【春色】(1)

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「では卒業生を祝う会で合唱する曲はAKB48の『心のプラカード』ということにします。皆さん、当日は黒い服で統一したいと思いますので、よろしくお願いします」
 
3年生の「母親の会」で会長の田心さんがそう言うのを聞いて、男性ながらもこの会に出席していた貞治は、私、黒い服とか持ってたっけ・・・と考えていた。今度金沢か高岡に出た時にでも黒いトレーナーとパンツでも買ってくるかなあなどと考えた。
 

2月上旬、東京。
 
「ね、ね、千里ちゃん、この子4月から巫女さんになってもらう林田風希ちゃんっていうんだけど」
 
と佐々木副巫女長は千里に若い女の子を紹介した。
 
「よろしく〜、私、村山千里です」
「よろしくお願いします。林田風希です」
 
「でも私は3月いっぱいで辞めますけど」
と千里は言う。
 
「うん。でも、この子中学・高校のブラスバンドでフルート吹いてたらしいのよ。龍笛を吹く要員にしたいと思って」
と佐々木さん。
 
「へー」
「短期間にはなるけど、この子に龍笛を教えてやってくれない?」
「いいですよ。ただ私このあと出てこられる日がかなり限られると思いますが」
「うん。出てこられた日だけでいい。この子には今月から臨時雇い資格で入ってもらって、巫女の作法とかもいろいろ覚えてもらうから」
 
「なるほどですね」
 
「それとね。ほら、この子、千里ちゃんには分からないかなあ」
と佐々木さんは言う。
 
「けっこう霊感がありますよね」
と千里は言う。
 
「え?そうなの?」
「変な物が見えることあるでしょ?」
「あ、はい。見直すと何も無いから、きっと気のせいとは思うんですが」
 
「うん。気のせいなんだよ。でもそれをそのまま感じ取っていればいいんだよね。変に自分には霊が見えると思っていると、今度は頭の中で勝手に解釈された形で見えちゃう。何でもない雑多な気の塊が兵隊さんに見えちゃったりね」
 
「なるほどー」
「だから別に自分には霊なんて見えないと思ってた方が、いいんだ」
「それ、実は亡くなった、ひいお祖母ちゃんにも言われていたんです!」
「ひいお祖母ちゃんって、霊感体質だったの?」
「なんか神さんしていたみたいです。亡くなった後誰も継がなかったから教会は消滅してしまったんですけど」
 
「ああ、九州か何かの出身?」
「はい。佐賀県の多久(たく)って所なんですけど」
「孔子(こうし)の聖廟がある所だね」
「よくご存じですね!」
 
西九州の一部では、東北地方の「拝み屋さん」に似たお仕事をする人たちを「神さん」と呼んでいる。占い師などの看板をあげている人もあれば、教派神道系の教会の看板を掲げている人も多い。
 
「なんか思わぬ展開になっちゃったけど」
と佐々木さんが言う。
 
「えっと、何でしたっけ?」
「いや、千里ちゃんなら分かっちゃうかなと思ったんだけど、この子、実は男の娘なの」
 
と佐々木さんが言うと、風希はちょっと恥ずかしそうにしている。
 
「へー。全然そうは見えないですね」
と千里は言う。それは気づいてはいたのだが、わざわざ言う必要もないだろうと思っていたのである。足の不自由な人を見てもわざわざそれを指摘しないのと同じ感覚である。
 
「でしょ? この子、女の子にしか見えないもん。だから採用したのよ」
「大学生?」
 
「はい。4月から千葉市内のJ大学に入ります。でも実はつい先日までは学生服着て男子高校生していたんです」
「髪は長いね」
 
「最後に切ったのが10月なんです。受験勉強で忙しくて切りに行けないと言い訳して、もう卒業間際なので、髪を切れという生徒指導に頑張って抵抗して伸ばしました」
 
「偉い偉い。じゃ高校卒業と同時に女の子ライフに移行したんだ?」
「はい。ちょっと勇気がいるけど、女の子の格好で大学に出て行こうと思っています」
「うん、頑張ってね」
 
「それでさ、男の娘特有の困ったことあった時に、相談にのってあげてくれないかなと思って」
と佐々木さんが言う。
 
千里は苦笑した。
 
「いいですよ。何でも訊いてね。あまり参考にならないかも知れないけど」
「はい、あ、えーっと」
「私も元男の娘だから」
「え?そうなんですか?」
「もう完全に女の子になっちゃったけどね」
「手術もしちゃったんですか?」
「してるよ」
「戸籍は?」
「女性に修正済み」
「すごーい」
「風希ちゃんも頑張ってお仕事して手術代貯めるといいよ」
「頑張ります!」
 
「私は一応3月いっぱいでこの神社は辞めるけど、境外末社の玉依姫神社にはしばしば顔を出すから、その時にでも声を掛けてくれたら」
「分かりました!」
 

2月下旬。高岡。
 
「ね、ね。24段の雛飾りが展示されるんだって」
 
という情報を持って来たのは今回美由紀であった。
 
「どこで?」
と青葉は尋ねる。
 
「七尾駅前のパトリア。これなのよ」
と言って見せてくれたのはネットのページをプリントしたもののようだ。
 
「770のひな人形展? 24段の雛壇に770体のお雛様が並ぶの?」
と横から日香理が尋ねる。
 
「あ、いや。770というのは七尾を数字で書いただけで実際には千体らしい」
「へー。でもちょっと見てみたい気もするね」
 
「いつから?」
と青葉は訊く。
 
「2月28日から。ちょうどその日、能越自動車道の氷見−七尾間が開通するのよね」
「ああ、とうとうつながるのか」
 
氷見も七尾も能登半島の町だが、氷見は富山県側、七尾は石川県側にある。
 
能登半島の富山県側と石川県側の間には高い山があり、これまで互いに行き来するにはその山を越える険しい道路(国道160号,県道18号,国道415号のどれか)を走る必要があった。3本の道の中で最も山道自体が楽なのは国道160号だが、この道は道幅が狭い上に海岸線を走る部分に急カーブが多く、波が高い時は通行止めになるので実はとても走りにくい道であった。
 
