【夏の日の想い出・高2の初夏】(1)

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6月の初旬、ボクは担任から少し面談したいと言われて面談室に行った。
 
「4月下旬の模試の成績が出たんだけどね」
と7組担任の土居先生が言う。
「3科目の合計が280点。うちの学年で2位。偏差値85」
「わあ・・・」
「これ東大理3に通る偏差値なんだけどね。まあ、理科と社会が入れば、この通りには行かないかもしれないけど」
「あはは。まぐれですよ」
 
「君さ、去年の夏の模試で30位だったんだね。当時校内の実力テストではまだ150位くらいだったのに」
「あ、そうですね。あれもまぐれです」
「12月の模試では校内90位だった。当時の実力テストは校内100位」
「えーっと」
「先月の実力テストでも校内70位。それでふと思ったんだけど、今回君ひとりだけ別に受けてるよね」
「あ、はい」
「去年の担任の先生に聞いたら、去年の夏の模試の時も君、申込書忘れたといって別に出してる」
「すみません」
 
「それ、わざとだね」
「はい。知ってる人が居ないところで超集中して受けたかったので。今回は自分の本当の実力を確認しておきたかったんです」
「なるほどね。じゃ、逆に言うと、それだけの集中力を、周囲に知ってる人がいても出せる訓練を積むと、ふだんでもいい成績が取れるね」
「そうかも知れませんね」
女子制服を着て学校に出てくれば、それが出せるんだろうけどな・・・・とボクは思ったが、さすがにそれは言えなかった。
 
「君、1年の時は名大を志望校にしていたというけど、この春にクラス編成の直前に志望校を変えたけど・・・この実力があれば名大充分行けるし、東大を狙ってもいいんじゃない?」
「実は内心、東京外大を狙おうかなという気があります」
「ああ、いいんじゃない?充分行けるでしょ。この模試の実力が出せたら」
「でも公式見解では、志望調査票に出しておいた大学志望ということで」
 
「君、面白い子だね。でも経済学じゃなくて外国語にするんだ?」
「ええ。以前は経営コンサルタントになりたいと思っていたのですが、今はむしろ翻訳家になりたいと思っていて」
「なるほどね」
「私、背広着て毎日会社に行ってという生活できそうもないので」
「何かコンプレックスがあるのかな・・・・まあ、とりあえず補習のクラスはいちばん上のクラスに入れておくからね」
と先生は言った。
 

補習はこの時期は早朝補習だけ、4月から行われていたのだが、クラス分けは純粋に成績別で、1学期の間は基本的に1年生3学期の実力テスト順になっていたが、毎月一部の生徒の移動(基本的に上のクラスへの移動のみ)がなされていた。補習を受けている生徒は150人ほどで4クラスになっていたのだが、ボクは4月当初は2番目のクラスに入れられていた。しかし6月から1番上のクラスに移動された。この最上位クラスではふだんから会話している友だちは琴絵と佐野君だけだったので、琴絵の隣に行って講義を聴いていた。なお、政子はいちばん下のクラスである。
 
「ね、唐本君、政子とはどういう関係なの?」
とある日補習が終わって自分の教室に戻る途中、琴絵はボクに小声で訊いた。
「え?友だちだけど」
「友だち?恋人じゃなくて?」
「えー?それは違うよ」
 
「だって、ふつうの友だちとは思えない親密さだし、よくふたりだけで話してるみたいだし。以前・・・キスしてたよね」
「うん。キスは今まで4回・・・いや5回したかな。でも親愛のキスだよ。政子を元気付けるのにしただけだから」
 
「政子、あまり花見さんと合わない感じじゃん」
「・・・なんかあの2人微妙だよね。ボクが1年に入ってきた時から思ってたけど」
「向こうをやめて、唐本君に乗り換えるつもりなのかな・・・と思ってたけど、どうもそういう展開になってないみたいだなと思って」
「政子、ボクのことは半ば女の子として扱ってるから。男女の関係にはならないよ。名前で呼び合うのも女の子同士の気安さだって向こうも言ってるし。ボクもそういう関係は快適だし」
 
「唐本君、確かに女の子っぽいよね。部活で見てても、なんか女子部員の中に埋没してるし。私も時々、唐本君が男の子だってこと忘れてる」
「うん。元々の性格だから。だから政子と恋愛するつもりはないよ。向こうもそのつもりだと思うんだけどな」
 
「まあ、それならいいんだけどね。もし政子が唐本君に気があるんだったら唐本君ももっと積極的になってあげればいいのにって、私ちょっと老婆心」
「そうだなあ・・・・女の子との恋愛って、中学の時に経験したけど、ボクあまり男の子として振る舞いきれなくて・・・もういいかなという気がしてる」
「ふーん。じゃ、恋愛は男の子としたいんだ?」
「いや、男の子と恋をする気は無い」
「そうか・・・・政子とのことは私の考えすぎだったかなあ・・・・」
 
琴絵は少し考えるふうであった。
 

そんな話をした当日にボクは昼休み、政子から呼ばれて図書館の裏の芝生に行った。ここはあまり人が来ないので、ボクたちにとって、格好の会話の場所になっていた。ただあまりにも人が来ないので、ぶっそうだからひとりではそこにいないようにボクは政子に言っていた。それで図書館で待ち合わせてから一緒にそこに行くのを常にしていたが、並んで図書館を出て、裏手に行こうとしていた時、ちょうど向こうから琴絵が来た。
 
琴絵が笑顔で手を振ってきたので、ボクと政子も手を振ってから裏手の方に行った。
 
「いや実はさ、今日私の誕生日なのよね」
「わあ、それはおめでとう」
「自分が17歳になるまで生きてたというのが不思議な気分」
「なんで?」
「私、小学生の頃は自分は15歳までに死ぬと思ってた」
「それは短すぎるよ。政子はたぶん90歳くらいまで生きるよ」
「そんなに長く生きなくてもいいけどな・・・・あ、それでね。私がひとり暮らしだし、こちらで誕生祝いをするからおいでよって、啓介のお母さんから電話があって」
 
「良かったね。楽しんできてね」
「それを断ったのよね」
「え!?なんで?」
「女の子の友だちと映画見に行く約束しちゃってたからと言って」
「ふつう、そういう約束があっても、それ断って彼氏の方に行かない?」
「押し切った」
 
「ねえ・・・・花見さんのこと嫌いなの?」
「嫌いじゃないよ。まあ結婚してもいいかな、くらいは思ってる」
「ほんとかなあ・・・・・でも今夜は映画なんだ」
「うん。それでね。冬に今夜付き合ってくれないかなと思って」
「へ?」
「だって、こんなこと頼めるの、冬くらいしか居ないんだもん。
私友だち全然いないから」
「あの・・・その映画見に行く約束って」
「今からでっちあげたいんだよね」
「呆れた」
 
