【夏の日の想い出・デイジーチェーン】(1)

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1996年8月18日(日)大安。
 
この日福岡市郊外のレジャープールで幼稚園年中の私と政子が初めて出会い、観覧車の中で一緒に唱歌の『海』を歌った。
 

同じ1996年8月18日。兵庫県西宮市の甲子園球場では第78回全国高等学校野球選手権大会、いわゆる夏の甲子園の三回戦が行われていた。
 
この日の第4試合、ベスト8の最後の1校を決める試合、京都M高校と愛媛E商業の試合は息詰まるような投手戦が展開され、8回を終わって0対0のままであった。
 
しかし9回表、M高校のエース自身がソロホームランを放ち、貴重な1点を取る。その裏E商業は、自ら勝ち越し点を挙げて調子に乗るM高校エースの前に2者連続三振で2アウト・ランナー無しの絶体絶命。
 
ここでE商業はこれまで甲子園で1度も出場していなかった16番の選手を代打に送る。速いストレートに全くタイミングが合わず2球続けて空振り。遊び玉せずに、更に剛速球で空振り三振。
 
でゲームセットかと思ったら、打者のバットの勢いが凄かったこともあり、ボールがきちんとキャッチャーミットに収まらず、ボールはコロコロとバックネット側へ。それを見た打者が1塁に全力疾走する。この打者走者が生きて(いわゆる振り逃げ)、E商業は土壇場で同点のランナーを出す。
 
悔しがるM高校のエース。
 
更にここでE商業は意表を突く初球セーフティーバントを敢行。これが美事に決まって2アウトながらも1塁・2塁として、打順は4番バッターである。ここでM高校のエースとE商業の4番との気力を尽くした勝負が展開される。変化球を1球も混ぜずに速球で勝負するエースに対して、4番打者も際どい所を全部ファウルして粘りに粘る。カウント2ストライク3ボールのまま投球は13球目。内角高めに来たボールを打者はフルスイングした。
 
しかし芯からわずかに外れていたようで、ボールはレフト方向センター寄りに高く上がる。M高校の左翼手が走り寄りながら高く手を挙げる。
 
この瞬間、この球場に居た全ての人、この試合をテレビ中継で見ていた全ての人がレフトフライでアウト、1対0でM高校の勝ちというのを確信した。
 
準々決勝に進出すれば、M高校にとっては10年ぶりに甲子園ベスト8である。
 

しかし。
 
左翼手はこのボールを捕れずに後ろにそらしてしまった。慌ててボールを追う。一方のE商業は2アウトでフルカウントなので2人のランナーが既に全力疾走している。
 
1人帰り、2人帰って来た時、ボールはやっと中継に入ったショートの所に戻って来たところであった。
 
逆転サヨナラでE商業の勝ち。
 
2塁上でガッツポーズの4番打者。
 
歓喜に沸くE商業の選手たち、そして愛媛県側応援席。
 
それに対して、打ち取ったと思っていたM高校のエースは呆然としてマウンドに立ち尽くし、他の選手も言葉を失っていた。そして京都府側の応援席はフライが上がった瞬間までは物凄い騒ぎだったのが一転してお葬式のようなムードに変化してしまった。
 

「ボールを取ろうとした瞬間、西日が目に入っちゃってさ。ボールが全く見えなくなった訳。勘で手を伸ばしたんだけど、ボールはグラブの右側をすっぽ抜けて行った。要するにちょっと手を伸ばしすぎたんだな」
 
「その時間帯は難しいですよ。運が悪かったとしか言いようが無い」
と私は言う。
 
「まあそれで、そこから先の記憶が途切れてるのよ。どうやって宿舎に戻り、どうやって地元まで帰ったかも全然覚えていない。そのあと8月いっぱい何をしていたかも覚えていない」
 
「ショックですよね」
 
「記憶に残っているのはとにかく9月になってからのみんなの視線が冷たかったということ。応援団の子に呼び出されて、校舎裏で殴る蹴るの暴行された。同じ野球部の子からツバ吐きかけられたし、スパイクに油掛けて燃やされた。下足箱の中に入れていた靴にカミソリが入れてあって、気づかなかったら大怪我するところだった」
 
「まあ気持ちは分かるけど、そういう陰湿ないじめは良くないですよ。学校の先生には言わなかったんですか?」
 
「先生自身が冷たかったよ。監督からもメチャクチャ殴られてたし」
 
「酷い監督だなあ」
「昔はそんな指導者ばかりだったのよ、どこも」
 

「それである日、男子5人に取り囲まれてさ。てめえ、もう男やめろよ。アレを切り落としてやろうか? なんて言うからさ、分かった。じゃ男はやめて女になるからと言って」
 
「へー!」
 
「私にひとりだけ優しくしてくれた女子マネの子に制服貸してもらってそれを着てその日は午後の授業を受けたのよ」
 
「凄い!」
 
「で、女子マネの子が、もし本当に女子制服着るのならと言って、予備の制服を持っている子に話付けてくれて、それを1着もらって、私は結局高校3年の残りは女子制服で学校に通ったのよ。でも女子制服を着て通うようになってからは、殴られたりとかはしなくなった」
 
「いや、それはその大胆な行動に、いじめていた子たちが引いちゃったんだと思います」
と私。
 
「両親は何か言わなかったんですか?」
と運転席に座っている千里が尋ねる。
 
「母親は『とうとう決断したのね』と言った」
「理解がありますね」
 
「父親は『気色悪いことやめろ。そんな服を着るのならチンポ切り落としてやろうか』と言うからさ、『自分で切り落とす勇気がないのよね。お父さんが切り落としてくれるのならお願い』と言ったら黙った」
「凄い。完璧に開き直りか」
 

「まあそれで大学受験も高校の女子制服で受けたし、大学はスカート穿いて通ったよ。住んでいたアパートの大家さんは最初から私は女だと思い込んでいたみたい。大学では男声合唱部に入ろうと思ったんだけど、門前払いされちゃってさあ」
 