それが今回の高速道路開通で、やっと「まともな道」で往復することができるようになるのである。
 
「誰か車が出せる人いないかな?見に行こうよ」
 
「うちのお母ちゃんはしばらく土日は仕事だと言ってたなあ」
と日香理。
「吉田は?」
と美由紀が唐突に近くに居た吉田君に訊く。
 
「え?何?」
と全く話を聞いていなかった吉田君が訊き直す。
 
「2月28日にさ、吉田のお母さんかお姉さん、車を運転できたりしない?」
「母ちゃんはなんかバーゲンに行くとかで張り切ってた。うち姉貴は居ない」
「吉田は運転できないの?」
「俺、まだ17歳だよ!」
「何だ。老けてるから24-25歳かと思ってた」
「勝手にしてくれ」
 
青葉はふと思い出した。
 
「うちのお姉ちゃんたちが来週末ならこちらに来るって言ってた。7日にこちらに来るから行けるのは8日になっちゃうけど」
「車で来るの?」
「車か新幹線かどちらかは聞いてない」
「新幹線で来ても青葉のお母さんの車があるよね?」
「うん。まあ」
「じゃ、それでお願いしようよ」
 
「行くのは誰だっけ?」
「私と日香理と青葉と吉田」
 
「私も行くの?」
「俺もかよ?」
 

真白はこれは夢を見ているのかな、と思った。どこかコンサートホールのようなところでイベントが行われていて真白はスタッフをしているようだ。
 
「ジュース無いの?」
という声があり、
「じゃ、私調達してきますね」
と言ったら
「おお、とうとうこのホールにジュースが導入されるのか!」
と喜びの声があがる。
 
え〜?ジュースってそんなに大したもんだっけ?
 
それで真白はジュース・サーバーのタンクを持ってホールの外に出た。ジュースを買ってこれに満たしてホールに持ち帰れば良い。
 
どこかで調達しようとしたのだが、このホールの売店には飲み物が全く売られていない。いわゆる乾き物ばかりである。少し行った所に食堂があった筈と思ってずっと廊下を歩いて行く。確かに食堂があって、自販機も置かれている。ところが、その自販機の横にお茶を入れたやかんが置いてあり、そばには空になったジュースの空き缶・空き瓶が並べられている。そしてこういう文字が書かれていた。
 
「缶や瓶に入ったジュースを買うと、これだけの資源が消費されます。それでもあなたはジュースを買うのですか?」
 
うーん。エコは大事だと思うけど、ジュースくらいいいじゃんと真白は思う。だけどここまであからさまに書かれていたら、何だか自販機でジュースを買うのは気が咎めてしまう。
 
それでここで買うのはやめて、もっと先まで行くことにした。
 
階段を登る。その時、自分とは違う制服を着た生徒とすれちがった。
 
「あれ、今の子、旧制服を着ていたね?」
と生徒が噂話をしていたる
「きっと旧校舎の方から来たんだよ」
 
え?私って古い制服を着て、古い校舎で勉強してたの?
 
初めて知った!
 
だけど制服ってどう変わるんだろう? 女子は学校によって随分変わるけど男子なんてみんな学生服じゃないんだっけ??
 
そんなことを考えていたら、真白は突然近くに居た先生から
「はい、次はウォームアップ・ウォームダウンの練習だよ」
と言われて、何だかよく分からないポーズを取らされた。
 
「これって男子と女子で練習内容が違うんですか?」
と質問している子が居る。
 
「そうそう。男子はウォームアップだから、頑張って校庭を30周走ってもらう。でも女子はウォームダウンだから、プランクトンのポーズでオーラを小さくして片足で立つ」
 
「わあ、校庭30周ってきつそう」
「男子って大変なんだね」
 
「生命を生み出すのには大変なエネルギーが必要なんだよ。心臓や筋肉にも頑張って動いてもらう。その代わり女は10ヶ月もの間、赤ちゃんを自分の身体の中で育てないといけないから忍耐力が必要なんだ」
と先生は言っている。
 
真白は自分が両手を背中で組み顔を上に向けて、片足で立っているのを認識した。
 
あれ〜〜? 私ってなんで女子と一緒にこんな練習してるの?
 

2月28日。福岡空港に降り立った§§プロ社長の紅川勘四郎は明智ヒバリのお母さんに連絡を取った上で、福岡市より少し東の方にある某病院まで行った。やがて面会室に寝間着を着て、少しボーっとした感じのヒバリがやってくる。
 
「照屋清子(てるや・さやこ)ちゃん、こんにちは」
と紅川は笑顔で言った。芸名を言うことでプレッシャーを与えないように本名で呼びかけた。
 
「社長!済みません。私、ずっと休んでしまって」
とヒバリは心ここにあらぬ様子で答えた。紅川はこれは薬の副作用ではないかと思った。
 
「いいんだよ。もっとゆっくり休んでいてね。また元気になったらCD作ろうよ」
と紅川は笑顔で言う。
 
「私、お花が見たいの」
とヒバリは言った。
 
「お花?」
「看護婦さんにお花見たいって言ったんだけど、なかなか見せてくれないの」
「どんなお花が見たいの?」
「コスモスがいいの」
「コスモス!?」
 
そばで母親が言う。
「さすがに今の時期にコスモスは無理なので、秋になったら外出許可もらって見に行こうねって言ったのですが、本人どうしても納得しないんですよ」
 
コスモスを見たいというのは、先輩の秋風コスモスの名前を唐突に思い出したからではなかろうかと紅川は思った。しかし紅川は今の時期にコスモスが咲いている場所を知っていた。
 