「JUNO見に行かない?」
「凄まじく等身大の映画だね」
「絶対に男の子とは見に行きたくない映画だよ」
「ボクとはいいの?」
「だって、冬は女の子でしょ?」
「ま、いいか」
 
「映画が19時からなんだよね。とりあえず指定席は電話して押さえた」
「じゃ18時半くらいの待ち合わせでいいかな」
「うん。女の子の服を着て来てね」
「え?」
「だって、私女の子の友だちと映画を見に行くんだから」
「仕方ない。政子のためだから女装していくよ」
「ありがとう。冬、大好き」
というと政子はボクに抱きついて頬にキスした。
 
その時、ボクは政子の肩越しに建物の角を曲がって琴絵がこちらに来るのを見た。琴絵もこちらを見て、驚いたように建物の陰に隠れる。
 
ボクは政子と離れて
「何か用?山城さん」
と琴絵に声を掛けた。
「えっといいのかな・・・・」と言って琴絵はこちらに来た。
 
「これ、秋田先生から頼まれて。。。。今度の書道部の大会ので書類に漏れがあったって。すぐ書いて出して欲しいって」
「ありがとう」
と言って政子は琴絵から書類を受け取ると
「ああ、しまった。書きもらし。すぐ出すね。ありがとう」
と言う。
 
琴絵は優しい笑顔で、ボクの方を見つめていた。
 

その日の夕方、ボクはベージュのカットソーに黒い六分丈のスリムジーンズを着て出かけていった。このくらいの服なら家から直接出かけられる。バストはカーディガンを着て誤魔化した。政子はボクを見ると
「わ、今日は元気な女子高生って感じ」
などと言った。ふたりで手をつないで映画館に入る。
 
JUNOというのは17歳の少女の妊娠と出産を描いた映画である。恋人という訳でもない同級生の男の子とセックスして妊娠。一度は中絶を決断するも結局産むことにして、でも自分では育てきれないから里親を探す。幸いにもお金持ちの夫婦が里親になってくれることになるが、JUNOはその里親夫婦の夫の方に誘惑され、妻と離婚するから自分と付き合わないかなどと言われる。迷うJUNO。しかし最後は彼女が納得する結論に辿り着き、彼女にとっても、生まれた赤ちゃんにとっても、それぞれの良き未来が示唆される。
 
自分たちと同い年の子たちの物語なので、ぜんぜん他人事ではない気がした。4月に政子から一度セックスに誘惑されたけど、もししていて避妊に失敗していたら、ボクと政子がこういうことになっていた可能性だってあるよな、なんて思ったりもした。
 
観ていて心がキュンとする場面がたくさんある。政子がこちらに手を伸ばして来たのでその手をしっかり握る。涙を流していたので、ハンカチを渡した。「ありがと」と政子は小さい声で言った。
 
映画が終わってから一緒にファミレスに入った。今日は映画代を政子が出してしまっていたので、このファミレス代はこちらもちということにした。今日は母から5000円もらってきている。お小遣いのストックも結構残っていた。
 
「あ、これお誕生祝い」といって政子にケーキを渡す。来る途中絵里花の父の新しいお店で買ってきたもので、ドライアイスをたっぶり入れてもらっていた。
 
「わあ、ケーキだ」
「おうちに帰ってから夜食で食べるといいよ」
「うん。。。でもひとりで食べるのつまらないから、この後うちに寄らない?今夜は少し遅くなってもいいんでしょ」
「うん。今夜は晩御飯、ボクの当番じゃなかったから」
「じゃ、一緒におうちまで来てね」
「いいよ」
 
「たくさん泣いちゃったけど、いい話だったね」
「うん。ボクも実は泣いてた」
「・・・・ね。もし私が冬の子供を妊娠しちゃったりしたら、産んでもいい?」
「それは産んでいいし、政子と一緒に育てたいよ。里子に出したくない。でも、それ以前に、政子を妊娠させるようなことしないつもりだけど」
「そうね」
 
「でも何でボクとの子供なんて想像するの?花見さんとの子供を妊娠する方が現実にありそうなのに」
「啓介の子供か・・・・そうだなあ。結婚したら産んでもいいかな」
「結婚するつもり無いの?」
「ううん。結婚してもいいと思ってるよ」
「なんか微妙だなあ・・・・嫌いなら別れればいいのに」
「いや、まだ好きだから」
「ほんとに?」
「あ・・・・冬、何か紙持ってる?」
「あ、うん」
 
ボクは持って来ていたトートバッグの中に入れていたノートを取り出すと渡した。政子は自分のバッグからいつものボールペンを取り出し、ノートを開いてその上に詩を書き始めた。
 
ボクはコーヒーを飲みながらそれをじっと見ていた。
 
「今の映画だね」
とボクは政子が書き終わるのを待って言った。
「うん」
政子はタイトルの所に『A Young Maiden』と書いた。
「この詩を見られたら、私自身が妊娠したんだと思われそう」
「政子も物語に入り込んじゃうタイプ?ボクも自分がJUNOになった気分で見ていた」
「冬も妊娠できそうな感じだもんね」
「えー!?」
「冬が妊娠するとしたら、私が父親かなあ」などと政子は言っている。
 

ボクたちはファミレスで少し会話に夢中になりすぎて、結局2時間ほどいて、23時すぎに政子の家に移動した。
 
「遅くなってごめんね」
「ううん。タクシーで帰るから大丈夫だよ」
「いっそ泊まっていく?」
「えー?」
「冬はお母さんには男の子の友だちと一緒に映画に行くことにしてきたの?」
「いや、そんなこと言っても信じてもらえないから女の子の友だちと行くと言ってある。ボク、男の子の友だちなんて出来たことないもん」
 
「そっか。。。でも泊まって行ってよ。タクシー代もったいないしさ。私たち友だちだから一緒に夜を過ごしても何も起きないよね」
「そうだね」
ボクは政子の家の電話を借りると、自宅に電話を入れて、映画を見たあと誕生祝いをしていたら遅くなってしまったので、今晩はこちらに泊めてもらうと母に言った。
 