「そりゃ門前払いされますよ」
 
「仕方ないから混声合唱部に入ったんだけど、私テノールだって言うのに、アルトに入れられちゃうし」
「あはは」
 
「でもそこで活動しているうちに『君、ほんとうは男の子なんだって?』とか言われて。『私はふつうの男ですけど』と言ったら『いや絶対普通じゃない』と言われて。失礼しちゃうわ」
 
「いや、それ言った人に同意します」
「まあそれでヴィジュアル系のバンドに誘われて混声合唱団の傍ら、そこで1年くらい活動したのよ」
 
「なるほどー」
 
「でも私、男だってのを観客に信じてもらえなくてさー」
「それ分かります」
「女を入れてるんじゃヴィジュアル系じゃないよなあ、とか影で言われて」
「確かに」
 
「基本的にはボーカル兼ピアニストだったんだけど、曲によってはピアノが不要な曲も多いじゃん」
「まあロック系の曲は、ギター・ベース・ドラムスだけあればいいから」
 
「それで他の楽器も覚えたいなと思って、サクソフォンを練習し始めたのよ」
「じゃ大学に入ってから始めたんですか!」
 
「元々私野球選手だから腕力とか肺活量とかはあるからさ。管楽器とは相性が良かったんだよ。ピアノは小学生の時からやってたから指の力もあるし」
 
「じゃほんとによく練習したんですね」
「結局、2年生で専門課程に進学する段階でそのバンドが解散して。その後、ひとりでよく公園でサックス練習してたら、上島にナンパされてさ」
 
「ナンパだったんだ!」
 
私も千里も吹き出した。
 
「君可愛いね。サックスも上手いねって」
「じゃ、上島先生は雨宮先生のこと、女の子と思って声掛けたんですか?」
 
「それでその日の内にホテルに行ってさ」
「えーーーー!?」
 
「嘘!? 君男の子だったの!?って、ベッドの中で言われた」
 
「で、やっちゃったんですか?」
と千里が訊く。
 
「もちろん。男の子を誘ってしまったのは不覚だけど、ホテルに誘った以上どんな子とでもちゃんと最後までやるのがポリシーだと言って」
 
「さすが上島先生」
 
「でも雷ちゃんとセックスしたのは、その1度だけだよ。雷ちゃんは男の子ともするけど、基本的には女の子の方がいいみたいだから」
 
「男女どちらも行ける雨宮先生とは違う点でしょ」
「まあね〜。それで雷ちゃんが組んでたバンドにサックス奏者として入ることになって」
 
「それがワンバンですか?」
「そそ。当時、ギター・ベース・ドラムス・キーボード・サックス・ユーフォニウムという6ピースだったのよ。ギターの奴がメインボーカルで」
 
「ユーフォが入るのか」
と千里が驚いたように言う。千里もこの頃の話は聞いたことが無かったのだろう。
 
「上島先生も雨宮先生もボーカルじゃなかったんですか?」
と私が訊く。
 
「サックス吹きながら歌えないし、上島さんは弾き語りが苦手だったはず」
と千里が言う。
 
「そうそう。雷ちゃんは歌も上手いしキーボードプレイもうまいけど、それを同時には出来ないという大きな欠点がある」
と雨宮先生。
 
「なるほど!そうだった」
 
「で、女の子がサックス吹いてるのは珍しいってんで評判になったのよ。私は男ですって言うのに、観客が誰も信じてくれないし」
 
「えーっと、何か突っ込むべきなんだろうか・・・」
と私。
「この際スルーで」
と千里。
 
「その内、ギターの奴が辞めちゃって、代わりにスカウトしたのが上島と同じクラスだった高岡だったのよね。歌は上手かったけどギターは弾いたことがないと言っていた。高岡は貧乏だったし、ギターを買えないというので、私と雷ちゃんが半分ずつ出してヤマハの安いエレキギターを買ってやって」
 
「しかしみんな大学から始めたのに、ほんとにうまくなったんですね」
「高岡は毎日4−5時間ギターの練習していたみたいだよ」
「頑張りましたね」
 
「水上さんと三宅さんは別のバンドだったんでしょ?」
と千里が訊く。
 
「そうそう。あいつらはドグドグというバンドだったのよ。練習場所でかちあったり、コンテストで会ったりして、結構顔は知ってた」
 
「下川先生はまた別なんでしょう?」
と私が訊く。
 
「うん。あいつはひとりでDTMやってたんだよ。結構niftyとかに作品を発表していた」
「なるほどー」
 

「まあそれで大学4年の夏に、ワンバンが大きな大会で優勝して。それでスカウトされたんだけど、メンバー間にプロになることへの温度差があってさ」
 
「いやそれは悩むと思いますよ。せっかく△△△大学出たのにと親も思うでしょ」
 
「それで結局、私と雷ちゃんと高岡の3人だけプロになることになった。ユーフォニウムはいいとしても、ベースとドラムスが足りないから、知り合いだったドグドグの水上と三宅に声を掛けた。向こうは4年生のメンバーが抜けた後、3年生以下のメンバーに補充メンバーを入れて活動を継続した」
 
「ワンバンは解散ですか?」
「そそ。全員4年生だったからね。それでプロになるのに新しい名前を考えようというので、よく練習で使っていたスタジオがムーという名前だったんで、それからアトランティスを連想して、ワンバンとアトランティスからワンティスという名前を作った」
 
「結局スタート時点では8人ですよね?」
「うん。ただし正メンバーは6人。高岡・上島・私・下川・水上・三宅。それに高岡の彼女の夕香と、その妹の支香はサポートメンバーのコーラス隊」
 
「だけど考えてみると龍虎って、そのワンティスがデビューした年に生まれたんでしょ?」
「そうなんだよ。あの年、支香は学生だから、ワンティスのライブとかによく出てきていたけど、夕香の方は会社勤めだからといって出席率が悪かったんだよ。後から考えてみたら、お腹に赤ちゃん入れてたから、休んでたんだろうな。会社勤めしてるというのも嘘だったんだと思う」
 
