【女子大生たちの路線変更】(1)

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2009年の8月下旬。千里は母からの電話を受けた。
 
「お前忙しいみたいね」
「うん。なんか色々やってる感じ。お盆に帰れなくてごめんね」
 
「来月のシルバーウィークとかいうのは戻ってこれないの?」
 
この年は21日敬老の日と23日秋分の日にはさまれた22日が法律の規定により「国民の休日」となり、19日の土曜から5日連続の休みとなって春のゴールデンウィークに対してシルバーウィークと呼ばれた年である。
 
「ごめーん。バスケの試合があるから帰られない」
「あんた、まだバスケやってたんだっけ?」
「やめてたんだけどね〜。誘われちゃって、なんか凄い推薦状書いてくれた人もあって、7月から趣味のクラブに参加して練習再開したんだよ」
 
「へー。趣味なら気楽でいいかもね。試合って何日?」
「22日。本当は22-23日の日程なんだけど、女子はチーム数が少ないから22日で終わっちゃうんだよね。それに勝てば10月10日に準決勝・決勝」
 
「・・・・あんた女子チームなんだっけ?」
「私が男子チームに入るわけないじゃん」
「女子チームに入れるの?」
「私、中学も高校も女子バスケ部だったけど」
 
「いや、中学の時はなんか女子バスケ部に居たけど、高校は男子バスケ部に入らなかった?」
「ああ。最初男子バスケ部に入ったけど、性別を疑われて病院で精密検査を受けさせられたら女子と判定されたから女子バスケ部に移籍されちゃったんだよねー」
 
「病院で検査されて女子と判定されるって、あんた女なんだっけ?」
「私が男に見える?」
 
「でもだったら、あんた性転換手術しちゃったの?」
「まさか」
 
母はしばらく悩んでいるようであった。
 
「やめとこう。あんたの身体のこと考えていたら私、訳分からなくなりそう」
「実は私も訳分からないんだよねー」
 

「ところでさ」
と母は言った。何か言いにくいことを言いたそうな雰囲気である。
 
「お父ちゃんのことなんだけど」
「うん」
「来月でなんとかNHK学園高校を卒業できるみたいなのよね」
「よく頑張ったね。ちゃんと3年で卒業できるって偉いよ」
「誰でも入れるけど、なかなか卒業まで行けないのがあの学校だよね」
「うん。スクーリングでめげる人が多いけど、よく頑張ったね」
 
「あんたが毎回交通費・宿泊費出してくれたおかげだよ」
と母は言った。
 
「まあたまたま資金に余裕があったからね」
「それでね」
「うん」
「高校卒業したら、もっと勉強したくなったと言って、そのままNHK大学に行きたいと言っているんだけど」
 
千里は、ああそれよくある誤解だよなと思って訂正する。
 
「NHK大学ってのは無いよ。放送大学のことだと思うけど」
「あ、そんな名前だっけ。でもそれNHKが運営してるんでしょ?」
「全然違うよ。放送大学は放送大学。NHKがやってるのは高校だけ」
「あ、そうなんだ!」
 
「授業の放送もNHK学園高校はふつうの地上波の教育テレビで流しているけど、放送大学の授業の受信には、BSデジタルの受信機が必要」
「えー!?それお金掛かるよね?」
 
「でもお父さんがそんなに勉強しようというのはいいことじゃん。私がその受信機のお金出すし、授業料も払うからお父ちゃんには頑張れと言っといてよ」
「うん、そうしようかな」
 
「でも娘に授業料出してもらうなんてお父ちゃんのプライドが許さないだろうから、お母ちゃんの給料から出してることにしといて」
「それもそうしようかな」
 
母は千里が言った《娘》ということばに若干引っかかりを覚えた雰囲気もあったものの、取り敢えずスルーすることにしたようである。
 
「それからBSの受信設備付けたらNHKが衛星契約しろって言ってくるから」
「あぁ・・・」
「NHKの受信料は私の口座から払うよ。受信料の領収書か何かこちらに送ってくれない?それ見て、こちらで手続きするから」
「悪いね。でも実はNHKは3年くらい滞納してて・・・」
「いいよ。それも全部精算しておくから」
 
でもNHKに確認してみたら5年滞納されてた!
 

8月30日(日)の夕方。千里たちの大学は夏休みの真っ最中なのだが、友紀の呼び掛けで花火大会を見に行った。
 
メンツは朱音・友紀と、生物科の香奈に、千里という4人である。千里たちのクラスの玲奈と生物科の由梨亜が予備校で一緒だった縁から、実は生物科の女子との合同女子会がこれまでも何度か開かれていたらしいが、千里はそれに出席するのは初めてとなった。
 
「玲奈も美緒も由梨亜も彼氏と一緒に見に行くらしい」
「美緒は彼氏ではなくセフレらしいが」
「花火はホテルでHなことをする前菜のようだ」
「それって恋人に戻るつもりはないわけ?」
「その気は無いらしい。単にセックスの快楽だけを求めているらしい」
「よく分からんな」
 
千里は美緒の話を聞いてて、自分と貴司とのことを言われているみたいな気がした。千里はこの日の午後まで貴司と一緒に居た。実は新幹線で帰る貴司を東京駅で見送った後、直接この待ち合わせ場所に来たのだが、夫婦関係に戻りたいと言う貴司に対して、千里は緋那との関係が解消できるまでは、そういう話はできないと通告した。それまでは自分たちは友だちだと言う一方でセックスはしてもいいよと言った。要するに自分は貴司とセフレ宣言をしたようなものだ。
 