「今お友達の自宅なの?」
「うん」
「女の子の友だちだよね」
「うん。でも何もしないよ。ほんとに友だちだから」
「そう?まあ、自宅なら大丈夫かな」
 
電話を切ると政子が
「お母さん、まさか、私たち2人だけとは思ってないよね」
と言う。
「だろうね。こちらの親御さんがいると思ってるよ」
「ふふふ」
 
紅茶を入れてから、ボクが買ってきていたケーキを一緒に食べる。
改めて「ハッピーバースデイ」と言って、紅茶のカップを乾杯するようにカチンと合わせた。
 
「ありがとう」と政子が微笑んで言う。
「えへへ。友だちに誕生日祝ってもらったのって、私初めて」
「毎年、お祝いしてあげるよ」
「ありがとう。冬の誕生日っていつだったっけ?」
「10月8日」
「よし。携帯に登録しておこう」
 
あらためて映画の話などもしていた時、ボクの心の中に衝動が沸き上がってきた。
「五線紙ある?」
「うん。こないだ使い切ったから、また買っておいた」
といって、政子は居間の本棚の中から五線紙を取りだし、ボクに渡してくれた。いつものボールペンもバッグから取り出して渡してくれる。
 
ボクが五線紙に音符を書いて行っていたら、政子はボクのそばに寄ってきて横から首に抱きついてきた。ボクは微笑んでそのまま書き続ける。
 
「私、おたまじゃくし読めないけど、なんか音符の並びから、凄く暖かい波動を感じちゃう」
「うん、今すごく優しい気分になってる」
とボクは言いながら譜面を書いて行っていた。
 
「あれ?今日はこないだみたいなピアノ・アプリ使わないの?」
「うん。音を探したい時もあるけど。今日はフィーリングで書いてるから。こういう時は無理に音を探さなくても、自然な音の流れで書いていく」
「へー。楽器とか無しでも書けるもんなんだ」
 
「フィーリングで書いてるから、音を勘違いしている可能性もある。後でそれは調整するよ」
「ああ、音が分かってるわけじゃないんだ?」
「だいたい分かってるつもりではあるけど、ボクは絶対音感無いからね」
「ふーん」
 
「よし。書き上げた」
「どんな歌?歌える?」
「うん。少し音間違ってたらごめんね」
と言ってボクはその歌を歌い始めた。
 
政子の目から涙が一筋流れた。歌い終わってからボクは政子の額にキスした。
 

交替でお風呂に入ったあと、寝ることにした。
「寝間着、私の貸してあげるね」
と言って政子は可愛いネグリジェを出してくる。ちなみに政子はふつうのパジャマを着ている。
 
「ま、いっか。じゃ借りるね」と言って着たら
「わー。やっぱり冬ってこんな少女っぽいのが似合う」などと喜んでいる。
 
「じゃ毛布か何か恵んでくれない?ボクここのソファで寝るから」
「私のベッドで一緒に寝ようよ」
「いや、妊娠させちゃまずいし」
「一緒に寝ただけじゃ妊娠しないよ。4月にも一緒に寝たじゃん」
「いや、今日は遠慮しとく」
「ふふふ。優しいのね。じゃ毛布とお布団持ってくるね」
と言って、政子は奥のほうの部屋から持って来てくれた。
 
「じゃ、おやすみ」
「うん、おやすみ」
 
政子はボクの頬に軽くキスをすると手を振って寝室へ行った。ボクは居間の電気を落とすと、目を瞑って睡眠の世界に落ちていった。
 
翌朝目をさますと5時半だった。7時までにはいったん自宅に戻りたい。ボクはキッチンの状況を確認した。御飯はジャーの中にある。新しい御飯を炊いておくべきだったなと思ったが、冷蔵庫を開けてありあわせの材料でケチャップライスを作り、お弁当箱2つに詰めて、プチトマトとウィンナー、玉子焼きを作って添えた。先週政子の家に寄った時にボクが作っておいた、冷凍のブロッコリーのストックがまだ残っていたので、それを添えた。お昼までに解凍されてちょうどよくなるはずである。
 
それからケチャップライスの残りを使ってオムライス風にし、玉子の上にハートのマークを描いたところで政子が起きてきた。
 
「おはよう。あんまり時間がないから、勝手に政子の分とボクの分とお弁当作っちゃったよ。このお弁当箱、借りてくね」
「おはよう。わあ、ありがとう。お弁当箱は勝手に持ってって」
「おなじ中身だけど、クラスが違うからバレないよね」
「ふふ」
 
「オムライスもきれいにできてるなあ。こないだ教えてもらったからやってみたけど、やっぱり冬みたいにきれいにできないよ」
「オムライスは難しいからね。たくさん練習しないと、なかなかうまくできないよ」
 
「あ。でも冬って、お弁当もいつも自分で作ってるのね」
「うん。だいたいそうだよ。お母ちゃんやお姉ちゃんが朝御飯の当番の時は、お弁当まで作ってくれないから、結局毎日自分で作る」
「偉いなあ。。。私ひとり暮らしじゃなくて、冬の家に下宿すれば良かった」
「ははは」
 
「お弁当も冷凍食品をチンしたのばかりになりがちで。冬が時々来た時に作ってくれるストック、凄く助かってる」
「良かった、良かった」
「やっぱり冬がいなかったら、私餓死するか、ホカ弁のオンパレードになってお母ちゃんからタイに召喚されるハメになってたよ」
「でも食事もだけど、勉強の方も頑張らなきゃ」
「そうなんだよね。夏の模試では、偏差値50は越えないとやばい」
 
「放課後に少し一緒に勉強しようよ。図書館とかで。部室でもいいけど」
「うん。そうだね。やはり一人ではなかなかエンジンが掛からなくて」
 

ボクは昨日着てきた服に着替えるとお弁当を持って自宅に戻り、あらためて学生服に着換えてから学校へ行く準備をした。
 
「あら。お弁当は向こうで作ってきたんだ?」と母。
「うん。お弁当箱も材料も借りた。実は彼女と同じ内容のお弁当なんだけどね」
「お友達が作ってくれたの?」
「ううん。ボクが2人分作った」
「冬彦らしいわ」と母が笑って言った。
 
「ところで昨夜は何もしてないよね?」と母は小さい声で聞いた。
「してないよ。ボクは居間で寝たから」
「ね、何もするつもりなくてもさ、相手が女の子ならハプニング的にしちゃう場合もあり得るでしょ」
「うーん。それはあるかも知れないね」
「念のため、ちゃんと避妊具を持っておきなさいよ。あんた女の子の友だち多いから、そのうちきっと事故も起きるよ」
「そうだね。買って1枚いつも持ち歩いてるバッグに入れておこうかな」
「うん。それがいいよ。自分で買える?」
「うん。買えると思う」
 
「そういえば昨日は何の映画見たの?」
「JUNO」
「わあ・・・高校生の女の子が妊娠して子供産んじゃう話か」
「そう。なんか他人事じゃないみたいで、たくさん泣いちゃった」
 