「なぜ赤ちゃんまで出来ているのに結婚しなかったんでしょうね?」
 
「下川はもしかして事務所から結婚に反対されていたのではと言っていた。でも高岡も夕香も、事務所の社長も死んでしまったから、もう真相は分からないね」
 
と雨宮先生は言った。
 
私は高岡さんと夕香さんがデートしている現場を目撃して、幼心に嫉妬を覚えた時のことをふと思い出した。
 

ちょっと会話が途切れたところで、エルグランドの3列目シートに乗っている、★★レコードのドライバー矢鳴さんが言った。
 
「でも醍醐先生、凄く運転がうまいですね」
「まあ私は雨宮先生のドライバーだから」
と千里は答える。
 
この日、私たちは、私が先日買ったぱかりのエルグランドに乗って小田原市に向かっていた。1月31日と2月1日の2日間の日程で関東クラブバスケット選手権という大会が行われるのである。この大会に私がオーナーを務める千葉ローキューツというチームと、千里がオーナーを務める東京40minutesというチームが参加していた。
 
選手は(千里以外)どちらも新幹線で小田原入りしているのだが、練習用のボールなど細々とした道具類を運ぶのにこの車で初遠出をすることになった。半分は試運転を兼ねたものである。乗っているのは私と千里、なぜか雨宮先生、そして★★レコードが付けてくれたドライバーの矢鳴美里さんの4人である。
 
矢鳴さんは醍醐春海(千里)の第1優先ドライバーで私や千里が疲れた時のために同行してくれる。ちなみにローズ+リリーの第1優先ドライバーの佐良しのぶさんは都内で政子の運転の練習に付き合っている。
 
私がここ数日、4日のKARIONのアルバム発売、7日からのツアーのため準備作業で忙殺されていたので、運転は「することがない。暇だ」などと言っていた千里にお願いした。助手席に私が乗り、2列目に雨宮先生、3列目に矢鳴さんが乗っていた。
 
「この子はライセンスも持っているよ」
と雨宮先生が言う。
 
「凄い。何を持っているんですか?」
と矢鳴さんが訊く。
 
「国内A級しか持ってないですよぉ」
と千里。
 
「A級って凄いじゃん」
と私が言う。
 
「いや、B級は簡単に取れるし、A級も1日で取れるので。鈴鹿に行って取ってきましたよ。雨宮先生に言われて」
 
なるほど〜。その場面が目に浮かぶようである。
 
「じゃ次は国際C級を取りましょう」
と矢鳴さん。
 
「お金が掛かりますよ〜」
「確かにあれはレースに参加するための装備が大変だもんなあ」
「維持費もかかりますよ〜。B級ほどじゃないけど」
 
「いや。私も実は一時期B級持ってたんですけど、あれずっとレースに出てないと維持できないから、諦めてC級に落としました」
と矢鳴さんは言っている。
 
「C級は一応更新料払っていれば維持できますからね。高いけど」
「そうなんですよ。」
 
「国際C級ってレースに出さえすれば取れるの?」
と雨宮先生が訊く。
 
「どこかのクラブに所属してないと事実上無理です。それで1年以内に公認のレースで2度以上決勝進出して順位認定されるか、6回以上スピード行事かラリーを完走する必要があります」
 
「結構厳しいね」
「ですよ」
「ね、あんたのツテでそういうレースに参加できる車とかを借りられる所ある?」
と雨宮先生が訊く。
 
私はいやーな予感がしたが、千里はもっと嫌そうな顔をしている。
 
「ええ。うちのクラブに入ってもらったら貸せますよ。ただ、身体に身につけるものは個人で買わないといけません。ヘルメットとかグローブとかレース用の難燃性下着や靴下とか」
 
「それいくらくらい?」
「100万くらいかかりますけど」
 
「よし。うちの醍醐を頼めないかしら。その100万は私が出してあげるわ」
と雨宮先生。
 
「いいですよ。これだけ運転のうまい人なら推薦できます」
と矢鳴さん。
 
私は「やっぱり」と思ったが、千里も首を振っていた。
 

「そういえば、結局ドライバー・チームって何人で発足したんですかね?」
と私は矢鳴さんに尋ねた。
 
「ケイ先生・マリ先生担当の佐良、醍醐先生担当の私、Elise先生・Londa先生担当の佳田。この3人が★★レコードの染宮さんと同じモータークラブの仲間で、染宮さんからの推薦で入ることになったんですよ。3人とも2月までに各々のバイトを辞めることになっています。上島先生と下川先生は話を聞かれて各々自分で運転手を雇うとおっしゃって、雨宮先生も既にドライバーがいるからとお断りになられたので」
 
と矢鳴さんが言っているので運転している千里が苦笑している。雨宮先生の弟子兼ドライバーは千里を含めて全国に10人くらい居るようである。
 
「それで上島担当で入る予定だった桜井が取り敢えず遊軍待機で、後藤先生と田中先生を主として対応する予定です。染宮さんも頭数が揃うまでは今の仕事から取り敢えず外れてドライバーをするらしいので、現在は染宮さんまで入れて男2女3の5人ですね。あと5人くらい増やすらしいです」
 
「なるほど。でもある程度の腕のドライバーさんって、何か仕事してるだろうし、すぐには集まりませんよね」
 
「そうなんですよね。それに女は割と簡単に仕事を辞めさせてもらえる人が多いのですが、男性は大変みたいで。桜井さんはたまたま前の仕事を年末いっぱいでやめて求職中だったんですよね」
 
「だけどきっと上島は浮気現場に行くのに★★レコードの人を使いたくないからことわったんじゃないかしら」
などと雨宮先生は言っている。
 
「私たちは違法なことをしていない限り、浮気だろうとSMクラブ通いだろうと応じるように言われています。守秘義務についても厳しく言われているので行き先は日誌には正確に書きますが、上には市区名までしか報告しないことになっています。日誌は管理者の鶴見係長も閲覧しないことにしています」
 
と矢鳴さん。
 
「ええ。守秘義務の問題を考えると個人的に雇う運転者の方が怪しい気がしますよ。それでも上島先生、やはり後ろめたいから★★レコードの人を使いたくないのでしょうね」
 
と私も言っておいた。
 

「矢鳴さんはコンビニのバイトをしておられると言っておられましたね。会社勤めとかはなさってなかったんですか?」
 
「高校出た後コンピュータの専門学校に2年行って、そのあとソフトハウスに入ったんですよ」
「おぉ、凄い」
「5年ほど勤めて辞めました」
「5年続いたら偉い気がします」
「あの業界は1年以内に辞める人が多いです。体力がもたないんですよ」
 