でも実際貴司とのセックス、気持ちいいもんなあ・・・
 
などと考えていたら友紀から指摘される。
 
「千里、彼女のことでも考えてた?」
「そんな人いないよぉ」
「ほんとかなあ」
「千里、絶対恋人がいると踏んでるんだけど」
と朱音からも言われる。
 
「千里、香水の香りがする」
と朱音から指摘される。
「もしかして今日デートしてて、彼女の付けてた香水の残り香とか?」
 
「ああ、その香り、時々してるんだよね」
と友紀からも言われる。
 
「ごめーん。これボク自身が使ってるオードトワレ」
と千里は正直に告白する。
 
「へー!」
 
それで千里は持っていたスポーツバッグからその瓶を出してみせる。
 
「おぉ、アーデンじゃん!」
「大学の入学祝いに叔母ちゃんからもらったんだよね〜」
と言って千里は少しプッシュしてみせる。
 
「わぁ、いい香りだね」
「これ好きかも」
という意見が出た後で、友紀と朱音は少し悩むようにして顔を見合わせている。
 
「これってメンズのパフュームじゃないよね?」
と友紀。
「そうだね。男の人よりは女の子向けだと思うけど」
と千里。
「それを千里の叔母ちゃんは千里にくれるんだ?」
「それが何か?」
 
友紀と朱音が更に「うーん」と悩んでいる。
 
「ね、千里、やはり千里って実は女の子でしょ?」
「えー?まさか。ボクはふつうの男だけど」
「それ絶対嘘だ!」
「少なくとも《ふつうの男》ではない」
 
などと言っていたら香奈が不思議そうに言う。
 
「話が見えないけど、千里ちゃんって、何か男っぽいところがあるとか?」
 
「いや、千里は男子だと主張して、しばしば大学で男装している」
と朱音。
「今日はユニセックスな服を着てるから普通に女の子に見えちゃうけどね」
と友紀。
 
「いや、だからボク男だから」と千里。
「もしかして、最近はやりの、男の子になりたい女の子ってやつ?」と香奈。
 
「それは絶対違う」
と朱音・友紀。
「むしろ女の子になりたい男の子だと思う」
 
「でも、千里ちゃん、女の子だよね?4月の健康診断の時に女子の時間帯に居たもん。私、千里ちゃんの次の順番でレントゲンしたよ」
と香奈。
 
「なに〜〜〜〜!?」
と朱音・友紀。
 
「そんな馬鹿な。それきっと似た別の子だよ」
と千里は焦って誤魔化すような笑顔で言ったが、朱音も友紀も千里の言葉を信用していない感じだった。
 

花火大会の会場近くの駅で降りて、会場の方に歩いて行くが物凄い人・人・人である。万一はぐれた時は友紀があまり動かないようにして、友紀の所に集まろうということにする。途中あったマクドナルドで飲み物と、ついでにバーガーを注文し、道々飲みながら、食べながら、おしゃべりしながら歩いていく。
 
「千里最近よく食べるんだね?」
と朱音が言う。
 
千里は今日はダブルチーズバーガーのLLセットを食べている。ただしドリンクは爽健美茶である。
 
「入学当初の頃の少食が信じられない」
と友紀。
 
「あれは猫かぶってたとか?」
「あの時はあれが必要だったんだよ。お医者さんの指示で1日の摂取カロリーを1400kcalに制限されていたんだよね」
「1400ってかなり厳しい」
「ビッグマックのLLセットでコーラを選ぶと1230kcalくらい」
「それで1日分終わっちゃうのか!」
 
「お医者さんの指示?」
「そう。傷を直すのに血糖値の低い状態を維持する必要があったんだよね。でもそれがゴールデンウィークで終わって、今度は一転して筋肉を付けるのに蛋白質を充分取るように言われたから、お肉とかお魚とか食べるようにしたんだよ。その分運動もしてる。今1日4時間は運動してるから」
 
「そんなにしてるんだ!」
「でも必要以上にカロリー過多にならないように、糖分の摂取は控えているからコーヒーはブラックだし、こういうドリンクも烏龍茶とか爽健美茶」
 
「なるほどー」
「でも運動って何してんの?」
「7月に趣味のバスケットチームに入ったんだよね。そこのメンバーと時間が合う時は一緒に練習してるし、合わない日もドリブルの練習したり、ロードワークで走ったりしてるし」
 
「それかなりハードな練習をしてたりして?」
「それほどでもないよ。あくまで趣味のチームだから。本気でやるつもりなら大学のバスケ部に入るよ」
「ああ、そうだろうね」
 
「でもやはりスポーツマンなんだね!」
「千里が男の子だったら惚れてたかも知れん」
「ごめーん。ボク、女の子は恋愛対象外だから」
 
「・・・・・」
「ね、千里」
「うん?」
「女の子が恋愛対象外ってことは、もしかして千里の恋愛対象は男の子だったりして?」
 
「え? あ、えっと・・・まあいいじゃん、そんなの。あ、花火上がったよ」
 
友紀と朱音は顔を見合わせて考え込んでいたが、取り敢えず花火が始まったので、この話はそこまでになった。
 

花火はかなり長時間続いていたので途中でトイレに行こうということになる。結構な人混みの中を何とか離れ離れにならないように気をつけて、何とか公園の公衆トイレの所まで来る。
 
それで朱音たちが女子トイレの方に行き、千里は男子トイレの方に行こうとしたのだが、友紀にキャッチされた。
 
「ちょっと待て」と友紀。
「なにか?」と千里。
「千里、どちらに入るつもりだ?」
「どっちって、男子トイレに」
「千里は女子トイレに入るべき」
「えー?なんで?」
 
「ふだんの男っぽい格好でもさ、千里男子トイレに入る度にトラブってるじゃん」
「うーん・・」
「今日みたいにユニセックスな服装だったら千里、男子トイレに行ったら『女は女トイレに行け』って向こうで言われちゃうよ」
と友紀。
「ああ、絶対言われるね。それか痴漢で捕まったりして」
と朱音。
 