「あんたもそういうのの加害者にならないようにしなくちゃね」
「・・・・ね、お母ちゃん」
「なあに?」
「ボクね。。。。子供できないかも知れない」
「・・・・何となくそんな気はしてた」
「そうなったら、御免ね」
「いいよ。萌依にその分、頑張ってもらうから」
「うん」
 

政子と映画を見に行った翌日、絵里花から連絡があって、昨年のクリスマスにボクが代役で歌うことになった歌手の晃子さんがスポンサー付きのライブをするのだけど、良かったら一緒に歌わないかと言われた。ボクは快諾して取り敢えず打ち合わせのため、その週の土曜日、「女子高生風の服」を着て出かけていった。その日は晃子さんだけで、晃子さんのお母さんは来ていなかった。
 
ライブのコンセプトはブルーグラス&フォークソングということで、アメリカ民謡の名曲を歌うというものだった。アメリカの食品会社のキャンペーン会場での公演ということだった。まず曲目を確認する。演奏候補として挙げられている曲はみんな有名な曲ばかりで「これなら大丈夫ですね」とボクは言った。歌はボクと晃子さんのユニゾンで歌うことにした。
 
スポンサーの人(外人さんと日本人が1人ずつ。たぶん本社の偉い人と日本法人の担当者さん)が、ボクの歌を聴いたことがないということで、全曲目を歌ってみることにした。練習用のマイナスワン音源を鳴らしながら1コーラスずつ歌って合わせてみた。「素晴らしいですね」と日本人の人が手を叩いて褒めてくれたが、外人さんの方が何か早口の英語で言い、日本人の方がえ?という感じで驚き、ふたりで何か早口で会話している。晃子さんはキョトンとして聞いている。会話の中身が分からないようである。ボクは全部会話が聞き取れてしまったが「この若い子のほうがうまいから、この子だけでいいよ」と言って、日本人の人がそれは勘弁してくれということで反論して、最終的には1人でも2人でもギャラは同じなのでということで、何とかふたりで歌うことで納得してくれたようであった。ボクは心の中で冷や汗を掻いていた。
 
その日はスポンサーの人たちと別れた後、ボクと晃子さんのふたりでカラオケ屋さんに行き、再度全曲を合わせてみた。
「ほんとに冬子ちゃん、歌がうまいなあ。私もたくさん練習しなきゃ」
などと言っている。
「そうそう。歌はやはり練習あるのみですよ。自分が歌う歌をICレコーダに録音して聞いてチェックしたりするといいんですよ」
などとボクは言った。
「ああ、それはいいね。やってみようかな」
 

翌週の日曜日が本番だった(ボクはその1週間、毎日放課後、コーラス部の友人に頼んで音楽練習室の個室を借り、そこで裏声で演奏予定曲目を歌いまくった)。
 
ボクはまた「女子高生風の服」で都内のイベントスペースに行き、楽屋で晃子さんが用意してくれていたステージ衣装に着替える。晃子さんが青いドレス、ボクが黄色いドレスであった。
「Akiko and Keiko!」
と名前を呼ばれて2人でステージ中央に出て行く。今日はピアノは無しで、伴奏音源を鳴らしながらの歌唱である。
 
最初にブルーグラスの名曲「マーサ・ホワイトのテーマ」(元々製粉会社のCMソングだが今回のスポンサーがここの製品を使っているのでオープニングに指定された)を歌った後、この曲をヒットさせたフラット&スクラッグス(後のフォギーマウンテンボーイズ)の曲を3曲歌う。
 
それから「カントリーロード」、「クレメンタイン」、「赤い川の谷間」などと歌い、更にフォークソングを数曲歌ってから最後は「テキサスの黄色いバラ(The yellow rose of Texas)」を歌って締めた。
 
来場者は日本人が多いのであまりなじみの無いブルーグラス系の曲は反応が鈍かったが、フォークソング系の歌はみんな知っているようで、かなり手拍子などももらった。最後は割れるような拍手が来て気持ち良かった。
 
歌い終えてからステージの袖に下がったら、スポンサーの外人さんの偉い人が寄ってきてボクに声を掛け、握手を求められた。
 
「You are precisely the yellow rose of Japan, wearing yellow dress!」
(あなたはまさに日本の黄色いバラだ。黄色いドレスも着ているし)
「Thank you, sir」
とボクは笑顔で応えた。
 

晃子さんはこの日の出演料を私と山分けにしてくれた。ボクは思いがけない臨時収入を得て、これ何に使おうと思っていた時、あることを思いついた。
 
その翌週の水曜日。暦は7月に入っていたが、ボクは政子を誘って午前中学校をサボり、一緒に都内の貸しスタジオを訪れた。
 
昨年の夏以来、ボクと政子はけっこうな数の曲を書いていた。それをふたりで歌って録音しようと持ちかけたのである。
 
昨年夏のキャンプで書いた『あの夏の日の想い出』という曲をはじめ、これまで1年間に書きためた曲は全部で30曲近くあったが、そのうち自分たちでも比較的良い出来だと思う曲12曲を吹き込むことにした。伴奏は事前に打ち込みで作っておき、それを聞きながら歌を収録しようという魂胆である。(12曲分の打ち込みデータを作るのに一週間以上掛かってしまった)スタジオは3時間パックを借りることにしたのだが、スタジオの借り賃は平日が安いし空いている。そこで学校を午前中サボることにしたのである。
 
朝9時から作業を始めて、各々の曲で、ボクが単独で歌ったもの、政子が単独で歌ったもの、2人で一緒に歌ったもの、の3パターンを最低1回ずつ収録したが、曲によっては2〜3回録音した。ミクシングなどは自宅ででもできるので、後日やる予定であった。(実際にはこの後突然忙しくなったので、ミクシングを完成させたのは高3の時)
 
「これCDにして売りたいね」と政子。
「売れるかなあ」
「ミリオンセラーになったら、左団扇で暮らせるよ」
「そう簡単にミリオンにはならないよ」とボク。
 
そんな会話をしたが、ボクもこの時は、まさかそのわずか半年後に本当に自分たちがミリオンヒットを出すことになるとは夢にも思わなかった。
 

その日、録音作業が終わってから学校に出て行き、先生に遅刻を謝ってからお弁当(ボクが政子の分と2人分作っておいた)を食べ、午後の授業を受けてから図書館で本を読んでいたら、琴絵が寄ってきた。
 
「ねえ、6組の友だちから聞いたんだけど、今日政子も午前中遅刻してきたみたいね」
「2人で一緒に居たよ」
「どこに行ってたの?」
「うーん。。。少し恥ずかしいから内緒」
「へー。内緒にしたいような所なのか」
 
