【夏の日の想い出・3年生の早春】(1)

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この春の騒動のことは、やはりあのラジオ放送の話から書けば良いのだろうか。
 
発端はローズクォーツが前年10月に出演したイベントで、私と(たまたま一緒に来ていた)政子が、○○プロの浦中部長から、◇◇テレビの響原部長を紹介されたことから始まる気がする。その時になぜか古いアニメの話になってしまい、政子はやはり少女アニメって女の子にとって夢ですよね、などといってセーラームーンからおジャ魔女どれみからカードキャプターさくらから、熱弁を振るった。
 
その少し後で、◇◇テレビ系列のAM局で少女アニメのアニメソング特集をする企画があるので、そのナビゲート役を、ローズ+リリーでしないか?というお話を頂いた。ローズ+リリーはテレビには出演しないことを理解してもらった上でラジオ局の話を持ってきてくれたようであった。
 
ローズ+リリーにしてもローズクォーツにしても、ラジオ局はFM局を中心に出演していてAM局にはあまり縁が無かったのだが、政子がけっこう乗り気だったのでその話を受けることにした。放送は12月に行われ、1時間の番組で1980年代から1990年代の少女アニメを中心にアニメソングを流しまくったのだが、するとその番組を聴いていた同じ◇◇テレビ系列で放送している人気少女アニメシリーズ「エンジェル・リリー」のプロデューサー諸橋さんが、次年度のそのシリーズのエンディングテーマを私たちに歌ってくれないかという話を持ってきたのである。
 
諸橋さんは「リリー」という名前に共通点があるので、一度歌ってもらいたいと以前から思っていたなどと熱烈に私たちを誘ってくれたので、お受けすることにした。
 
2月から始まる新シリーズでオープニングテーマはAYAが歌うことになっていた。『花のリリー・マクラーレン』という軽快なマーチ風の曲(上島先生の作品)をAYAが歯切れの良い歌い方で歌っていた。リリー・マクラーレンは無論リリー・マルレーンのもじりで主人公の(変身後の)名前だが、自動車の「マクラーレン」
にも掛けてある。今年のシリーズでは、主要登場人物の名前が自動車関連から取られているということだった。
 
私たちが歌うのはやはり上島先生の作品で静かな感じのバラード『天使の休息』
という曲で、ローズクォーツの伴奏で録音し、番組が始まる2月5日の1ヶ月前の1月初旬に、AYAの『花のリリー・マクラーレン』と両A面扱いでCDが発売された。このCDはアニメのテーマ曲としては異例の高い売り上げを見せ、諸橋さんも驚いていた。また、私たちふたりと更にAYAも、このエンディングに出演することになった。
 
最初にAYAの姿が映り、彼女が首に付けているロケットを開くと、その中にマリとケイの姿があって、ふたりがそこからキラキラする星とともに飛び出してくる。そしてAYAを中心に左にケイ、右にマリが並んだ所から実写がアニメにモーフィングして、そこにアニメの登場人物がリリー戦士たちも、敵のシャドウ幹部たちもごちゃ混ぜに現れて踊るという趣向であった。AYAは「熱々のふたりの間に割り込んじゃっていいのかしら」などと言っていたが。
 
そして「その事件」は第1回放送の前日、2月4日土曜日の夜に起きた。
 
私は前日の金曜日にローズクォーツの那覇でのライブで歌ったが、その日はライブツアーの合間を縫ってAYAの新曲レコーディングにコーラスで参加することになっていたので、私だけ朝から飛行機で東京に戻っていた。ローズクォーツの他のメンバーは日曜日にローズクォーツの福岡公演が行われるため、その日は那覇から飛行機で福岡入りし、福岡で臨時の休日を過ごしていた。
 
私はその日東京に着いてから、羽田まで迎えに来てくれていた政子と一緒にAYAのレコーディングが行われているスタジオに行き、コーラスを収録。録音作業が終わった後、夕方食事に出て串焼きの店で2時間ほどガールズトークをして、そろそろ今日は上がろうかということになり、お店を出てタクシーを拾えそうな所まで、夜の町を私たち2人とAYA、AYAのマネージャーさんの4人で歩いていた。
 
その時、向こうの方から思いがけない人物が歩いて来た。
「先生!」
「やあ、おはよう!」
 
上島先生が上島ファミリーのひとり、百瀬みゆきと一緒にこちらに歩いてきていた。
「私も先生と偶然そこで遭遇してタクシーを拾おうと思ってここまで来たんですよ」
と百瀬さんは言っていた。
「でも先生がこういう所に珍しい。ごちゃごちゃした所はあまりお好きじゃないのかと思っていた」とAYA。
 
「うん、ちょっと人と会ってたもんだからね」と先生は言ったが、私は恋人と会ったなと思った。先生が奥さん以外に複数の恋人を持っている風なのは感じていたし、一度先生のお宅にお邪魔している時、恋人からの電話を受けてしまったこともあった。ただ百瀬さんはその場で見た感じでは、恋人という雰囲気ではなかったので、たぶん恋人と別れた後、偶然百瀬さんと遭遇したのであろう、と私は思った。
 
私たちはその場で少し立ち話をしていたのだが、その時走ってきた男性に私とAYAが連続して突き飛ばされた。私はそばにいた政子がキャッチしてくれたのだが、AYAは「きゃっ」と言って転びそうになり、上島先生がそれを抱き留めてくれた。
 
その瞬間、フラッシュが焚かれた。
 
私たちはえ?と思い、AYAのマネージャーさんがフラッシュの来たと思われる方向に走っていったが「だめ。誰が撮ったか分からない」と戻って来て言った。
 
「今の完璧に盗撮されたよね」
「さて、撮られたのは、抱き合ってる私とマリか、それとも」
「私と先生かしら・・・」とAYA。
 
もう19時すぎではあったが私と政子は美智子に連絡し、何かがあった時のために事務所に向かったが、事務所に着いた時、美智子が「やられたのは向こう」
と言った。
 
美智子が魚拓を見せてくれた。
「元の掲載ページには速攻で削除を申し入れて既に削除済み。でもこの写真の分散はもう停めようがない。こんな感じのページが恐らく100以上はできてる。掲載サイトの中には管理側の反応が遅いところもあるし」
 
上島先生とAYAが抱き合っている写真がそのページには載っていた。
「上島雷太とAYAが熱愛!」などというタイトルが付いている。これがまた、ちょうど2人がキスしているようにも見えるのである。
 
「さっきからAYAの事務所や上島先生の所とも相互に連絡取ってるんだけどね。この写真は、そばにあなたたちや百瀬さんもいたので、単なる事故ということで弁明できるんだけど、実はもっと困った写真があって」
 
