデオを全員で鑑賞したが、
 
「ここはフラミンゴーズやステラ・ストラダより強いじゃん」
などという声まで出ていた。
 
それで各々誰が誰に付くかという担当を決め、昨日は1日その練習をしていたのである。
 

その成果があって、エレクトロウィッカはジョイフルゴールドをかなり封じ込めた。昭子は亜津子にきれいに押さえられてしまったものの
 
「あんたフォームがきれいだね。さすが千里の弟子だね」
などと亜津子が試合中に彼女に声を掛け
「ありがとうございます。花園さんのフォームも美しいです」
などと昭子も答えて、2人は和気藹々と?試合をしていた。
 
亜津子は試合中に対戦相手とおしゃべりするのが好きなのである。
 
亜津子が敢えて昭子を停めずに撃たせて
「今のフォーム、左足が少し崩れてた」
などと注意して
「あ、それ感じました。次から気をつけます」
などと昭子も言ったりもしていた。
 
「でもあんた男の娘だったんだって?」
「はい。高校時代は男子バスケット部と女子バスケット部の両方に所属していたんです。スポーツ保険二重払いしていたし、IDカードは男子のカードと女子のカードと両方持っていたし」
「凄いね」
 
昭子が男子と女子の登録カードを持っていたのは、女子のエンデバーに度々召集されていた一方で、試合には男子として出ていたためである。しかし女子のエンデバーに召集するというのは、将来は女子選手になってくれることを協会側も期待しているのでは?と薫は言っていた。
 
高校時代に男女双方の登録カードを持っていたのは昭子だけである。千里は2006年秋に女子のカードが発行された時点で男子のカードは回収されている。薫も2008年夏に男子のカードを返上して女子のカードをもらった。横田倫代は、昨年1月に性転換手術が終わった後、本人がもう男子の試合にはできたら出たくないというので男子のカードを返上して、代りに女子のカードを発行してもらっている(*1)。
 
「でも高校3年のインターハイ道予選が終わった所で性転換手術を受けて女の子の身体になりました。去年の夏には戸籍も女性に変更したんですよ」
と昭子は説明する。
 
「おお、それは良かった。あんた可愛いからきっといい嫁さんになるよ」
と亜津子。
 
「ありがとうございます。結婚してくれる男性がいたらいいんですが」
 
「あんたいっそ戸籍の性別を直さなかったら、女の子であんたを嫁さんにしたいという人もあったかも」
 
「なんか、そういうことよく言われます」
「やはり」
 
実際昭子が戸籍の性別を女性に直したと聞いて「ああん。昭ちゃんと結婚できなくなった」と嘆いていた女子がKL銀行には随分居たのである。
 
(*1)倫代は本当は高3のインターハイ・ウィンターカップに男子として出場する権利もあったのだが、その権利を放棄した。実際協会側も女子の身体で男子の試合には出てもらいたくないようだった。千里の時にさんざんそれでトラブルが起きている。
 
倫代のカードには2011年6月12日以降の都道府県予選、2012年6月12日以降の全国大会・国際大会に出場可という注意書きが入っている。それで実際彼女はインターハイ・国体・ウィンターカップの道予選には出場して活躍している。今年度の国体で旭川選抜が札幌選抜に勝てたのは、本戦には出られない彼女の貢献もあった。
 

仲良く?試合をしていた亜津子と昭子に比べて、センター対決は厳しいものとなった。ジョイフルゴールド側はサクラとローザが交代で出てくるのだが、最初、元プロのローザに馬田恵子が、サクラには西根春子が付いていた。しかしサクラの予想を上回るパワーとスピードに春子が付いていけず、リバウンドも全部取られてしまうので、結局馬田が1人で双方の相手をすることになってしまった。
 
「ごめんなさい。この子にはかなわない」
と西根は音を上げていた。
 
馬田は日本代表の正センターだけあって、体格・ジャンプ力ともにあるし、スタミナも凄い。それで何とかサクラ・ローズの2人に対抗していた。
 

佐藤玲央美の相手をしたのは河原恭子である。彼女は大阪E女学院出身で、インターハイやウィンターカップで直接対決はしていないものの札幌P高校の中心選手・玲央美を見ていて凄い選手だと思っていた。それで昨日は玲央美の高校時代のビデオなども再度見て研究していたのだが、現実の玲央美は高校時代からかなり進化していたし、ビデオでは分からなかった瞬発力やスピードを持っていた。
 
亜津子から「玲央美は分身の術を使うから気をつけて」と言われていたのだが、実際玲央美は自分の右側でドリブルしていたと思ったのがいつの間にか左側にいるし、攻撃の時、抜いた!と思ったら目の前に居たりして「うっそー!」と思う。
 
それでどうしても玲央美に勝てなかったものの、玲央美と相性の良い亜津子は昭子を押さえるのに回っているので自分が何とかしなければと頑張り、結局、研究の成果もあって玲央美の得点を恐らく2割は落とした。
 

試合終了間際に昭子がスリーを入れたものの、それでも48-46で、エレクトロウィッカが辛勝した。
 
なお5日の試合結果は下記である。
 
神奈川J(関東)×−○ビューティーM(W4)
フラミンゴーズ(W6)×−○Bレインディア(W2)
ローキューツ(社2)×−○レッドインパルス(W5)
Jゴールド(社1)×−○Eウィッカ(W3)
 

貴司は3日夜まで千里と一緒に過ごした後、4日朝の新幹線(東京6:00-8:25新大阪)で大阪に戻り会社に出るが、5-6日の木金は有休を取った。つまり1月9日成人の日まで5日間休むことになる(★はオールジャパンの試合がある日)。
 
___ 日中 夜間
1(祝)★移動 apart(桃香は移動中)
2(振)★観戦 apart(桃香は外泊)
3(火)★観戦 apart(桃香は外泊)
4(水)_勤務 大阪
5(木)★観戦 apart(桃香は夜勤)
6(金)デート ホテル
7(土)★観戦 apart(桃香は外泊)
8(日)★観戦
9(祝)
 
5日は朝の新幹線で東京に出てきて試合を観戦。試合終了後は、またスカートを穿かされて千葉市内の焼き鳥屋さんでの残念会に出た後、この夜は桃香が夜勤で不在なのでアパートに一緒に泊まっている。
 