「いや別にそういう訳じゃないんだけど」
「気持ち良かった?」
「あ、えっとスッキリしたかな」
「ふふふ。ちなみに2人だけで他の人入ってこない場所でしょ?そこ」
「うんまあ。たしかにしている最中は誰も入ってこないけど」
「うんうん。頑張ってね」
と笑顔でボクの肩を叩いて、琴絵は離れていった。
 
「うーん。。。」
なんか誤解されたような気はしたが、ボクは「まいっか」と思った。
 

夏休みに入ってすぐのある日、ボクは書道部の女子数人で町に出て洋服を物色してから、ハンバーガー屋さんの100円のドリンクを買い、しばしおしゃべりをしていた。なんとなく1人2人と帰っていき、ボクと政子が残った。
 
「あれ?ボクたちだけになっちゃったね。そろそろ帰る?」
「そうだなあ。家に帰っても1人だし。図書館にでも付き合ってよ」
「いいよ」
などと言っていた時、政子の携帯に着信がある。
 
「あ、今、町に出てるの。マックにいるよ。うん。じゃ、待ってる」
「花見さんが来るの?じゃ、ボク帰るよ」
「だーめ。ここに居て。冬は私の着せ替え人形なんだから」
と政子は言った。
 
「もう。。。。いいけど。また嫉妬されるな」
とボクは笑って言ったが政子は
「うん」
と黙って頷いた。
 
その表情を見て、ボクはひょっとしてまた花見さんとあまりうまく行ってないのかなと思った。
 
政子と花見さんの関係が円満な感じがしたのは、政子が高校に入って最初の1ヶ月くらいだった。1年生の連休明けころから政子は書道部でも必ずしも花見さんのそばにはいないようになり、花見さんと話すより、ボクや静香先輩と話している時間のほうがずっと長くなった。昨年夏に書道部のみんなでキャンプに行った時も、政子はキャンプ中、30分くらいふたりで散歩したほかは、ボクあるいは他の女の子のそばにいた。
 
ボクはずいぶん花見さんからは嫉妬されたものだが、一応ふたりの関係は、何とか続いて行っているようであった。そして3月にふたりは婚約した。
 
しかしその直後の4月に花見さんがデート中に政子をレイプしようとし、未遂に終わったものの、そのことで政子は激怒。もう婚約を解消すると言い出したのだがこの時は花見さんがお母さんと一緒に謝罪に来て、一応婚約関係は継続された。
 
しかしその後もふたりはどうも微妙な関係を続けているようにボクには見えていた。
 
「私と啓介ってボタンの掛け違いかも知れないなぁ」
と政子は言った。
 
「それならさ、1度全部ボタン外してやり直したら?」
「それやるとさ・・・・その服脱いで、新しい服を着たくなるかも」
「それでもいいんじゃない?きっとまた新しい恋ができるよ」
「でも、もう少し頑張ってみる」
「そう?」
 

「なんで唐本もいるんだよ」
と花見さんはこちらに来るなり言った。
 
「女の子5人ほどで町に出て来たのよ。1人帰り2人帰りで、今私たち2人だけになった所」
 
「えっと、唐本、俺政子と話があるから、帰ってくれない?」
「あ、冬は私の着せ替え人形だから、ここに居ていい。さっき買った服、パーカーは着せたんだけど、スカート穿かせようとして今抵抗されてた所なのよね」
 
ボクは困ってしまった。邪魔なような気がするが、政子はボクに居て欲しいようである。親友としてその気持ちを無視できないと思った。
 
「じゃ、ボクはお人形になるから。何も見ないし何も聞かないし何もしゃべらないから、ふたりで存分にアツアツしてください」
 
「まいっか。ちょっと今俺がしているバイトで、何人か急に辞めた奴がいて人手が足りないんだ。夏休みだけでも手伝ってくれる人がいないかと頼まれてさ。政子、一緒にしないか?イベントの設営の仕事なんだけど」
 
「イベントって、コンサートとかお祭りとか?」
「うん。そういう大きなのもやるけど、デパートの屋上とかショッピングモールの広場とか遊園地とかでやる、変身ショーとか、ミニライブとかが多い。仕事は栃木群馬から神奈川・山梨から、関東一円でやるから、俺の車で現地に行って現地で解散。往復のガソリン代はもらえる」
 
「なんだか面白そうね」と政子は興味を持ったようである。
「じゃ、やるか?」
「冬も連れてっていい?」
「なんでそうなる?」
 
「だって関東一円に啓介の車であちこち行くんなら、その間2人きりになっちゃうでしょう。そんなことしたら、叔母さんに注意されるもん。他の子も一緒なら叔母さんも許してくれるよ」
「そうだなあ・・・・」
 
どうも花見先輩は政子とふたりきりになって少し怪しいことをしたいようで目的の半分はそちらのようだが、政子はそういうのは嫌いである。政子は花見さんに高校を出るまでセックスはしないことを約束させているが、セックスだけでなくキスや着衣のまま抱きしめるレベルを越える肉体的接触も拒否しているようである。先日も服の下に手を入れてブラに触ったというだけで花見さんを殴り、3日くらい電話にも出なかったらしい。(政子はよくふざけてボクのブラは触るので、政子のは実は男性アレルギーなんじゃないか、という気もしていた)
 
叔母さんを引き合いに出しているが、確かに元々伯母さんは政子が花見さんとHしまくったりしないかというのを監視することを政子のお母さんから頼まれていたようではあったが、監視役を始めてすぐに起きた4月のレイプ未遂事件で、監視の意味合いはまるで変わってしまった。花見さんの無茶から政子を守るのが主たる目的になっている気がする。結局政子はボクを花見さんのストッパーとして連れて行きたいようである。
 
「啓介前科もあるしさ。ああいうのは嫌だからね」
「すまん。あれは改めて謝る。政子が高校卒業するまでしないという約束は守るから」
 
「高校卒業とか以前に同意無しでそんなことする奴は銃殺刑にすべきだよ」
「いや、ほんとにすまん」
「だったら、冬も居ていいよね」
「しょうがないな。でも唐本、ほんとに女の子には興味無いんだよな?」
 
「ええ。私、女の子には友情しか持たないです」とボクは言った。
「冬、それを証明するのにこのスカート穿いてみてよ」と政子。
ボクは笑った。
 
「分かった。穿くよ」
と言ってボクはそのスカートをその場でズボンの上から穿いた。
「ズボンの方は脱いでスカートだけになろうか?」と政子。
「はいはい」
と言ってボクはズボンを脱ぐ。ちょっとスースーする。でもこの感触は好きだ。
 