と言って美智子はAYAのマネージャーさんから送られてきたメールに添付された1枚の写真を開いて見せてくれた。
「え!?」
 
それは明らかに上島先生と分かる男性がひとりの女性と本当に熱烈に抱き合ってキスをしている写真であった。ただ、暗い中でフラッシュ無しで撮影し、Photoshopで増感したようで、画質はかなり荒い。女性の方は顔が向こうを向いているので誰か分からないが、先生の方はきれいに判別できる。
 
「奥さんとは背丈が明らかに違うのよね」
「春風アルト(上島先生の奥さんの現役時代の名前)さん150cmくらいだもんね」
「この女性は170cm以上あるね。モデルさんか何かかなあ・・・」
 
「上島先生、今夜は実際恋人と会ってたみたいなんです。そちらと別れたあと百瀬さんと遭遇して、タクシー拾えるところまで一緒に歩いて来ていた所で私たちとまた遭遇したみたいで」と私。
「え?そうなの?」と政子。
「あの時の会話から、そういう状況だなと思った」と私。
 
「ということは、この写真はその本来の恋人との熱愛ショットか」
 
「でさ、この暗闇の中の写真が、困ったことに明日のスポーツ新聞朝刊に載っちゃうのさ」
「えー!?」
「もう停められない。あと3〜4時間もしたら配送が始まる。この写真だけだったら握りつぶせた可能性もあるんだけど、AYAとの写真がネットに出回ってしまったので、新聞はやる気満々で」
「わあ・・・・」
 
「まあ、上島先生はいまさらこの程度は大したスキャンダルにはならないし、AYAの方のは、あなたたちの証言で誤解もすぐ解消するだろうけど、この件を知った、おもちゃ会社の広報部長さんから緊急に連絡が入ってさ」
「へ?」
「まさか、スキャンダル渦中の作曲家の作品を、そのスキャンダル相手の歌手の歌で、子供向けのアニメのテーマとして放映しませんよね?と」
 
「エンジェル・リリーのテーマ曲の件ですか?」
「そう」
「でも停めるにしても、放映開始は明日の朝10時ですよ!」
 
「それに上島先生は仕方ないとしてAYAは被害者ですし」
「どっちみちAYAちゃんが歌っている曲も上島作品」
「あ、そうか!」
 
「そういう訳で、今どうするかというのを◇◇テレビで緊急会議している。0時前には結論を出すということだから、それまで悪いけどここで待機しておいてくれる?、AYAちゃんの件を証言する必要が出てくるかも知れないし、テーマ曲差し替えの可能性があると言われたんで、先程近藤さんに連絡して緊急にスターキッズのメンバーに招集を掛けてもらった」
「ああ!」
 
本来ならこういう場合ローズクォーツを使いたいところなのだが、メンバーは今日は(明日のコンサートのため)福岡である。朝までに東京に戻る手段は無い。そこで、ローズ+リリーのアルバム制作をはじめ、いくつかの仕事で関わりができていた近藤さんに連絡したところ、たぶんスターキッズのメンバーは全員集められると思う、ということであったので、まだ電車が使える人は電車で、もう終電になっている人はタクシーででも、各々の愛用の楽器をできるだけ多く持って都内の某スタジオまで来て欲しいということを要請したのであった。
 
私たちはAYAの事務所や福岡にいるマキ、また移動中の近藤さんなどと連絡を取りながら、とりあえず待機していた。(私は仮眠しておいた)
 

22時過ぎにテレビ局から連絡が入った。緊急会議をしたいから至急来て欲しいということだった。3人ですぐに駆けつける。上島先生、百瀬さん、AYAも来ていた。
 
「じゃ、AYAさんの件はローズ+リリーのおふたりと百瀬さんが証言してくださいますね?」
「はい」と私たち。
「じゃ、やはり問題はあちらの密会写真に絞られますね」と響原部長が言う。「いや、ほんとに面目ない」と先生。
 
「上島君、去年も1度似たことがあったよね」と響原部長。
「申し訳無いです」
「あの時はうまく報道を押さえられたのだけど、今回はAYAさんの写真と連動してしまったので無理だった。上島君、君の女性関係は、ある程度は業界でも知られてはいるけど、しばらくは浮気は慎んでくれる?」
「分かりました」
 
上島先生にこういうきつい言い方できるのは、この響原さんか町添さんくらいではなかろうかという気がした。
 
「さて、エンジェル・リリーのシリーズも今年は放映開始5周年でね。その出だしをスキャンダルで飾る訳にはいかないということで『花のリリー・マクラーレン/天使の休息』は取り敢えず明日朝の放送では流さないことにした」
 
「歌無しにするんですか?」と百瀬さん。
「そういう訳にもいかない。5周年の第1回放送でそんなことしたら諸橋君の首が飛ぶのはもちろん、◇◇テレビの幹部も減給ものだね。それで代わりの歌を朝までに用意できないかということになっている」
「今からですか!」
 
「放送開始まで11時間ほどある。それから、エンディングの映像についても、AYAさんには申し訳ないが、明日の朝の版では、AYAさんを抜いて、マリさんとケイさんだけ出てくる映像にさせて欲しい。今その再編集の作業をしている。事後承諾で申し訳無いけど、了承して欲しい。AYAさんの件がクリアになったらすぐ本来の映像に戻すから」
 
「私はOKです」とAYA。
「AYAがOKなら、こちらは異存ないです。ね?」と私。「うん」と政子。
 
「しかし、今から11時間の間に、オープニングとエンディングに使う代わりの曲を用意して録音もするんですね?」とAYA。
「できないことはない。スタジオを2〜3時間借りてシングルの収録をしちゃう歌手なんて、けっこういる」
「でも曲から用意しないといけないし」
 
「うん。その前に、そもそもその曲を誰が歌うかという問題なのだけど、最初オープニングを百瀬さん、エンディングをローズ+リリーのふたりにお願いしようと思ったのだけど、百瀬さんが今歌えないということで」
 
「ごめんなさい。こういう時にお役に立てなくて。先月ポリープの手術をしたばかりで、まだしばらく歌えないんです」
「そういうことで、オープニング、エンディング共に、ローズ+リリーにお願いしたい」
 
「了解です。緊急に録音をお願いするかもと9時の時点でご連絡を頂いたので、今、伴奏してくれるバンドの人たちにスタジオへ急行してもらっています」
と美智子。
 
「でも、私たちが歌うのはいいとして、曲は誰が書くんですか?」
と私が言ったら、みんなの視線がこちらに集まった。
 
「それも、ケイちゃんとマリちゃんが書くしかないよ」とAYA。
「えー!?」
 
「君たち、曲作りが速いよね。君たちが30分ほどで曲を書いた所を見ている人が随分いるんだよね」と響原部長。
「わあ、どうしよう」
などと私と政子が顔を見合わせていた時、上島先生が
 