「清子ちゃん、僕はコスモスが咲いている所を知っているよ。一緒に行こうか?」
「ほんとですか?」
 
ヒバリが物凄く嬉しそうに言う。
 
「お母さん、この子の外出許可を取れますか?」
「取ります! ほんとに咲いている所があるんですか?」
「ええ。昨日それを聞いたばかりです」
と紅川は言った。
 

紅川とヒバリ親子は午後の飛行機で福岡空港から那覇空港に飛ぶと、そのまま宮古島まで乗り継いだ。到着したのは18時であるが、この日の宮古島の日没は18:40である。空港まで紅川の娘が車で迎えに来ていたので、紅川が助手席、ヒバリ親子を後部座席に乗せて車は夕暮れ迫る宮古島の道を走る。そして1690mもの来間大橋を渡って、宮古島の隣に浮かぶ小島・来間島(くりまじま)に渡った。そして車は島の中の道を5分ほど走った。
 
「わぁ・・・・」
ヒバリが歓声をあげた。
 
「これは凄い」
とヒバリのお母さんも声をあげる。
 
一面のコスモス畑であった。
 
沖縄では、コスモスが1−3月頃に咲くのである。4人は車から降りてその景色を見る。もう太陽は西の海に沈んでしまうばかりである。しかしその夕日を浴びて、一面のコスモスは薄紫の花を咲かせていた。
 
4人は日が沈んでしまうまでその景色に見とれていた。
 
「社長、私、このコスモスが枯れるまで毎日見たい」
とヒバリは言った。
 
「うん。いいんじゃない? でもお薬はサボらずにちゃんと飲むのが条件」
「はい」
「ということで、どうですかね? お母さん」
と社長は尋ねる。
 
「私、娘のこんなに活き活きとした顔、久しぶりに見ました。病院に連れ戻すよりその方がいいと思います。でも滞在費は・・・」
「いいですよ。私の実家に泊めましょう。うちの女房をこちらに東京から呼び寄せて世話をさせることにしますよ。ってのでどう?」
と社長は娘さんに訊く。
 
「お母さんはいつも宮古に帰りたいなんて言ってるからいいと思うけど、お父さん、お母さんの目が無かったら浮気するんじゃないの?」
 
「いや、それは僕も控えるよ。月1回くらいで我慢するから」
「それそのままお母さんに言おうか?」
「勘弁して」
 

青葉が千里に電話して、こちらに来た時に七尾まで連れて行ってくれないかと言ったところ、じゃ車で行くよということであった。千里と桃香は実際には3月6日夜に向こうを出て夜通し走って7日朝、こちらに着いた。
 
「あれ?ミラじゃないんだ」
 
ふたりは友人からの借り物だというエルグランドに乗っていた。
 
「いや〜、ミラは私が一昨日、自爆してしまって」
と桃香は言っている。
 
「何したの?」
 
「駐車場が見当たらなかったんだけど、上の方にあがる道のようなものを見付けて、その先に駐車場があるのかなと思って進入したら、人が通る道だったようで。道幅が狭くて道路にはさまってしまって。強引にバックで出たら車体をかなり痛めてしまって入院中」
と桃香。
 
「まあ人に怪我させたり、自分が怪我した訳じゃ無いから」
と千里。
 
「この車はもしかして冬子さんの?」
「そうそう。ふたりは今週末仙台だから使っていいよというので借りてきた」
と千里。
 
青葉は石川県七尾市まで24段1000体のひな人形を見に行きたいのだと言った。
「何人行くの?」
「私を含めて4人。それでちー姉か桃姉に運転をお願いできたらと思っていたんだけど」
 
「このエルグランドは8人乗りだから、ふたりとも行けるな。運転交代要員ということで」
と桃香は言っているが
 
「私が往復運転するよ。桃香は助手席に乗ってて。冬の新車を本人もまだ運転する前に傷つけたりしたらさすがに叱られる」
と千里は言っている。
 
「うん。実は昨夜もずっと千里が運転して、私に運転を代わってくれなかったのだ。ひたすら寝てたから楽だったけど。この車は広くて寝やすいぞ」
と桃香。
 
「冬子さんまだこの車運転してないの?」
「そうなんだよ。私や★★レコードさんが付けてくれたドライバーさんが運転してて。あの人忙しいしね」
「まあそもそも運転手兼付き人くらい必要なレベルだよね」
「でも冬子の付き人は1週間で辞めると思う。忙しすぎて」
「かもねー」
 

「今日のホームルームの時間はコサージュ作りをします」
と担任に代わって教壇の所に立った家庭科の先生が言った。
 
「卒業式に卒業生と、お母さんとの胸に飾るコサージュをみんなで手作りしましょう。材料をこちらに用意していますので、左の席の人から順に、箱の中から1個ずつ取っていって下さい。なお、色は自由ですが、もしお母さんが来られなくて、お父さんが代わりに来る予定の人は、紺などの濃い色を選ぶとよいと思います」
 
それで左の列の子から1人ずつ出て行っては材料を1個ずつ取っていく。真白は列に並んで材料を取る時、リボンの色をどうしようと一瞬悩んだ。しかし、赤、黄色、青などの派手な色のリボンを選んで席に持っていった。
 
隣の席の美里が訊いてくる。
 
「遊佐君、派手な色のリボン選んだね。お母さん来てくれるの?」
「うーん。どうかな。お父さんでもいいと思うけど」
「そうだね。遊佐君のお父さんなら派手な色でも似合うかも」
 