「よしよし。足の毛はちゃんと剃ってるな。ね、こういう子なんだから」
と政子は言う。
 
「実質女の子と同じということなのかなあ。確かに、唐本、友だちもみんな女の子ばかりのようだしな。書道部でも女子部員とばかり話してたっけ」
 
「花見さん、ボクがいても政子さんにキスとかしていいですよ。私見ない振りしますから」
「あ、それは気にせずキスしたり抱き合ったり『好き』とか言ったりするから大丈夫」
と政子も笑って言っている。
 
ということで、ボクは花見さん・政子と一緒にこの設営の仕事をすることになったのであった。(スカートはお店を出る前に脱いでズボンに戻した)
 

「須藤さん、高校の後輩2人連れてきました」
とボクと政子を△△社に連れていくと、花見さんは言った。
 
「ああ、ありがとう。女の子2人ね」
と須藤さんが言う。ボクと政子は顔を見合わせた。
 
「あ、すみません。ボク男です」
「ん?あ、ごめん。一瞬女の子に見えた。私、視力落ちたかなあ」
と須藤さんは眼鏡を外して拭きながら言った。
 
その日は都内のデパートでミニライブの設営作業をした。
 
その後、関東のあちこちに、ボクは花見さんと政子と一緒に出かけたが、車内でふたりはけっこう仲良くしている感じだったし、楽しく会話もしていたし、
「冬、目をつぶっててねー」
などと言って、キスしたりもしていたので、ボクはふたりは少しいい感じになってきたかなと思い、微笑ましくその様子を見ていた。
 

その日ボクは少し困っていた。ここのところ1週間ほど、異常な忙しさで、実は体毛の処理ができてないのである。
 
夏休みではあるが、金曜日まで、補習が朝から夕方までびっちりあって、くたくたに疲れていた。ボクはだいたい補習が終わるとスーパーに寄って、晩御飯の買物をしてから自宅に戻り、それから夕飯を作るのが常であった。この時期、姉が大学4年生の夏というのにまだ就職が決まらず、かなり焦っていて毎日遅くまで就職活動に飛び回っていたし、母はこの年町内会長を引き受けていて、夕方の時間帯はしばしば様々な連絡で近所を巡っていたりして結局、3人での夕食当番制が崩れ、毎日ボクが晩御飯を作っていたのである。
 
どうかすると、ボクが晩御飯を作ったものの、母も姉もなかなか戻ってこずに、8時頃帰宅した父とふたりで晩御飯を食べるなどという侘びしい日もあったりした。
 
晩御飯が終わるとやはり勉強である。ボクは4月の模試では校内2位で目標にしている大学の合格ラインを軽くクリアしていたが、校内で行われた6月の実力テストでは、校内50位の成績で、合格ラインを下回っていた。
「なんでこんなに差が出るのかねえ」と担任の先生も首をひねっていたが、やはりボクはあまり集中力の出ない校内実力テストでも、ある程度の成績が取れるくらいの実力を付けたいと思い毎晩遅くまで勉強していた。この時期は8月下旬にある6教科模試に向けて、苦手な理科の問題を集中的に解いていた。
 
特にこの1週間はその勉強の方に集中していたので、お風呂にあまりゆっくり入ることができなかった。それで夏だというのに、ついついムダ毛処理をサボってしまっていたのだが、土曜日は甲府でのイベントの設営であったので、朝6時に自宅前で花見さんの車に拾ってもらい、出かけていって、帰りも自宅に戻ったのが夜11時くらいであった。さすがに疲れ果てて何もせずにそのまま眠ってしまったのだが、翌日はまた宇都宮でのイベント設営であった。ボクは体毛の処理が気になって仕方なかったのだが、今日帰ってきてからゆっくりお風呂に入って処理しようと思って出かけた。
 
その日は花見さんがお休みだったので(実は他の女の子とデートしていたことが後日判明した)、政子と大宮駅で朝8時に待ち合わせて快速で宇都宮まで行った。駅で会った時、政子が言った。
 
「冬、珍しいね。眉が伸び放題。いつもちゃんと細くしてるのに」
「ここ1週間くらいなんだか異様に忙しかったんだよね。それでつい。実は足の毛も処理できてない。ヒゲをちゃんと処理してくるだけで精一杯だった」
 
「冬は女の子なんだから、ちゃんと処理しなくちゃ」
「今日は12時と15時の2回公演だから、そのあと片付けて18時くらいまでには帰れるだろうから、今日帰ったらちゃんと処理するよ」
「そうだ。明日は補習も無いし。バイトの後でいいから、うちに来てくれない?冷凍野菜のストックが無くなっちゃって」
「そんなの自分で作ろうよ」
「お・ね・が・い」と政子は色っぽい目で言う。
 
「ボク色仕掛けには引っかからないもんね」とボクは笑って答えた。
「ちぇっ」
「でも、いいよ。行ってあげるよ」
 
ボクたちはその数時間後に運命の大転換が起きるとも知らず、そんな無邪気な会話をしていた。
 

宇都宮駅に着き、駅前で須藤さんの車に拾ってもらって会場入りし、設営作業を始めた。今日の会場は市内のデパートの屋上である。
 
ステージの両脇にスピーカーを設置。PA機器とケーブル類をつなぐ。一方でパイプ椅子を倉庫から出して来て並べていく。伴奏に使用する音源を確認しておく。マイクのテスト。10時から始めたものの、一段落した時はもう11時近くであった。
 
「でも今日のアーティストは楽しみだね」とボクは言った。
「うん。凄くきれいなハーモニーだったよね」と政子も言う。
 
今日のミニライブで歌う予定のアーティストは《リリーフラワーズ》という女の子2人組のデュオなのだが、このバイトを始めてから2度、横浜と千葉で聴いていたが、とても美しいハーモニーを持っていた。また彼女たちの歌声が聴けるというのは楽しみであった。須藤さんも、この子たち来年くらいにはできたらメジャーデビューさせたいなあ、などと言っていた。
 
ところがそのリリーフラワーズの2人が11時すぎても来なかった。30分くらい前までに来てもらえたら問題は無いのだが、本来1時間前に会場に入ってもらうことになっている。須藤さんは彼女たちが今どこまで来ているのか確認してみると言って電話を掛けていたが、やがて顔をしかめた。
 
「どうしたんですか?」
須藤さんは自分の携帯をボクに聞かせてくれた。
『この番号はお客様の都合により・・・・』
 
「代金未払いかな」
「困るね、こういうの」
須藤さんはボクたちと一緒に控え室に行くと東京の事務所に連絡して、彼女たちの友人とかでもつかまらないかと色々画策しているようであった。そんなことをしている内に時計は11時15分を回る。
 