「ね、あれ使えない?こういうシチュエーションで使うの申し訳無いけど、『影たちの夜』と『天使に逢えたら』」
と言い出した。
 
「あぁ!」
 

『天使に逢えたら』は、私たちが3年前、高校2年生の時、修学旅行で阿蘇に行った折りに書いた作品である。その後、私たちもその作品のことを忘れていたのだが、2年前の春にFM放送で私たちの未発表曲を流すということになった時、あれが出来が良かったからというので、政子の家の押し入れから譜面を発掘して、番組の中で生で歌った。
 
『影たちの夜』は私たちが大学に入った年に、日光鬼怒川温泉のホテルに一緒に泊まって熱い夜を過ごした時に、少し不思議な体験をしたのを元に書いた曲である。これもそのFM放送の時に生で歌った。この曲は私と政子が今までに書いた曲の中でもトップ3に入る物凄く良い出来の曲だと自分たちでは思っていた。
 
この2つの曲はどちらもクォリティが高かったので、美智子は私たちがふたりとも歌手としてカムバックした場合、復帰第一段のシングルとしてこの2曲をカップリングして出そうと思っていたという。しかし私は復帰したものの、政子はライブ活動はせずに、当面音源制作だけに参加するということになったため、この2曲のCD化は宙に浮いてしまった。
 
その後私たちが大学1年生の年末頃にあらためて発売しようという話があったものの、様々な予定が割り込んできて、発売予定が年を越して3月くらいという線までずれていった。そこに震災が起きて、そのあたりの予定が吹き飛んでしまった。そして結局、ひじょうに秀逸な曲なのに、発売のタイミングを逸したまま、今に至ってしまったのであった。
 

私はこの2曲のMP3を、いつも持ち歩いているPCに入れていたのでその場で流してみると、響原部長も諸橋さんも「凄い。いい曲だ!」と感心している。
 
「これ、未発売なんですか?」と諸橋さん。
「そうなんですよ。何度か発売しようという話があったのが、どうもうまくタイミングが合わなくて、今まで発売できずにいたんです」と私。
 
「『天使に逢えたら』は凄く美しい曲ですね。まるでほんとにそのあたりで天使が遊んでいるみたいだ。『影たちの夜』は少しエロティックだけど、最近の少女漫画には過激なのが多いし、このくらいは構わないですよ。それにエンディングに使うのなら、あまり文句も言われない」
と諸橋さん。
 
「でも、偶然にも『天使に逢えたら』ってタイトルは、エンジェル・リリーのエンジェルにマッチしてるし、『影たちの夜』というタイトルも、対抗組織のシャドウとうまい具合にマッチしてるのね」
 
「これ、この騒動が落ち着くまでの暫定で使うのもったいないです。半年使いましょうよ」と諸橋さん。
「うん。それがいいね。『花のリリー・マクラーレン/天使の休息』は8月にリリー戦士の数が4人から6人に増えるタイミングから使おう。上島君、それでいい?」と響原部長。
 
「はい。それでお願いします。私もとにかく新たなスキャンダルは起こさないように自重します」
「頼むよ」
 
「それで、これ音源の制作だけはなされてるんですね」
「2年前に収録だけはしたんだよね。でもN*Kの番組で1度流しただけで、どこにも出してないよね」と上島先生。
「一応これのミクシング前のデータも、うちの会社の事務所と私のマンションに1個ずつコピーを置いてますので、必要なら1時間ほどで取ってこられます」
「その音源を使いますか?」
 
「もし作業が間に合わなかったら第一回だけはそれでもいいけど、できたら新たに録音して流したい。1度だけででも過去に公開されたことのあるテイクはあまり使いたくない」と響原さん。
「その作業を今からですね」
「うん。10時放送だから、できたら8時頃まで、最悪でも9時までに収録を終えてもらいたい」
 
「分かりました。私たちもこれからスタジオに入ります」
 

私たちがスタジオに到着したのは、夜0時過ぎであった。美智子と私、諸橋さん、それに何かのお手伝いができるかもということで、上島先生とAYAも一緒に来てくれた。スタジオにはスターキッズのメンバーと、UTPの社員である花枝と悠子が来ていた。また、美智子は、音源制作の実務を手伝ってもらうのに計算できる戦力として甲斐さんを緊急に呼び出していた。甲斐さんは住んでいる国立市からタクシーを飛ばして来るということで、0時半頃に到着するということだった。
 
収録に必要な楽器でスターキッズのメンバーが持っていないものが若干あるのでそれを調達できそうな★★レコードにお願いして、持ってきてもらうことになった。また、万一今夜の収録作業がうまく行かなかった時のため、既存音源のミクシング前のデータを、政子に私のマンションまで取りに行ってもらった。収録は演奏から先に録るので、ボーカルの政子が必要になるのは、恐らく明け方の6時くらいと思われた。政子にはデータを取って来てもらった後はスタジオ内で仮眠してもらうことにしていた。
 
「ケイちゃん、緊急に録音しようという話なのに、何この凝ったアレンジは?」
と近藤さん。
 
「最悪の場合オープニングの『天使に逢えたら』だけ新録音で流して、エンディング用の『影たちの夜』は第1回放送では既存音源を使い、来週の放送から新録音のものに差し替えます。でいいですよね?諸橋さん」
「うん」と諸橋さんが頷く。
 
「時間が無いからといって妥協無しです。最高の品質のものを作ります」
と私が言うと、近藤さんは
「気に入った!」
と言って笑顔になり、握手を求められた。
 
とりあえず既存音源を聴いてもらう。
「このヴァイオリン、松村さんだよね」と近藤さん。
 
「そうです。『あの街角で』では、松村さんのヴァイオリンと近藤さんのギター、宝珠さんのフラウト・トラヴェルソ、で収録しましたね」
「あのヴァイオリン高そうだったなあ」と近藤さん。
「かなりの銘品だよね。たぶん800万円くらいかな」と宝珠さん。
 
私が九州から戻ってきてAYAのレコーディングに参加してほとんど休憩していない状態でこの録音なので、私はいったん3時まで制作の指揮をして、その間に美智子が仮眠しておき、3時に交替して私の方が仮眠し、6時にまた起きて仕上げをするということになっていた。そもそも『天使に逢えたら』のアコスティックなアレンジは私の方が得意であり、『影たちの夜』のリズミカルなアレンジは美智子の方が私より得意というのもあった。AYAは取り敢えずしてもらう作業が無いので、美智子と一緒に仮眠しておいてもらうことにした。
 