そんな彼女の言葉を聞きながら、うちのお父さん、どういう格好で出てくるつもりかなあ、と真白は考えつつ、コサージュ作りの作業を始めた。
 

桃香と千里の今回の帰省の用事は、桃香が4月から就職する会社の誓約書に保証人の署名捺印が必要というので、それをもらいに来たのが主目的であった。一人は母(朋子)にお願いするが、もうひとりの保証人としては千葉県館山市に住んでいて、いつも桃香にいろいろ目を掛けてくれている伯父(桃香の父の兄)に頼むことにしている。
 
取り敢えず夕食の買い物に行くことにする。
 
最初千里は近くのスーパーに行くつもりだったのだが
「大型の車があるなら」
などと言われて、結局イオンモール高岡まで行くことになる。
 
青葉の本があふれているので、スライド式本棚を買おうという話で、そのほかトイレットペーパーとかキッチンタオルとか、お米とかかさばるものを色々買った。借り物の車なので車内を傷つけないようブルーシートを持参して、その上に置いた。
 
夕食に関しては桃香の希望が反映される。
 
「やはり鰤を食おう、寒鰤、寒鰤」
と桃香が言う。
 
「若干、シーズン終わりつつない?」
と千里。
 
「うん。さすがに1月頃からすると味が落ちてるんだよね〜。でも鰤買っていこうか」
 
と青葉が言って、結局、サクになっているものを買う。ついでにタラ、イワシ、スルメイカ、甘エビなど近海物を主に買って帰った。
 
もっとも夕飯になる前に、3人がかりでスライド式本棚の組み立てに1時間半掛かった!
 
青葉の部屋には本棚3つに本が収納されていて、それも入りきれなくなっていたので、本棚のひとつを桃香の部屋に移動させ、そこにスライド式本棚を置いたのである。
 
「しかしこういう作業では千里は全く戦力にならんということがあらためて分かった」
と桃香が言っている。
 
「ごめーん」
 
「でもソフトハウスの仕事してたら、現地に行ってパソコン組み立てないといけないこととかもあるんじゃないか?」
「うーん。そういう時は、分かる人に付いていってもらう」
「千里、プラモデルとか作ったことある?」
「少女雑誌の付録の紙工作も完成したことはない」
 

貞治は真白の担任の先生から回ってきたメールを見て困惑した。
 
「明日は卒業生を祝う会です。教職員一同もきちんとした服装をします。お母様方も、ジーンズや衿の無い服などはご遠慮ください」
 
え〜? じゃ用意していた黒いトレーナーとか、黒いコットンパンツとかは使えない?? どうしよう。
 
貞治はいっそのこと欠席しようかとも思った。しかし真白の大事な式典だ。欠席する訳にはいかない。
 
貞治は晩御飯を作りながら、コタツで勉強している真白をチラっと見て悩んだ。
 

本の収納があらかた終わった所で夕食にした。
 
「やはり炊きたて御飯に、新鮮な鰤の刺身はいい!」
と桃香は富山湾の海の幸に感動しているようである。
 
「千葉だと勝浦漁港とか?」
「うちの近所のスーパーは、マグロとかサーモンとか遠洋物ばかりだなあ。それも鮮度に問題がある」
と桃香が言うと
「ごめーん。鮮度の良い魚を売っているお店は遠いし高い。それでどうしても肉料理ばかりになっちゃうのよ」
と千里が言っている。
 
「都会はそんなものだろうね」
と母。
 
「桃姉のところはお仕事4月1日からなの?」
と青葉は訊く。
 
「うん。新宿の何とかホールという所に全国の新入社員800人ほどを集めて式典やるらしい。女性は振袖を着てくれと」
と桃香。
 
「お姉ちゃんたち、今年も新しい振袖作ったんだっけ?」
と青葉は訊く。
 
「そうそう。安いのだけどね」
と桃香。
「私も桃香も結局成人式の時の振袖がいちばん高い」
と千里。
 
「桃香、入社式には成人式の時の振袖着ていくといいよ。あれ糊糸目の加賀友禅だもん」
「そのあたりの用語が私にはさっぱり分からんのだが」
「糊糸目が正式の友禅の作り方でゴム糸目は略式。制作工程が簡単になるんだよ。加賀友禅は結構糊糸目のものがあるけど、京友禅は現在ほとんどゴム糸目になっている」
と千里は説明するが
 
「簡単になるなら、そちらの方がいいではないか」
などと桃香は言っている。
 
千里と桃香は「安いものが好き」という共通点はあるのだが、千里が品質を確保した上での安さを求めるのに対して桃香は、とにかく安ければいいという点が微妙な違いである。
 
「でも私はもう振袖の着付けが自分ではできん。千里1日の朝、頼んでいい?」
と桃香。
 
「うん。私もその日は桃香のアパートで朝御飯食べて桃香の着付けをしてから自分の会社に出ることにするよ」
と千里は言う。
 
ふたりはこれまで千葉市内の同じアパートに住んでいたのだが、4月からは各々の通勤の都合もあり、世田谷区内の別々のアパートで暮らすことになった。桃香のアパートは小田急・経堂駅から歩いて1分、千里のアパートは東急・用賀駅から歩いて5分ほどで、両者の距離は2kmほどである。実際には主として千里がミラで桃香のアパートに出かけて、結局夜は一緒に過ごしたりもするようだ。駐車場を両方のアパート近くに確保しているほか、自転車も装備している。
 
「千里ちゃんの所は入社式とかは無いの?」
「4月1日に新入社員5人をオフィスに並べて社長が何かスピーチするみたいなこと言ってましたよ。どっちみち5人とも既に仕事してるし。服装も普段通りで」
「なるほど」
 

「ふたりとも卒業は大丈夫なんだよね?」
と母が訊く。
 
「うん。金曜日に審査結果が出た。ふたりとも合格。卒業できる」
「卒業式はいつだったっけ?」
「3月25日。千葉文化会館」
「ああ。ホールを借りてやるんだ?」
「そこでセレモニーをした後で、キャンパスに戻って理学研究科の修了式をする」
「なるほどー」
 