1月6日の朝、一緒の布団の中で起きた時、貴司は千里に言った。
 
「あらためて話があるんだけど」
「何だろう?」
 
「僕と結婚して欲しい。そして大学を卒業したら、大阪に来て一緒に暮らしてほしい」
 
「いいよ」
と千里は即答した。そしてふたりはキスした。
 

それでこの日の午前中、ふたりは銀座のティファニーを訪れた。
 
「いらっしゃいませ」
と40歳くらいの女性スタッフが出てきていう。
 
「婚約指輪を見たいんだけど」
「はい。ご予約とかはありましたでしょうか?」
「あ、ごめん。予約してなかった」
と貴司が言うので
「今朝結婚することを決めたんです」
と千里が言うと
 
「おめでとうございます。ご予算はおいくらくらいですか?」
と女性は笑顔で言った。
 
「そうだなあ。200万くらいで」
「分かりました。ダイヤモンドですか?誕生石か何かですか?」
「ダイヤで」
「分かりました。どうぞ、こちらへ」
といわれて2人は店内の商談スペースに案内された。
 

最初にお茶とお菓子が出てくる。
 
「なんか待遇がいいね」
「買う気で来てなかったら、ビビるね」
 
「でも200万と貴司が言った時、一瞬相手がギョッとした気がした」
「まあ、もう少し低い価格帯で選ぶ人が多いかもね」
「でも200万も大丈夫なの?」
「給料の3ヶ月分と言うしね」
「ふーん。今貴司は給料66万円くらいもらってるんだ?」
「もう少しある。だから、200万前後と提示しておいて最終的には250万くらいまではいいかな、と」
「ほほお」
 
さっき案内してくれた女性がカタログとリングゲージを持って入ってくる。彼女は野沢という名刺を出した。
 
「リングのデザインのお好みはございますか」
と言いながら野沢さんはカタログを広げる。
 
「ソリテアがいいです」
と千里が言う。
 
ソリテア(ソリテールとも Solitaire)というのは石を1個だけセットするデザインである。婚約指輪にはソリテアのほかにメインの石の左右に小粒の石をセットするスリーストーン、指輪全体に小粒の石(しばしばメレmeleeと呼ばれるがmelee自体はmixという意味)を並べるエタニティなどがある。ただしエタニティという場合、メインの石があってリングに小粒の石が並ぶタイプを言うショップと、メインの石が無く小粒の石のみ並ぶタイプを言うショップもあり、後者ではメインの石もある物はパヴェ(pavee:敷石)と呼ぶ。
 
なおエタニティには指輪全体を小粒のダイヤが覆うタイプ(フルエタニティ)と上半分だけ覆うタイプ(ハーフエタニティ)がある。フルエタニティは豪華ではあるが、太ってサイズを直したいと思った時に直せないという問題がある。もっとも直しが困難なのは、メッセージを入れた指輪などもそうである。
 

「石が1個のものですね」
「そうです」
「分かりました。カタログではこの付近ですね」
 
と言ってサンプルのデザインを見せてくれる。
 
「これはあくまでサンプルですので、デザイン自体のオーダーメイドも承っております。よかったらデザイナーを呼びましょうか?」
 
「いえ、こういう感じのシンプルなデザインの方がいいです」
と言って、千里は単純な形のものを指さす。
 

だいたいデザインが固まった所で、それなら在庫のあるものでも行けるかもということになり、実物を持って来てくれることになる。それで指のサイズを計ってもらう。
 
「スポーツか何かなさってますか?」
と野沢さんが尋ねる。
 
「ええ。趣味でバスケットを」
などと千里が言うが
「いや、この子はバスケットの日本代表です」
と貴司が言う。
 
「それは凄いですね!」
と野沢さんは驚いていた。
 
「指が太いでしょう?」
と千里は言うが
「いえ、引き締まった指だなと思いました」
と野沢さんは言っている。
 
「でもサイズあります?」
「大丈夫ですよ。でもお客様の指は脂肪が少ないので、少し大きめがよさそうですね」
 
「ええ。スポーツで鍛えているから筋肉質なんですよ」
「先日拝見しましたヴァイオリニストさんの指が似た感じでした」
「ヴァイオリニストは指の筋肉が凄いですからね。私もヴァイオリンとかピアノとか弾くんですよ」
「いい趣味をお持ちですね!」
 
リングゲージで計ると千里は22号(62.8mm)で合いそうだったのだが、余裕を見て24号(64.9mm)にした方がいいかも知れないと野沢さんは言った。
 
通常の女性のリングサイズは8-10号(48.2-50.3mm)らしい。大きなサイズはだいたい肥満体質の女性を想定しているが、千里の場合は身体が引き締まっているので、脂肪の多い人に比べて指側の「余裕」が無いのである。
 
「落ちそうな気がする時は指輪止めを使えばいいですよね?」
「はい、比較的大きなサイズの指輪を購入なさる方にはリングストッパーのご愛用者さんはけっこうおられるます。サイズの大きな方の中には日々の変動も大きいという方も多いので」
 
「なるほどですね」
 

リングについては、最初プラチナを勧められたものの、自分たちがこれまで愛の証として金色の酸化発色ステンレスのリングを携帯に取り付けて持っていたことを説明し、ゴールドリングがいいと言った。
 
「なるほど、これはステンレスですか。ステンレスにしては美しいです」
と言って、野沢さんはふたりの携帯に取り付けられているリングを見て褒めていた。
 
金の純度としては18金にすることを決める。やはり24金(純金)は柔らかすぎて変形しやすいのが問題である。
 
色合いとしては現在使っているステンレスリングの色に近い、イエローゴールドを希望した。イエローゴールドは肌に優しく変色しにくいのがメリットである。(最近人気のピンクゴールドは変色しやすく、また硬くてサイズ直しが困難な問題がある。またホワイトゴールドは表面の白色メッキが剥げやすい)
 