『天使に逢えたら』はアコスティックな演奏である。近藤さんたちに聴かせた既存音源は、小林さんのギターと松村さんのヴァイオリン、長谷部さんのフルートで演奏されているが、今回の編曲ではギターが2パート、ヴァイオリンが2パートとビオラ、フルートが2パートとピッコロが入っていてヴァイオリンもフルートも追いかけっこをしている。
 
「なるほど、それでヴァイオリンも持ってきてくれと言われたわけか」
と本来はベースの鷹野さん。彼は実はヴァイオリンが本職である。音楽大学のヴァイオリン科を出た後、ロックバンドを始めてしまったというので親は嘆いていたらしい。
「でもビオラは俺持ってないよ。弾けることは弾けるけどね」
 
「という話だったので、用意してくれることになっています。2時頃到着するはずです」
 
「私はフルート2回とピッコロを吹けばいいのね」と宝珠さん。
「ええ、お願いします。フルートのひとつをフラウト・トラヴェルソにできますか?」
「OK」
 
「この曲では俺は寝てていいの?」とドラムスの酒向(さこう)さん。
「お茶係でよろしく」と近藤さんが言う。
「いえ、寝てて下さい。その分3時からお願いします。お茶は悠子に入れさせますから」と私。
 
この他、クラリネット・オーボエ・ファゴット・コントラバス・ハープ、などといったパートがあったのだが、これはスターキッズのキーボード奏者月丘さんにシンセサイザで演奏してもらうことになった。
 
録音作業は、宝珠さんの管楽器、鷹野さんの弦楽器、月丘さんのキーボード、近藤さんのギターを同時進行で進めた。上島先生に月丘さんの音色設定と演奏、甲斐さんに鷹野さんの弦楽器を見てもらい、私は宝珠さんの管楽器のパートと近藤さんのギターを見つつ、全体のチェックを同時進行で進めた。
 
2時頃、★★レコードの南さんがビオラを持ってきてくれたが、多少の連絡の行き違いがあったようで、南さんはヴァイオリンとビオラを1丁ずつ持ってきてくれていた。そこで鷹野さんはヴァイオリンの2つのパートを、自分のヴァイオリンと、南さんが調達してきてくれたヴァイオリンで1パートずつ弾いた。
 
「このヴァイオリンいい!欲しい!」などと鷹野さんは言っていた。
「これはレンタル用の楽器ですが、同等の品の購入は可能だと思います。イタリアから取り寄せるので少しお時間がかかりますが、お値段は220万円ほどだったと思います」と南さんが言うと
「だめだー。金が無ぇ」と天を仰いでいた。「コンちゃん。金貸して」
「俺も金無いよ」
「あ、ケイちゃん、お金持ちそう。貸してくれ」
「ほんとに使われるのでしたら会社の備品として買いましょうか?会社で所有した上で、スターキッズさんにだったら無料で貸せますよ」
「え?ほんと?じゃ専務さん、お願い!」
私は一応UTPの専務なのである。
 
「じゃ、その件はあとでまた」
「よっしゃー」
といって鷹野さんの演奏に熱が入る。
 
結局『天使に逢えたら』の演奏部分の収録は3時過ぎに終了した。スターキッズのメンバーにいったん休憩してもらっている間に、私が超暫定のミキシングをして、みんなに聴いてもらった。
 
「かっこいいー」
「楽器の追いかけっこが凄いね」
「収録はパート単位だから、こうやってミキシングしてみて、初めてこれが分かりますよね」と私は笑顔でいった。
 
ここで美智子と交替して私は仮眠する。『影たちの夜』は美智子の制作指揮で収録が進められた。
 

さすがに疲れが溜まっていたのか、6時に政子に起こされるまで、ほんとに熟睡していた。夢も見ないほど深く眠っていた。
 
『影たちの夜』の演奏部分の収録が完了していた。スターキッズの人たちはとりあえず仮眠してもらって、私と政子の歌を、演奏にあわせて収録する。
 
歌も『天使に逢えたら』から収録するが、まずは先頭のスキャット部分を私の高い部分の声で収録した。このスキャットの一番高い所の音はC6である。私の声域は大学1年頃はG3〜A5までだったが、この頃は上がD6まで出るようになっていた。既存音源ではこの部分は裏声で歌っていたのだが、今回はこれを普通の声で歌うことができた。
 
「よくそんな高い所まで出るなあ」と、眠る前にコーヒー1杯飲むといって、まだ起きていた宝珠さんが言う。
「去勢したんだっけ?」
「去勢はもう2年前にしましたが」
「再度去勢したとか?」
「何を取ればいいんですか〜?」
 
この曲はボーカルのパートが3つあるので、私のソプラノボイス、アルトボイスと政子の声で多重録音するつもりだったのだが、宝珠さんが「私も歌おうか」
と言い出した。少し歌ってもらったら、上手い!そこでお願いすることにして結局多重録音はせずに、リアルタイムで収録した。
 
「この時間の無い中でこれをリアルタイム録音できたのは大きいなあ」と美智子が嬉しがっていた。
 
『天使に逢えたら』では3つの声が追いかけっこをしていたが『影たちの夜』は私と政子の声が会話するような感じで進行する。少し練習で歌ったあと、これも一気に通して録音しようということになり、スターキッズの人たちの演奏の録音を聴きながらふたりで歌った。
 
収録が終わったところでアニメのオープニング・エンディングに合わせての抽出、ミキシング作業を上島先生がしてくださることになった。
 
その頃、AYAが起きてきて「あ、もうおわっちゃった?」などと言ったが、
「『天使に逢えたら』の別バージョンを録りたいから、今から歌って」
と私は言った。
 
第一回の放送ではAYAも使えないので私と政子(と宝珠さん)が歌ったバージョンを使用するが、来週までにはAYAの件は誤解であったことが判明しているはずなので、AYAも使える。そこで、AYAにメインボーカルを取ってもらう版を作りたかったのである。
 
私と政子は加わらないことにして、ツインボーカル版のボーカル・アレンジを使用し、AYAと宝珠さんの2人で追いかけっこをする形で歌ってもらい、収録をした。
 
「たぶん来週からはこちらで行ける」
 

8時に響原部長がスタジオにやってきた。映像とそれに合わせてミキシングされた2つの楽曲を聴いてもらう。
 
「素晴らしい。君たち、ほんとにしっかりした仕事をするね」と感動している。
「最終ミキシングは上島先生がしてくださいました」
「うん。そのくらいはこき使わないとね」
 
一行はテレビ局に移動し、10時の放送で無事『天使に逢えたら』と『影たちの夜』
が流れるのを見てから、再度スタジオに移動し、とりあえずスターキッズの人たち、AYAと政子には休んでいてもらって、美智子の手で、この2曲のCDシングル発売用のミキシング作業をおこなった。最終的に若干追加で録りたい部分が出てきて、それを夕方くらいまでに収録して、音源制作を完了した。
 