「え?何ですって?」と須藤さんが困惑したような声で言った。
「分かりました。とにかく誰か都合がつかないか調べて、ほんとこの際誰でもいいので新幹線に乗せて下さい。最悪12時のステージを飛ばしても15時のステージだけでもやらないと」
 

須藤さんが頭を抱えた。
 
「どうしたんですか?」と政子。
「逃げられた」
「え?」
 
「職場に連絡したらふたりとも一週間前に退職したらしい」
「知り合いとかは?」
「さっきやっと一人捕まえたらしいんだけど海外に行くようなこと言ってたって」
「そんな」
 
「どうするんですか?今日のコンサート」
「今事務所の田代君に代わりに出れそうな人がいないか当たってもらっているのだけど、時間的に厳しい。都内で誰か確保してもここまで2時間かかるし」
「開演まで1時間無いですもんね」
 
「せめて昨日分かっていたら何とかなっていたのだけど」
「もし誰も捕まらないと中止ですか?」
「それは契約上できないのよ。万一中止にしたら違約金も取られるし、うちをもう信用してもらえなくなるし。最悪の場合12時の公演を飛ばして15時だけでもしなきゃとさっき事務所と話した所なんだけどね」
「15時だけでもすれば何とかなります?」
 
「違約金は払わないといけないけどね。社長に菓子折持って謝りに来てもらえば。それも最低15時のステージはやった上でのことだよ」
「何とかできる人が見つかるといいですね」
 
そんな話をしていた時、須藤さんがふと政子の顔を見て言った。
「あんた歌うまい?」
「え?私ですか。あまりうまくないですが」
「ちょっとこの譜面歌ってみて」
といきなり須藤さんは政子に楽譜(PA用にコピーしておいたもの)を渡す。政子はびっくりしたように
「私、おたまじゃくし読めません」
と首を振って言った。
 
「もしかして中田さんを代役にということですか?」
「あたしじゃ薹(とう)が立ちすぎてるからね。ね。政子ちゃん、ほんとに代役やってくれない?『リリーフラワーズでーす』と言ってステージに立って、歌なんて、この際、自分が歌える歌を適当に歌えばいいよ」
 
「でもリリーフラワーズは2人ですよ」とボクは言った。
「いいよ。誰も知らないんだし」
「でもフラワーズとSが付いているし」
「うーん。あんたは歌えないの?」
と須藤さんは今度はこちらに譜面を付きだした。
 
「え?ボクもピアノか何かないと音程が怪しいです。絶対音感が無いので」
「シンセならそこにあるよ」
と須藤さんは壁に立て掛けてあるYAMAHAのキーボードを指す。
 
ボクは須藤さんの勢いに負けてそれを台の上に載せ電源を入れて譜面を見ながら最初の数音を弾いてみた。ああ。この曲は以前のリリーフラワーズのライブで聴いたことがある。ボクは一度聴いたことのある曲なら歌える自信があった。再度最初から弾きながらその演奏に合わせて歌ってみた。
 
ワンコーラス歌った所で須藤さんがパチパチパチと拍手をした。さきほどまでの暗い顔ではない。明らかに活き活きとした普段の須藤さんに戻っていた。
 
「うまいじゃん!あんた初見に強いんだね!決まり。あんたボーカルやりな。今の感じだと、伴奏音源使うより、弾き語りしたほうがいいね。その方が自分の声域に合わせられるでしょ」
とボクに向かって言う。
「で、あんたはコーラスね。いっそエアギターでもする?」
と政子に言った。
 
「これで2人組のボーカルユニットだから問題なし。今日のリリーフラワーズは政子ちゃんと冬彦くんだね」
「そんなのいいんですか?」
「こんなことするのは7年ぶりくらいかな」
「前にもこんなことあったんだ。。。」
 
「でも」と政子が困ったような顔で言う。
「男女のユニットで『リリーフラワーズ』は変だと思います。女の子のユニットって感じの名前だもん」
「うーん。この際、それはどうでもいいよ」
 
と須藤さんは言ったが、少し考えるようにして、次の瞬間、とんでもないことを言い出した。
「じゃ唐本くんが女の子になればいいのよ」
 
「え?」
とボクは一瞬何のことか理解できないまま声を挙げた。しかし
「あぁ、それならOKですね。唐本君、きっと美人になりますよ」
と政子が悪戯っぽい顔で言う。
「えー!?」
 
「じゃ私は唐本くんを女の子に変身させてくるから、中田さんはひとりで大変だろうけど、残りの機材の設置やっていて」
「分かりました」
「じゃ唐本くん行こうか」
「え?え?え?」
 
こうしてボクは残り時間30分を切っている中で、須藤さんに連れられて婦人服売場に連れて行かれた。あはは。。。こんなところで女装するはめになるとは。まあ、いいけどね。女装で歌うのも初めてではないし。と覚悟を決めて、頭の中でリリーフラワーズの過去のステージを思い出し、彼女たちが歌っていた歌を頭の中でリピートしてみた。彼女たちの声はかなりの高音なので、裏声で歌うしかないかな・・・・と思ったものの、それでは政子がコーラスを入れられないことに思い至る。
 
政子の歌は、お世辞にもうまいとは言えない。自分の歌うメロディーラインとあまり音程差の無い状態で歌わせたい。彼女の声域はアルトだ。これはむしろボクも実声で歌ったほうがいいなと決断した。
 
須藤さんはボクがそんなことを考えている間に、婦人服売場でボクの身体のサイズに合いそうな可愛い服を調達する。婦人服売場の係の人にメジャーで寸法を測られたりしたが、ボクの身体が細いのに驚いていた。須藤さんは最初男の子に女の子の服を着せるんだからLLサイズくらいの服になるかと思っていたようだが、実際にはボクの身体は女性用のSサイズでも少し余る。
 
取り敢えず須藤さんは服の上下と、下着一式、それにガードル、シリコンパッドなどを買った。服のボトムはかなり短いミニスカートだ。
 
「でも君って、肌が白いし、顔立ちが優しいから充分女の子で通るよ」
などと須藤さんは言う。そういう言われ方をすると、ボクも嬉しくて気分が良くなってきた。
 
買った服を持ったまま多目的トイレに連れ込まれる。残り時間は20分だ。
 
須藤さんはボクに服を全部脱ぐように言った。今日は男物の下着を着けてきていた。足にシェービングフォームを付けて毛を剃られた。お腹の毛と脇の毛も剃られる。ははは。ちゃんと毛を処理していなかったのがこれ、結果的に良かったんだか悪かったんだか。毛が伸びていたことで、須藤さんはボクにもともと女装癖があったとは気付かないだろう。
 