「千里、ふだんは女子トイレ使ってるでしょ?」と友紀。
「男子トイレ使ってるよー」と千里。
「それは絶対嘘だ」と友紀。
 
「香奈、千里がトイレの場所を訊いたら、香奈だったら、男子トイレの場所を教える?女子トイレの場所を教える?」
 
「迷うことなく女子トイレの場所を教えるね」
 
「じゃ千里は女子トイレで問題無し」と友紀。
「はい。千里一緒にトイレ行こうね」と朱音。
 
そういう訳で、千里は朱音たちに半ば拉致されるようにして女子トイレに入ったのであった。
 

中の個室は8つもあるものの、花火開催中なので、トイレの中はかなりの列ができている。待つしかないので、おしゃべりしている。
 
「みんなバイトはどうしてる?」
「私はハンバーガー屋さんをやってたんだけど、お盆が終わった所で辞めた」
と朱音。
 
「なんで?」
「やっぱりけっこうきついんだよ。ずっと立ったままの仕事だし。店内狭いわりには結構歩くんだよね」
「ああ。全く休む時間無いよね」
「4時間のお仕事終えた時は丸1日働いたような気分。それにお仕事はどうしても昼間でしょ。私1学期はけっこう講義をさぼっちゃったけど、そんなんでは、まともに勉強できないと思うんだよね。だから当面奨学金だけで頑張ってみるよ」
と朱音は言う。
 
「授業との競合はやばいよね」
 
「ボクも今月は塾の先生してたんだけど、夏休みだからできたけど2学期に入ったら無理だと思うんだよね。やはり昼間のバイトは辛い。といって夜間のバイトって、あまり無いしね。道路工事の作業みたいなのはボクには無理だし」
と千里は言う。
 
「ああ、千里ってスポーツマンのくせに腕力無い」
「いや土木作業とかに必要な筋肉と、スポーツで使う筋肉は全く別物だと思う」
 
「それに夜間フルに働いた後、昼間学校で講義をしっかり聴く自信無い」
「それは言えてるな」
「夜間フルに働いたら、昼間はフルに寝ている気がする」
 
「私も夜間のバイトしてたんだよ」
と香奈が言う。
 
「何してたの?」
「ファミレス」
「あぁ!」
 
「24時間営業の店舗の夜間スタッフやってたんだよ。これって道路工事よりは楽だと思う。昼間より少ない人数でやるから、忙しい時間帯は息つく間もないくらいに忙しいけど、客の少ない時間帯はけっこう休めるんだよね。今のファミレスってだいたいボタン押してもらって鳴ったらお客様の所に行けばいいから、鳴るまでは休んでられるのよね。でもそれでも私にはきつかったから私もお盆までで辞めちゃったんだけどね」
と香奈。
 
「千里、夜のバイトするなら、道路工事よりファミレスの方がいいかも」
 
「ボクも思った!」
 

そのあたりで個室が空いたので、話は中断し、各々中に入る。それで出てきてから手を洗い、外に出てまたおしゃべりは再開する。
 
「だけど千里は女子トイレで全然問題無いということが判明したな」
「えー?恥ずかしかったよぉ」
 
「・・・・」
「千里が女子トイレの中で恥ずかしがっているように見えた人?」
 
誰も手をあげない。
 
「千里はふつうに女子トイレの行列に慣れている感じがした」
「同感」
 
「そうだ。千里、夜のバイトといえばさ」と朱音が言う。
「夜のバイトといえば?」
「千里なら、オカマバーとかに勤めると凄い人気になるかも」
「いやだぁ!」
 
「いや、千里の場合はオカマバーに勤めるとさ」と友紀が言う。
「うん?」
「あんた女でしょ? と言われてオカマさんであることを信じてもらえない」
「ありそう!」
 
「うむむむ」
 

 
9月5日(土)。バスケットの関東選抜大会が前橋市で開かれた。
 
出場チームは東京・神奈川・埼玉・千葉・茨城・栃木・群馬・山梨の8都県から2チームずつの16チームである。ただし多くの都県では冬の都県大会で3〜4位になったチームが出場している。千葉の場合は1〜2位のチームを除いたチームで予選をやって出場チームを決定している。1〜2位のチームが出場する「関東選手権」に対して、この大会はトップに準じるチームが出場するということで「裏関」とも呼ばれている。
 
大会は2日掛けて行われ、1回戦・2回戦が今日で、明日準決勝・決勝というスケジュールになっている。
 
「まあトップになれなかったチームが出てくる大会ではあるけどさ、うちみたいな伸び盛りのチームも出てくるから、あなどれないよ。1月に3位だったからと言って今も3位の実力とは限らない」
と麻依子は言う。
 
「うん。気を引き締めて行こう」
と千里も言った。
 

1回戦の相手は山梨2位のチームであった。ローキューツは千葉選抜大会で1位になっているので、初戦は他県の2位のチームとの組合せである。
 
「裏関」とはいっても、やはりさすがは関東大会である。7月のクラブ大会、8月のオープン大会とはレベルの違いを感じる。そこそこ強いチームが集まっている感じであった。
 
しかし監督は1回戦では千里と麻依子は温存しようと言った。PG.浩子、SG.美佐恵 C.夢香 SF.夏美 PF.菜香子 というスターティングファイブで出る。大学1年生の菜香子以外は千葉選抜で優勝した時のメンツである(当時もう1人いた人は辞めたらしい)。
 
試合はシーソーゲームにはなったものの、ここ2ヶ月ほどで千里や麻依子に刺激されて力を付けてきた浩子が得点の半分を取る活躍で、最後は10点差で勝利した。
 
2回戦は埼玉のチームであった。今度は千里と麻依子が先発する。どうも初戦を偵察していたようで、1回戦で30点取った浩子に、いちばん強そうな感じの人が付いたものの、こちらは千里と麻依子のラインでどんどん得点する。千里からのパスで麻依子が近くからシュートしたり、あるいは千里がスリーを放りこむ。慌ててマッチアップを変更してくるが、千里や麻依子に1on1で勝つのは難しい。どんどん点差が開いていき、30点以上の点差で勝利した。
 