指輪の内側には刻印をしてもらうことにする。
 
「これと同様のバスケットボールの模様が刻印できませんか?と言い、千里は2年前に受け取ったアクアマリンの指輪の内側に刻印されているバスケットボールの模様を見せる。
 
「できますよ。よかったらこれを写真に撮らせて頂けませんか?」
「はい、どうぞ」
 
それで野沢さんは男性スタッフを連れてきて撮影させていた。
 
「デザインができた所で一度見てチェックして頂けますか?」
「はい。お願いします」
 
「言葉も刻印なさいますか?」
「はい。格好いいのを調べてメモしてきました」
 
と言って貴司が出した紙には
 
《a takashi ad chisato, semper amens》
 
と書かれている。aはラテン語のfrom, adはtoである。from takashi to chisatoということになる。a/adは分かったのだが、その先は千里には読めなかった。野沢さんがそれをメモしていたが、千里の後ろの子が注意した。それで千里は吹き出した。
 
「どうかした?」
「それってさ“いつも馬鹿です”って意味だけど」
「え〜〜!?」
 
「多分、semper amemusじゃないかな」
と言って千里は貴司の出した紙の下の方に(恐らく)正しいと思われるスペルを書いた。
 
amor(愛する)という動詞の接続法現在・一人称複数で amemus になる。接続法はこの場合、意志を表す。つまり英語で言うと let's love という感じである。amensというのは形容詞で mad とか stupid という意味である。
 
「少しお待ち下さい。外国語に詳しい者を連れて参ります」
と言って野沢さんは、アメリカ人っぽいスタッフを連れてきた。
 
「上に書いてあるのは always stupid という意味。下のはalways we will loveという意味」
と彼は説明した。
 
「千里が正解だ」
「気付いて良かったですね」
 
「よく、意味も分からず変な日本語の入れ墨入れてるアメリカ人いますけど、日本語分かる私たちからみると、笑うというより、気の毒に思ってしまう例もありますね」
とアメリカ人スタッフは言っていた。
 
「いや、stupidと刻印していたら、まさに気の毒に思われていた」
 
それで指輪の内側にはバスケットボールの模様と2人の名前、そして「いつも愛し合って行こう」という意味のラテン語 semper amemus を入れてもらうことにした。
 

メインとなる石を選ぶことになる。
 
石の形は普通の正円(ラウンド)のブリリアントカットを希望する。婚約指輪では正円が多いが、ハート型のブリリアントカットというのも割と人気がある。他に楕円(オーバル)、梨型(ペア)、水雷型(マーキーズ Marquise)などもある。
 
200万円くらいの予算で、18金イエローゴールドのリング、刻印入りというのを前提とすると石は1.0-1.2カラットくらいになりますねと言われ、1.1ctの石を見せてもらうことにする。
 
「このあたりは如何でしょう?」
と言って持って来てもらったのは、1.1ct VVS 3EX H&C Eカラーと説明された。
 
ダイヤの石の“クラリティ”は上の方から FL/IF/VVS/VS/SI/I となっている。基本的に婚約指輪のような指輪にはSI以上、できたらVS以上の品質のものを使用する。FLはいわゆるフローレス。最高品質である。3EXというのはカットのグレード、研磨状態、対称性の3つの評価が全てExcellentであるという意味で、最高級の加工がされていることを示す。H&Cというのはその石をジェムスコープで見た時下(パビリオン)側から見ると8つのハート、上(テーブル)側から見ると8つの矢が見えることを表す。Hearts and Cupidsである。
 
「僕にはよく分からないから千里が見てよ」
と貴司が言う。
 
本来は指輪自体は女が決め、石は男が決めるとされるのだが、貴司は早々にこちらに投げてきた。まあいいよね?私が決めても。
 
千里は貴司がもう少し予算を上げてもいいように言っていたなと思い
 
「これEカラーですよね。同じくらいのサイズでDカラーのあるかしら?」
と言ってみた。
 
「少しお待ちください」
 
ダイヤの色のランキングはDが最高品質でEはそれに次ぐ。実際D-Fは普通の人の目では見分けが付かない。一応色のランク自体はZまであるらしいが、普通はMくらいまでのを指輪に使用する。Iくらいまではほぼ無色に見える。
 
それで持って来てくれた石は 1.2ct IF 3EX H&C Dカラーである。さっきのより少し大きい。
 
「きれいですね。それにこの石、暖かい感じ」
 
実はさっき見せてもらった石は色の問題もあるが、やや「寂しさ」の波動を感じたのである。
 
「お値段は少し張りますが、大丈夫ですか?」
「たぶん大丈夫」
 
貴司としては足りない場合は、受け取るまでに多分1〜2ヶ月かかるだろうから1月の給料で補えばいいと考えていた。
 

それでこの石の指輪を買うことにする。
 
「お会計ですが、257万4720円になりますが、お支払いはどうなさいますか?」
 
あ、しまった。250万ちょっと越えちゃった、と千里は思った。
 
貴司は
「カードで」
と言ってS銀行のプライムゴールドVISAカードを出す。
 
貴司は最初普通のVISAカードを作っていたのだが、海外出張が多く、高額の決済が必要になることがあり、限度額オーバーで困っていた。それで昨年、プライムゴールド(30歳未満の人のためのゴールドカード)に切り替えたのである。
 
「お預かりします」
と言って、野沢さんはカードを部屋に備え付けのカード端末に通したのだが・・・・
 
「大変恐れ入ります。承認が下りないのですが」
と言われる。
 
「あれ?何でだろう?」
と貴司。
 
千里の後ろで《たいちゃん》が指摘する。
 
「貴司、そのカードはゴールドだから200万円までしか使えないのでは?」
と千里は言った。
 
「え?これにも限度があるの?」
「ゴールドは概ね200万円までだよ。プラチナだと300万円以上の限度額が設定可能だけど」
と千里は《たいちゃん》の受け売りで言った。
 
「知らなかった!」
 
私も知らなかった!
 
「今残高があるのなら、振り込めばいいと思う。振り込みでもいいですよね?」
と千里は野沢さんに確認する。
 
「はい。口座番号をお伝えしましょうか?」
 
「それが色々資金移動しないと・・・」
と貴司は言っている。ひょっとしたら少し足りなかった?と千里は感じた。ごめーん!
 
野沢さんの顔が曇っている。それで千里は言った。
 
「だったら、私のカードで一時的に払っておく?支払日までに現金でもらえばいいよ。長い付き合いだしさ」
と千里は言った。
 
「じゃ、そうしようかな。って千里のカードは?」
 
「このカードで」
と言って千里が出したカードを見て、一瞬野沢さんがピクッとした。
 
そしてこの後、お店側の対応がいやに丁寧になった!
 