「ひげは伸びてないね。じゃそちらは処理の必要無し、と」
 
時間が無いので、須藤さんもかなり焦ってボクに服を着せていく。パンティとブラを身につける。パンティを穿く時「ちょっと失礼します」と言って、そばにあるベビーベッドに座って、《いつものやり方》で盛り上がりができないようにし、ガードルも穿いた。ブラは面倒なのでこちらでさっと後ろのホックを留めたが、須藤さんは「あれ?私今、ブラのホック留めてあげたっけ?」などと頭を掻いている。ブラのカップの中にシリコンパッドを収めた。
 
タンクトップを着て、ミニスカートを穿く。女の子の完成だ。
 
「可愛い!」
と言って須藤さんはご機嫌になった。
「もしオカマみたいな感じにしかならなかったらコミカル路線で行こうかとも思ったのだけど、これならキュート路線で行ける」
と言って、ボクの眉を切りそろえる。残り時間6分。
 
「さ、行こう」
と促して、屋上に戻った。屋上では政子が設営作業を終わらせていた。政子はボクを見ると「可愛い!ねぇ明日からずっとこれで来たら?」とウィンクして言ってから、渡された自分の分の衣装を持って着替えに行った。
 
政子が戻って来たのは12時ジャストだった。政子に小声で訊く。
「ボク、アルトで歌うから。その3度下を歌える?」
「あ、それならできるかも」
と言うので、とにかく今日は政子には全て3度下で歌ってもらうことにした。
「分からなくなったらボクと同じ音で歌って」
と言う。
 
政子が頷いたのを見て、ボクは政子の手を取ると一緒にステージに上がった。
 
「こんにちは。リリーフラワーズです」
とボクがマイクに向かってアルトボイスで言うのを聞いて、PA卓の所にいる須藤さんが驚いたような顔をしている。
 
「では、最初の曲『七色テントウ虫』聴いてください」
というと、ボクは譜面を見ながら前奏を弾き出した。そしてボクはマイクに向かい
「あなたがある日私にくれた・・・・」
とその曲の歌詞をアルトボイスで歌い始めた。政子はボクの声を聴きながら、3度下のハーモニーで歌う。
 
1曲歌い終わったところで凄い拍手が来た。須藤さんが嬉しそうに首を振っている。
 
ボクは客席に向かってお辞儀をし、MCをする。
「今日はほんとにいいお天気ですね。私たちは昨日は甲府にいたんですが、夏なのに涼しくて、半袖で行ったのをちょっと後悔したんですよ」
などとトークを入れていった。
 
これは実は話しながら次に歌う曲の譜面を先読みして確認したいからであった。とにかく譜面の最高音と最低音を確認し、自分と政子の声域を考えて何調で弾くかを決める。それからコード進行の中に難しい所がないかをチェックする。当然そんなことをしている間に政子も歌詞だけでも先読みしているはずである。
 
「それでは2曲目『夢に見たデート』聴いて下さい」
といって2曲目の前奏を始めた。
 
この日最初のステージでは、ボクはこうして各曲ごとに1〜2分のMCをはさみながら予定通り6曲を歌った。思わぬメロディーラインの動きがあった時はさすがに頭が付いていかないので適当に歌いやすいメロディーに変更しながら歌った。それでも最後の曲を歌うと大きな拍手が来た。ボクは政子と手をつないで一緒に客席におじぎをし、それから手を振ってステージを駆け下りると、控え室に戻った。
 
須藤さんは控え室に入ってくると、感激してボクたちをハグした。
「あんたたち凄いね!即席ペアの即興演奏とは思えないよ」
「私たち仲良しですから」と政子。
「唐本君、あんな女の子みたいな声が出せるんだね」
「冬は、音楽の時間、バス・テノール・アルト・ソプラノ、全パートを歌ってたらしいです」
「おお、凄い才能だ」
 
「あ、服を着替えてマイクとかの撤去してきます」とボク。
「うん。お願い。あ、待って」
「はい」
「着換えないで。そのままでいよう」
「え?」
「マイクは私が撤去してくるから、ここで休んでいて」
「あ。はい。あ・・・・」
 
「どうしたの?」
「ちょっとトイレに行きたくて。でもこの格好ではいけないから」
「トイレくらい行っておいでよ」と須藤さん。
「いけばいいじゃん。ちゃんと女子トイレに入ってよね」と政子。
「あはは。やはり、女子トイレ?」
「その格好で男子トイレには入ってもらいたくないね」と須藤さん。
 

そういう訳で、ボクはミニスカートのまま、女子トイレに行った。トイレの中で列に並んでいる時、さっきのステージを聴いた人がいて握手を求められ、「15時のステージには友だち呼んできますから」などと言われた。
 
1回目のステージはぶっつけ本番だったので、ほんとに泥縄な歌い方をしたのだが、ボクたちは2回目のステージまでの間に楽譜を検討し、ここはこういう歌い方をしようなどというのを話して、実際に歌ってみた。そこで15時からのステージではかなりちゃんとした歌い方をすることができたし、ふたりとも落ち着いて歌うことが出来た。そしてそのステージは12時からのステージ以上に盛り上がったのである。
 
この日はリリーフラワーズの代役だったので、リリーフラワーズの名前で押し通してしまったのだが、次回からはやはりまずいということで別の名前にしようということになった。
 
「何がいいかなあ。できたらこないだリリーフラワーズと名乗っちゃったから、そこからあまり離れない名前がいいんだけど」と須藤さん。
 
ボクはその時6月に晃子さんと一緒に歌った時に『テキサスの黄色いバラ』
を歌って、黄色いドレスを着ている君はまさに「日本の黄色いバラだ」と言われたことをふと思い出した。
 
「ローズなんて加えてみます?」
「ああ、いいね。ローズ&リリーとか?」と須藤さん。
「加えるんなら『+』(プラス)がいい」と政子。
「じゃ、ローズ+リリーにしようか」と須藤さんが言って、ボクたちのユニット名は決まった。この時点では8月いっぱいの臨時ユニット名のつもりだったので、あまり深く考えなかった。
 
ずっと後から気付いたのだが「ローズ&リリー」だと画数は14画になって凶だが、「ローズ+リリー」だと15画になって吉画になるのであった。
 
こうしてボクたちのローズ+リリーとしての活動は始まった。
 
そしてローズ+リリーとして、女の子の格好でステージに立っている人が男の子のかっこうでそのあたりをうろついていては困るなどと言われてボクの生活まで、全面的に女の子化していくのであった。
 
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【夏の日の想い出・高2の初夏】(1)