試合は2日目に入る。
 
準決勝の相手は先月のシェルカップでも対戦した東京の江戸娘である。前回対戦した時はこちらには玲央美もいたが、今日は彼女無しで戦う必要がある。麻依子は先月対戦した時に感じた相手メンバーの癖や役割分担などをみんなに説明し、マッチアップの担当を決めた。
 
このチームはキャプテンは浩子なのだが、やはり麻依子がみんなの精神的支柱になっている面が大きい。
 
実際試合が始まると、向こうも前回の試合の時の状況を元にマークする相手を決めてきた感じである。千里には向こうのセンターの人が付く。この人は恐らく全国大会で結構上まで行った人だと思った。先月の千里なら、かなり封じられていたかも知れない。
 
しかしこの時期の千里は性転換手術後の療養期間が終わり、日々物凄いトレーニングをしていたので(肉体時間では高2のインターハイ予選に出る直前くらいの身体である)、7月のクラブ大会の千里と8月のシェルカップも全然違っていたが、8月と今の千里もまるで違っていた。
 
相手のマークをスピードと瞬発力で振り切ったり、あるいは相手の一瞬の意識の隙に目の前から姿を消してはパスを受け、どんどんスリーを放り込んだ。
 
途中まではけっこう競ったのだが、最終的には15点差で勝利した。
 
「そちら8月の時より強くなってる。今度は関東総合か関東選手権で会いましょう」
と向こうのキャプテンが言ってきた。
 
「ええ。私たちもそちらに行きたいです」
と浩子も笑顔で応じていた。
 
関東総合に出るには県大会1位、関東選手権でも1−2位にならなければならない。
 

そして決勝戦に臨む。
 
相手は神奈川県のチームだが、実質実業団チームという感じであった。かなり強い。向こうはこちらの「穴」が夏美・夢香の所というのをすぐに見破ってしまう。千里・麻依子・浩子とは敢えて勝負しないで、弱い所から攻めて来る。それで第1ピリオドで24対12と大差を付けられる。
 
インターバルの間に話し合う。
 
「ゾーンで守ろうか」と千里は提案した。
「うん。私もそれ考えた。左側が千里、右側が私、トップが浩子。トライアングル2。夏美は向こうの4番、夢香は7番について。振り切られてもいいから付かれるだけでかなり動きは鈍くなるはず」
と麻依子が担当を決める。
 
それでやると、今度は向こうはさすがになかなか中まで進入してこられなくなる。攻めあぐねてスリーを撃つものの、そう簡単には入らないので麻依子がリバウンドを取って、浩子と千里の2人でパスしながら相手コートに進む。そこで相手がまだ戻ってきていなければ千里がスリーを撃ち、戻って来ている場合は麻依子が追いついてくるのを待って、進入していくパターンを使う。
 
これであっという間に挽回し、第2ピリオドが終わった所で36対34と2点差に詰め寄る。
 
「君たち凄いね。ゾーンなんてたくさん練習してないとうまく行かないのに今担当を決めて今ちゃんと運用できた」
と監督は感心したように言った。
 
「まあ高校時代にはたくさんゾーン練習してるし」と千里。
「右に同じ」と麻依子。
「私、高校の時はゾーンしてないけど中学の時の監督がゾーンが好きでやってたんですよ」と浩子。
 
後半は相手はやはり千里のスリーを警戒して、必ず1人は速く戻るように気をつけるようになった。第3ピリオドはシーソーゲームとなって50対52とこちらが2点リードした状態で終わる。
 
そして最後の第4ピリオドになるが、ここで明らかに相手側の動きが鈍くなってきた。おそらくずっと全力で戦っていて、疲れてきたのであろう。そうなると、千里・麻依子のようにスタミナのある選手のいるこちらが有利である。
 
相手のシュートの精度が落ちる中、千里も麻依子も正確にゴールを奪っていく。このピリオドではリバウンドは夢香に任せて麻依子は攻撃主体でプレイした。それで結局この最後のピリオドで相手を引き離し、最終的には62対76で勝利し、優勝を手にした。
 

「まあ各都府県3〜4位の戦いではあるけど、優勝は嬉しいね」
「全国に行ける大会で優勝したい所だ」
 
「そういう訳で次は9月19日のクラブ選手権だから」
「これで1〜2位になったら関東クラブ選手権。それで6位以内に入れば全日本クラブ選手権。今回は福島」
「おっ、凄い」
「もうひとつ10月31日には秋季選手権大会というのがあるから」
「これで優勝すると11月の関東総合選手権に出られて、それで優勝すると、お正月の皇后杯(オールジャパン)に出られる」
「わっ、皇后杯って名前が凄い」
 
「クラブ選手権はクラブチームだけだけど、総合選手権・皇后杯は教員チームとか大学生チームも出てくる。まあどっちみちトップの方はハイレベル」
 
「行けたらいいね」
「やはりトレーニングだね」
「でもあまり辛いのは楽しくない」
「そのあたりは微妙な線だね」
 

9月11日(金)。千里がローキューツの練習から帰ってシャワーで汗を流していたら、貴司からメールが入る。
 
《もし時間取れそうなら、ちょっと来てくれない? 裁縫道具を持って》
 
裁縫道具ってなんだ!? 私、料理は好きだけど、裁縫はあまり得意じゃないよ〜、と思いつつも、やはり貴司から呼ばれたら千里としては行かずにはいられない。本当は毎週大阪に行きたいくらいだが、それはさすがに時間と体力が許さないところである。
 
まだ晩御飯を食べていなかったので、ジャーの中の御飯をおにぎりにし、昨日の残りのヒレカツをビニール袋に入れて、冷却剤と一緒に保冷バッグに入れ、荷物と一緒に持って出る。
 
当然のように近所の時間貸し駐車場に昨夜から駐めている自分のインプに乗り、カーナビに貴司の千里(せんり)のマンションをセットし、千葉北ICを駆け上って大阪へ向かう。
 