「女性でもどんどん深夜労働がありますからね」
「それで代休も取れないし。いわゆるデスマーチ(Death March)に入ってしまうと1日20時間くらい仕事します。1ヶ月の残業時間は300時間を越える。ほとんど自宅に帰られなくなりますから。私も当時は洗濯する時間が取れなくて、着替えが無くなっちゃうし。仕方ないから洗濯カゴの中でいちばん汚れの少なそうなのを着て出ていく。もう女としてどうなんだ?とか言ってられないレベルでしたね」
 
「そういう話もよく聞きますね」
と千里は他人事のように言っている。
 
「だからコンビニで深夜のシフトに入っても全然平気なんですよ。あれを経験していたら大したことないですから」
 

「千里どう? そういう話を聞いて。ほんとにソフトハウス入る?」
と私は尋ねる。
 
「うーん。折角採用してもらったから、まあ取り敢えず1年くらい頑張ってみるよ」
と千里。
 
「醍醐先生、ソフトハウスに就職なさるんですか?」
と矢鳴さんが驚いたように言う。
 
「そうなのよ。やめとけばいいのにさ」
と雨宮先生。
 
「まあ、なりゆきですね。そうそう。こないだその会社に書類を出しに行ったんですけど、行ったら社内がパニック中で」
「へ?」
「なんでも翌日の朝10時に納品予定のシステムのソースファイルを格納していたディスクが飛んだらしくて、最新のリストから入力し直しているとかで」
 
「そんなのRAIDになってないの〜?」
「2台同時に死んだらしい」
「きゃー。よりによって納品間際に」
「いや、その手のトラブルってそういう時に起きがちなんですよ。納期間近ってみんな殺気立ってるし疲れてるしでミスも起きやすい。私が勤めていた会社でも明日が納期って時にホストのハードディスクを間違って初期化しちゃった人がいて」
と矢鳴さん。
 
「ぎゃー」
「その時も社員総出で必死でリストから入力しましたよ」
 
「そういう訳で私もソースの入力に動員されちゃったんですよ。書類出しに行っただけのつもりが徹夜でソースを入力しました」
と千里。
「お疲れ様!」
 
「でも私が入力したソースは1本もエラーが出なかったと褒められた」
「それは偉いです」
「千里、パソコン自体は慣れてるもんね」
 

「だけどやはり体力が続かなくて辞める人が多いですよ。《IT土方》なんて言いますけどね。私が勤めていた会社では身体障害者の方にも積極的に門戸を開こうというので、車椅子の人を採用したことあったんですけどね。彼を入れるのにトイレとかも大改造したりして。ところが半年で会社に来なくなっちゃって」
と矢鳴さんが言う。
 
「ああ」
「ごめんなさい。僕にはもう無理です、と」
 
「ふつうの身体の人でもきついですからね」
と私。
 
「でも私、深夜労働自体は今まででもしてたから」
と千里は言う。
 
「確かにファミレスの深夜勤務もきつそうだよね。それで千里昼間は大学に行って講義聴いたりゼミやってたりしていたわけだし」
 
「まあファミレスの待機時間にゼミの準備してたけどね。あれって1回分のゼミの準備に100時間は掛かるんだよ」
 
「寝る暇無いじゃん」
「まあそのあたりは適当に。それに私、バスケ選手だから体力はあるし」
「そうだ、千里、そのバスケの日本代表とかはどうするの?」
 
「それは専務さんに言った。日本代表の合宿とか大会は平日にぶつかっても行っていいって。クラブの大会はだいたい土日だから何とかなる」
 
「良かったね」
「まあ入社1年目じゃプロジェクトリーダーとかやることもないだろうし」
「確かに」
 

矢鳴さんは、大会の間はずっと宿で待機になるはずだったのだが、雨宮先生が「ちょっとお願いしてもいい?」などというので、雨宮先生を乗せて小田原市内あるいは近郊のどこかに行ったようである。
 
彼女の所にでも行ったのかな?と私も千里も想像したが、むろん矢鳴さんはきちんと守秘義務を守り、どこに行ったかについては私たちにも話さない。しかし、ただひたすら待機しているのも結構辛いので、矢鳴さんとしては適度に運転できて気分も良かったようである。
 
大会は男女とも16チームが参加している。初日は1回戦の8試合ずつ、2回戦の4試合ずつの合計24試合が行われた。千里たちの40minutesは初戦で茨城のチームに勝った後、2回戦で栃木のチームとの接戦を制して準決勝に進出した。私がオーナーを務めるローキューツの方は初戦で埼玉のチームに勝ち、2回戦で神奈川のチームに勝って準決勝に進出した。
 
これでどちらもBEST4に入ったので、全日本クラブ選手権に進出することが確定した。
 

「そちら準決勝進出おめでとう」
「そちらも準決勝進出おめでとう」
 
とその晩、私と千里は電話で言い合った。両チームは別の旅館に泊まっている。
 
「でも明日はいよいよ決戦だね」
「うん。まあお互い頑張ろう」
「選抜の出場権を掛けて勝負だね」
 
この大会で5位以内は3月の「全日本クラブ選手権」に出場できるのだが、更に2位以内になると9月に行われる「全日本クラブ選抜」にも出場できるのである。そして明日の準決勝では、40minutesとローキューツが激突する。つまりどちらかは選抜に行くことができるが、片方は涙を呑むことになる。
 

翌日2月1日。朝10時から女子の準決勝2試合が隣のコートで同時に行われる。Bコートが東京40minutes対千葉ローキューツ、Cコートは東京江戸娘対茨城サンロード・スタンダーズという組合せだった。
 
40minutes対ローキューツの試合はローキューツのOGが何人も40minutesに在籍していて、試合前お互いに手を振り合ったりする和気藹々ムードで始まるが、試合開始のジャンプボールの後はお互い激しい闘志を燃やした試合となる。
 
ローキューツ側がキャプテンの薫や水嶋ソフィア・風谷翠花などを中心に激しく攻め立てる一方、40minutesはポイントガードの森田からフォワードの竹宮・溝口を使い分ける攻撃が相手を翻弄し、少しでも油断すると千里のスリーが来るのでこちらは防御がしづらい感じである。
 