アニメのオープニング・エンディングの曲として流した以上、かなり早い時期に発売できるようにして欲しいという要請であった。町添さんと響原さんの話合いで、CDは2月15日発売という線でスケジュールが引かれていた。
 
CDに収録する曲はマリ&ケイ&七星の3人のボーカルによる『天使に逢えたら』
(アニメの初回で流すバージョン)、AYA+七星のツインボーカルによる同曲(アニメの2回目以降で流すバージョン)、マリ&ケイで歌った『影たちの夜』、および、この2つの曲のカラオケ版、という5つである。
 
ダウンロードと着うたフルに関してはCDに関する作業を優先するため後回しにして、3月初めにオープンにする方向ということだった。
 

美智子たちが音源の調整をしていた一方で、私はその日、福岡でローズクォーツのコンサートがあるので、10時の放送を待たずに、テレビ局に向かう他の人たちとは別れて羽田に向かい、飛行機で博多に入った。
 
「おお、来てくれたか。ケイが来てくれなかったらどうしようと思ってた」
とマキ。
「来ますよ−。でも眠い。飛行機の中でもひたすら寝てたけど。ライブが終わったら今夜はもうとにかく寝よう。でも今回はヤスさんのおかげでキーボード弾かずに歌に専念できるから楽」
「いや、お役に立てて幸いですよ」とヤス(太田)さん。
 
2月は先日の那覇に始まって北海道まで全国12ヶ所でツアーをすることになっていた。今月私は大学のほうで後期の試験があるため、私の負荷を少しでも減らそうということで、以前何度かレコーディングの際にサポートで入ってもらっていたキーボードの太田さんに今回はツアーのサポートミュージシャンとして入ってもらっていた。太田さんは、ローズ+リリーのアルバム『After 2 years』
にはキーボードで, ローズクォーツの『春を待つ/花鳥風月』にはキーボードとパーカッションで参加していた。
 
おかげで今回のツアーでは私は基本的には歌だけ歌えば良かった(『花祭り』
と『コンドルは飛んでいく』だけ、太田さんがパーカッションにまわり、私がキーボードを弾いた)。正直、東京→沖縄→東京→福岡と短時間での長い距離の移動が続いていた最中に徹夜でレコーディングの指揮をしたのは、さすがに辛かったので、本当に助かった。
 
すぐに会場でリハーサルをし、そのあと18時からのコンサートで熱唱する。コンサートが終わってからは打ち上げをパスさせてもらい、翌日の移動に備えて新幹線で小倉に移動してから駅の近くのホテルに泊まって取り敢えず寝た。
 
翌朝は3時半にホテルをチェックアウトして北九州空港に行き、朝5:30のスターフライヤーに乗って羽田に7:00に到着した。そして私はそのまま大学に出て行った。政子から
「よく戻って来たね。もうダウンしてるかと思った」
と言われる。
 
「だって、後期の授業も今週で終わりだから、出なくちゃ」
「眠くない?」
「眠い。授業終わったら、マーサの胸で眠らせて」
 
などと言ったものの、私はすぐには眠らせてもらえなかった。上島先生とAYAの抱擁写真の件で記者会見をしてくれという話になっていたため、ほんとに眠かったのだが、大学の講義が終わってから、夕方、美智子と一緒にテレビ局に行き、記者会見をして、当時の状況を説明した。百瀬さんとAYAも会見に出席していたが、私と百瀬さんの説明で、だいたい記者たちも納得したようであった。
 
美智子が政子の役、AYAのマネージャーさんが上島先生の役をして、テレビ局の女性ADさんが私たちを突き飛ばした男役を演じて、当時の状況を実演してみせたりもした。
 
そうしてAYAの方の変な疑いは晴れた。これで次週からのアニメのオープニングではAYAが歌う『天使に逢えたら』が使えるようになり、エンディングの映像もAYA・マリ・ケイの3人が出る元の映像に戻されることとなった。
 
予定されていたアニメのテーマ曲を突然差し替えたテレビ局も散々追求され私たちの記者会見とは別に、昨日諸橋さんが記者会見をしたということであった。別にスポンサーから圧力などがあった訳ではなく、あくまでテレビ局側の自主的な判断であると説明した。この件は記者もあまり深く追求しなかった。
 

『天使に逢えたら/影たちの夜』(両A面)は、《Rose+Lily+AYA ft Star Kids》のクレジットで、、2月15日に発売され、最初の一週間で30万枚、月末までに40万枚を売った。
 
3月にはこのシングルのダウンロード、着うたフルも解禁されたが、CDの方もジャケ写の異なるバージョンを出した。2月15日に発売したものはアニメの絵がジャケ写に使用されていたのだが、こちらはふつうにローズ+リリーとAYAの写真をメインに、スターキッズのメンバーも小さくではあるが一緒に写ったものを採用した。
 
ローズ+リリーのファンも半分は男性だし、AYAにいたっては9割くらいが男性ファンである。しかし少女アニメのジャケットでは、その人たちが恥ずかしくて店頭で買えないということから、こういうノーマルジャケットのものを用意したのであった。
 
3月に入ってからこのシングルの売上は急上昇した。2月の発売の時も週間ランキングで2位だったのだが、3月に入ってから、ノーマルジャケット版のCD売上とダウンロードが凄いことになり、最初の週が1位、その後も5位以内をキープして、結局3月だけで60万枚(件)を売り、アニメジャケットのものとあわせた売上が100万枚(件)を突破した。(このふたつのCDは中身が同じなので集計上は同じものとして扱われる)
 
これはローズ+リリーにとっては『甘い蜜/涙の影』、『涙のピアス/花模様』
に続く3枚目のミリオンセラーとなり、AYAにとっては初めてのミリオンとなった。また、スターキッズにとっても、これが事実上のメジャーデビュー曲となり、デビューしていきなりミリオンを経験する形となった。
 
スターキッズは本来は近藤さんの方がメインボーカルだったのだが、この曲でどうしても宝珠さんの声が注目されたことから、その後スターキッズはしばしば宝珠さんをメインボーカルにした曲も演奏していくことになった。
 
また、これを機会にスターキッズは私たちの事務所UTPとマネージメント契約を結びUTPで4組目のメジャー・アーティストとなった。私と政子は彼らにも頻繁に楽曲提供をすることになった。スターキッズ単独での最初のアルバム『Prelude No.5』は5月に発売され、12万枚を売るゴールドディスクとなった。
 