「でも私は出席できない」
と千里が言う。
 
「うん。千里は日本代表の合宿中なんだよな」
と桃香。
「うん。U24ユニバーシアード代表候補の合宿。だから学位記は桃香に私の分も受け取ってもらうことにしてる。教官の承認済み」
と千里。
 
「大変だね」
と朋子。
「千里は忙しすぎる」
と桃香は言っている。
 
「でもUなんたらというのが色々あるんだな?」
と桃香。
「うん。U16,U17,U18,U19,U20,U21,U24と乱立している感じ」
と千里。
「毎年何かあるんだ?」
と桃香。
 
「16歳から21歳まであったけど現在U20,U21は廃止されている。基本的には西暦偶数年に偶数年齢でアジアとかヨーロッパとか大陸単位の選手権をして、西暦奇数年に奇数年齢で世界選手権をするんだけどね」
 
「なるほどー」
「だからU16アジアを勝ち上がったメンバーが翌年U17として世界大会に行く。以下同様」
「それなら少し分かる」
「U24は特殊で、次世代のオリンピック代表を育てるためのチームなんだけど結果的にユニバーシアード代表と世代的にダブるんで、U24チームがふたつ同時に活動していることもある」
 
「ほほお」
「ユニバーシアードに出られるのは大学または大学院を出て2年以内の24歳以下の人だから、高校出てすぐプロになった人や大学出て2年すぎた人は24歳以下でもユニバ代表にはなれないのよね。それでユニバ代表ではないU24の方に組み込まれる」
 
「そのあたりがややこしそうだ」
 
「ちー姉は結局どの代表になってるんだっけ?」
「インハイで活躍したのでU18に最初招集されて。そのあと逃げてたんだけど見付かって結局U21まで毎年やって。U20/U21は私たちが最後の年になったんだけどね。複数のチームに同時招集されて自分でも訳が分からなかった年もあった。U21の翌年もフル代表の候補になったけど結局は代表から漏れたんだよ」
と千里。
 
「残念だったね」
と朋子。
「でも国外逃亡でもしなきゃ見付かるだろ」
と桃香。
 
「今回は2年半ぶりの招集になる。でも最後にA代表候補になった年の夏は代表候補20名で現地まで行って、そこで合宿やって、大会前日に代表12名が発表されたんだよね」
 
「直前まで状態を見てベストメンバーを選ぶ訳か」
 
「漏れた8人としてはせっかくトルコまで来てから試合には出られないというので、けっこう精神的には辛かったよ」
と千里。
 
「うーん。でもそれは戦略としては正しいと思うぞ」
と桃香。
「うん。理屈としてはみんな納得していた」
と千里も言う。
 
しかし青葉はU21の翌年って、それ何年のことなんだ?と暗算をしてみて、その計算結果に何か微妙な違和感を覚えていた。
 

「ちー姉、お父さんも卒業なんでしょ?」
「うん。放送大学を3月で卒業する。去年の9月で卒業したかったみたいで、卒論もほとんど仕上げていたんだけど、単位が少し足りなかったんだよ。それを今期受け直して論文も少し修正して今期で卒業」
 
「そちらの卒業式はどこでやるの?」
「3月21日。東京のNHKホール」
「千里ちゃん行くの?」
「私は勘当されてるからね〜。まあ妹とお母ちゃんが付き添いで一緒に出てくるらしいから、妹に1万円ご祝儀渡しておいた。なんか記念品でも買ってあげてと言って」
 
「千里の妹さん自身も大学卒業だろ?」
「そうそう。そちらの卒業式は20日。お父ちゃんの卒業式の前日。そちらにはお母ちゃんが顔を出すと言ってた。お父ちゃんも一緒に留萌から出てくるんだけど、お父ちゃんは女だらけの卒業式パーティーとか出られるかと言って近くで待機しているらしい」
 
「女子大だったっけ?」
「共学だけど女子の割合が高い。更にパーティー出席者は特に女子の割合が高いという話」
「なるほどー」
 
「じゃ、その卒業式の後、一家で東京に出てくるんだ?」
「うん。お父ちゃんとお母ちゃんは北斗星で出てくる。妹は飛行機」
 
「北斗星って、チケットがなかなか取れないんじゃないの?」
と朋子が言う。
「そうなんだけど、偶然にも取れたんだよ。しかも2人用個室が」
と千里。
「良かったね!」
 
「私が合宿中だったから知り合いの旅行代理店の人に頼んでおいたんだよね。朝10時には取れなかったんだけど、午後になってキャンセルが出たのをうまくドロップキャッチしてくれたんだ」
 
「それは凄い」
「あれ、物凄い人気だから手分けして複数で申し込むんだよ。それで結果的に複数取れちゃってキャンセルする人がよくあるんだよね。代理店の人はそれが分かってるんで、こまめにチェックしてくれたんだ」
「親切だね」
 
「玲羅はホテルで寝たいと言って飛行機で移動する」
「まあ鉄道マニアでなければわざわざ高いお金払って揺れるベッドでは寝たくないかもね〜」
 
「お母ちゃんが飛行機は不安だとか言うから寝台列車が取れないかトライしてみた。まあ帰りは全員飛行機になるけどね。お父ちゃんは飛行機初体験になるからトラブらなければいいけど。まあ空港までは玲羅が付いていくと思うから乗り遅れは無いだろうし、手荷物預けたりとかも大丈夫とは思うけど」
 

■Time Table
3月20日(金)
父母:留萌6:30(高速バス)8:49札幌
12:00-13:00 玲羅卒業式
父母:札幌16:12(北斗星)9:25上野
玲羅:札幌16:25→17:02新千歳18:00(ADO 032)19:35羽田(東京泊)
 