試合は前半はシーソーゲームで推移したものの、後半40minutesが中嶋・橋田を投入したあたりで差が付き始める。40minutesは年齢層が高く体力では劣るものの選手層が厚く、若くて体力があるものの10人で戦っているローキューツは後の方になるとさすがに運動量が落ちてくる(この大会は選手が16人までエントリーできて、40minutesは16人入れている)。
 
結局92対82で40minutesが勝利。千里たちが選抜大会の切符を獲得した。
 
試合後、お互い笑顔でハグしあっている様子が見ていて気持ち良かった。
 

男子の試合をはさんで、3位決定戦と決勝戦が同時進行で行われ、3位決定戦では私のローキューツがサンロード・スタンダーズを倒した。
 
一方の決勝戦は江戸娘対40minutesという、東京都予選の再現となる。東京都予選の時は40minutesは実は9人しか来ていなかったのが今回は16人来ていて戦力が整っていたことから、体力に余力がある40minutesが準決勝の疲れが残る江戸娘を圧倒して勝利。優勝した。表彰式では1位40minutesの左右に江戸娘とローキューツが並ぶ形になった。
 

祝賀会を「お互い知り合いばかりだし」ということで、40minutes,ローキューツ、江戸娘の3チーム合同でやることになった。
 
「へー、ローキューツのオーナーが交代したのか」
と江戸娘の人たちから声が出る。
 
「皆さんよろしくお願いします。オーナーと言っても大会の参加費や遠征費を出すだけで何もしませんけどね」
と私。
 
「いや、それだけでもありがたい」
「今回の大会もうちは車の乗り合いで来ているし」
 
「だったら取り敢えずこの打ち上げの会計は全部ケイが出しますよ」
と打ち上げだけ出席している雨宮先生が言う。
 
へ?
 
「お、凄い!」
「ごちになります!」
「たくさん食べていいですか?」
と江戸娘の人たち。
 
「どうぞどうぞ」
と雨宮先生が言っている。
 
「雨宮先生、ここは自分のおごりだとおっしゃるかと思いました」
と千里が笑いながら言っている。
 
「そりゃ、こういうのはお金持ちに出させなきゃ」
と雨宮先生。
 
まいっか。
 
「でも江戸娘さんほどの強いチームなら、どこかスポンサーが付きませんかね」
「企業から声を掛けられたことはあるんですけどね」
「自主クラブチームならではの自由さをむさぼっているからなあ」
「まあスポンサーが付くと、それなりの義務も出てくるでしょうね」
「そうなんですよ」
 
「ただ、どうしても現状みたいに全部個人負担だと、経済的に続けられずに辞めていく子もけっこういるんだよね」
「そうそう。それでどうしても戦力が伸びないんだ」
などという声もあがっている。
 
「その年間の経費ってどのくらい掛かるの?」
と雨宮さんが千里に訊いている。
 
「昨年のローキューツは色々大会に出たので200万、40minutesはまだ結成1年目で遠征が少なかったから50万円くらいでしたよ」
と千里。
 
「じゃ大いに活躍しても500万は超えないよね?」
「そこまで行くともうプロチームレベルだと思います」
と千里。
 
「だと思います。そんなに頻繁に大会に出ていたら、さすがに会社クビになっちゃいますよ」
と江戸娘OG(江戸娘の創設者らしい)で現在は40minutesのキャプテンを務める秋葉さんが言う。
 
「よし。だったらそれ上島雷太に出させよう」
「おぉ!」
 
「企業とかなら縛りが出そうだけど、作曲家なら構わないでしょ?」
と雨宮先生が訊くと
 
「上島雷太先生が出資してくださるのでしたら大歓迎です」
と江戸娘のキャプテンの青山さんが隣に座っている監督さんを見ながら言う。
 
「じゃ今度引き合わせるよ」
「よろしくお願いします」
それで雨宮先生は江戸娘のキャプテン・監督とアドレスの交換をしていた。
 
「だけど雨宮先生、ご自分で出すんじゃなくて、上島先生に頼むんですね?」
と私は訊く。
 
「そりゃ、こういうのはお金持ちに出させなきゃ」
と雨宮先生は言った。
 

小田原からの帰りの運転は、千里が試合で疲れているので矢鳴さんにお願いした。ということでエルグランドの初遠出は往復とも私は運転しなかったのだが、千里にしても矢鳴さんにしても、ほんとに運転がうまく乗り心地がいいので、私は行きも帰りも結構助手席で眠っていた。
 
東京に着くとまず雨宮先生を御自宅で降ろし、それから恵比寿の私のマンションに戻る。ここから★★レコードまでは歩いて行ける距離である。一応矢鳴さんはそちらに寄ってから自宅に戻るということであった。千里は千葉まで戻るのもしんどいし泊めてというので泊めることにする。
 
「桃香がまた彼女連れ込んでいるみたいでさ」
と千里は言う。
 
「千里と桃香の関係ってどうなっている訳?」
と私は尋ねる。
 
「土日は桃香は誰か他の子とデートしているものと私は割り切っている」
「桃香のこと好きじゃないの?」
「正直、私は女の子には興味ないから」
「むむむ」
「実際問題として、半ば家族のような感覚。友だち以上恋人未満ってところかなあ。まあ桃香とは日常的にセックスはしてるけどね。たぶん冬と木原さんの50倍はセックスしてるよ」
 
「うっ」
 
話が突然こちらに飛んできたので私は焦る。
 
「冬も本当は男の子には興味無いんじゃないの?実は政子ひとすじでしょ?」
「えー!? そんなことないけどなあ」
「冬の前だから言うけどさ。私は今でも貴司のことが好きなんだよ」
と千里は言った。
 