『こうちゃん、運転頼める?』
『いいよ』
 
ということで身体を《こうちゃん》に預けて千里は自分の神経を眠らせた。
 

途中貴司へのお土産を買うのに海老名SAで起こしてもらった以外は千里は熟睡していた。目を覚ましたのは夜の12時頃である。車は桂川PAに駐まったところであった。
 
運転してくれた《こうちゃん》に礼を言ってトイレに行ってくる。顔を洗って化粧水と乳液だけして、車に戻る。そして約40分で貴司のマンションに到達した。勝手知ったマンションなので、『自分が持っている鍵』と暗証番号で駐車場の入口を開け、来客用の駐車場に駐める。
 
そして部屋まで上がっていく。勝手に自分の鍵で開けて中に入る。
 
「やっほー、どうしたの?」
 
取り敢えずキスしてからお土産に買って来たケーキを渡す。
 
「わ、おいしそう。お茶を入れよう」
と貴司が言うが、当然入れるのは千里である。
 
紅茶でも入れようと食器棚を見たら、見慣れないフォートナム&メイソンの紅茶がある。
 
「これは?」
「あ、それ水曜日に緋那が持って来た」
「ふーん」
 
千里は気にせず、その紅茶を取り出し、自分が持ち込んでいた白磁のティーポットに入れ、やかんで沸かした熱湯をそそぎ入れる。これも自分が持ち込んだ深川製磁のペアカップに注ぐ。
 
「ケーキは甘いし、砂糖は要らないよね?」
「うん」
 
それでお茶を飲みながらケーキを頂く。
 
「美味しい、美味しい」
 

「あ、それでどうしたの?」
「いや、実はバスケットパンツの脇の縫い目がほつれちゃってさ。千里、よければ縫ってもらえないかと思って」
 
千里は腕を組んで考えた。
 
「ね、まさか用事はそれだけ?」
「うん。悪いとは思ったんだけど」
「その程度、緋那さんに頼んだら〜? 彼女近くに住んでるんでしょ?」
「近くってほどでもない。堺市に住んでるんだよ。南海と地下鉄を乗り継ぐから1時間半かかるみたい」
「私が千葉から出てくるには6時間掛かるから、それよりは近いでしょ」
 
「でもそういうのを緋那に僕が頼んでもいいの?」
「そのくらい気にしないよ。セックスするんじゃなかったらね」
 
「もう緋那とはあれ以来セックスしてないよ」
「そりゃ、セックスするような恋人がいるんなら、私は貴司とはさよならだから」
 
「ね、このあとセックスできる?」
「してもいいよ。でもその前にそのほころびを縫おうか。ついでに貴司のおちんちんの先っぽも縫い合わせちゃう?」
「それじゃ、おしっこする時に困るよ!」
 

千里はちょっと呆れたものの、ほつれてしまった所を持って来た裁縫道具できちんと縫い合わせる。敢えて3つに分けて縫い、どれかひとつの糸が切れても、全体に影響が出ないようにした。
 
「実は以前ほつれた時に緋那に頼んだことあるんだよ」
「うん」
「そしたら、試合開始と同時にそれが切れちゃってさ」
「あはは」
「ばらけそうになったの焦って手で押さえていたら、審判がゲームを停めてくれて、取り敢えず安全ピンを借りて押さえた」
「珍プレイ集に収録されそうだ」
 
「罰としてショーウィンドウの人形の代わりを2時間やらされた」
「貴司の会社ってほんとに楽しく運営されてるね」
 

外れた所を縫った後で、他にもあやしいところがないか、貴司のユニフォームを全部チェックした。濃い色の方のユニフォームの肩のところも、ほころびがあったので、そこを補強しておいた。
 
「まあ肩ならストリップする可能性はないけどね」
「いやでも助かった」
 
その後、貴司がお腹が空いてきたというので、ストックしているお肉で唐揚げを作り、一緒に食べる。
 
「唐揚げもお店で食べるのよりずっと美味しい」
「まあ市販の唐揚げ粉とかは使わないからね。ちょっとタレ作るのに手間がかかるけど」
 
「そうだ、関東選抜優勝おめでとう」
「ありがとう。でもまあ3〜4位の大会だからね」
「1〜2位の大会はたぶんレベルが違うよ」
「だと思う。もっと鍛えなくちゃ」
「千里の試合を見てみたいけど、なかなかそちらに行く時間が取れなくて」
「こちらの試合はだいたい土日だからね。そちらも試合やってるでしょ?」
「うん。連休みたいなのにはだいたい試合日程が組まれているんだよね」
 
「私がまだ男子だったら天皇杯とかで激突する可能性があったんだろうけどね」
「まあそれは仕方無いね。皇后杯目指すの?」
「さすがに無理だと思う。強い所たくさんあるもん。でもまた貴司と激突してたら、また試合後にキスしちゃってたかもね」
「それ自制する自信無い」
「ふふふ」
 

シャワーを浴びてからベッドに入り、その晩は貴司と3度結合してから眠った。
 
翌12日の朝は貴司が寝ている間にコンビニに行って豆腐を買ってきて、豆腐の味噌汁と、目玉焼きの朝御飯を作る。だいたいできた所でキスして起こす。
 
一緒に朝御飯を食べるが、貴司は
「こういうのって凄く幸せな気分」
と言う。
 
「私も幸せー。なんか今すぐ貴司の奥さんになってあげたいけど20歳になるまで戸籍の性別が直せないからなあ」
と千里は正直な気持ちを言う。
 
「千里って、結局いつ性転換手術受けたんだっけ? どうにもタイミングが分からないんだけど」
「そうなんだよねぇ。実は私もよく分からないんだよ」
「どういうこと?」
 
「3年後くらいまでには手術して女の身体になりたいんだけどね」
「・・・・・3年後も何も既に手術済みだよね?」
「まさか。まだ私男の子だよ」
「そういう無意味かつ目的不明の嘘をつく意図が分からないんですけど!」
 