3月1日から7日まで私と政子はローズクォーツの新シングルの録音をした。ローズクォーツの録音に政子が参加するのは、何だか好例になってきた感じだ。
 
タイトル曲のひとつは私と政子が書いた『闇の女王』と決まっていたが、いつもは何も言わなくても「これ使ってね」と言ってくる上島先生から2月20日になっても連絡が無かったので、私の方から電話してみた。ご自宅に電話すると10回近くコール音が鳴った後、奥さんが出た。
「あ、ケイちゃん、こんにちは」
「どうもお世話になっております」
「今上島は外出してるのよ。雨宮さんが来て一緒に出かけたから、どこかで飲んでるんじゃないかと思うのだけど」
 
雨宮さんは先生の昔のバンド仲間である。上島先生、下川先生、雨宮さんの3人は特に仲が良いようで、上島先生のお宅にお邪魔している時に、下川先生や雨宮さんが深夜や早朝にでも構わず突然訪問してくるというのは、よくあった。私はそれなら先生の携帯に掛けても大丈夫かな、とも思ったのだが、なぜか奥さんに伝言を頼んだほうがいい気がした。
 
「あ、そしたら申し訳無いのですが、先生に御伝言をお願いできますか?」
「はいはい」
「来月頭からローズクォーツの新しいシングルのレコーディングをするので、もし良かったら何か曲を頂けないかと思いまして」
「来月頭からローズクォーツの方ね」
「はい」
「了解。あ、念のためケイちゃんの携帯の番号、教えてくれる?」
「はい。080-****-****です」
「ありがと。じゃ、伝えておくね」
 
ここで奥さんに私の電話番号を伝えたことが後で意味をなしてくるのだが、この時はそんなことは思いもよらなかった。
 
先生からは翌朝メールがあり「ありがとう。トラブルがあったので出していいかどうか少し悩んでいた」などというメッセージとともに《実は書いていた》という『艶やかに光って』という曲のMIDIデータが添付されていた。
 
私は先生に御礼のメールをし、いつものように下川先生に編曲を依頼して、無事1日からの録音に取りかかれることになった。
 

今回の収録曲は、上島先生の『艶やかに光って』、私と政子の『闇の女王』
(以上両A面)、マキが書いた『Star Ruby』、私と政子の『マルチタスク・ラブ』
『雨の夜』、そして好例となっている民謡は『諌早のんのこ節』を入れた。
 
『諌早のんのこ節』は珍しく政子が自分から「地元の歌だし歌わせて!」と言ったのでメインに歌ってもらい、私は「シテマタサイサイ」という合いの手を歌った。
「マリ、うまーい」
「えへへ。この歌はおばあちゃん直伝だからね。子供の頃けっこう歌ってた」
 
「元々マリがアルトでケイがソプラノだもんね。この歌にはこの組み合わせが妥当だね」
などと美智子も言う。『のんのこ節』は女性のかなり低い声で歌う歌である。政子もスイート・ヴァニラズとの交換アルバムで何曲かメインボーカルを取ったので少し自信を付けている感じだ。
 
『艶やかに光って』『闇の女王』はディスコ系の曲である。
 
「前から思ってたけど、シングル作るってなった時にケイたちの曲と上島先生の曲はいつも似たテーマだったり対照的になってて、まるで打ち合わせて各々書いたみたいだよね」とタカ。
「なんか偶然そんな感じになるのよねー。不思議」と私。
「今回、『艶やかに光って』は明るい恋、『闇の女王』は魔性の恋って感じで光と影だよね」とサト。
 
「ジャケットも対角線を入れて2つの三角形にして、上の方は白基調で白いワンピースを着たナチュラルメイクのケイの写真、下の方は黒基調で『夜の女王』
みたいな衣装を着て妖しいメイクのケイの写真を使おうと思ってる」と美智子。
 
「夜の女王のアリアの一部を取り込んでるからね。ソソソソソソソソドーー、ミミミミミミミミラーー、っての」と私は実際の高音で歌ってみせる。「よく、そんな高い音出るなあ」と前回のツアーに続いて今回レコーディングにも参加してくれることになったヤス。
 
「玉抜いて高音が出るようになった訳ではないんだろうけど、C6まで出るようになったのは性転換手術の後だよね」と政子。
「カストラートみたいなもんか?」とヤス。
「いや、本物のカストラートには負ける」と私。
「私、現代のカストラートを2人知ってるからねぇ」
 
この2曲に、フュージョン系の曲『Star Ruby』はクォーツお得意のジャンルなので、スムーズに録音作業が進んだ。
 
『マルチタスク・ラブ』はテクノ系の曲で、メインメロディーは私の生の声で歌っているものの、ヴォコーダーや Pitch Fix などで加工した声を加えて、アーティフィシャルな雰囲気を出した。これは音声データの処理に少し時間がかかり、美智子がその作業をしている間に、他のメンバーは私が制作指揮をして『雨の夜』の録音作業を並行して進めた。
 
『雨の夜』は基本的にはR&B系の曲なのだが、メインボーカルの私と、カウンターボーカルの政子の声がほとんど違う旋律を歌い始めるものの、雨音の効果音(サトさんの電子ドラム)の中、次第にシンクロしていくという曲で、伴奏も二系統がミックスされた形で進行していく。これも多重録音をミキシングしてみないと出来が分からない曲なので仮ミキシングしたものを聴いてみんなが「ああ!こうなるのか」などと言っていた。
 
今回は政子とヤスがいて人手もあり、多重録音せずにリアルタイムで演奏をそのまま収録できたものも多かったので、録音作業は順調に進み、6日までにだいたいは作業は終了したのだが、7日になって最後の調整を掛け始めてからけっこう再録が必要な箇所が出て来て、最終的には8日の午前4時頃に全ての作業は終了した。
 

そのレコーディングが終わった8日の夕方、私は九州に行く準備をしていた。作業が7日中に終わる予定が8日早朝までずれ込んでしまったので、私も政子もマンションに帰ってから、Hもせずにひたすら寝た。午後3時くらいにやっと目が覚め、旅行の準備を始めたのである。政子は起きてはいるもののベッドの上でゴロゴロしていた。
 
「じゃ、マーサは行かないのね?」
「私は行っても歌えないし、まだ眠いからマンションで寝てる」
「レコーディング中に冷凍ストック使い切ったから、御飯無いよ」
「カップ麺食べてる」
 
「でも私ひとりでは寂しいなあ。モッチー誘ったら付いてきてくれないかなあ」
「うん。正望君とデート兼ねて行ってくるのもいいんじゃない?」
「でも忙しいかなあ・・・・モッチーがダメならコト誘おうかな」
などと言いながら私が持って行く荷物の確認をしていたら、いきなり喉元に何か突き付けられた。
 
「何か硬い金属製のものが喉に当たるんですけど」と私。
「気をつけて物を言った方がいいよ。遺言になるかも知れないから」と政子。
「よく思うけど、この手の刃物ってほんとに素早く出てくるね」
「それが遺言でいいのね?」
「でも面白いね。モッチーなら行ってらっしゃいでコトなら死刑なんだ」
「当然」
 