「他の女性と結婚しちゃっても好きなんだ?」
「うん」
と頷く千里を私は凄く可愛いと思った。
 
「千里、実は細川さんとセックスもしてるでしょ?」
 
その問いかけに対して千里は照れるような笑いを見せた。そして言った。
 
「好きな人がふたり居る状態ってさ、実は二等辺三角形じゃないよね。どうしても不等辺三角形になると思う」
 
千里がそんなことを言った時、私の脳裏に唐突にインスピレーションが湧いた。そして次の瞬間、千里はバッグの中からさっと五線紙と万年筆を出して私に渡した。
 
「あ、ありがとう」
「いい曲書いてね」
「うん」
 

千里と一緒にエレベータを出て部屋に戻ると、政子が裸で居間の床に寝転がり
「冬〜。お腹空いた」
などと言う。
 
私が千里を連れていたのでビクっとしたようだが、千里ならいいかという感じで結局、服を着に行く気配は無い。
 
「じゃ、私が何か作るよ。冬はその曲をまとめているといいよ」
と千里が言うので、お願いすることにした。
 
千里は冷凍室の中身をチェックして、豚肉を解凍しはじめる。一方でキャベツとピーマンを切る。30分くらいで巨大中華鍋にたっぷりの回鍋肉(ホイコーロー)ができあがった。
 
政子は結局裸のままテーブルに座り
「美味しい美味しい」
と言って食べている。
 
私はその様子を微笑んで見ながら曲を仕上げていった。おおかた書き上げてからタイトルの所に『scalene triangle』と書いた。するとひとりで中華鍋の中身の9割ほどを食べた政子が、少しお腹が満ち足りたようで、譜面を覗く。
 
「これ恋歌だね」
「うん。歌詞付けられる?」
「任せなさい」
と言って政子は私が持っていた万年筆を受け取ると、スイスイと歌詞を譜面に書き込んでいく。
 
私はいつものことなので頷きながら見ていたが、千里は
「すごいね。ちゃんと冬が思いついたであろうイメージと同じ内容の歌詞になっている」
と感心したように言った。
 
「私と冬は以心伝心だから」
と政子。
「結婚して・・・3年くらい?」
と千里が尋ねる。
 
「結婚式を挙げたのは2012年3月11日」
と私が答えると
「よく覚えてるね!」
と政子は言う。
 
「でも政子、その日の曜日と六曜は分かるよね?」
と千里が訊くと、政子は歌詞を書きながら
 
「2012年3月11日なら、日曜日で友引」
と即答する。
 
「さすがさすが」
 
「この手の計算能力って一生維持できるものだと思う?」
と私は千里に訊く。
 
「昔の大数学者とかには、そういう能力を一生持ち続けた人が多い。記録を見てみると、気の遠くなるような桁数の連分数の計算とかをほとんど暗算でやっていたりするっぽいんだよね。そういう人たちが天体の軌道計算とかをしていたんだよ」
 
と千里が答える。
 
その時、私は新たに曲の発想が得られた。
 
「五線紙どうぞ」
と千里が差し出す。
 
「ありがとう」
と言い、私は机から《金の情熱》を取り出すと、五線紙にメロディーを書き込んで行った。
 
タイトルの所には『Daisy Chain』と書いた。
 
連分数→数珠つなぎ→デイジーチェーンという連想であった。
 

作詞中の政子、作曲中の私を見て微笑みながら千里がコーヒーを入れてくれてファンから頂いたお菓子の箱をひとつ持って来て開けてくれた。
 
「さんきゅ、さんきゅ」
と良いながら政子はチョコレート菓子をつまみながらペンを走らせていた。
 
「でもこの万年筆すごく書きやすい。誰の?」
と政子が訊く。
 
「私のだよ」
と千里。
 
「もらえないよね?」
と政子。
「ダメ」
と千里。
「ケチ」
「それ大事な万年筆だもん」
 
「それ今気付いたけど、何か文字が書かれている」
と私。
 
「ん・・ 3P Champion 2011 FIBA world... エフ・アイ・ビー・エーってどういう意味だっけ?」
 
と政子は文字を途中まで読んでから千里に訊いた。
 
「フェデラッション・アンテルナショナル・ドゥ・バスケットボル(Federation Internationale de BAsket-ball)」
と千里は美しいフランス語で発音した。
 
「あ、バスケットボールの国際協会か。なんかの大会でもらったの?」
政子は音で聞いただけで分かったようである
 
「まあね。でも、そんなの過去の栄光だよ。過去の栄光にしがみついていたら、自分も過去の人になってしまう。だから私はこういう記念品はどんどん普段使いにする。さすがに人にはあげないけど。でもまあ、運が良ければ将来新たな栄光を得られるかも知れないけどね」
 
と千里は言う。
 
私はそれってローズ+リリーについても言えるぞと思った。ローズ+リリーはここ2年くらい、ある意味最高の時間を過ごした。正直、将来これ以上評価をされることはないと思う。現在続いている連続ミリオン記録もたぶん今年中には途切れてしまうだろう。しかしその「栄光」にだけひたっていたら、自分達はすぐに人々から忘れ去られるだろう。
 
そんなことを考えていたら政子が質問する。
 
「この3Pって、3人でセックスすること?」
 
私も千里もつい吹き出してしまった。
 
そしてこの日政子はずっと裸のままであった。
 

2月4日にKARIONの新しいアルバム『四・十二・二十四』が発売された。私たちは当日★★レコードで発表記者会見に臨んだ。
 
この席では、小風・和泉・蘭子・美空が各々、四・十二・二十・四と書いた服を着てこの順序で横に並ぶ。すると文字が回文になっているのである。
 
この場でTravelling Bellsにも入ってもらい『Around the Wards in 60 minutes』、『黄金の琵琶』、『皿飛ぶ夕暮れ時』の3曲を演奏した。『黄金の琵琶』にフィーチャーされている琵琶は風帆伯母のツテで関東在住の40代女性師範・本田旭昭さんという方に弾いて頂いたが、素晴らしい琵琶の音にKARIONの歌が完璧にかすんでしまったものの物凄く大きな拍手が送られた。
 
そして最後の『皿飛ぶ夕暮れ時』の間奏部分では記者会見場の壁際に密かに立っていた《JAPAN》のユニフォームを着た千里が床に置いていたバッグの中に隠していた焼きそばの皿を投げ、私たちが先ほどまで座っていたテーブル中央に何気なく書いていた×印の場所にピタリと停止させた。
 