3月21日(土)
10:00-11:20 千里 全日本クラブ選手権1回戦(京都)
11:00-12:00 父・卒業式(原宿駅近くNHKホール)
13:30-15:30 父・卒業祝賀パーティ(赤坂ホテルニューオータニ)
13:00-15:30 冬子 KARION大阪ライブ
父母・玲羅 東京泊
 
3月22日(日)
父母・玲羅は東京ディズニーランド
10:00-11:20 千里 2回戦
13:10-14:30 千里 準々決勝
13:00-15:30 冬子 KARION東京ライブ
父母・玲羅 東京泊
 
3月23日(月)
9:30-10:50 千里 準決勝
13:10-14:30 千里 決勝
父母:羽田15:50(ADO 029)17:20新千歳1818→20:05深川20:12→21:09留萌
玲羅は25日に帰る。それまで東京滞在。
 
3月23-28日(月〜土) U24(Univ)代表候補合宿(東京NTC)
 
3月24日(火) 青葉終業式
3月25日(水) 千里・桃香修了式 (10:15大学院修了式 1330理学研究科修了式)
 
3月30日(月) 千里・桃香の引越
 
3月31日(火) 千里L神社を退職。辛島夫妻が転出。
4月1日(水) 入社式 桃香:新宿文芸ホール 千里:世田谷区 玲羅:札幌市
 

「しかし飛行機でトラブるって何にトラブるんだ?」
と桃香が訊く。
 
「うちのお母ちゃんは以前飛行機に乗せた時はいろいろ持ち物が金属探知機に引っかかって、最後はブラのワイヤーまで引っかかって何度もゲートを通るはめになってぼやいてた」
と千里。
 
「ちゃんと注意書きを見て出しておけばいいんだけどな」
と桃香。
 
「私たち4人でアメリカに行った時は、青葉も千里も性別で揉めたね」
と朋子が言う。
 
「うん。それでこないだの研修旅行の時は、事前に松井先生に性転換証明書を書いてもらったんだよ。おかげで今回は裸になったりせずに済んだ」
と青葉は言う。
 
「いや、実際青葉はもう女の身体になっているから裸になっても性別疑惑を深めるだけだろ?」
と桃香が言う。
 
「そうそう。ちょうど一緒になったアメリカ人の性転換者さんはそういう証明書を持ってなかったから、成田で医師の診察を受けて確かに性転換しているという診断書を書いてもらって、やっと出国手続きができたんだよ」
「それは大変だ」
「時間に余裕を持ってきてないと、乗り損ねるよね」
 
「千里はもう女のパスポート取ってたんだっけ?」
と桃香が尋ねる。
 
「私のパスポートは最初から女だけど」
と千里。
「なんで?」
「さあ。以前友だちから突っ込まれたことあるけど、自分でも何故かはよく分からない」
 
「でもアメリカ行った時に揉めたよな?」
「ああ。そういえば揉めたよね。あれ何で揉めたんだっけ?」
「覚えてないの?」
「入出国で揉めたのって、あの時だけなんだよね〜。いつも普通に通っていたのに」
 
と言い、千里は旅行用バッグの中からパスポートを取り出して見せてくれた。
 
「これ私のパスポートだけど、既に有効期限切れ」
 
青葉はその発行日付を見て、うっそ〜!?と思った。性別もちゃんと Sex:F と印刷されている。写真はとても若い千里だが髪が長くて高校の女子制服っぽい服を着ている。
 
「おお、千里が女子高生してる!」
と言って桃香は何だか喜んでいる!?
 
発行日が2008年5月2日なので、5年間有効で2013年5月に切れてしまっているが、そのあとは海外に出ていないということであろう。
 
VISA欄にはたくさんのスタンプがある。ページは1度増補されているようである。
 
「かなり入出国してるな」
「バスケの大会やら合宿やらであちこち行ったからね」
 
スタンプを見ていると、最初は Aug 24, 2008 の日付でオーストラリアの入国である。
 
「これ出国は?」
「自動化ゲートを通っているからスタンプ省略」
「ほほぉ。この時性転換手術したんだっけ?」
「ううん。手術したのは2012年、タイだよ」
「千里、その話は矛盾しているのだが」
「だよね〜。そのあたりは自分でもよく分からないところで」
「うーん・・・」
 
「でも私どこ行ったんだっけ?あちこち行ってるからよく分からない」
 
などと言って本人もページをめくりながら眺めている。桃香が入出国のスタンプを数えてみると4年間に18回出国したようである。
 
「ほんとによく使ってるなあ」
と本人も言っている。
 
「最後が2012年7月のタイか」
と桃香は最後のスタンプを見て言う。
 
「性転換手術を受けに行った時だよね」
「やはりその話は矛盾しているのだけど」
 
「でもユニバーシアードに行く可能性が出てきたから、また新しいパスポートを申請しないといけない」
などと千里は言っている。
 
「パスポート申請して代表から落ちたら、申請しただけ無駄だけどね」
「そういう申請費用って協会が出してくれるの?」
「まさか。自己負担だよ」
「じゃホントに落ちたら申請のし損だな」
「まあね。でも選ばれてパスポートが無かったら問題外」
「確かにそうだ」
 

貞治は「やはりこれを着るしかない」と思ってその服を身につけた。中学校の駐車場に駐めた車の中で鏡を見て「変な所ないよね?」と再確認する。何か言われるかなぁ。でも「黒い服を着てきてください」「きちんとした服装できてください」という2つの命題を満足する服装はこれしかないと考えた。
 