千里はテーブルを立つと窓のカーテンを開け、外の景色を見ながら言った。
 
「私、行(ぎょう)をしているんだよ」
「行?」
「私の体力やスタミナはその行の成果だよ」
「何かしているとは思ってた」
「30年」
「30年?」
 
千里は振り返り、貴司を見て微笑んで言った。
 
「30年間行を続けることができたら、私、貴司に赤ちゃんをプレゼントしてあげられるかも」
 
貴司は千里の微笑みを無言で受け止めていた。そして言った。
 
「いいよ。30年後に僕たちの赤ちゃんを作ろう」
「うん」
と千里は笑顔で頷いた。
 

「でも僕もこないだ夢を見たよ」
「ふーん」
「僕と千里が子供と一緒に遊んでいる夢」
「へー」
 
「その子、スカート穿いてたけど男の子だと思った」
「・・・・貴司って、やはり女装っ子が好きなんだ?」
「えー!? 僕はノーマルだと思うけど」
「まあ、いいけどね」
 
と言って千里は微笑む。私たち長い付き合いだし、お互いが既に自分の理想のパートナー像になっちゃってるのかもね〜。でもだったら私、本当の女になったら振られたりしないかしら??
 
「だけど30年後か・・・。僕は50歳だし、千里は48歳だし。千里、その年齢で赤ちゃん産める?」
「卵子だけ提供して誰かに代わりに産んでもらったりして」
 
「・・・・千里卵巣あるんだっけ?」
「どうかな」
 
と千里は謎めいた微笑みを見せた。
 

その日は昼近くまでマンションでうだうだしていて、(貴司のマンションに置いている服に)着替えてから、今日練習試合のある神戸まで移動した。
 
「私の服、悪いけど洗濯してあの引出に入れといて」
「うん。今日僕も汗掻くしいっしょに洗っておくよ」
「頬ずりしたりしてもいいよ」
「僕はフェチじゃないよ!」
「オナニーに使ってもいいよ」
「・・・・」
「ふふふ」
 
緋那と恋人であった時期にオナニーでも逝けないと言っていた貴司だったが、彼女との恋人関係を解消して、千里との仲が事実上復活(建前上は友だち)したら、またふつうにオナニーでも逝けるようになったらしい。きっと男の人のEDって精神的なものが大きいんだろうなと千里は思う。
 
練習試合の後は、貴司はチームのメンバーと一緒に行動するようだったので、千里は手を振り合って別れてから、三宮の町を散策した。
 
唐突にメロディーが浮かんだので、手近なカフェに入り、コーヒーを頼んで飲みながら五線紙に書き込んでいく。音楽が流れていないので邪魔にならない。しかも客が少ない。作曲するには理想の環境だ。今度また神戸にきたらここに入ろう、などと思いながら書いていく。
 
1時間ほどでだいたいまとまり、この曲は誰に歌ってもらうのがいいかなあ、などと考えていた時、カフェに何やら揉めながら入ってくる女性2人がいる。
 
千里は思わず顔をテーブルに埋めた。桃香と誰か知らない女の子だ!
 
「だから鈴子にそういう期待を抱かせてしまったのは謝る。でも私は鈴子と恋人になるつもりは無いんだ。申し訳ないけど」
 
「桃香、私のこと嫌いなの?」
「嫌いではないよ。だから友だちということにしないか?」
「だってお互いのいちばん恥ずかしい所を見せあって触りあったんだよ。何もなかったことにはできないよ」
 
う・・・何か耳が痛い。
 
「あれはお互いの合意のもとにしたよな?」
「うん。私もしたかったもん。でも桃香、恋人になってくれると思ったのに」
「いや、だからそこで誤解させたことは謝る」
 
桃香ってこんなに節操無くあちこちに恋人作ってるのか!?
 
ふたりが長時間揉めているのでお店のスタッフがたまりかねて注意する。
 
「お客様、他のお客様に迷惑ですので、お話し合いでしたら外でやっていただけませんか?」
 
「あ、済みません」
と言って桃香は店内を見回す。
 
他の客って・・・・私ひとりだ!!
 
「鈴子ちょっと散歩しながら話し合おう」
「うん」
 
それで2人は取り敢えず外に出て行った。
 

やれやれと思っていたら、今の騒動の影響か、またメロディーが浮かぶ。千里はすぐさま、それを五線紙に書き留めていった。コーヒー1杯では申し訳ないのでオープンサンドをオーダーして、コーヒーもお代わりして、それを取りながら楽曲にまとめていった。1日に2本も書けるなんて、私天才?などと考えながら千里はその楽曲をディスコ風にまとめた。
 
『私の彼女』と仮題をつけてみた。あはは、レスビアン賛美ソングだったりして。ビアンといえば、XANFUSはあきらかにビアンだし、ローズ+リリーのふたりもかなり怪しいし、KARIONの和泉もしばしばビアンっぽい発言してる。きっと30年前ならビアンを公言したりしたら佐良直美みたいに引退に追い込まれたりしたのかもしれないけど、多分時代が変わってきたんだろうなと千里は思った。
 
カフェを出てから、帰ろうかなと思い駐車場の方に向かう。すると何と桃香が向こうから1人で歩いて来た。
 
つい反射的に会釈してしまった。すると桃香はこちらを認めて近づいてくる。
 
「こんにちは。さっきカフェにおられましたよね?」
「こんにちは。彼女少しは落ち着きました?」
「話し合いは継続ということにしました。でもあなたどこかで見た気がする」
「以前、千葉駅のバス乗り場でも遭遇しましたね」
「あ、そうか。あの時の巫女さんだ。その長い髪に見覚えがあったので」
 
千里は今日はロングヘアのウィッグを着けているし、可愛いワンピースを着ているしメイクもしているし、女声で話している。大学でほぼ男装していて男声で話している村山千里と同一人物とは気付かないよなと思い、千里は開き直ることにした。
 