「お預かりします」
と言って、カードを端末に通す。
 
「暗証番号をお願いします」
「はいはい」
 
それで千里が暗証番号を0625と押して実行キーを押す。伝票が出てくるので、お客様控えをもらう。
 
「明細書を持って参りますので少々お待ち下さい」
と言って、野沢さんが席を立ったが、彼女が戻ってくる前に、若い女の子が入って来て、紅茶とお菓子を出す。
 
なんか最初に出てきた紅茶より美味しい!?
 
お菓子も何だか豪華である。これはきっと最上級のお客様向けの限定品なのではという気もした。
 
やがて野沢さんが戻って来て、ジュエリーの明細書を渡される。
 
納期は1ヶ月半程度で、できあがったらすぐ連絡するということであった。
 
「だったら千里の誕生日に実物を填めることができたらいいかな」
「それで記念写真とか撮ってもいいね」
「お誕生日はいつですか?」
「3月3日なんですよ」
「それなら間に合うでしょうね」
 
と言いながら野沢さんは用紙の端に筆記体でDrei Maerzと走り書きした。ドイツ語で《3月3日》という意味である。絶対にそれに間に合わせろという指示を出すんだろうなと千里は思った。英語で書くとそれがこちらに分かるからドイツ語で書いたのだろう。どうも千里が見せたカードが効果を発揮している感じであった。
 
少しおしゃべりしている内に、店長さん、お店のデザイナーさんまで挨拶に来て名刺を出してくれる。
 
店長さんと結局30分くらい話してた!
 

千里がバスケットボールの日本代表で昨年のアジア選手権にも出たし、アンダーエイジの時は世界選手権にも出ていると聞くと
 
「さすがですね! しっかりした体格をなさってますし」
などと店長さんは言う。
 
「私はガードだから、そんなに体格は無いんですよ。うちのチームのセンターをしている子は187cmくらい背丈がありますし」
と千里が言うと
 
「えっと、女性ですよね?」
と店長さんは確認していた。
 
「ええ、もちろん。女子バスケットですから」
「そうですよね!女子バスケットに男子が出たらたいへんですね!」
 
お店のCMとかにも出てもらえませんかね?などとも言われたが、その手の話はバスケ協会の方にと言って逃げておいた。
 

結局、豪華なお昼御飯まで出てきて、13時すぎにやっと解放された!
 
結婚指輪も作らないかと言われたが、それは6月頃に作る予定と言っておいた。その時はぜひ当店でと言われたが、断る理由もないし、婚約指輪と同じお店で作るのもよい気がしたので
 
「ではその方向で考えておきます」
と言っておいた。
 

ローキューツは昨日で敗戦したので6日の練習は休みになっていたのだが、千里は貴司を誘ってAUDIに乗って千城台の体育館に行き、一緒に練習をした。
 
「やはりこれがいちばん楽しい気がする」
「ディズニーランドとか行ってもいいけど、こちらの方が充実感があるよね」
 
2時間くらい練習した後で、マクドナルドで小腹を満たしてから、この日は朝の内に予約していた、ホテルオークラに行き、デラックス・ダブルの部屋に泊まった。記帳は千里が「細川貴司・細川千里」と書いた。それを見て貴司はドキドキしていた。
 
支払いは貴司のカードで払う。
千里はその貴司のカードの署名まで代筆した!
 
「お客様が貴司さまですか?」
「そうですよ。こちらが千里、私の妻です」
と千里が貴司の方に手をやって言うが、フロントマンは平然として
「そうでしたか。失礼しました」
と言っていた。
 

練習で掻いた汗をシャワーで流した後、千里は
 
「指輪ありがとうね」
と言って、フェラチオをしてあげた。物凄く気持ち良さそうにしていた。
 
その後で夕食に行く。中華レストランに入って、バイキング!を頼む。
 
コース料理を頼むよりも、かえって色々なものが好きなだけ食べられて良い。特にふたりとも午後バスケをやって、その後マクドナルドで少し食べたものの、愛の営みまでして、かなりお腹が空いている。2人で多分通常の6〜7人分くらい食べた。
 
「さすがにお腹がいっぱいになった」
「今夜は私のヌードは見ないでね」
「了解〜。灯りを消していればいいんだよね?」
 

翌1月7日は朝食を食べた後11時くらいまで部屋でのんびり(いちゃいちゃ)して過ごし、代々木体育館に向かって13:00からの女子準決勝を見る(オールジャパンのチケットは「女子準決勝」「男子準決勝」「女子決勝」などのような単位で発行されている)。
 
ローキューツでまとめて(友人・家族などのために多少の余裕を見て)チケットを買っているので麻依子や河合さんたちとも一緒である。この日の試合結果はこのようであった。
 
ビューティーM(W4)×51−68○Rインパルス(W5)
Bレインディア(W2)×67−82○Eウィッカ(W3)
 
ローキューツを倒したレッドインパルス、ジョイフルゴールドを倒したエレクトロウィッカが勝って決勝進出している。どちらも一昨日の抑えに抑えた試合の鬱憤を晴らすかのように10点以上の差を付けて相手を圧倒した。
 

この日は試合に出た訳では無いので、みんなで一緒にモスバーガーでお茶を飲んだだけで解散した。
 
「麻依子はもう河合さんと一緒に暮らしてるんだっけ?」
「当然」
「だったら住所教えてよ」
「変わってないよ。大彦がうちに来たんだよ」
「なるほどー」
「婿入り婚かな?」
と国香が言うが
 
「大彦がお嫁さんで実は嫁入りだったりして」
と麻依子。
「あ、僕調理係。こないだは裸エプロンやらされた」
と大彦。
「今夜もやろう」
「いいけど」
と2人が大胆な告白(のろけ?)をしているので
 
「まあ仲良ければよいね」
と声が出る。
 
「千里たちはまだ一緒に暮らしてないの?」
「まあ大学卒業してからかな」
「ほほお」
「でも今夜までは一緒なんでしょ?」
「4日は会社があったから、僕が大阪で泊まりましたけど、それ以外はずっと一緒ですよ」
 