「まだおちんちんが付いてた頃はその根本によく刃物突き付けられてたね」
「おちんちん無くなっちゃったから、首に突き付けるしかないもん」
「おちんちんは切り落とされても良かったけど、首は切り落とされたくないなあ」
「去勢はむしろされたがってた気もするけど、急逝をしたく無かったら、あまりたちの悪い冗談は言わないことね」
「でも夜の独り寝は寂しいなあと思って」
 
「仕方ない。行ってあげるよ」と政子は言って、自分の荷物の準備も始めた。
「でも九州に行く前に私を1度逝かせて」
「はいはい」
 

私たちは30分後にシャワーを浴びてから一緒に車で出発した。
 
「九州まで何時間くらいかかるの?」
「ノンストップで15時間くらいかな。目的地の阿蘇まで」
「休憩しながら走るんだよね?」
「もちろん。土曜日の朝までに着けばいいし」
「じゃ、たくさん御休憩して行こ」
「うん。しばらく忙しかったし、マーサとふたりで少しのんびりしたかったんだ」
「最初からそう言えばいいのよ」
 
平日の夜なので首都高はそんなに混んでいなかった。23時すぎに東京ICを通って東名に乗る。いったん足柄SAで休憩した。
 

「でも冬と一緒にドライブすると、各地の名物食べられるのがいいなあ」
「でも高速のSAも最近けっこうチェーン店が多いからね」
「地元の食を味わえる店を増やして欲しいよね。特に夜中は開いてる店少ないし」
「吉野家とロッテリアだらけになっちゃったら詰まらないよね」
「まあロッテリアも好きだけどね。今日は足柄まさカリーバーガーが食べられなかったの残念」
 
足柄で1時間ほど休憩し、ファミマで車内で食べるおやつを調達してから出発する。夜間はどうしてもトラックが多い。政子とふたりで夜間ドライブを始めた当初は私もけっこう大型トラックにはびびったものだが、最近はトラックに追随して走っていると自然に制限速度を守って走れるので、快適に感じていた。
 
足柄から先は車線が減っていくのとともに、道路の雰囲気も少し寂しい感じになってくる。しかしその日は政子が調子よくて、かなりしゃべりまくってくれたので、こちらも適度の緊張感を保って運転することができた。
 
少し寂しい区間が終わり、美合PAで休憩した。できるだけ端の方に駐め、一緒にトイレに行く。
 
「女の子同士の恋人のいい点って、ひとつは一緒にトイレに行けることだよね」
「うんうん。彼氏とのデートだとトイレの前まで一緒に行っても、こちらが中で列とか出来てたりした時『ああ、待たせちゃう』って思うよね」
「ほんとほんと。私たちは列が出来てたら列に並んだまま、おしゃべりしてるもんね」
 
「でも私も女の子になってから3年半くらいかなあ。すっかり女子トイレになじんじゃった」
「最後に男子トイレに入ったのって、いつだっけ?」
「高3の2学期初め頃だから2年半くらい前かな。10月頃には男子トイレに入ろうとすると追い出されるようになってたし」
「当たり前。だいたい例の騒動で1ヶ月学校を休んだ後、復帰する時にもう冬は女子制服で復帰すれば良かったのよ」
 
「今となればそんな気もするけどね」
 
一緒にトイレから戻り、カーテンを締めフロントグラスの目隠しもしっかりする。後部座席にマットを敷いて布団をかぶり、裸で抱き合って寝た。
 
「裸で抱き合うの好き」
「気持ちいいよね」
「冬のおっぱいの触り心地好き」
「マーサって結構おっぱいフェチだよね」
「うん。自分でもそう思う。でも眠いから今日はH無しね」
と政子は言って、私のバストに手を置いたままスヤスヤと眠ってしまった。私は微笑んでキスをして、一緒に睡眠の中に落ちていった。
 

6時頃起きだし、マクドナルドで朝御飯を食べてから出発した。豊田JCTから伊勢湾岸道に分岐する。
「このJCT、私好き−。きれいなんだもん」
「美しいよね。私も通る度に感動しちゃう」
 
やがて新名神に入り、土山SAで休憩する。
「さあ、朝御飯、朝御飯」と政子。
「えっと・・・・6時に食べたマクドナルドは・・・・・」
「男の子は細かいこと気にしない」
「私、男の子辞めてからもう2年近くたつけど」
「女の子はなおさら気にしない」
「コピー」
 
レストランに入って、政子は近江牛のすき焼き、私は朝定食を食べた。
「近江牛も美味しいなあ。飛騨牛とかも好きだけどね」
「私はそういうの良く分からないけど、各地の名産の食材使った料理は美味しい気がする。お肉も柔らかいしね」
「そうなのよ。ほら食べてみて」
と行って箸で取ってくれるので、そのまま口に入れる。
「うん、美味しい、美味しい」
 
「でもこのSAもきれいでいいね。ここって上下線がひとつになってるのね」
「そうそう。上り線の駐車場と下り線の駐車場がSAの両側にあるのよね」
「一心同体か」
「そうそう」
「私たちも一心同体になる?」
「いいよ」
 
私たちは飲み物を買ってから車に戻り、カーテン・目隠しをしっかりしてから後部座席にまたマットとお布団を敷き、一緒に布団の中に潜り込んで愛し合った。お互いの中指で相手のGスポットを親指でクリちゃんを刺激しあう。反対側の手ではお互い相手の乳首をいじる。脳内が陶酔物質で満たされ夢の中にいるかのような昂揚感の中、私たちはお互いを刺激し続けた。そして、いつの間にか眠ってしまっていた。
 

目を覚ましたら11時くらいで、政子は愛用のレターパッドを出して詩を書いていた。
「私さあ」
「うん」
「男の子と愛し合った後もけっこう良い詩が書けるけど、やっぱり冬と愛し合った後の方が、もっと良い詩が書ける気がする」
「うーんと・・・でもきれいな詩だね」
 
「えへへ。ちょっと自分でもこれ、わりと良い出来かなって思う」
政子は詩を書き上げた後、最後にタイトルの所に『恋・降る・里』と書いた。
 
「一心同体というタイトルにしようかと思ったけどダメ出しされそうだし」
「いや、きれいなタイトルだよ。言葉の流れもきれい。深読みしないとこれがHな歌というのには気付かないし」
 
政子がすぐに曲を付けてというので、五線譜を出してもらってそれにメロディーを書いていく。私が書いている間に政子はSAの建物に行って、天むすとたこ焼きを買ってきた。私が音符を書いているので、天むすも、たこ焼きも政子が食べやすいようにして私の口に入れてくれた。
 