「彼女とは2年くらい前に別れたんですよ。当時はお互い高校生だったし、Hなことはしてなかったんですけどねー。久しぶりに再会して、つい盛り上がってしまって」
 
「なんか言い訳が浮気した男の人みたい」
 
「あ、私、よく男っぽいと言われますよ。何かの間違いで性転換手術されて男になっちゃっても生きていけると思う」
 
ふーん。ちょっとFTMの要素が混じっているレスビアンという感じなのかな。
 

桃香と近くのロッテリアに入り、ハンバーガーを食べながら彼女の恋話を聞いてあげた。
 
「女の子との恋愛の話ってあまりできる人がいなくて。話を聞いてもらっていたら少しすっきりしました」
などと桃香は言っていた。
 
ただ千里は桃香が何か暗い影のようなものを付けているような感じなのが気になった。そこで千里はおしゃべりしながら手鏡を取り出すと、自分の耳の付近の髪をいじる。そして手許がくるった振りをして、手鏡に反射させた太陽の光を桃香の右耳の下に当てた。
 
「あ、ごめん」
「ああ、いいよ」
 
その後で再度観察すると、桃香に付いている影は若干薄くなったようである。
 
「あれ?」
「どうかしました?」
「いや、最近肩こりがひどかったのが、今少しよくなった気がする」
「肩こりってよく分からない病気ですよね。あれって日本固有のものらしいですよ」
「へー」
「英語には肩こりって言葉が無いんだって。アメリカ人のビジネスマンが日本で勤務していた時肩こりに悩まされていたのが、帰国したら治ったなんて話もある」
「なんて不思議な」
 

ロッテリアを出た後、ふたりでまた一緒に歩き、ちょうど信号が赤になって立ち止まった時のことであった。
 
「うっ」
という低い声がして、桃香の向こう側にいた女性がうずくまった。
 
「どうしました?」
と声を掛けるが顔色が真っ青である。千里はあれ?この人、どこかで見たことがあると思った。
「出血してる!」
と桃香が言う。凄い血が出てスカートを汚している。
 
「救急車呼ばなくちゃ!」
と言って千里は自ら119番した。
 
倒れた女性はお腹を押さえている。桃香は背中をさすっている。
 
『びゃくちゃん、これ何か分かる? かなり深刻っぽい。怪我でもしてる?』
と千里は後ろの子に問いかける。
 
『流産しかかってるんだよ』
と《びゃくちゃん》が答えた。
 
「苦しそうにしてる。ちょっと横になった方がいいかも」
と千里は言い、桃香とふたりで(実は《びゃくちゃん》にも手伝ってもらって)横にしてあげる。千里が自分のバッグを枕代わりにしてあげた。冷房の強い所に入った時の用心に持っているカーディガンを彼女のお腹付近に掛ける。
 
「切迫流産ですよね?」
と千里は彼女に言った。
 
「ええ、そんな気がします。あなた看護婦さんですか?」
と彼女は答える。
 
「彼氏かお母さんか呼ぶのお手伝いしましょうか?」
「すみません。携帯の5番に登録している人に連絡してもらえませんか?」
 
それで千里は彼女の携帯を預かると5番に登録されている nori という人に電話をした。
 
「はい」
とだけ、電話の向こうの人物は答えた。
 
「こんにちは、松元さんですか? 私通りがかりのものなのですが、山下さんが今具合が悪くなって倒れて、救急車を呼んでいる所なんですよ。どうも切迫流産のようなんです。こちらに来ることできます?」
と千里は電話口に向かって言う。
 
電話の向こうの人物は驚いてこちらの場所を尋ねる。神戸の三宮と答えるとすぐそちらに向かうから病院が分かったら連絡してくれと言われた。向こうは今大阪市内だそうである。
 
電話を切って彼女のバッグに携帯を戻すと彼女から訊かれる。
「どうして私の名前を?それに相手が誰かも分かっていたみたい」
 
「済みません。あなたと同じ業界の片隅に居るものです。相手の方もお声を聞いただけで誰か分かりました」
 
「ありがとう。ふつうの人に分かるような名前を出さない配慮もしてもらって」
「彼女が来るまで、お手伝いできることあったら何でもしますから、今はお腹の中の赤ちゃんのことだけ考えて」
「はい」
 

救急車は来るのに15分掛かった。都会の道はたとえ緊急車両といえども思うように走れないので、時間が掛かるのである。
 
「切迫流産らしいんです。そして旅行者なので掛かり付けの病院に行くということができません」
 
と千里が救急隊員に告げると、連絡して受け入れ先の病院を探してもらっているようである。隊員は名前を呼び掛けて意識レベルを確認したり、スカートをめくり出血状況を確認したりしている。
 
受け入れ先の病院がすぐに見つかったようで、救急隊員が彼女を担架に乗せて救急車に運び込む。千里と桃香もなりゆきで付き添いとして救急車に同乗した。
 
救急車は7-8分走って、市内の産婦人科病院に入った。処置室に運び込み、医師が診察をする。超音波でもお腹の中の様子を見ていた。
 
「ご家族の方、ちょっと来てください」
と言われるので、桃香を彼女のそばに残し、千里は医師と一緒に処置室の外に出る。
 
「進行流産です。もう停められません」
と医師は告げた。千里は鎮痛な表情をした。
 

患者は1時間ほど苦しんだあげく、赤ちゃんは流れてしまった。その直後に、彼女が呼んだ友人が到着した。
 
「胎児は流れてしまったのですが、残存物があります。それを子宮から取り出す必要があります」
と医師が言う。
 
病院側は手術するのには友人ではなく親族の同意・立ち会いが必要だと主張したが、患者本人が両親とは事実上縁が切れているし、仲の良い妹も海外旅行中なので、どちらも連絡は不能と主張。また子供の父親とも既に別れているので連絡したくないと言い、この友人はほとんど家族に近いから、と言うので、それで彼女に立ち会ってもらう形で掻爬の手術を行った。千里と桃香もなりゆきで、この段階まで付き合うことになってしまった。
 