「みんな彼氏がいていいなあ」
「私、彼女の方がいい。料理作ってもらって掃除してもらって」
「おお、そちらもいいなあ」
 

千里たちは7日夜も桃香のアパートで過ごした。この日も桃香は彼女の家に外泊である。実は桃香はお正月になってから、日中に何度かこのアパートに寄っただけで、夜勤しているか彼女の家に行っているかである。
 
この日は夕方、朱音が来て、貴司がいるのを見て
「ごめん。他を当たる」
と言ったが
「平気平気。泊まっていって」
と言って中に入れる。
 
「邪魔じゃない?」
「音を立てずにやるから大丈夫だよ」
「まあいっか」
 
それで3人で一緒に晩御飯を食べた。この日は貴司のリクエストでカレーを作っていたので、それほど大食家ではない朱音が加わるのは全く問題無い。
 
「いや千里の作るカレーは美味しい。貴司さんがいなかったら私がお嫁さんにしたいくらいだ」
「実はさっきバスケのチームでお茶飲んだときもお嫁さん欲しいと言ってた子がけっこういた」
「だよね〜。あ、そうそう。BEST8おめでとう」
「ありがとう。もうひとつ上まで行きたかったんだけどねぇ」
「やはりトッププロは強いよね」
「うん。思い知ったよ」
 
「でもその内優秀な家事ロボットができたら、そういう需要が無くなるかも」
「それは恐い」
「家事ロボットと掃除ロボットとセックスロボットができたら、女は要らんという男性がかなり増える可能性はあるよね」
「セクサロイドかぁ」
「貴司さん、どうですか?セクサロイドがいたら?」
「やはり僕はロボットと恋愛はできない気がするなあ」
「まあ肉体的な快楽と精神的な充足は別かもね」
 

「でも実は昨夜は私ひとりでここに泊まったんだよ」
と朱音は言っている。
 
「桃香は随分**ちゃんに熱をあげているみたい」
「あの子とは以前にも一時期付き合っていたことあったね」
「へー。それが復活したんだ」
「あの世界って世間が狭いから、お互いに相手を求めて仲が復活することはあるみたいだよ」
 
その晩は6畳に千里と貴司が寝て、4畳半に朱音が寝たのだが、朱音の安眠を妨害しないように、声出し禁止・震動禁止というのでしたら、これも(千里は)なかなか楽しかった。振動禁止だと男性側が生殺しになるので、貴司は辛かったようであるが。
 

翌1月8日(日)。
 
朱音とは朝御飯を一緒に食べたところで別れる。今日は代々木第1で14:00から女子の決勝戦がある。千里はローキューツのユニフォームを着てウィンド・ブレイカーも着た上に、防寒用のコートを着て貴司と一緒に電車で代々木まで行った。
 
試合は結構な接戦であったが、若手主体で戦ったレッドインパルスがベテラン中心に戦ったエレクトロウィッカを倒して優勝した。
 
決勝終了後、表彰式・閉会式になる。千里は事務局の人が呼びに来たのでコートを脱ぎ、ウィンドブレーカー姿で下に降りていき、来賓席に座った。隣の椅子が空いていたが、表彰式がもう始まろうとしていた時に、高梁王子がE女子校の顧問の先生に連れられてやってきた。
 
「何とか間に合ったね」
と千里は声を掛ける。
 
「遅くなって申し訳無い」
と顧問の先生。
 
「すみませーん。眠ってしまっていたので」
と王子は言っている。
 
優勝のレッドインパルス、準優勝のエレクトロウィッカ、3位のビューティーマジックとブリッツレインディアが表彰されて、賞金・賞品のカタログなどをもらう。その後、個人成績が発表された。
 
得点女王は岡山E女子高の高梁王子、リバウンド女王はエレクトロウィッカの馬田恵子、アシスト女王はレッドインパルスの広川妙子、そしてスリーポイント女王は村山千里と発表される。
 
全員アジア選手権の日本代表である。
 
各々賞状をもらった。
 
MVPには優勝したレッドインパルスからアシスト女王も取った広川妙子が選ばれた。これは誰も文句ないであろう。
 
広川さんが出て賞状と楯をもらう。
 
そしてベストファイブはレッドインパルスの広川妙子・黒江咲子、エレクトロウィッカの武藤博美・馬田恵子、の“4人”と発表された。
 
“ベスト5”なのに“4人”という発表に会場がざわめく。大会長が説明した。
 
「本来でしたら5人選出しなければならないのですが、5人目をめぐって選考委員の間の意見がどうしてもまとまらず、今回は4人とさせて頂きました」
 

「まあ5人目というか多分1人目をきみちゃんにしようとしたのに対して、3回戦で負けたチームからというのはおかしいという意見が出てまとまらなかったんだろうね」
と千里は小声で王子(きみこ)に言う。
 
「え?そうですか。私は花園さんを選ぼうとしたけど、個人成績で千里さんの方が上なのにおかしいという意見が出たのかと思いました」
と王子は言う。
 
他に森下誠美、佐藤玲央美、母賀ローザなどを推す意見もあったのではと千里は思った。
 
おそらく多数決を取ると一部の委員が辞任しかねない状況だったため、決はとらずに5人目空席ということにしたのではと想像した。
 
今回は個人的に活躍した人が準々決勝までで消えてしまっているし、女王のサンドベージュも3回戦で消えてしまったし、かなり選びにくかったのであろう。
 

オールジャパンが終わった後、ローキューツのメンバーは応援してくれたチアの人たち、河合さんと貴司も入れて、2012年オールジャパン総括打ち上げを都内の洋食屋さんでした。
 
「まあそういう訳で私は就職するので3月いっぱいで退団しますので、後任のキャプテンを決めてほしいのですが」
と浩子が言う。
 
「副キャプテンのまいちゃんの昇格で」
という声が出るが
「私は結婚するので、というか既に結婚したんですが、夏くらいに結婚式もあげるし赤ちゃんも作りたいので、やはり3月いっぱいで退団しますので」
と麻依子は言う。
 