時間が迫っている。もう行かなくては。
 
よし。
 
と決断すると、貞治は車を出て学校の校舎の中に入っていった。えっと・・・母親控室はどこだっけ?と思ってキョロキョロしていたら、見知った顔の教頭先生が通りかかる。
 
「おはようございます、遊佐さん」
「あ、どうもおはようございます」
「お母様方の控室はそちらを行って突き当たりを左手に行った所ですから」
「ありがとうございます」
 
教頭先生がこちらの格好を見ても何も言わずにふつうに対応してくれたので貞治はちょっと拍子抜けする思いであった。
 

保護者控室という紙が書かれている。貞治はちょっとためらったものの勇気を出してドアを開けて中に入った。
 
数人の見知った顔の母親と目が合う。こちらが軽く会釈をすると向こうも会釈してくれた。あれ〜。なんかみんな普通の反応だ。やはり私こういう格好で良かったのかな、と貞治は思う。
 
ひとりのお母さんが寄ってくる。
 
「おはようございます、遊佐さん」
「おはようございます、山倉さん」
 
「なんか緊張しますよね。歌詞、覚えました?」
「何とかなったかなという感じかな。でもわりと単純で歌いやすい曲ですね」
「やはり歌が下手くそなアイドルが歌う歌だから簡単に作ってあるんでしょうね」
「ですよね〜」
 
山倉さんと会話するうちに貞治はますます自分がこの格好で来て良かったんだというのを確信していた。
 

やがて卒業生を祝う会が始まる。保護者一同は体育館に入り、保護者席と書かれたところに座った。1年生・2年生による「出し物」が演じられる。卒業生もステージにあがり、様々な楽器を持って今年大ヒットしたディズニーアニメの主題歌『Let It Go』を演奏した。
 
その後、2年生有志で編成した4人編成のバンドがステージに上がり、ゆずの『栄光の架け橋』、絢香の『にじいろ』、ZONEの『secret base〜君がくれたもの〜』を演奏した。
 
そのあと保護者の出番である。一同ステージに上り、府中さんのピアノ伴奏でみんな歌い出す。
 
貞治がきれいなソプラノボイスで『心のプラカード』を歌っていると、隣に立っている山倉さんが、へーという感じの顔をしていた。
 
やがて歌い終わり、拍手とともに全員ステージを降りた。
 

その日の夕方、担任から自分の携帯にメールが来ているのに貞治は気づいた。
 
「遊佐さん、こういう所にスカートとかはやめてもらえませんか?ちゃんとズボンを穿いてきてください」
 
貞治は実際の祝う会の席では他のお母さんたちと結構和気藹々に会話していたので、担任からのメールにちょっと不快感を覚えた。でも・・・・私、背広なんて絶対に着たくないし。
 
そんなことを思いながらも、疲れを押してカレーを作る。小学生の娘・礼恩が妖怪ウォッチのビデオを熱心に見ているのを微笑ましく思う。そこに中学生の真白が帰宅する。
 
「真白、今日はお疲れ様」
と声を掛ける。
「お父ちゃんもお疲れ様。来てくれて、ありがとうね」
と真白が言うので、貞治は心の中で涙があふれてしまう。
 
「礼恩、おやつは〜? あ、ひどーい。僕の残ってないじゃん!」
と真白が言うと、礼恩は逃げ出して2階に上ってしまう。
 
「ありゃー。ちゃんとお兄ちゃんの分、取っておけよと言ってたのに」
「まあしょうがないや。何か他におやつ無いかなあ」
「食パンでも食べる?」
「そうする〜。おなか空いた〜」
 
と言って、真白は食パンにサラミハムとチーズをはさんで食べ始める。
 
それから思い出したように言った。
 
「そうそう。お父ちゃん、今日は綺麗だったよ」
 
貞治は心の涙腺の蛇口が全開になってしまった。
 

その日、七尾にひな人形を見に行くメンバーは朝、伏木駅に集合するということだったので、青葉は朝ご飯を食べた後で、千里の運転するエルグランドの2列目に座り、駅に向かった。助手席には桃香が座っている。
 
駅で美由紀・日香理・吉田君を拾う。美由紀と日香理が青葉と並んで2列目に乗り、吉田君が3列目に乗った。
 
千里は伏木駅からそのまま海岸沿いの国道415号を北上する。
 
「あれ?高速に乗らないの?」
「行きは低速、帰りは高速というのもいいかなと思って」
「なるほどねー」
 
青葉はぼんやりと曇り空の雨晴海岸を眺めていた。青葉は小さい頃、父の車に乗せられてここに来て、殺され掛けている。実はその時、小学生の桃香に命を助けられているのだが、そのことを青葉も桃香も認識していない。ただ青葉はあの場所ってどのあたりだったかなぁ、などと思いながら景色を見ていた。
 
車はやがて氷見市街地を通り抜け、県道18号に入る。氷見市と七尾市を結ぶ県道で、富山県側は富山県道18号、石川県側は石川県道18号と県境を越えても県道番号は同じになっている。
 
「交通量が減ったかな?」
と桃香が言う。
「うん。たぶん高速を通る人が増えたんだよ」
と千里。
 
「この道、カーブが多いからなあ」
「都会の道しか走ったことのないドライバーさんには恐ろしい道に思えるだろうね」
 

そして車が急傾斜で急カーブの続く道を登り切り、石川県側に入って少し行った時のことだった。
 
「千里、あれ」
「うん。停めてみよう」
 
道路の外に車が1台逸脱していて、女性が1人そのそばに立っているのである。
 
「事故ですか?」
と千里は運転席の窓を開けて尋ねた。
 
「すみません。ちょっと居眠りしちゃって。ここ携帯が通じないんですよ。もし良かったら電波の来る所まで乗せていってもらえたりしませんか?」
と女性が言ったが、その声は男声であった。
 