「ごめん。ツアーの無理がたたったのかな。やはり今回のツアーは病気とかの理由で中止すべきだったね」
と松元さんは言ったが、ベッドに寝ている山下さんは
 
「ううん。それとは関係ないと思う。きっとあの子はこうなっちゃう運命だったんだよ」
と言っていた。
 
「もしかして音楽関係の方ですか?」
と桃香が尋ねるので
 
「あ、バンドやってるんですよ。全然売れてないんですけどね」
などと松元さんは答える。
 
「ツアーが終わるまで流れずに頑張ってくれただけ親孝行な子だよ」
などと山下さん。
 
「でも来週の横浜のイベント、どうしよう?」
「一週間あるから、それまでには体調回復させるよ」
「あんたの体力に賭けるか。でも一週間ひたすら寝てなよ」
「うん。そうする」
「御飯は私が作ってあげるからさ」
「うん。ありがとう」
 
「でもこれを機会にちょっと活動方針を少し見直そうよ。私たちあまりにも何も選ばずに、来た話を全て受けてたもん。鈴奈とか体力無いから最近かなりきつそうにしてたの気付いてたでしょ?美波も結構グチ言ってた」
 
「うん。でも折角もらった話を断っていいものかと悩んでた」
 
「それで多少収入が減ってもいいじゃん。今のままじゃ収入減以前にバンドが空中分解しちゃう」
 
「そうかも知れないね」
と言って山下さんは目を瞑った。
 

しばらく静かにして半分寝ている感じだったが唐突に山下さんが言う。
 
「そうだ。Xな子たちに渡す予定だった楽曲、どうしよう? 明日までに楽曲渡す約束だったんだけど。この状態じゃさすがに何も書けない」
 
「急病で無理って連絡するよ。きっと誰か代わりに書いてくれるって。この業界、凄く筆の速い作曲家もいるからさ」
と松元さん。
 
千里はふたりの会話を聞いていて、世間的にはこのペアは山下(Elise)作詞・松元(Londa)作曲ということにしているけど、実際には山下さんが曲もかなり書いているのではと想像した。
 
「これがおとぎ話だったら、魔法使いのお婆さんが出て来て、杖をひと振りすると、できあがった五線紙が落ちてくるんだろうけどね」
と山下さん。
 
「唐突にそういう発想するところが、あんたやはりアーティストだよ」
と松元さん。
 
千里は微笑んで、自分のバッグの中から五線紙を取りだした。
 
「私、実は魔法使いのお婆さんなんですよ。これもし良かったら使ってもらえませんか?」
と千里が言う。
 
「へ?」
と言って松元さんは千里から五線紙を受け取り、譜面を読んでいる。
 
「これ・・・・プロの曲だ。しかも凄く出来がいい。あなた誰?」
 
「名も無きしがないゴーストライターです。この曲、山下さんに会う直前に唐突に思いついて書きあげて、誰かビアンっぽい子に歌ってもらえないかなと思ってたんですよね。Xな子に歌ってもらえたら嬉しいです。あ、これ一応私の名刺」
 
と言って千里は《作曲家・鴨乃清見》の名刺を渡した。千里は普通は醍醐春海の方の名刺を使う。鴨乃清見の名刺は渡した人数が少ない。
 
「うっそー!? あなたが!」
「採用するかどうかは、加藤さんあたりと相談の上で決めて下さい」
「うん。あの人には話を通しておかないといけないけど」
「細かい条件は後日相談ということで」
「了解、了解」
 
そういう訳で、千里は制作進行中だったXANFUSのセカンド・アルバム(11.18発売)にスイート・ヴァニラズのゴーストライターで『私の彼女』を提供することになったのであった(名前はスイート・ヴァニラズにしたものの、Eliseはマージン無しで印税の全額を千里にくれた)。
 
なお、実はこのアルバム用の楽曲はお盆に雨宮先生から頼まれた楽曲リストにもあったのだが、千里は負荷オーバーということで断っていたのである。しかし結果的に書くことになった。もっとも雨宮先生からの話では東郷誠一さんのゴーストライターの予定だった。
 

病院の晩御飯が出て来たところで、桃香と一緒に病院を辞した。取り敢えず近くのファミレスに入って夕食を取った。
 
「作曲家さんだったんですか?」
 
「本職は巫女で、作曲家が副業かな。実はある偉い作曲家先生の弟子なんです。雑用ばかりしてますよ。突然呼び出されてコンサートやキャンペーンの伴奏したり、あるいは運転手したり。朝突然電話が掛かって来て、お昼までに1曲書いてなんて言われることもあります」
「凄い! それで書ける所が凄い!」
 
「だいたいその手の急ぐものはゴーストライターが多いです。だから誰々先生風に書いてとか指定されるんですよ」
「それで書けるって、器用なんですね!」
 
「この業界ゴースト多いですからね。実際私の作品の半分は他人の名前で発表されています」
 
「ああ、そういうものなんでしょうね。アイドル歌手が作詞作曲したことになってるのとか、たいていゴーストでしょ?」
 
「まあ多いですね。アイドル歌手はだいたい薄給なんで、印税を渡してあげる目的もあるんですけどね。一応本人にも少し書かせて、補作と称して事実上ほぼ全部プロが書いちゃうこともある。あまり良い習慣とは思いませんけど。給料自体を上げてしまうと、売れなくなった時に事務所も辛いから」
 
「なんかそれでよく揉めてますよね」
「独立移籍騒動になるのは、そのあたりの揉め事が多いですよ」
 
「でもさっきの人たちは有名な人?」
「結構売れてますよ。まあ名前は言わないことにします。あまり騒がれたくなさそうだったし。私も名も無き巫女ということで」
 
「じゃ私も名も無きレズっ子ということで」
 
それで握手してその日は別れた。
 
 
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【女子大生たちの路線変更】(1)