「待って。3月いっぱいで退団するのは誰々?」
と国香が訊く。
 
「就職に伴って退団するのが、私と夏美。仕事が忙しくなりそうなので退団するのが夢香、結婚に伴って退団するのが麻依子と千里」
と浩子が言う。
 
「千里も辞めちゃうの!?」
「ごめーん。来期は前半は日本代表で忙しいし、後半は卒業準備と結婚準備で忙しくて、まともにこちらに顔出せないと思う」
 
「随分ガバッと居なくなるなあ」
「その5人は全日本クラブ選手権までは出られる?」
「出る。よろしく」
 
「頑張って新人スカウトしないといけないなあ」
 

「千里が辞めた場合、スポンサーの方は?」
と玉緒が訊いた。
 
「フェニックストラインは引き続きローキューツを支援するよ。だから遠征費用とか大会参加費とか体育館の使用料とかのことは心配しないで」
「それは助かる」
と玉緒。彼女は最近このチームのマネージャーという感じになっている。
 
「体育館の事務室へのカップ麺とかアイスクリームの差し入れは?」
と聡美。
 
「それも続けるから心配しないで。欲しいものがあったらリストにして学校で聡美が渡してくれてもいいし」
「じゃリスト作っていくね」
 
「メールじゃないんだ?」
という声も出るが
「千里はメールを行方不明にする天才」
などという声が出る。
 
「千里は理系なのにコンピュータに極端に弱い」
「理系なのに機械にも弱い」
「計算もできない」
「千里の暗算は80%くらいの確率で間違っている」
「それなのに数学科というのが理解できん」
 
「千里、教員の課程は取ってるの?」
「無理〜。日本代表の活動で授業自体欠席が多いのに」
「ああ、教育実習とか日程的に無理だろうね」
 

「じゃキャプテンは誰に?」
「薫でいいんじゃない?」
と国香が言った。
 
「おお。何か頼りがいがありそうだし」
「いつも偉そうにしているから薫でいいね」
「ちょっと待って〜!それに私、元男だし」
「性別については女かどうか疑わしいメンツは多いから気にしない気にしない」
「ちんちんは付いてないんでしょ?」
「さすがに付いてない」
 
「では薫でいいと思う人、拍手」
と国香が言うと、拍手がたくさんある。
 
そういうことで、次期キャプテンは薫が務めることになった。
 
国香の実情としては、このままでは自分がキャプテンをやらされそうだったので、先手を打って薫を推薦したというところであった。
 

打ち上げが終わった後、みんなと別れて貴司と一緒にAUDI A4 Avantに乗る。そして東名に乗って大阪方面に走った。
 
決勝戦があったのが14:00-15:30で、16:30頃に表彰式も終了した。その後18:00くらいまで打ち上げと来期に向けての話し合いなどもした。
 
それで大阪に向けて出発したのが18:30頃である。夕方なのでどうしても道は混むが、焦らず急がずのんびりと走っていく。
 
途中のSAで休憩したり軽食を取ったりしながら走って、結局翌1月9日(祝)の朝7時頃に豊中市のマンションに到着した。
 
疲れを癒して昼過ぎくらいまで寝ている。午後から起き出して、まずは駐車場に駐めっぱなしにしていたZZR-1400のシールを交換した。
 
雨宮先生が貼り付けていた翠星石・蒼星石のシールを剥がして、代わりに貼ったのは、右側がレイアップシュートをしている人物の影絵、左側はジャンプシュートをしている人物の影絵である。右側は男性のように見え、左側は髪の長い女性のように見える。むろん貴司と千里をイメージして造形したものである。これに小さな狐のシールも左右に貼った。右側の貴司がレイアップシュートしているシールの下には女の子狐、左側の千里がジャンプシュートしているシールの下には男の子狐である。
 
「この男の子狐は京平だよね」
「もちろん」
「女の子狐は?」
「カンナ」
「誰?」
「私と貴司の2番目の子供の名前」
「2人目もできるのか・・・。やはり伏見の子なの?」
「さぁ」
と千里は言った。実はさっき「カンナ」と言った自分に驚いたのである。
 
「絵を描いた時は、デザイン上、男の子狐と女の子狐を対にしてみただけなんだけど、ひょっとしたら私たちの子供って2人できるのかもね」
 
「さっきの言葉は『降りてきた言葉』か」
「そうみたい」
 

千里は9日夜に一晩掛けて東名を走って帰ると言ったのだが、夜間走行は危ないから、昼間走りなよと貴司は言った。
 
それでその晩は貴司のマンションに一緒に泊まり、翌10日朝、朝御飯を一緒に食べ、お弁当も作ってあげて(凄く喜んでいた)、
 
「あなたいってらっしゃーい」
と言って送り出した。
 
その後で、千里はZZR-1400に乗って、名神・東名を東京方面に向かった。
 

横浜町田ICで降りて横須賀方面に行く。
 
横須賀市内の雨宮先生から言われていたスナックの前に到着したのはもう夕方16時半である。
 
スナックの中に入って、カウンターに座ると
 
「さがみビールを開けずに」
と注文した。
 
するとカウンター内に居たマスターは驚きもせずに
「OKOK」
と言って、冷えたさがみビールの瓶を置いてくれた。
 
やがて大きなバイクの音がして店の前に停まる。大柄な男性が入ってくる。店内で何か探しているようだが、千里の前にあるさがみビールに気付く。
 
「まさかあんたが、ZZR-1400の主?」
「はい、そうです。お初にお目に掛かります」
 
と言って、千里は名刺を交換した。
 
「女だったのか。でもあんたの書いた曲聞いたけど、けっこう気に入った」
「ありがとうございます」
「でもあれワルキューレじゃなくてゴールドウィングで書いたでしょ?」
「凄いですね。分かっちゃうんですね」
「あの曲を聴いてたらゴールドウィングのイメージが湧いた」
「それは凄いです。霊感が強いんですね」
「いや、ちゃんとバイクのイメージを織り込んで曲を書ける作曲家が凄いと思ったよ」
 

「それで明日の朝出発して網走(あばしり)に向かいます」
 
「あんた、バイクでどのくらい走ってる?」
「まだあのバイクでは6000kmくらいですね。その前にST250で3000kmくらい」
 
実際はST250で1000km, ZZR-1400で2000kmくらいだが、3倍に水増しして言っておいた。
 
「そのくらいで大丈夫かなあ」
「四輪なら年間5万km乗っているんですけどね」
「5万?あんた運送業か何か?」
「いえ。ただの貧乏学生です。まあ他にバスケットを趣味でやってます」
 