歌の最中であるにも関わらず、会見場内から
 
「え〜〜〜!?」
 
という声が多数あがる。
 
千里は投げ終えるとすぐ、手を振って記者会見室から出たものの、ひとりのカメラマンが追ってきて「済みません。お名前を教えてください。バスケット選手の方ですか?そのユニフォームは日本代表のものですよね?」と訊いたので、千里は
 
「ユニバーシアード日本代表候補のシューティングガード村山です。現在日本バスケットボール協会が進めている大改革に国民のみなさんからも励ましを頂けたら幸いです」
 
と笑顔で答えたのが、その局の番組にだけ流れた(このパフォーマンスはむろんバスケ協会の承認済)。
 
しかしこの報道映像はすぐに動画掲載サイトに(違法に)転載され、後で聞いた話では、その映像を見たバスケットA代表のシューター花園さんがメラメラと闘志を燃え上がらせ、その週末の試合では物凄いスリーポイントの嵐を見せたという。
 
そういう訳でこの記者会見では、タイトル曲の『Around the Wards in 60 minutes』が、最も印象薄くなってしまったようであった!!
 

2月5日の夕方、私は思わぬ人物から連絡を受けた。政子がその日は美空・穂花と3人でお寿司の食べ放題に出かけて行っていたので(お出入り禁止にならなければいいが)、政子のリーフを借りて、彼に会いに埼玉県某所に出かけて行った。
 
彼は学生らしいコートを着て待ち合わせ場所に居た。リーフの助手席に乗せて取り敢えず道を走る。
 
「どこかお店とかに入る?」
「いえ。もし良かったらこの車の中で。あまり人に聞かれたくないので」
 
と龍虎(アクア)は言った。
 
「じゃドライブスルーで食糧を調達しよう」
と言って、ちょうど見かけたモスバーガーのドライブスルーで、モスバーガーのサラダ・コーヒーセット、ライスバーガー海鮮かきあげのサラダセット・ウーロン茶をオーダーした。
 
「おごりね」
「ありがとうございます」
 
「でもノンカロリーのサイドメニューだね」
と私は言う。このくらいの世代の子はポテトなどを食べたがる。
 
「実は少食なんです」
「龍虎君、身長体重は?」
「155cm, 35kgです」
「細い!」
「事務所からはこのままの体重でいいと言われています。むしろこれ以上体重が落ちないようにしろと言われてるんですよ」
 
「あそこの事務所は女の子たちも体重が軽くなりすぎないように言っているみたいね」
 
「桜野みちるさんから、私より軽いじゃんと言われました。でも体質的に痩せにくい人も居て苦労してた子もいたよと田所さんが言っておられました」
 
「うん。そのあたりはどうしても体質の差があるからね」
「僕は少々食べても太らないんですよ。やはり小さい頃大病したせいかなとも思うんですけどね」
 
「そのあたり、上島先生も心配してたよ」
「上島のおじさんは僕にとって『もうひとりのお父さん』だったんですよ」
「だいぶ遊びに連れて行ってもらったりしたんでしょ?」
「そうなんです。田代のお父さんは学校の先生で、部活の顧問とかもしてたから、土日も忙しくて。遊園地に連れて行ってくれたりしてたのは実は上島のおじさんなんです」
 

「それで実はちょっとご相談したいことがあって」
「うん。私で相談相手になることなら」
 
「実は自分の声のことで悩んでいるんです」
「ふーん。声変わりが遅れていること?」
「実は声変わりが来て欲しくないなと思ってて」
「なるほどー」
 
「でも僕、女の子になりたいとかじゃないんです」
「うん。君は男として生きたいんでしょ?」
「はい。でも今自分が持っているソプラノボイスは維持できないかなというのもあって」
「なるほどね」
 
「だから睾丸を取っちゃうとかは嫌なんですよ。川南さんからは取っちゃえ取っちゃえとか言われるけど」
 
「まあ睾丸取れば、おちんちんも機能を失うだろうしね」
「やっぱりそうですよね?」
「睾丸を取ったら、ほとんどの人がおちんちんは立たなくなるよ」
「やっぱりそれ嫌だ」
 
「あと子供も作れなくなるし」
「それですけど、何となくですけど」
「うん」
「僕、子供は作れない気がしてるんです」
「検査とかしてもらった?」
「お医者さんに見せたら、男性ホルモン処方されそうだから」
「ああ、それは最悪だね」
 
「だからこんなの変だって言われそうなんだけど、ソプラノボイスは維持したいけど、睾丸は取られたくないし、子供はどっちみち作れないんじゃないかとは思っているけど、男の機能は維持したいんです」
 
「女の子とセックスできる能力だよね?」
と私が尋ねると、龍虎は恥ずかしがっている。
 
「実は僕、セックスってよく分かってなくて」
「まあそれはその内自然に分かると思うよ」
「はい。ただ、おちんちんが大きくならないといけないんでしょ?」
「そうだよ。君、オナニーはしないと言ってたね」
 
「え〜?それ誰から聞いたんですか?」
「たぶん川南ちゃん経由、千里経由だな」
「ずっと我慢してます。実はおちんちんいじるのは悪いことのような気がして。やはりちゃんとオナニーしないといけないのでしょうか?」
 
「そんなことないと思うよ。無理してする必要はないよ。夢精はする?」
「します。2〜3ヶ月に1度、出ていることがあるんです。出そうな晩は何となく予感がするんで、ティッシュをパンツにはさんで寝ます。すると朝起きると出てるんです」
 
「まるで女の子の生理みたいだね」
「実は・・・・」
「ん?」
「女の子の生理用ナプキンを当ててみたこともあります」
「どうだった?」
「ナプキンは精液を吸収してくれないんですよ!」
「だよねー。実は私も男の子時代にそれで困った」
 
「ケイさんって、ほんとに男の子だったんですか?」
「そうだよ」
「千里さんが男の子だっというのも時々嘘なんじゃないかと思ったりするんですけど」
「ああ。それは私と千里はお互いによく言い合っているよ」
 