曲ができあがったのは12時頃だった。私が歌ってみせると「わあ、きれい」と喜んでいる。
「これ、ローズ+リリーのシングルで出したーい。これは他の人にはあげたくない」
「いいんじゃない?どうせ沢山曲は書くし。他のをあげればいいよ」
「いつ頃、ローズ+リリーのは出せる?」
「マーサがライブ活動に復帰すると言えば、町添さん、大キャンペーン張ってくれて、すぐにでもプレスしてくれるだろうけど」
「うーん。まだ温度的に80度くらいなのよね。沸騰したら復帰する」
 
「私もマーサはやはり復帰する気全く無いのかなと思ってた時期もあって、それならローズクォーツ1本で行こうかと思ってたこともあるんだけど、最近のマーサ見てて、やはりローズクォーツとローズ+リリーの並行稼働でいいんだなと思うようになってきた」
「忙しくなるだろうけど頑張ってね。両方全国ツアーやったらさ」
「うん」
 
「ローズ+リリーは那覇でライブ、ローズクォーツは札幌でライブ、なんてのが同じ日に重なったりして」
「それはさすがに無理だよ。影分身でも出来なきゃ北海道と沖縄に同時には出現できないし」
「でも新千歳をお昼に出ると那覇に夕方着くでしょ?」
「うーん。確かに札幌でローズ+リリーの早朝ライブして、那覇で夕方からローズクォーツのコンサートというのは物理的には可能かも知れないけど」
「うん、ケイちゃんなら出来るよ。私は札幌で蟹でも食べてる」
 
「ほんとに、そんなスケジュール入れられそうな気がしてきた」
「高校時代に、札幌と福岡を1日で行ったことあったね」
「あった、あった。それで更に神戸泊だったもん。今考えても恐ろしい」
 
「私たちが初めて一緒に泊まった日だよね」
「思えばあの時、私たちの関係の方向性って定まったのかもね」
政子は頷いた。
 

お昼なのでここで昼食食べてから出る?と訊いたが、朝御飯をここで食べたからお昼は他の所がいいと言うので、一緒にトイレに行ってきてから出発した。
 
新名神をそのまま走り、草津JCTで名神に合流するが、瀬田東JCTで京滋バイパスに抜ける。大山崎JCTで再び名神に合流した。
 
「このJCTって、なんか複雑だよね。いつ通ってもぐるぐる回る気がする」
「ほんと。標識に気をつけてないと変な方向に行っちゃいそうだし、合流も気をつけないと怖いよ」
「でもこれだけの道路の合流・分岐ができるようにするのって、どういう頭があったらできるんだろう」
「やはり天才だよね。こういうの設計できる人って」
 
やがて私たちは吹田JCTから中国道に分岐し、西宮名塩SAで休憩してお昼御飯にした。
 
「けっこう詰まってたね」
「この付近はいつも混むんだよねー」
 
私たちはレストランに入り、串カツ膳をふたつと六甲おろしうどんを頼む。ウェイトレスさんが食事を運んできてくれて、串カツを1つずつ私と政子の前に置き、うどんは一瞬悩んだ感じがあったが、政子のほうの串カツの隣に置いた。
 
「私のほうが食べそうだって感じでこちらに置いたね」
「うん。そんな気がした」
私たちは笑いながら、そのうどんを私の方に置き、私の前にあった串カツを政子の方にやった。
 
「冬、あんまりお肉も食べないよね」
「食べないことないけど、たくさんは食べきれないから」
「じゃ、串カツ少し分けてあげる」
と言って、政子は串カツを手に取り、こちらの口の方に伸ばしてきたので私は半分だけ食べた。
「ありがとう。美味しい」
その串の残りは政子が食べる。結局3本の串カツの半分をもらった。
 
「でも冬って、女の子になる前から少食だったよね」
「書道部のみんなで海水浴に行った時かな」
 
「冬がトンカツ半分しか食べてなかったから、食べないならもらうねっていって、もらっちゃったけど」
「花見さんの嫉妬するような視線を感じた」
「だって啓介はもう全部食べちゃってたもん」
「あの年は書道部も少しは人がいたんだよね」
 
「あの時、冬が女の子水着を着たりしないよなって少し期待したんだけどね。4月頃から冬の女の子っぽさを感じてたから」
「男の子水着を着たのはあれが思えば最後だね。2年の時は体育でも水泳の授業が無かったし」
 
「でも男の子水着を着ても上にTシャツ着て、上半身は晒してなかったもんね。足の毛は剃ってあったし。そもそもあの海水パンツ、おちんちんの線が出ないタイプだったね」
「上半身晒すのはなんか恥ずかしい気がしてさ。体育の授業じゃ仕方なかったけど。おちんちんの形が分かるの嫌い。足の毛は体育の時でも前日に剃ってたよ。人に見せるもんじゃないと思ってたし」
「体育の授業ではクラス違うし水着姿見てないな・・・・でも男の子でも剃る子はいるもんね。水泳の選手はみんな剃ってるし。でもこのTシャツの下に実はおっぱいが隠れてたりしないよなって思って」
 
「中に手を突っ込まれたな」
「おっぱい無かったからがっかり」
「更に花見さんの嫉妬する視線を感じた」
 
「まあ、そういう訳で、あの夜になっていく訳だけどね」
「ちょっと恥ずかしかった」
「でも可愛かったよ、スカート姿」
「あれ、その内当時いた子の誰かが、ブログとかでバラしそうだなあ」
「冬の記念すべき、人前での最初の女装だよね。私が知ってる範囲では」
「うん。そうかな・・・」
 
「・・・やっぱりそれ以前にも経験があるな?以前の女装体験も告白しなさい」
「それ追求しないって言ったじゃん、以前」
「確か1年半くらい前だよね。もう時効だよ」
「えー!?」
 

西宮名塩SAを15時ころ出発した。神戸JCTから山陽道に入って、ひたすら西に向かって走った。吉備SAでトイレと給油だけの休憩をし、更に走る。小谷SAでシャワーを浴びて少し休憩した。シャワーは私が先に行ってきて車内で仮眠している間に政子がシャワーに行ってきた。その後また少し走って宮島SAで晩御飯にした。
 
「ここ明るい内に来たら、宮島が見えたんだけどね」
「さすがにこの時間じゃ無理か」
「今度一緒にお参り行ってみようか」
「今度っていつ?」
「えっと・・・じゃ、今年中」
「よし。約束守らなかったら死刑だからね」
「ラジャ」
 
私たちはカキフライ定食を3人前取り、分け合って食べた。
「むむむ。カキフライなら冬も食べるのか」
「これ割と好き」
「よし、もう1人前頼んで来よう」
「わっ」
 
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【夏の日の想い出・3年生の早春】(1)