「そういえばあんた腕が太いなと思った。あ、ごめん。女の子なのに」
「いえ。私はシューターだから、腕は鍛えてますよ。腕相撲しましょうか?」
「よし」
 
それで腕相撲するが千里の圧勝である。
 
「すげー!あんたならできるかも。でも冬の北海道は厳しいよ」
「私、道産娘ですから。高校時代は雪の上を自転車で走って通学してましたよ」
「凄っ!地元かぁ。北海道のどこ?」
「留萌(るもい)ってとこなんですけどね」
「ニシンの町だ!」
「もう今はニシンが来なくなって久しくて、最近はホタテの稚貝の養殖とかやってますけどね。うちの父は漁師でスケソウダラを獲っていたんですよ。魚の居る場所が北に移動して、ロシア領内になってしまったので、私が高校に入る年に廃船になってしまいましたが」
 
「ああ、魚が移動してしまうのはどうしようもないだろうなあ」
 
彼とはしばし漁業論議をした。それで結構気に入られた感じである。
 
「ところでそのさがみビールは開けないの?」
「飲みたいのはやまやまですが、飲むとバイクを宿まで持って行けなくなるので」
「だったら俺もらってもいい?」
「いいですけど、そちらは帰りは?」
「店の前に置きっぱなしにして明日取りに来る」
「なるほどー!」
 
「お姉ちゃんのバイクもここに置いていてもいいよ」
とマスターが言う。
 
「じゃ私も飲んじゃおうかな?」
 
それでふたりで、さがみビールで乾杯し、更にツーリングなどの論議をした。
 
「先日、このZZR-1400で国道459号を走ってきたんですよ」
「楽しいでしょ?」
「まあまあ楽しかったですね。冬なのでレークラインとかを通れなかったのが残念でした」
「レークラインは美しいよ」
「走ったことのある参加者から聞きました」
 
「ツーリングの楽しみはそのあたりの交款もあるよなあ。あんた今回の網走までの行程で泊まりはどうするの?」
「テント持っていってもいいのですが、凍死しそうなので屋根のある所に泊まります」
「ああ、それがいいと思うよ。特に女の子は」
「そういう時は女は面倒ですね。性転換してもいいけど」
「男もいろいろ面倒なことも多いよ」
 

結局彼とは23時頃まで飲みながらおしゃべりしてから別れた。お勘定は千里が払ったが、むろん後で雨宮先生に請求する(実際には新島さんに領収書を出しておけば適当に処理してもらえる)。
 
そして千里はその夜は市内のホテルに泊まり、翌11日朝6時にスナックの前まで行って、バイクを始動させた。
 
1000マイル(1600km)の旅の始まりである。
 

本来なら国道6号をずっと北上していきたいのだが、あいにく現在国道6号は原発事故のため、新夜ノ森の富岡消防署北交差点から浪江町と双葉の町境付近までの区間が通行禁止になっている。そこで仙台まではこういうルートを取ることにした。
 
横須賀(国道16/国道15/国道6)広野町
 
広野IC(常磐道・磐越道・東北道・仙台南/東道・三陸道)石巻河南IC
 
現時点で立入禁止区域の南端に近い広野町まで国道6号を走り、そこから常磐道を南行して戻り、磐越道経由で東北道に行き北上して、仙台南道路で海岸沿いに再度行く。そして仙台東部道路・三陸道を通って石巻まで行く。
 
そして胡桃のアパートに泊めてもらう!!
 

実際に千里が横須賀のスナック前に駐めていたZZR-1400に乗って出発したのは予定より少し早い朝5時である。まだ空は暗い。この日の天文薄明は5:20である。
 
国道16号を北上して横浜市内に至り、そこから国道15号で都心に向かう。都心は日中は酷く渋滞するのだが、早朝なので全く渋滞に掛からないまま都心を通り抜けることができた。7時くらいには松戸市付近に到達する。このくらいの時間帯から少しずつ混み始めるが、まだ深刻にならない内に有名渋滞ポイントである柏市の呼塚交差点も抜けることができた。
 
沿道のコンビニでトイレ休憩をしてから先に進む。またガソリンは少しでも安いと思ったGSがあったら給油しておく。
 
それでだいたい2時間おきくらいに休憩する感じで、12時すぎに広野町に到達した。目に留まった食堂に入り早めの昼食を取る。
 
トイレも借りてから13時前に出発する。
 
広野ICから常磐道上りに乗り、いわきJCTから磐越道に乗り、郡山JCTから東北道下りに乗る。高速はやはりすいすいと走れる。そして国見SAで休憩・給油し、仙台南ICから仙台南道路に行き、仙台若林JCTで仙台東部道路に、そして仙台港北ICで三陸道に入って、石巻河南ICで降りる。
 
胡桃のアパートに辿り着いたのは18時前である。何とか完全に暗くなる前に辿り着くことができた。この日の石巻市の天文薄明終了は18;07である。(日没16:33 日暮17:10)
 
アパートのドアの外で様子を窺っても不在のようである。
 
メールしてみる。5分ほどで返信がある。
 
《郵便受けの中に鍵があるから、開けて中に入っていて。郵便受けの鍵のダイヤルは375》
 
それで指示通り、郵便受けを開けて鍵を取りだし、勝手にドアを開けて中に入ると、布団が2つ敷いてある。それで布団乾燥機が掛けてあった方が客用だろう判断し、もうひとつの布団に布団乾燥機を掛けてから、自分は今掛けてあった方の布団を借りて仮眠させてもらった。
 

ドアの開く音で目を覚ます。もう0時過ぎである。千里もかなり熟睡していたようだが、胡桃も遅くまで作業しているようだ。
 
「お帰り〜。お疲れ様。勝手に仮眠させてもらってた」
「そのまま寝てていいよ。それともお弁当食べる?」
「食べる」
 
それで半額で買ったというお弁当を1つずつ食べる。
 
「毎日買ってるから、最近は時間が切れてもすぐには廃棄せずに最低1個リザーブしていてくれることが多い。でも今日は偶然2個残ってたから2個買ってきた」
 
「わぁ。私も半額シール大好き。でも毎日こんなに遅くなるんだ?」
「開店までにしなければいけないことが山ほどある。本当に間に合うか自信が無いけど、やはり3月11日オープンという線は動かしたくないから」
「でもよく開店までこぎつけたよね」
 