「ケイさんも夢精してたんですか?」
「私はナプキンの上にティッシュをはさんでいた」
「なるほどー!」
「ティッシュだけだと、全部吸収しきれなくてパンティを汚してしまう。だからナプキンをしておくんだけど、ナプキンだけだと全く吸収してくれない。それでナプキンの内側にティッシュをはさむんだよ。こうするとティッシュが精液を吸収してくれるし、ナプキンがあるからパンティーは汚れないんだ」
 
「やってみます!」
 
そんなことを嬉しそうに言う龍虎が私にはとても可愛く見えた。
 

私は車を脇に寄せて、アクアの事務所の社長・紅川さんに電話した。
 
「おはようございます。ケイです。ちょっとお願いがあるのですが」
「おはよう。何だろ?」
「今度デビューするアクアちゃんですけど」
「うん」
「急で申し訳ないのですが3月15日にちょっと借りられません?」
「ちょっと待って」
 
紅川さんはスケジュールを確認しているようである。
 
「その日は雑誌の取材が入っていたんだけど、これは動かせる。何に使うの?」
「実はその日のKARIONのライブにゲスト出演してもらえないかと思いまして」
「へー! それは凄くいいタイミングだよ。デビューCDが出たばかりでプロモーションとしてもちょうどいい。テレビドラマを見るような世代ってKARIONのファン層と割と近いしね」
「ですね〜」
 
私はその後KARIONの事務所の畠山社長、KARIONのレコード会社担当・土居さんにも電話して、3月15日のライブにアクアを出演させる件の承諾を取った。
 
「僕がKARIONライブのゲストで歌うんですか?」
「うん。大勢の観客の前で歌うのは楽しいよ」
「あのぉ、それって女の子の服を着ないといけませんか?」
と龍虎は不安そうに訊く。
 
「私はどちらでもいいよ。田所さんと相談して決めなよ」
「良かった。田所さんなら絶対男の子の服を着ろと言う」
「あははは」
 

私は再び車を出し、あまり混雑しない裏道をのんびりしたペースで走る。
 
「でも会場はどこですか?」
とアクアが訊く。
「金沢スポーツセンター」
「金沢って横浜ですか?」
「石川県の金沢だよ」
「わあ。遠出ですね」
「3月14日に新幹線が金沢まで開通するから、それにタイミングを合わせるんだよ」
「じゃ新幹線での往復になるのかな?」
「飛行機でもいいよ。それも田所さんと相談して。アゴアシ、交通費食費はこちらで出すから」
 
「分かりました。金沢空港とかありましたっけ?」
 
「金沢には空港は無い。石川県内に小松空港・能登空港とあるから、どちらかを使うことになると思う」
「へー。そうだ大きい会場ですか?」
「5000人。チケットは売り切れている」
 
「きゃー! 5000人の前で歌うんですか?」
「でもアクア、その前に3月7日には復興支援イベントで数万人の前で歌うことになるよ」
「あれもけっこう不安なんですよー」
「大勢の前で歌った経験は?」
 
「今まで経験しているのは、去年の夏に中学のコーラス部で1000人くらいのホールで歌ったのが最大です」
 
「ああ。コーラス部に入ってるんだ?」
「3月にプロデビューするので2月いっぱいで退部することにしています」
「まあ、そうなるよね。アクアちゃん、声が高いからテノール?」
 
「いや、それが・・・」
「ん?」
 
「ソプラノに入れられて、女子の中でひとりだけ男子制服着て歌ってました」
「なるほどー」
「僕、テノールの音域は出ないんです」
「まあ、ソプラノの子には無理だよね。アルトの子なら何とかなる子もいるけど」
 
「それやってたら、あんたも女子制服着ない?って随分言われましたけど」
「着ればいいのに。写真見たけど女子制服姿似合ってるじゃん」
 
「えーー!? あの写真見たんですか!?」
 
私はつい笑ってしまった。
 

「再確認するけど、龍虎って女の子になりたいんじゃないんだよね?」
「それは絶対嫌です」
「了解了解」
 
「でも・・・」
「ん?」
「今月、コーラス部の新人大会があるんですよね」
「うん」
「僕2月いっぱいで退部するから、その大会には出なよと言われているんですけど」
「うん。出ればいい。紅川さんには話した?」
「はい。それは出ていいということで、スケジュール調整して頂きました」
 
「あ、それで女子制服を着て出る?」
 
と私が訊くと、龍虎は
 
「どうしよう?」
と悩むように言った。
 

「あ、それでね。金沢に誘った理由なんだけど」
と私はいちばん大事な話をする。
 
「あ、はい」
「金沢の近くに高岡というところがあって、そこに私の友人でヒーリングの達人がいるんだよ」
「はい?」
 
「作曲家のすずくりこさんが、全く耳が聞こえなかったのが、彼女のセッションを受けて、今ごく低音だけに限れば2オクターブくらい聞こえるようになったんだよ」
 
「凄い」
 
「私のバストも実は彼女にホルモンの分泌を調整してもらって、ここまで発達したもの」
と言うと
「へー!いいなあ」
などと言っている。ふーん。
 
「龍虎も、おっぱい欲しい?」
「要りません!」
 
私は笑いたくなるのをこらえながら彼に言う。
 
「それでさ、彼女ならたぶんできる。さっき龍虎が言っていたこと」
「はい?」
 
「男性機能を維持したまま、声変わりだけは来ないようにすること」
 
「ほんとですか?」
 
「多分永久には無理。でもおそらく龍虎が20歳になるくらいまでは、声変わりを停めておくことができると思うよ。男性としての身体はちゃんと発達させながらね」
 
「わぁ・・・」
 
アクアは凄く嬉しそうな表情をしたが、私にはその表情は、少女の表情だと思った。
 
「それとも体つきも女性のような体つきになりたい?」
「えーー!?」
 
その反応を見て、ああやはりこの子、自分が男になりたいのか女になりたいのか、自分自身で迷っているなと思った。
 
「まあ、決断しなければならなくなる時期まで悩むといいよ」
「はい」
 
「ちなみに、彼女は青葉と言って、千里の妹だよ」
「へー!そんなつながりが?」
 
と龍虎は驚いていたが、人間と人間のつながりもデイジーチェーンだよなと私は思った。
 
 
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【夏の日の想い出・デイジーチェーン】(1)