千里は気にせず答える。
「いいですよ。なんか雨でも降りそうな天気だし、アルプラザまで行きましょう」
 
それで千里はその女性をエルグランドの3列目、吉田君の隣に乗せると車を出した。
 
「お仕事ですか?」
と2列目に乗っている青葉が彼女に尋ねる。
 
「ええ。ちょっと物書きをしているのですが、締め切り前になかなかアイデアが浮かばなくて。ドライブしながら考えている内に瞬眠をしちゃって。ハッと気づいたら草むらを走っているので、ブレーキ!!私の足、動いて!!と思ったら、何とか足が動いてくれて、ギリギリ崖からは転落せずに済んだのですが」
 
「それは不幸中の幸いでした」
 
「でもタイヤ全輪パンクしてるし自力では道に戻れないのでJAF呼ばなきゃと思ったんですけど携帯が圏外で」
 
「まあこのあたり何も無いですからね」
 
青葉と彼女の会話に日香理はポーカーフェイスだが、美由紀は彼女に興味津々な様子であった。
 

やがて車は県道18号と国道159号の交点の所にあるアルプラザ鹿島まで降りてくる。巨大な駐車場を持った能登地区最大のショッピングモールである。
 
「ありがとうございます。助かりました。あの、あとで御礼にお伺いしたいので名前を教えていただけませんか? あ、私は遊佐と申します」
 
と彼女が言う。すると美由紀が
 
「あ、はいはい。高岡市**町**の川上青葉と言います。事情があって表札は高園になってます」
 
と言って、勝手に青葉の住所を書いて渡した!
 
「ケーキとかも大歓迎ですよ」
などと美由紀が言うので
 
「じゃ来週にでもケーキ持って御礼にお伺いしますね」
と彼女は笑顔で言って降りて行った。
 

「私たちもここで一息入れないか?」
と桃香が言うので、アルプラザで休憩することにする。フードコートで適当に各自注文してきて一緒に食べる。
 
「ね、ね、ニューハーフさんだったよね?」
と美由紀がカツ丼を食べながら言う。
 
「でも声さえ出さなきゃ完璧に女性にしか見えなかった。たぶんああいう生活がもう長いんだろうね」
と日香理も言う。日香理はサーティーワンのアイスクリームを食べている。
 
「え?あれ男の人だったの?女の人と思ってた」
と桃香が言う。
 
「いや、俺は声の低い女なのか、女装の男なのか判断付きかねた」
と吉田君は言っている。
 
「まあ来週来てくれるらしいから、またその時にじっくり観察を」
などと美由紀は言っている。
 
「しかしやはりこの山道は上手な千里の運転でも辛い」
と桃香。
「まあ道自体が曲がりくねっているからやむを得ない部分もあるよね」
「今回は行きと帰りの乗り心地比較ですね」
 
「ところで青葉、あの人に何したの?」
と千里が訊く。
「ああ、さすがちー姉は分かったね」
 
「乗ってきた時と降りた時の波動が微妙に違っていたから」
と千里は言う。
「何か霊的な攻撃を受けていると思ったから防御性能を高めてあげた」
と青葉。
 
「何かの呪い?」
と桃香が訊く。
「呪いではないと思う。だよね?ちー姉」
と青葉。
「さあ、そういうの私はよく分からないから」
 

「越の国」は、最初、越前・越中・越後に分割された後、越中から加賀が独立した。そして加賀から能登が独立して5ヶ国となった。現在では過疎の地である能登が国として独立したのは、昔はここが物凄く栄えた地だからである。
 
博多から松前方面に至る日本海航路の拠点として能登には大きな勢力を持つ豪族が栄え、現在でもその屋敷跡が保存されていて史跡となっている。その能登国を中世に支配したのが畠山氏である。
 
特に七代目・畠山義総(1491-1545)は名君で難攻不落な七尾城を築き、能登の海産物や交易品などを中央に献上して、能登の地から国政にも関与したと言われる。
 
この七尾城は中世の典型的な山城で、七つの尾根(松尾・竹尾・菊尾・梅尾・亀尾・虎尾・竜尾)に曲輪(くるわ)が伸びていることから七尾城と名付けられた。この七尾城は現在七尾市街地にある小丸山城とは別のもので、七尾市郊外の山の上に建築されたものである。険しい山自体が自然の防御になっていて、非常に攻めにくい城であった。
 
しかし義総の息子の八代目・義続は国主としての器量に欠け、家臣団の台頭を許し、能登国は家臣の畠山七人衆が実質的に共同統治する国となり国力も低下していく。
 
義続の息子の九代目義綱はこのような乱れを糺し、きちんと国主が統治する体制を整え直し、低下した国力の回復に努めた。ところがこれに不満を持った家臣団は、義綱を追放し、まだ13歳であった義綱の息子・義慶を当主に据えて家臣団の共同統治体制を復活させてしまう(永禄九年の変 1566)。このあたりから能登国は衰退の一途を辿る。
 
その義慶は21歳になった1574年に家臣団により暗殺されてしまい、次の当主にはその弟で2つ年下の義隆が据えられるが、これも意のままにならぬと見られると続けて暗殺され、とうとうまだ4歳であった、義隆の息子・畠山春王丸が当主に据えられてしまう(1576)。
 
要するに「物を言う当主は邪魔」ということである。そして家臣団の中でやがて織田信長と親しい長続連が中心になってくるが、ここで困ったのが越後の上杉謙信である。
 
元々上杉は永禄九年の変で追放された畠山義綱を支持して、変後の家臣団たちと対立していた。しかし能登の勢力と対立すると日本海交易で同様に莫大な利益を得ている上杉としてはやりにくい。それでしぶしぶ彼らと和議を結んでいたのだが、あからさまに信長と親密な勢力が台頭してくると、ひじょうにまずい。そこで上杉は能登に直接介入したのである。
 
 
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【春色】(1)