「まあ乗り越えないといけないものはたくさんあったよ」
と言ってから胡桃は何か考えているふう。
 

「どうかした?」
「いや。和実だけどさ。あいつ、既に性転換手術が終わっているということはないんだろうか?と思ったりすることがあるんだけど、どう思う?」
 
「あの子も完璧だよね〜。全然男の子には見えないもん」
「高校時代は、男の子と女の子が混じっていた。男の子の日もあれば女の子の日もあった。でも去年の3月に被災して11月くらいまで同じアパートで暮らしていて、男の子の日が無いんだよね〜」
 
「淳さんと同居してるからじゃないの?奥さんの意識が強まって、女の子としての自分が常時出ているようになったとか」
 
「確かにしっかり奥さんしてた!」
 
「千里はいつ性転換手術したんだっけ?」
「今年手術するよ」
「・・・・まだ男の子なんだっけ?」
「そうだけど」
「それは絶対嘘だ」
 
と言ってから胡桃は言った。
 
「千里占いができたよね。和実が今、男の子の身体なのか女の子の身体なのか占ってよ」
 
「うーん・・・。病院に連れて行って医学的検査でも受けさせた方がいい気がするけどね〜」
と言いながら千里はバッグの中から愛用のタロットを取りだした。
 
1枚引く。
 
「皇帝。男の子」
 
「ほんとに〜。マジでちんちんとかタマタマとか付いてるの?あの子」
「金貨の8。剣の10。ちんちんは既に機能を失っているけど付いてる。タマタマではなくて卵巣がある」
 
「なんで卵巣があるの〜〜〜!?」
 
千里は黙って1枚引く。金貨の9である。
 
「マーヤ夫人(*1)が妊娠している図。去年の夏に青葉が言ってたじゃん。川口市のビストロに集まった時。あの場にいる全員に子供ができるって。きっと和実はその内、赤ちゃん産むよ」
 
(*1)マーヤ夫人はお釈迦様の母。
 
「あいつ半陰陽なのかなあ」
 
「男の子だと思うけど。でも骨盤は完璧に女の子の形だよね。あれなら妊娠維持できる気がする。ああいう形状になるには、間違い無く10歳前後から女性ホルモンを体内に入れていたと思う。高校時代にはもうバストあったんでしょ?」
 
「あいつ、いったん太ってから1ヶ月くらい絶食して肉を落としたら胸の所だけ脂肪が残ったって言ってたけど」
「それこそ嘘くさい」
「やはり?でも骨盤が女の子の形だとしても、卵子は?」
 
「卵巣があるとしたら、そこから出てくる」
「子宮もある訳?」
 
タロットを引く。剣の8である。
 
「今は無いけど、妊娠するまでにはできるんだと思う」
「そんなもの発生する訳?それとも移植?」
 
「どうなんだろうね。でも男の子が妊娠しても不思議ではないよ。私も男の子だけど、わりと妊娠する自信ある」
 
「マジ!?」
 

遅いので1時過ぎには寝る。
 
朝は4時前に起きる。胡桃が戻って来る前に6時間ほど寝ていたのでこれで睡眠は充分だ。寝ている間に《りくちゃん》が食材を調達してきてくれていたので、それで朝御飯を作る。胡桃は熟睡しているようで起きない。
 
ラップを掛けて『朝御飯作ったから良かったら食べて』というメモを置く。それで自分の分だけ食べて食器を洗い、下着を交換しトイレを済ませてからアパートを出た。
 
ZZR-1400を始動し、国道45号方面に走る。まだ暗いが平気である。
(この日の天文薄明開始は5:18 夜明けは6:15 日出は6:52)
 
走り始めて早々に震災による崖崩れで不通の箇所があるので迂回路を行く(石巻市内の不通箇所はこの年の2月3日に復旧した)。
 
気仙沼を6:30頃通過、大船渡に7時半頃到達する。朝日がまぶしい中、バイクを停めて少し海を眺め、青葉の家族のために祈った。
 

公園のトイレを借りて一休みしてから先に進む。
 
このあたりから道の難易度が増していく。千里は先日国道459号を走ったのが良い経験になったなと思った。あれに比べればまだマシという気持ちになれる。
 
10時すぎに宮古市に到達する。
 
お店が開き始めているので少し市内を回っていたらラーメン屋さんが店を開けている所だった。
 
「いいですか?」
と訊くと
「ああ、いいよ」
と言うのでバイクを駐めて中に入る。ヘルメットを取ったら
 
「女の子だったのか!」
と驚かれた。
 
「そうですね。取り敢えずここ5〜6年は女みたいです」
「5〜6歳には見えないけど。どこから走ってきたの?」
 
「横須賀ですけど、その前に大阪の友人の所から横須賀まで走っているから、けっこうな距離になるかな」
「凄いな!ツーリング?」
「そんなものですね。八戸まで行ってフェリーで苫小牧に渡って、目的地は網走です」
「よく走るなあ。でもでかいバイクだね」
「はい。ガソリンは食いますけど」
「食うだろうね!」
 

それでラーメンを作ってもらったが美味しかった。チャーシューをおまけして倍入れてくれた!
 
ここで1時間近く休んだが、お客さんがまだ来ないので、店主さんは千里の席に来て色々話す。
 
「だけど北海道は無茶苦茶寒いよ。大丈夫?」
「服は登山用の装備を持って来ています」
「バイクは?雪が降っている路面ではバイクのタイヤは無力だよ」
「実はあのバイクは北海道では走らせないんですよ」
「そうなんだ!」
 
「八戸に置いて行きます。苫小牧に友人が冬用の特製バイクを用意してくれています」
「特製バイクか!市販のバイクでは無理だろうね。この付近ででも道路に雪が積もっていたらバイクはお休みだよ」
「でしょうね。グリップが全く利かないと聞きました。自転車なら私は中高生時代、ふつうに北海道の雪の上を自転車で走ってましたけどね」
 
「あんた道産娘?」
「はい。北海道の冬を知らない人なら、普通のバイクで走ろうとして、そのまま天国まで走っていくでしょうけどね」
 
「うん。俺もそれを心配した!」
 
 
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【娘たちの1200】(1)